ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

説教「恵まれた人」 須田拓牧師

2022-12-26 17:41:50 | 説教
12月4日美竹教会修養会での須田拓先生の礼拝説教要旨が教会の広報誌
「信音」No784 12月号(2022.12.25)に載りました。
説教のタイトルは「恵まれた人」 テキストは「ルカによる福音書」1章26節-38節
「テトスへの手紙」3章1節-7節でした。



以前、私の友人が嘆いた難しいキリスト教のテクニカルタームをほとんど使わずに
優しい言葉遣いで神様の大きな愛、それに包まれる幸せを説き明かしてくださいました。
神様の存在をいつも身近に感じ、祈ることのできる信仰を与えられている幸せを心から
感謝いたしました。
この平安を持たない人々はどんな風にこの世を生きて行けるのでしょう。

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体長13.5cm,体重5g前後の野鳥<エナガ>です。
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遅すぎるお知らせ <(_ _)>

2022-09-29 12:38:00 | 説教
日本キリスト教団西南市区婦人部主催の「ウクライナ・チャリティーコンサート」が
9月27日、霊南坂教会に於いて開かれました。
内容は、1部・礼拝:2部・ウクライナのカテリーナさんによるパンドゥーラ演奏でした。
当日は国葬のための厳しい交通規制が敷かれ、その日のうちに名古屋に行かれる
カテリーナさんの移動手段が急遽変更になり、1部の礼拝と2部の演奏が入れ替わり、
カテリーナさんの演奏のあとに礼拝が持たれたそうです。

ゆうゆうは所要のため当日参加はできなかったのですが、 Youtube でコンサートと礼拝に
参加できました。

「ウクライナ・チャリティーコンサート」

礼拝説教は美竹教会の左近深恵子牧師がなさいました。
深恵子牧師の説教は後半の 1:14:16~1:30:02 頃に入っています。
説教の聖書箇所は「出エジプト記」20章1節~6節 「マタイによる福音書」
16章13節~18節
でした。
「十戒」の私をおいて他に神は無いという箇所から神様の恵みは終わることなく続いている、
というメッセージでした。 




終わってしまった行事のお知らせとなりましたが、Youtube で見られると
わかってブログに載せてしまいました。<(_ _)>
皆様、よろしかったらどうぞ Youtube を御覧ください。


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説教「神のものは神に」

2022-01-27 13:39:50 | 説教
「神のものは神に」  「マルコによる福音書」12章13節~17節  2022年1月23日(左近深恵子)

 主イエスは、ご自分の命を狙うユダヤの民の指導者たちが待ち受けるエルサレムへと入られました。
その次の日から、神殿の指導者たちと主イエスの間に対立が起こっていきます。主イエスは、神殿の
庭で売り買いをしていた人々を追い出し、かつて神さまが告げられたように、すべての民の祈りの家
として礼拝の場を回復するように、礼拝を神さまのみ心に適うものへと回復するように求められまし
た。けれどこの出来事を知った神殿の指導者たちは、主イエスを殺す策を練り始めます。策は練るけ
れど、実際に手は出せずにいました。主イエスの教えに群衆が皆心打たれていたからです。
人々に強い影響力を持つ主イエスを恐れ、群衆の反応を恐れたからでした。

そこで指導者たちは、主イエスの権威に疑問を呈することで、主イエスの信用を失墜させることを狙
います。先ず、「何の権威で、このようなことをしているのか。誰が、そうする権威を与えたのか」
と、神殿の庭から商売していた人たちを追い出しことについて詰め寄ります。神殿で何をして良いの
か、してはならないのか、定める権威を持つのは、主イエスではなく彼らであることを、主イエスに
対しても、周りの群衆に対しても、明らかにしようとします。

ところが逆に主イエスから、洗礼者ヨハネの働きは神から来たのか、それとも人から来たのかと問わ
れ、彼らは困り果てます。ヨハネが宣べ伝えていたことを受け入れなかった彼らは、もし神から来た
と答えれば、ではなぜヨハネの言葉を受け入れなかったのかと、人々の前で主イエスに矛盾を突かれ
てしまうでしょう。
もしヨハネが人から来たと答えれば、ヨハネを神さまから遣わされた預言者と信頼し、罪の赦しを得
させるための悔い改めの洗礼を進んでヨハネから受けた人々から猛反発を受けるでしょう。どちらで
答えても権威ある者として今得ている立場を失ってしまうことになる指導者たちは、「分からない」
と言って答えることから逃げました。主イエスに権威が無いことを明らかにしようとしたら、神さま
からの権威に聞き従うことを真剣に求めて来なかった、彼らのあやふやな姿勢が明らかになってしま
いました。彼らが恐れていたのは、神さまの権威に従う道から離れてしまうことよりも、人々のここ
ろが自分たちから離れてしまうことだったのです。

 一旦引き下がった指導者たちは、反撃のために問いを用意します。祭司長、律法学者などから成る
指導者たちは、今度は自分たちで行くのではなく、人を送り込むことにします。ファリサイ派とヘロ
デ派という二つのグループから、数人の人を遣わします。ファリサイ派は、ユダヤの民の中でも特に
律法を厳格に守ることを特徴とします。ヘロデ派についてあまり知られていませんが、領主ヘロデの
宮廷に属し、世俗の政治に関わっていたと考えられています。ヘロデはユダヤの民からは異邦人であ
りながら、ユダヤの民を支配するローマ帝国を後ろ盾に領主の地位を得ていました。ファリサイ派と
ヘロデ派は共に行動するようには思えない間柄ですが、以前にもこの組み合わせは登場していました。
ガリラヤで主イエスのお働きに反発するファリサイ派の人々が、ヘロデ派の人々と手を組んで、どの
ようにして主イエスを殺そうかと相談したと、3章で述べられています。そのことを神殿の指導者たち
が知っていて、この組み合わせは送り込むのにうってつけと考えたのかもしれません。信仰生活も主張
も、異邦人支配者たちとの関わり方も全く異なるファリサイ派とヘロデ派、そして祭司長、律法学者が、
協力して動いています。彼らは、真理の探究において心を通わせ、一致を見出したのではありません。
それぞれが今得ている人々からの支持を失いたくない、立場を失いたくない、そのためにイエスという
者の存在を取り除きたい、その一点で一致し、手を組んだのです。真理において一つとなりたいと願い
ながら実現することがなかなかできずにいるのに、罪においては一つとなってしまう人間の現実が、
ここにあります。

 彼らは、主イエスがどう答えてもその言葉じりを捉えて、追い詰めることができると考えた問いを
用意しました。問いと言っても、それは形ばかりで、実際に彼らは答えを求めているわけではありま
せん。信仰についての問いを、彼らは主イエスを攻撃するための道具とします。

 主イエスのところに来ると、彼らは先ず誉めそやします。「真実な方」「誰もはばからない方」
「人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられる」方と賛辞を並べ立て、この後の問い
に答えないわけにはいかないように、逃げ道を塞ごうとします。これらの賛辞から、彼らが真実であ
ること、誰もはばからないこと、人を分け隔てしないこと、真理に基づいて神の道を教えることを、
価値あることとしていることは明らかです。その彼らが、真実であることよりも、神の道や誰もはば
からないこと、人を分けへだてしないことを重んじることよりも、自分が分け隔てされることを恐れ、
人の目をはばかり、保身のために動いている、皮肉な情景がここにあります。


 彼らが主イエスに発した納税に関する問いは、当時人々の間でも繰り返し問われていたことでしょう。
律法遵守を重んじるファリサイ派の人々にとっては、異邦人である征服者に神の民が税金を納める
ことは、律法に適うのか、歩むべきとされている神の民の道において許されているものなのかどうか、
問題です。ヘロデ派の人々にとっては、ユダヤ人たちがしっかり納税することが重要です。ローマ帝国
に依存している彼らの生活も政治的立場も、ユダヤ人たちが納税しなければ揺らぎかねないので、
しっかり税を納めるかどうかが問題です。同じ納税について問う質問において、この二つのグループ
それぞれが重視する面に焦点を当てた、「律法に適うのか」、「納めるべきなのか」との二つの表現で
問われています。この二つのグループの人々は、納税をしています。ローマの国家に依存し、ヘロデに
追随するヘロデ派の人々は、自ら考えることを放棄するかのように、支配者に言われた通りに納めて
いたでしょう。ファリサイ派の人々は、望んでではないけれど、納めるしかないと割り切って納めて
いたのではないでしょうか。

ローマ皇帝は、自分を神格化させ、神として崇めることを求めていました。そのローマ皇帝に納税する
ことは、神さまだけを神とすることを求める律法にも反するのではないかという思いが、ユダヤの民に
ありました。時には、納税を拒否し、武器をもって反乱を起こす動きも民の中に起こりました。納税に
不満を募らせているユダヤの民が、ローマに対して抵抗運動を起こすのではないかと、常にヘロデと
ローマ帝国は神経を尖らせていました。この日、主イエスとファリサイ派・ヘロデ派のやり取りを見つ
めていた群集の中にも、そのような勇ましい主張や行動に惹かれる人が多くいたことでしょう。納税の
問いに対して、もし主イエスが神さまの道に適うことだと、税は納めるべきだと答えれば、群衆は
主イエスに失望し、大部分は主イエスを見捨てるだろうと、逆に納税をしなくて良いと答えれば、
この者はローマ帝国に対する反乱を企てていると、帝国に引き渡すことができると、ファリサイ派や
ヘロデ派の者たちは考えていたことでしょう。どう答えても自分たちはその答えを利用してこの者を
滅ぼすことができるというのが、彼らと、彼らを操っていた人々の目論見でした。

人の心に何があるのか全てご存知である主は、真理を求める振りをして、質問という罠で主イエスを
陥れようとする彼らの偽善を見抜いておられました。主はデナリオン銀貨を持ってきなさいと言われます。
当時の労働者のほぼ一日の賃金分に当たるこのローマ帝国の銀貨の表面には、神の威厳を表す月桂冠を
かぶったローマ皇帝の肖像と、この皇帝が神の子であることを表す文字が刻まれていました。その肖像
と銘は誰のものかと、主は彼らに問います。彼らが「皇帝のもの」と答えると、「皇帝のものは皇帝に
返しなさい」と言われます。彼らは主イエスに「納める」という言葉で質問しました。「納める」と訳
された言葉は本来、「与える」という意味の言葉です。「与える」ということは、自分に属するものを
皇帝に渡すということです。しかし主は「与える」ではなく「返す」という言葉で答えられます。自分
にではなく皇帝に属するものを、皇帝に返すのです。誰かに属するものはその人に返すのが基本である
ように、皇帝に属するものは皇帝に返すのだと、ローマへの納税は、皇帝を神と崇めることではなく、
その力と仕組みの中でユダヤの民の生活が営まれている、ローマの皇帝に属するものを、皇帝に戻す
ことなのだと、教えられます。

主イエスの教えは聞く者の考え方を大きく転換させます。けれどもしここで終わったら、皇帝を神とす
ることは無いけれど、神さまを神とする道も示されないままとなってしまいます。主は、その後に「神
のものは神に返しなさい」と続けてくださいます。元の文では、「あなたがたは皇帝のものは皇帝に返
しなさい。そして、神のものは神に」となります。「そして、神のものは神に」、この言葉が全体を
締めくくります。皇帝のものと神のものが世に混在しているから、その線引きをしっかりしなさい、
それぞれ返すべき相手を間違えないようにしなさい、ということではありません。
ここで「そして」と
訳されている言葉は、前のものと後ろのものを並置するのではなく、決定的なものを導入する「そして」
なのだと考えられています。「そして」で導入されるものが、その前に語られてきたものを上回ります。
主イエスを殺そうとしている人々は、ここまで繰り返し主イエスの権威に疑問を呈し、攻撃してきました。
それによって、自分たちの権威が及ぶ範囲を必死に守ろうとしてきた人々に主は、世のものは世に返し
なさいと、そして彼らが守ろうとしているものも含めて全ての権威に勝る方である神さまに、神さまの
ものを返しなさいと、告げられたのです。


私たちの日常は、世のさまざまな力に属する、様々なものに囲まれています。私たち自身も、家庭や社会
の中で、幾つかの場所に属しています。主イエスは、何をどこに返しなさいと、すべきことを具体的に
命令するような教えではなく、どのように決断するのか、その姿勢を教えてくださいます。すべてを支配
する方がおられます。その方のみ前で、私たちは何がどこに属しているのか、どこに返すことができるの
か、私たちが属しているところに対してどのように責任を担うことができるのか、その責任を負うことを
通してどのように神さまのご意志を世において証しすることができるのか、繰り返しみ心を尋ね求めます。
皇帝のものはただ機械的に皇帝に返すのではなく、決断が必要となる度に、キリスト者は新たにみ心を
問います。私たちは単に今この時の国や社会の民では無いからです。「わたしの国はこの世には属して
いない」(ヨハネ18:36)と言われた主が王である神の国の民です。この主に仕える者です。私たちは、
国や社会において力を委ねられた者たちが、その力を誠実に用いるように、主なる神に祈り続ける者で
あるのです。


更にキリスト者は、自分を苦しませているもの、弱らせるものが最終的なもの、決定的なものではない
ことを知っています。最終的な救いは、イエス・キリストによる決定的な救いのみ業によって与えられ
ていることを、知っています。パウロもこう述べている通りです、「死も、命も、天使も、支配するもの
も、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低い所にいるものも、他の
どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離す
ことはできない」(ローマ8:38~39)。

そして私たちは、私たち自身のことも、神さまのみ前で考える姿勢を教えられています。私たちがどこに
属していようと、属していまいと、私たちは神さまのものです。神さまによって、神さまのかたちに
創造され、命と存在を与えられた者という出発点を与えられています。
神さまに属する者として生きる道が、
キリストの十字架と復活によって開かれています。全てに勝る権威を持つ方が、世の力の中で歩んで行く
私たちの力の源です。世のものを世に返し、神さまのものを神さまに返すことにもがく私たちが、帰りつく
ところです。
キリストによって神さまに贖われて、主のものとされている私たちだからこそ、神さまのもの
を神さまにお返しすることを共に求め、神さまと人に仕える道を歩んでゆきたいと願います。
(下線はゆうゆうが引きました。)

左近深恵子牧師による先週の説教です。
「神様が私を造られた」 私が生きて行けるのはその信仰に支えられているからです。
死も命も、現在のものも未来のものも被造物はすべて神様の造られたもの。
それを信じて生きているなら、神様から与えられた命、日々の生活、全てを神様にお返しできるはず。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(マルコ9:23,24)
信頼しきれない信仰弱い私をお救いください、と祈るばかりです。 (T_T)


今日の思い ***************
オミクロン株によるコロナ感染は猛威を振るっています。
政治家も科学者も専門家も、日本だけでなく世界中の誰にも正解がわからないという
大変な世の中になりました。
一人ひとりが自分の考え、責任で行動しなければなりません。
この時、自分はどうするべきか、私のフィードバックする先には神様がおられますが
日常茶飯事の出来事は自分で決めなくてはネ。  (・・;)
ワクチンや治療薬の研究に携わっている方、学校、保育園、各種施設で働く方々の
健康と安全と健闘を心からお祈りいたします。
まともに学校に通えない時が長くなったら子ども達の心にはどんな影が落とされるのでしょう。
不安な時代になりました。 ***************


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説教は教会のホームページで毎週読むことができます。


冬の陽だまりの中で枯れ木の虫を突く<アカゲラ>です。
何年も前に埼玉の公園で見た光景です。
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永眠者記念礼拝説教

2021-11-17 13:57:25 | 説教





14日は永眠者記念礼拝でした。
深恵子牧師の説教を伺い、一人でも多くの方に聴いていただきたいナァ、と願いブログに載せることにいたしました。
礼拝に参加させていただき説教を伺うたびに、私の命は神さまが造り与えられたもの、神さまはいつもともにいてくださる、
という信仰が強められます。 恵みを心から感謝した日曜日でした。


『信仰者が熱望するのは、ただ天の故郷です。神様のもとに召されるまで、常に道の途上にある旅人です。』『私たちの
命の時も死の時も、死の向こうも、私たちのものではなく、神さまのみ手の中にあります。み子が私たちのために
十字架の苦しみと死を引き受けてくださったのですから、私たちは死においても孤独ではありません。』
『自分の力で生きようとするところから、生かされているところへと導かれます。』
『命においても死においても、キリストの恵みのみ手にわが身を委ね、天の故郷を仰ぎ見つつはるかに望み見ている
ものを求めつつ旅路を続けてまいりましょう。』



追記:オリンピック以降も感染者が増えることはなく、コロナは今の所、日本では急速に沈静化したように見えます。
   私が頭に描いていた最悪の自体は避けられ本当に!本当に!ホッとしました。
   経済との兼ね合いや、ワクチンを拒否する人が多いからでしょうか、世界では収束の兆しはまだまだ見えず、
   日本のこれからもどうなるのか予測不能です。
   私の素人考えでは、何よりも有効、強力なワクチンと治療薬の開発が一番の解決策のような気がするのですが・・・
   み心ならば、神さまが研究している方々の力を強めてくださいますように!


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  季節は川に<キセキレイ>の来る秋になっていました。
  地球の自然を激しく破壊させることなく後輩に渡したい。
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「閉ざされたパブルに吹くペンテコステの風」

2021-05-24 17:55:25 | 説教
5月23日 ペンテコステ礼拝 説教 (左近 豊牧師)
テキストは「イザヤ書」40章27節~31節 「使徒言行録」2章1節~4節
タイトルは「閉ざされたバブルに吹くペンテコステの風」

 先日新聞で、ある情報学の研究者(ドミニク・チェン早大准教授)が、「フィルターバブル」
という言葉を使って、この10数年、特にコロナウィルスの蔓延によって強まっている社会現象に
ついて語っている記事を読みました。
(「インタビュー・わかりあえなさと共に」朝日新聞2021年5月14日朝刊)。
昨年の大統領選挙で明らかになったように、スマホやSNSなどに、自分の好みや都合にあう情報
ばかり入ってきて、自分と似たものの考え方や政治的な信条、価値観のバブルにいつしか閉じ込
められて、知らずうちに異なる価値観を許容できなくなる傾向がみられる。
「わかりあえる集団」と「分かり合えない集団」の区分がはっきりして、他人との何気ない情報を
確認する機会も減ってゆく。
コロナ下の巣ごもりで、一層スマホやネットなどを通して情報を得る比重も高まって、互いのバブル
は固く閉ざされて、外部との接点が失われて、言葉も通じなくなる傾向に拍車がかかっている。
そもそもスマホアプリは、利用する人の好みに合わせた情報に、すぐにたどり着かせて、特定の
情報に対する飢餓感を誘発するように設計されているため、どんどん似通った興味や関心のある
情報が入ってくるようになっていて、いつしか中毒症状に陥るように作られている、とも書かれ
ていました。閉ざされたフィルターバブルがあちらこちらに膨らんで、分かり合えなさの中に
生きる現代と、どう向き合うのかを考えさせられました。
 
そのような中で今年もペンテコステを迎えています。聖書をひも解いてみますと、ペンテコステ
とは、2000年前、世の片隅の閉ざされた小さなバブルに聖霊が吹き寄せて、そこにいたイエス
キリストの弟子たちの祈りの輪に吹き込んで、全体に満ち溢れて噴き出して、全世界へとキリスト
の福音をはじきさせた疾風怒濤の出来事でした。
聖書が語る歴史を、それ以前とは画するような新しい時代の到来を告げる出来事として描き出され
ています。この時に世界に吹き込んだ風は今なお世界を吹きぬけて、今日も美竹教会はじめ世界の
教会に新たな息吹をもたらす聖霊の働きに現れています。
(聖書では「霊」と「風」「息吹」は同じ言葉です)。
今日はマスク越しにではありますが、その聖霊の息吹を魂いっぱいに吸いこんでペンテコステの
喜びを味わってまいりましょう。
 
 ペンテコステに聖霊が降ってもたらされた喜びを、2つに絞って、今日は共に噛みしめて
まいりましょう。聖霊は疾風のような音と共に炎のような舌となって表れたと記されています。
一つ目は、この「炎のような舌」について聞いてまいりましょう。
舌というのは、英語などでも母国語のことをMother Tongueと言ったりしますが、炎のような言葉
を一人一人がいただいた、実は、次の4節で「ほかの国々の言葉」と訳されている「言葉」とここ
での「舌」は同じギリシャ語です。聖霊に満たされた時、炎のような熱くたぎる言葉が、ひとり
ひとりに与えられたのだ、と。

今からちょうど65年前のペンテコステに美竹教会の初代の牧師であった浅野先生が語られた
メッセージを「信音」で読みました。そこには、言と霊というタイトルでペンテコステの意味が
語られていました。抜き出してみます。
『信仰は信(じること)であって単なる理屈ではないのであるから、我々の生活の中に何等か
新しきもの、力づよきものが創造されていくためには神の霊によらざるを得ない。
ペンテコステに於いては実に神の霊が弟子たちの上に降ることによって彼らを一斉に立ち上がら
せた。イエスを失った彼らの周囲には厚い壁のようなものが取り巻いていて、彼らは身動きも
できないような重苦しいものを感じていたであろう。復活のキリストが彼ら一人一人に現れて
彼らを励ましたのであるが、神の霊が降るまでは彼らは動きだすことはできなかった。
霊と結びつかなければ言には力がない。』
(「巻頭言・言と霊―ペンテコステについて―」『信音』No.72、1956年)
創立25周年のペンテコステに語られた、浅野先生のメッセージを通して、聖霊が降って一斉に
立ち上がらせられ、厚い壁の外へとはじき出る炎のように熱き言葉を、霊と結びついた力づよい
言葉を語る舌が与えられたのがペンテコステであることを思い起こさせられたのです。
今年90周年を迎えている美竹教会に確かに働いている聖霊が、常に、今も復活のキリストを思い
起こさせ、このイエスこそ救い主です、との信仰を告白させるのです。
 
それは「ルカによる福音書」の最後に出てくる弟子たちの姿とも重ね合わせられることでしょう。
「使徒言行録」につながるルカ福音書の最後の24章をひも解いてみます。
そこには主イエスの十字架の死に打ちのめされて言葉を失い、さらに復活を告げた婦人たちの
言葉に心凍てつかせて耳をふさいで、夕日に伸びる影を引きずるように立ち去ってゆく弟子たち
が出てきます。エマオという村に向かう途上で復活の主イエスが旅の道連れになられたことが
書かれています。
一緒にいるのが主イエスとは思いもしない弟子たちに、道々、旧約聖書を解き
明かされながら、ご自分について書かれていることをねんごろに説明されながら、家に入って
食卓を囲み、パンを裂いて晩餐を共にされた。
その時になってようやく弟子たちの目が開かれて、ああ、道で話しておられるとき、また聖書を
説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたじゃないか、私たちは復活の主に出会った
のだ、と知る。あたかも炎が内に点されるかのようにして、嬉々として燃えるような言葉を携えて
仲間たちのもとに取って返し、あふれ出す喜びを語る者とされた。
さらに話は続きます。
他の弟子たちもいるところで、主イエスは、聖書を解き明かされます。救い主は苦しみを受けて、
三日目に死人のうちより復活し、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝え
られることを弟子たちに悟らせて、ご自分の力が弟子たちにも与えられることを約束して、こう
いわれた、と。「エルサレムから始めて、あなた方はこれらのことの証人となる。私は、父が約束
されたものをあなた方に送る。高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまってなさい」と。
この約束がペンテコステの日に満たされたことを今日の箇所は綴っているのです。
エルサレムの都の小さな群れに限られていた喜びの輪でした。
閉ざされたバブルの中にあった。そこにペンテコステの風が吹き込み、聖霊が満ち溢れ、復活の
主イエスの証人として、炎のように熱き言葉が一人一人に与えられた。
そして2000年経った今、その言葉が私たちの胸をも熱くせるのです。主イエスとの出会いを証する
炎のような言葉をいただくペンテコステ。今日、私たちも主の食卓に招かれて、聖霊に満たされて、
エマオでパンを裂かれた主を思い起こしながら、弟子たちの前で焼き魚を召しあがり、死の力に
打ち勝たれた、復活の主を、はじけんばかりの喜びの言葉で証し続けてきた弟子たち、そして教会の
先達たちの祝宴に招き入れられているのです。

もう一つの喜びについて、2章4節は、聖霊に満たされた弟子たちが、その語らせるままに「他の国々
の言葉」で話し出したということが挙げられます。
この後の9節以下にいろいろな民族や地域の名が
並べられています。今の地図で言えば、例えば、イラク、イラン、アフガニスタン、そしてトルコ、
南はエジプト、リビアなどが含まれる地域です。複雑に民族や文化が絡み合い、「分かり合える集団」
と「分かり合えない集団」のバブルの間の激しいせめぎあいを耳にすること少なくありませんが、
旧約聖書の時代からいくつもの王朝が入れ替わり、さまざまな民族が入り混じって言葉も文化も
多様に入り組んで複雑な地域が、ペンテコステの出来事では視野に入れられているということです。
10節~11節では、ローマ帝国の首都に住む都会人、生粋のユダヤ人とユダヤ教に改宗した人の背景、
クレタ島に住む島国の文化、アラビアの砂漠の文化を背景とする人たちが触れられていますが、
これは、互いの生活習慣や価値観の隔たりの深さも、ペンテコステの出来事では視野に入れられて
いることがわかります。ここに触れられている地域や文化のほとんどに、主イエスは赴かれることは
ありませんでした。
おそらく3年間の主イエスの活動は、ガリラヤ地方とエルサレムの間に限られていました。
大体140㎞(東京~静岡)位の間に収まる範囲です。けれどもペンテコステの出来事によって、
主イエスを証する言葉は、その数10倍(エルサレム~ローマ2300㎞)に及ぶ範囲にまで燎原の
火のごとくに響き渡ることになるのです。


そのことについて、美竹教会の2代目の牧師をされた平野先生が聖霊について書かれています。
「(主イエスは)『助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方にすべての
ことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう』(ヨハネ14:26)
と語っているのである。この語は、聖霊はイエスによる神の啓示の継続者であるということを示して
いる。聖霊は、イエスがその短い地上の生涯の間に教えきれなかったこと、また弟子たちがまだ
受入れる準備ができなかったために教ええなかったことを教えるのである。聖霊の本質的な働きは、
地上のイエスの働きの継続である
」(「パラクレートス(助け主)」『信音』 No.72、1956年)

ペンテコステに弟子たちの閉ざされたバブルに吹いた風は、エマオの宿屋での夕べの食卓の味わいも、
閉ざされた部屋の中での焼き魚の宴(ルカ24章)の余韻も、湖畔で準備してくださった朝食
(ヨハネ21章)で味わった喜びも、包み込んで、満ち溢れて、はじけだして、復活の主の証人として
パレスチナから小アジア、ギリシャ、そしてローマへと弟子たちを突き動かしたのです。
海の文化を知らぬ者に、海に生きる者の言葉を与え、都会に住む者が、砂漠の民への慰めの言葉を
携えさせ、ニューヨークで成功した医師であったものを、幕末に攘夷の殺気みなぎる日本に宣教師と
して遣わし(J.C.ヘボン)、地上の主イエスのお働きは、そうやって聖霊によって継続されて、今日、
ここでの聖餐式の食卓に働いておられます。
私たちも今日、受けるよりも与える幸いへと、ここから
主が聖霊を通してなされる働きに魂の扉を開いて、閉ざされたバブルから、新しい息吹に生きるもの
へと造り変えられる幸いを噛みしめたいと思います。


少し長めのお説教でしたが、私にも分かりやすく力を与えられました。
でも本当を言うと、やはり家に戻ってホームページで読むと一層明確に理解できます。
私はホームページの説教サイトが頼りです。 (-_-;)
説教をお聞きしただけで頭に入って残る方々って、素晴らしいですね~。
浅野牧師、平野牧師の聖霊についてのメーッセージもとても分かりやすく胸に響きました。
同じ著者によって著された「ルカ伝」の最後と「言行録」の最初とが呼応しているということも
初めて知って嬉しかったです。
豊牧師の説教は私の頭の中のイメージがダイナミックに三次元に膨らんで気分が高揚します。
って、言ってること、意味不明・・・・でしょうか? (^^)



ペンテコステ礼拝には何か赤いものを身につける、という風習(?)が
(何処かに?)あるらしいです。赤い洋服もアクセサリーも無い私。
出かける前に靴箱に赤い靴を見つけました。 (^^)


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「人間をとる漁師」

2021-05-04 17:14:51 | 説教
昨日の礼拝説教です。
タイトルは「人間をとる漁師」 テキストは「マルコによる福音書」1章16節~20節
左近深恵子牧師によって聖書の説き明かしがなされました。

 感染症の影響によって、私たちは礼拝堂に共に集うことが妨げられてきました。1年以上もここで共に
主を礼拝することができていない方、あるいはお訪ねすることができていない方が多くいらっしゃいます。
キリストのいのちの言葉をここに集って受けることができない方々のことを礼拝の度に思います。
キリストのいのちである聖餐にこのテーブルを囲んで共に与ることが出来ない方々のことを、聖餐の度に
思います。この教会だけのことではありません。支区や教区や他の教会と協力して開く礼拝や学び、
交わりの機会も妨げられています。讃美の声を重ねること、共に信仰告白の言葉を噛みしめ、祈りに
アーメンと声を合わせ、礼拝後に開かれる集会で講演に耳を傾け、他者の意見に気づきを与えられ、深く
頷き、新しい出会いも与えられる、それらが、普段は異なる場所で、異なる環境で、異なる人々の中で
信仰に生きている私たちにとって、どれだけ喜びと力であったのか、思わされてきました。
集うことが一層難しくなっているこの期間、信仰のつながりの貴さを思わされ、そしてまた、つながりの
意味を問われています。

 主イエスの逮捕と十字架による死は、弟子たちを打ちのめしました。その弟子たちに復活された主が
現れてくださったことを、それぞれの福音書が伝えています。ヨハネによる福音書によると、エルサレムで
家の扉に鍵をかけて閉じこもっている弟子たちのところに主イエスは来られました。主イエスを捕らえた
勢力が自分たちも捕らえるのではないかと恐れて、一つ所に集まっていた彼ら、恐怖心と緊張で身をかたく
していた彼らの只中に主イエスが立たれ、「あなたがたに平和があるように」と語り掛けてくださり、
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、
あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と
言われました。弟子たちは、復活の主に再出発の道を示されました。同じ場所に固まっていても思いは一つに
なれずにいた彼らは、キリストによって罪の赦しを宣べ伝えるという道を与えられ、その道を聖霊によって
力づけられるとの約束を与えられました。そうして弟子たちが向かった先は、ガリラヤでした。

 ガリラヤは、彼らの地元です。主イエスに出会うまで彼らの多くはそこで漁師として生計を立てており、
そこで今日の個所にあるように主から呼びかけられ、主の弟子として新たな人生を歩み始めました。その時
には、このように、裏切りと逃亡の果てに疲れ果てて戻って来ることになるとは思っていなかったでしょう。
エルサレムの一室に鍵をかけて閉じこもっていた彼らは、復活のキリストによって再出発へと動き始めるこ
とができましたが、彼らが向かうことができたのは自分たちの故郷であり、彼らが戻ることができたのは
自分たちのかつての職でした。この時の彼らにとって、それが精一杯の再出発であったのかもしれません。

 彼らは漁に出ます。漁場もその地域の天候も知り抜いているガリラヤ湖での漁は、彼らの資質や経験や
技能が最も強みとなるはずでしたが、夜通し漁をしても一匹も魚がとれないまま朝が明け、そして彼らは
岸に立っておられるキリストに気が付きます。キリストの弟子としての日々は惨めな結末を迎え、漁師で
あった時の自分たちを取り戻そうとしたら、経験も知識も役に立たず、後に残ったのは徹夜の疲れだけ。
その彼らを、復活された主イエスが岸で立って待っておられる、自分たちが奮闘している間も、期待が
焦りに代わり消耗に終わってゆくその間も、自分たちを見つめて待っておられたことに気づきます。
岸に戻ると、主は炭火を起こし魚を焼き、パンも用意しておられました。その魚とパンを取って分け与えて
くださる主の手から受け取り、主と共にいただいたこの朝、弟子たちはこの湖のほとりで主の弟子となった
日からこれまでのことを思い出していたのではないでしょうか。弟子として召されたことの意味を受け止め
直し、真に再出発へと動き出すことができたのではないかと思うのです。

 マルコによる福音書は、最初の弟子4人は二組の兄弟であったことを伝えています。それぞれの家族から
二人もの働き盛りの男性が、主イエスの弟子となった、それは本人たちにとっては勿論、それぞれの家族に
とっても、大変な出来事であったことでしょう。

主イエスはガリラヤで福音を宣べ伝える働きを始めておられました。人々に洗礼を授けていたヨハネの
ところに行かれ、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられると、荒れ野へと入ってゆかれ、そこでサタンから
の試練と格闘された主は、いよいよ神さまのご支配を人々に宣べ伝える働きを始められました。その最初に
なさったのが、弟子たちを呼び集めることでした。先ずシモンとその兄弟アンデレを、次にゼベダイの子
ヤコブとその兄弟ヨハネを、弟子とされました。

効率的に弟子を集めようとするならば、大勢の人が集まっているところで選ぶこともできたでしょう。特に
信仰の中心である礼拝の場で私に従いなさいと呼び掛けをすれば、信仰について深く考えている人、人々の
指導者となることも視野に入れて備えてきた人がそこに居る確率が高く、その人々の中から選抜した者たちを、
弟子とすることも可能であったでしょう。

しかし主イエスはそのようには弟子たちをお選びにはならなかった。普通の人々の日常の営みの場である
ガリラヤ湖のほとりを、一人で歩いておられます。既にガリラヤで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて
福音を信じなさい」と語られたことが14~15節に記されています。「神さまの救いの時は満ち始めた、今も
満ちている、神さまのご支配が近づいている」そう告げられても、未だ人々の間に大きな反応は起きていません。
み言葉を心に留めた人々は中にはいたかもしれませんが、自ら行動を起こすまでには至らない、そのような人々
の中へと入って行かれました。そうして、4人の人物を見いだされたのです。

それは、湖畔で仕事をしていた4人の漁師でした。この時代の大半の人々がそうであり、私たちの多くも
そうであるように、小さな世界の中で、家族や周りの限られた人々との関わりの中で、日常を営んでいた
4人です。なぜこの4名であったのか、何も理由が記されていません。彼らが特別な資質や力を持っていた
からとも、彼らが既に主イエスの言葉を聞いていて、弟子になりたいと思いを募らせていたからとも
言われません。網を打って居たり、船の中で網の手入れをしたりしていた彼らを主イエスが「ご覧になった」
とあるだけです。主がご覧になったことが、弟子としての人生のすべての始まりであるのです。

 兄弟二組は、すぐに主の呼びかけに応えています。シモンとアンデレは網を捨てて、ヤコブとヨハネは
父と雇人たちを舟に残して、主イエスの後についていきます。このようにすぐさま決断し、行動に移せる
のには何か理由があるのではないかと探しても、何も見出せません。彼らが漁師と言う仕事やその暮らしに
不満を持っていて新たな人生を模索していたとも、逆に漁師と言う仕事に誇りを持っていたとも、また家族
との関係がうまくいっていなかったとも、その暮らしが貧しかったとも、逆に豊かであったとも、何も言
われていません。何か弟子たちの側に特別な理由があったから直ぐに応えられたのだと思いたいところが
私たちの中にありますが、そうとは言われていないのです。彼らの行動からは強い決意が伝わってきます。
しかしそれも主の招きがあったからです。彼らを見出され、眼差しを注がれ、呼びかけられた主イエスの
存在と働きかけが無ければ、彼らは立ち上がって弟子として踏み出すことはありませんでした。主イエスの
招きが全ての始まりです。ここに主イエスの弟子たち全てに通じるものを、主イエスに従う信仰者たちの姿、
教会の姿を、見出します。

 主イエスは「わたしについて来なさい」と呼び掛けられました。この呼びかけを文字通りに訳すならば
「あなたがたは来なさい、私の後に」となります。ついて行く者の位置がはっきりと示されています。
主イエスの後です。主イエスが逮捕されても、殺されても、天に昇られて見ることができなくなっても、
主イエスが先であり、従う者はその後を歩む者である、主イエスが主であり、信仰者は従う者であることは
変わりません。どんなに立派な働きも頑張りも、主の後という位置を忘れて、自分が主となってしまって
いたら、それは主の弟子の歩みではなくなってしまいます。

主イエスがこの時続いて言われた「人間をとる漁師にしよう」という言葉を直訳すると「漁師になるように
する」となります。「なるようにする」とは、そのように実を結ばせる、そのように至らせるということです。
魚を針で釣れば傷が付くこともあるかもしれません。とった後の魚は大抵死ぬことになります。そのような
漁のイメージを思い浮かべて、人間をとる漁師になるようにするとはどのようなことなのかと戸惑いがちですが、
人間のいのちを養う神さまの言葉を宣べ伝え、神の国の中へと招き入れることを表すのでしょう。救いが古い
自分に死ぬこと、死んで、洗礼において新しい命に生きる者とされることを考えれば、とった魚がやがて死ぬ
ことになる漁のイメージは、救いの真理の一面を表しているとも言えます。エレミヤ書にも、このような主の
言葉があります、「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる」(エレミヤ16:16)。
ベテランの漁師が水の中にいる魚の位置を把握しているように、主なる神は人のすべてをご覧になっている。
罪の闇の中に紛れて潜んでいても神さまの眼差しからは隠れることができないことを、「彼らはわたしの前から
身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない」(16:17)と続けて言われる主なる神が、
その潜んでいるところからご自分のもとへと引き戻させるために、多くの漁師たちを遣わすと言われます。
神であるみ子は自ら人々の暮らしの中へと入って行かれ、神さまのご支配を告げ知らせ、先ず4人の漁師を、
神さまのご支配の中へと入るように招きます。そして彼らが他の人々をも神さまの国の中へと招き入れる人生を
歩めるのだと、示されます。 

「人間をとる漁師になるようにする」の「する」と言う言葉には、「創造する、造る」という意味もあります。
主イエスの招きは、創造主なる神の招きであると、神さまのご支配の中で、神さまが与えてくださるいのちに
生きる、創造のみ業の中への招きであると言えます。人間をとる漁師一人の一日の働きや、携わる一つの働きで
その成果が測れるような業ではありません。目に見える成果がその時はなくても、何年も、何十年も、それ以上も
かかるような神さまの創造のみ業に参与します。漁師一人一人の営みが創造のみ業の中に織り込まれ、み業の
1つの過程とされていくということです。働きに携わった年数の長さや能力や資質の差がすべてではなく、
そのみ業の中へと入れてくださる主の招きがすべてである、最大の漁師は神さまである、そのような漁へと
キリストは彼らを招かれたのです。

私たちも、主の後を歩み、他の人々をこの神さまが王である国の中へと招くことを求められています。神の国は、
一人で生きるものではないことが、今日の個所から明らかです。一人で成立する信仰はありません。私たちは
自分で自分を招いたわけではなく、自分が先頭になって歩んでいるのでもありません。ただ主におぶさって
運ばれることを望むのでもなく、自分で一歩一歩踏み出していく、そうやってキリストの後を歩みます。
今は共に
集うことができなくても、同じようにキリストの後を歩む信仰者たちと、祈り合って、支え合って歩む者と、
私たちは初めからされています。そして、労働が漁獲と言う報酬で報われない時、圧倒的な疲労と孤独と惨めさを
覚える時、その間も主の眼差しの中にあったのだと、いや、主は初めから私たちを見つめておられ、罪の陰に
潜んでいようとした私たちを釣りあげてくださったのだ
と知るのです。私たちは、わたしたちの存在丸ごとを真に
養ういのちの言葉を受け継ぎ、それを大切な誰かに伝えるために、キリストに召されています。


できることなら「主におぶさって運ばれることを望んで」しまいそうになる自分を反省します。
「罪の陰」では困りますが、隙きあらば隠れ潜んでいたいと願ってしまう私です。
「人間をとる漁師」として召されているということをすっかり忘れて神様に頼るばかり。
生ぬるい信仰の私の心の内も神様は見通されて、果たして許してくださるでしょうか。

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説教原稿が載っています。
礼拝の場でお聞きしただけでは中々頭に残りませんが、ホームページ上で読み返すとしっかり心に残ります。
よろしかったら、ぜひ毎週お読みください。



新緑の楓の中<コゲラ>  今、公園は爆発的に輝いています!
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「見えるようになって」

2021-03-01 18:44:50 | 説教
説教 「見えるようになって」 浅原一泰牧師 

テキストは「列王記下」5章9節~14節、「ヨハネによる福音書」9章1節~7節でした。

先日、アメリカでのコロナウイルスによって亡くなった犠牲者が50万人を越えた。新しく大統領となった
バイデンが追悼の言葉を述べていたが、その中で、その数は第一次世界大戦や第二次世界大戦で亡くなった
犠牲者よりも多く、またベトナム戦争で亡くなった犠牲者の数よりも多い、とバイデンは語っていた。
何とも痛ましいことだ。日本での犠牲者の数はそこまで多くはなっていないが、しかしコロナによって
命を絶たれた方が決して少ないわけではない。我々が単にその数に慣れてしまって何とも思わなくなって
しまっているだけなのであって、今日もまたこの日本のどこかで、決して少なくない命がコロナの為に
絶たれようとしていることに変わりはない。そのような状況に置かれていながら我々は今、主のからだなる
教会に召し集められ、礼拝と言う神の御業に与っている。我々は何を思うべきなのだろうか。
どう振る舞うべきなのだろうか。バタバタと命が失われている今のこの現実をどう受け止めるべきなの
だろうか。考えても考えても答えは見つからないだろう。右往左往することしか出来ないだろう。
しかしそのような我々に対して、なんと聖書は次のように語りかけて来る。
それは「神の業がこの人に現れるためである」のだ、と。

以前この教会の礼拝で、「預言者の働きは人間の思惑を外すことにある」という旧約聖書学者の
並木浩一先生の言葉を紹介したことがある。新型コロナによって我々の生活が激変して一年の
歳月が流れた今、そしてようやくこの国でもワクチンの接種が開始され始めている今、改めて
先ほどの言葉を思い起こしている。寒い季節にはウイルスが活性化し感染者が激増するとは、
ワイドショーなどに出て来る感染症の医者たちが毎日テレビで話していた。
ワクチンの接種が始まれば、副作用の心配はあるけれども、死に至る可能性は間違いなく激減する、
ということも言われて来た。しかしそれらも、自分の知識や科学的データを根拠にした人間たちの
ある種の思惑である。その思惑は当たったのかもしれないし、当たらないこともあるかもしれない。
しかしいずれにせよそれらは、神の業が現れたということとは違うだろう。
けれども礼拝に集められている我々が切に祈り求め、信じて待ち望まなければならないのは、この
コロナに蝕まれ切っている今の世の只中においてこそ、これは「神の業が現れるため」なのだ、と
聖書が告げていることなのではないだろうか。しかしその神の業とは何なのであろうか。
果たしてそれはどこに現れるのであろうか。

列王記に出て来たアラムの軍人ナアマンは王から信頼される歴戦の勇士であったが、重い皮膚病を
患っていた。異邦人である彼はアブラハム、イサク、ヤコブの神を知らないし、出エジプトを実現
させたイスラエルの神を知る由もない。しかしたまたま彼の妻の召使の中にイスラエルの少女がおり、
その少女が「サマリアの預言者ならご主人の病気は治せる」と告げたため、ナアマンはあの預言者
エリシャのもとを訪ねたわけだ。信頼する部下の為にアラムの王も親書を書いたと聖書は伝えている。
しかしエリシャは直接ナアマンに会おうともせず、部下を通して、ヨルダン川で七度体を洗え、と
言わせただけだった。エリシャが自分の体に触れて、誠心誠意尽くしてくれると期待していた
ナアマンの思惑はものの見事に外される。そこで彼は怒り出してしまう。
親書を書いてくれた王様にも顔向けできない、メンツが立たないではないか、と思っただろう。

ヨハネ福音書ではイエスの前に生まれつき目の見えない人間が現れる。イエスの弟子たちはたまらず
イエスに尋ねる。彼が病気なのは誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか、と。
当時のユダヤでは、病気も不幸も神に対する罪の報いだと思われていたからである。病気の原因が
本人か両親の犯した罪であると分かれば、自分はそうしないように居住まいを正そう、
親にも伝えておこう、というのが病に対する最善の防御策だったのだろう。それが彼ら人間たちの
思惑であった。しかしその思惑は、イエスによって見事に外される。イエスはこう言ったからである。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

飲食に注意する、マスクとうがい手洗いを徹底する、それがコロナに対する最善の感染防止策だと我々も
教え込まれて一年になる。確かにそれは意味のあることだろう。しかしそれらも人間の思惑に過ぎない。
そしてその思惑を含めて、人間のありとあらゆる思惑をすべて、この一年、イエスは外し続けて
来たのではないだろうか。ワクチンさえ打てば元通りの生活を取り戻すことができる。そう思いつつある
我々人類の今現在の思惑をイエスはこれからも外し続けようとしているのではないだろうか。
こうすればこうなる。これをしたら危ない。命を自分で思い通りに守れるかのように過信し、死なない
のなら何をやってもいいではないかと、あのアダムのようにしか生きられなくなっている人類の思惑を
イエスは今も、これからも外し続けると思うのである。神の業に人類の目が開かれるまで、我々の目は
見えないままなのではないか、と思うのである。

しかしイエスはこうも言っていた。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のある
うちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」と。
聖書でいう闇は罪が支配する領域である。希望を失わせ、諦めと絶望感しか抱かせずにただ死を待つしかない
生ける屍へと命ある者らを貶めていくそれは世界である。そしてその闇が全てを覆い尽くす夜とは、神なき
この世、神を知る者が一人もいないまさに天地創造前の状態、地は混沌として闇が深淵の面にあるあの世界の
ことであろう。しかし神は、まさしくその闇の世に向かって叫ばれたのである。「光あれ」と。
二千年前、イエスも言われていた。「だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の
光である」と。そして今なお、いや今こそイエスは神を求める者たち、光を求める者たちに向かって、
その一人一人を礼拝へと招き、その使命に気づかせようと語りかけている。その使命とは、イエスに従うこと
である。より具体的には、「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに
行わねばならない」、というあのイエスの言葉に心抉られ、心揺り動かされることである。

イエスが生まれつき目の見えない人を連れて行ったシロアムという池とは、「遣わされた者」という意味の
池とは、実は主のからだなる教会のことを指していた。その直前に、主がこねられた土を見えない目の上に
塗られていたが、その池に行って洗えと主が命じられたのは、まさしく教会で洗礼を授けられることを
指していた。その人において神の業が現れるからである。その人において神の業が始まるからである。
皮膚病のナアマンに、ヨルダン川へ行って七度体を洗えとエリシャが指示したのも同じであった。しぶしぶ
身を洗ったナアマンにおいて確かに神の業が始まった。その神の業は先ず、彼の皮膚病が治るという形で
示された。今、目の見えない人がシロアムという池に行って、そこで洗うようにと主が指示したのも、
弟子たちや周りにいた人間すべての思惑を外し、目の見えない病人本人の思惑をも外す言葉であった。
しかしそこに神の業は現われた。それは新しく生まれる為の、教会という生けるキリストの体に結ばれる為の、
教会における洗礼という新しい命へと踏み出す為の、第一歩であり、その命の産声を挙げることに
他ならなかったのである。そして聖書が、「その人は見えるようになって」と伝えているのは、その人に
おいて新しい命が、神の与え給う真の命が輝き始めたことを指していた。生きているように見えても、
神に生かされていない古い命は見えていないままである。闇の夜から一歩も外へ出られていないままである。
しかし主に結ばれて新しい命へと生まれ変わらされた命は、闇に覆われていたとしても光に包まれている。
死で終わることのない命へ、十字架の死からよみがえらさられる真の命へと移し変えられている。
「見えるようになって」とはそのことである。そしてその時、その人に、紛れもなく神の業が現れていた、
神の業は確かに始まっていたのである。

コロナに揺さぶられようと、ワクチンの効き目があろうとなかろうと、皆さんも「見えるように」されている。
主によって新しい命へ、死んでも終わることのない命へと移し変えられている。洗礼を受けてはいなくても
見えるようになれ、と確かに主に招かれている。しかし罪の力はまことにしぶとく、死の恐怖をつきつけて
我らを生ける屍へと追い落とそうと常にすきを窺っている。寝首をかこうとする。だからこそイエスは
言われていた。「わたしは世にいる間は世の光である」と。そうして見えないものを見えるように生まれ
変わらせ続けて下さっている。今のこのレントの時も、見えると思い込んでいた我らを打ち砕くために
主が与えて下さった試練の時である。全地が闇に覆われないように、「わたしたちは、わたしをお遣わしに
なった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」、その為に今日この主の日も主イエスが
皆さんを生かしている。用いている。
この礼拝に皆さんが与っていることが既に、神の業が皆さんにおいて
現れていることであるのだと。その主の声を受け止めて今日からまた、新たなる命に生かされつつ、その命を
闇の世に向かって証ししていく歩みを共に始めて参りたい。

昨日は浅原一泰牧師から神様は私達の目が開けて見えるようになり行動することを強く求めておられる
という聖書のみ言葉の説き明かしを伺いました。
「神様は今、私達に喝を入れているのではないでしょうか」とも話されました。
省みると私は本当に心弱く、信仰浅い人間です。神様に頼るのみで、働くこと少ない、
自分に楽にできることしかしていない信者だな~と思いました。 (T_T)


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早春の薄緑を背景に<モズ男>君です。
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「み国を来たらせたまえ」

2021-01-19 13:25:24 | 説教
説教「み国を来たらせたまえ」(マルコ1:14~15)  2021年1月17日(左近深恵子)

 礼拝後の報告でこのところご様子をお知らせし、共に祈りに覚えてきましたGさんが、先週の
月曜日に地上の生涯を終えられました。今週葬儀が行われます。感染を予防するために、葬りの
礼拝をこの会堂で皆さんと共にささげることがかなわない現実が、悲しみを深めます。共に集う
葬儀が困難な状況であるからこそご家族の上に主の慰めを祈る祈りに一層心を合わせたいと思います。

Gさんの逝去をお知らせする中で、何人もの方がGさんの思い出を分かち合ってくださいました。
病を抱えながらも礼拝を大切にされ、乗り換えが多い道のりを教会に通われ、会堂の後方で静かに
礼拝を守られていた姿、パンやケーキを焼くことが上手でその賜物を礼拝や集会のために用いて
くださっていた姿、いつも笑顔で優しく接しておられた姿、人柄が滲み出る温かい言葉やユーモアの
ある一面など、それぞれの方の思い出に触れることができました。60年近い美竹教会での信仰生活に
おいて積み重ねてこられた交わりとお働きを、私も改めて知ることができました。時間の経過と共に
悲しみや寂しさが募ってきますが、姉妹の信仰の歩みを思い起こすことができる恵みも思います。

 大切な人を失う悲しみの中で、主から与えられた信仰が私たちを支えています。Gさんやその他、
先に旅立った信仰の先達と、信仰を共にし、祈り合ってきたことが慰めです。神さまが私たちに
与えてくださった信仰は、死の現実の中にあっても私たちを支えています。

 私たちの土台である信仰の内容を、福音と聖書は言い表しています。パウロの文書などで福音と
いう言葉が用いられる時には、イエス・キリストの死と復活によって成し遂げられた救いを指すこと
が多いでしょう。しかしまた、福音を成し遂げられた当のキリストも、福音と言う言葉を用いて
おられます。その場合の福音は、預言者たちを通して約束されてきた神さまの救いを指しています。
世に対して神さまが勝利されるという約束です。神さまが世のあらゆるものに対して勝利をされると
いうことは、新しい歴史が始まるということです。天の支配が地においても決定的なものとなる
新しい歴史の到来を、神さまは約束してくださったのでした。

主イエスはお働きの始まりにおいて、この神さまの福音を宣べ伝えました。「時は満ち、神の国は
近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、神さまが約束された新しい歴史が、今世に起こり始めた
のだと、言われました。福音と訳されている言葉は、「良き音ずれ」を意味する言葉です。
「良き音ずれ」、喜ばしい報せです。旧約聖書の時代以来人々が待ち望んできた喜びがもたらされたと、
主は人々に語られたのです。

主イエスは「時は満ち」と言われました。約束が実現されるための機が熟したと告げられたのです。
ではそれはどのような時であったのでしょうか。

神さまが遣わされた預言者たちは、世に対する神さまのご支配を人々に語り、神さまでは無い様々な
もの力に依り頼もうとする人々に、神さまの元に立ち帰るようにと告げてきました。預言者たちの時に
文字通り命懸けの働きによって、新しい時の到来に向けた備えが、一歩一歩進められてきました。
最後に登場した洗礼者ヨハネは、イザヤが告げた「荒れ野で叫ぶ者の声」のように荒れ野に現れ、人々に
備えることを説きました。自分の後に来られる方がどのような方であるのか人々に語り、罪の赦しを
得させるために悔い改めの洗礼を授けることで、主の道を整えさせました。主に至る道を探し求めながら、
世の様々な勢力に視界を遮られて見いだせずにいた人々に、主の道を指し示しました。その道の前に彼ら
自身を置くようにと、そして真っすぐに主の道を見つめるようにと、導きました。しかし、力強く
自分たちを導いてくれる頼もしいこの指導者が、時の権力者である領主ヘロデの保身のために、
逮捕されてしまいました。ヨハネが自分たちから奪われた時、まさに荒れ野に吹く風のように、神さまに
背く力が猛威を振るう世の只中で、人々は途方に暮れたのではないでしょうか。神さまの言葉を語り、
正しいことを求め、神さまのみ前でも人々の前でも正しい生き方を貫いていたヨハネが、世の王が不当な
仕方で行使した力によって逮捕され、その後殺されてしまうのが、自分たちの置かれている現実です。
神さまがお遣わしになった預言者の言葉も働きも、預言者たちをお遣わしになった神さまご自身も、
世の王たちの力の前では無力であるかのようです。神さまが「その時」だとされたのは、「時が満ちた」
とされたのは、そのような「ヨハネが捕らえられた」後でした。人の目には厳しさが増しているその時、
主イエスはガリラヤへ行き、福音を宣べ伝え始められました。ヘロデの保身と不正と敵意が勝利して
いるかに見えようとも、主イエスはその状況下で暮らす人々の中へと入ってゆかれたのです。

 主イエスの最初の説教は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という
ものだったと、マルコによる福音書は伝えています。第一声であり、そして主イエスの生涯を貫く
メッセージであります。主イエスが語られたことだけでなく、人々を病や悪霊から解き放ち、驚くような
み業を行いながら十字架に至る日々を歩み通された、そのご生涯をかけて、その血と肉をもって
成し遂げてくださった福音を、主イエスはそのお働きの始まりから宣言されています。

 主イエスのこの説教には、神の国がいよいよ近づいているという響きがあります。神さまが約束して
こられた出来事が地に姿を現したのだと、見ることができる、手に触れることができるところまで迫って
きているのだと感じさせるこのような言い方ができるのは、それが主イエスによってもたらされていること
だからです。主イエスが既に到来していること、主イエスが世に対してそのお働きを始めておられること
によって、神の国が到来しているからです。
町や村を巡って主イエスが宣べ伝えられることで、更に福音が
人々のもとへと近づいていくからです。ヨハネも含め預言者たちは、神の国の到来を示しました。
しかしキリストは示すだけでなく、ご自身においてもたらされました。だから人々に「さあ、いよいよ
その時が来た」と、「神の国はここに始まっている」と、語ってくださったのです。

 神の国という表現は、神さまの王としてのご支配を意味するもので、旧約聖書以来の伝統を背景に壮大な
救いを指しています。
それまでの人間の在り方が神さまによって裁かれ、滅ぶべきものが滅ぼされ、
生かされるべきものが生かされる終わりの時を指しています。神さまに背く在り方が世を支配するのではなく、
神さまが支配される、それが神の国の姿です。全体像を思い描けないほど壮大なこの救いが、主イエスという
お一人の存在と御業によって到来しました。人の目には良い時だとは思えない時に、ここで神さまのご意志に
生きることを教え、そのように行動することを求めることが困難であると、人々が思い知らされたところで、
主イエスは一人、「神の国は近づいた」と宣べ伝え始められました。そして神さまの国は、時代も地域も超えて
今、私たちの所にまで届いています。
主イエスは神の国をからし種に譬えて人々に語られたことがあります。
目に見えないほど小さなからし種が、成長して大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る
ようだと、神の国はそのからし種のようだと教えられました(マルコ4:30~32)。その譬えのように、
主イエスによってもたらされた神の国は、今や私たち皆がその中で安らぎ、憩い、自分の住まいとすることの
できる大きなものとなっています。そして神の国は、も成長し続けているのです。


神さまの王としてのご支配が、「国」や「王国」という言葉で表現されることによって、私たちは神さまの
ご支配を国としてイメージすることができます。日本や他国の間に国の境があるように、国という言葉はその国
であるところとその国では無い所に境があることをイメージさせます。神さまの国はキリストによっても私たちの
近くにもたらされています。どこか遠くの遥か彼方にではなく、見ることができる、手に触れることができるほど
近くにもたらされ、そこで私たちが神さまのご支配に対して応えることを求めています。ご支配が近くにもたら
されていることを知っていても、知るだけであったら、そこに入ることがなかったら、神さまのご支配の外に居ます。
神さまのご支配を受け入れるよりも、境を超えずに自分が自分の王でいることに安住しようとしたがる私たちを、
神さまは招いておられます。
私たちが神の国の民となること、自分の王国の王でいるところから踏み出し、
神さまのご支配に自分を委ねることを決断するようにと、求めておられます。

主イエスは神さまのご支配を人々の近くへともたらすために、荒れ野を出てガリラヤの土地へと入って行って
くださり、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、語り掛けてくださいました。その主イエスが
人々に、「み国を来たらせたまえ」と祈ることを教えられました。「神の国は近づいた」と語られた上で、この
祈りを教えてくださっています。「み国を来たらせたまえ」とは、神さまのご支配が隅々にまで及びますように、
という祈りです。み国がまだ来ていないから祈るのではありません。み国の中に自分で自分を据えているかどうか
振り返り、神さまの元へと立ち返り、神さまのご支配が自分の思いと行動の隅々にまで、他者との関わりの
隅々にまで、及びますようにと祈る
日々を、主の祈りを通して与えてくださいました。

 それぞれが既に抱えていた問題にコロナの影響が重なり、私たちは厳しい状況に長く置かれています。
神さまに従う道を遮るかのような不安な状況によって、内なる視野が狭くなりがちな日々が続いています。けれど
神さまの国の到来という福音を宣べ伝えてくださった主イエスの宣教は、時代を超え、地域を超えて、私たちへと
語り続けています。
主イエスが荒れ野を後にして、ヘロデが支配するガリラヤへと足を踏み入れられたように、
世の力と人の思いが交錯する人々の暮らしの中へと分け入って行かれたように、福音の響きは、歴史の中で、
私たちがもがいている世界の中で、キリストは教会を通して語り続けられ、聞かれる言葉となり続けています。


 福音は今も教会を通して説教として語られ、また聖餐として五感を通して分かち合われています。
Gさんはかつて聖餐のパンを毎回焼いてくださっていました。神の国で主が私たちを招いてくださる祝宴を先だって
示す主の食卓のために、賜物を捧げてくださっていました。病院や施設にお訪ねしたときに、聖餐の準備に携わって
おられたことを話題にしますと、「もうできませんけれど」と言いながらも、いつも温かな笑顔で応えてください
ました。神の国は既に来ているものでありながら、その来るべき完成を待ち望むものであります。苦しみも痛みも
取り除かれ、神さまの栄光の中で、生涯において信じてきたことを見ることができるところで、主イエスが招いて
くださる祝宴の席に着くことは、確かに未来のことであります。
けれど主イエスをキリストと信じ、神の民とされた
者は、神の国を待ち望むだけでなく、「み国を来たらせたまえ」と、今この時も、願うことのできる幸いを
知っています。
既に訪れており、やがて全ての願いがみ心に適う仕方で実を結ぶ喜びを、主の祈りの度に
受け止めていきたいと願います。            (下線はゆうゆうが引きました。)

(礼拝で一度お聴きしただけでは頭に入らず、印刷して何回か読み直しました(^^) が・・・)
神様のみ国についての説き明かしが心に魂に残りました。
どのような時でも、今、私は神のみ国の民として歩ませて頂いているという信仰を持つことが許されて
いることに感謝いたします。
私のために教会学校を始めてくれた姉、祈りの苦手な私に「祈りの本」を送ってくれた姉が膵臓癌に
侵されていることがわかりました。余命宣告もされました。
大切な、大切な姉・・・・悲しくて言葉がありません。
高齢者用の施設に入居している姉への面会は、新型コロナウィルスへの施設側の対応や意向もあって
思うようにゆきません。
“遠く離れた両親に会いに行けない、病気の方のお見舞いに行けない・・・・”これまでは自分事として
捉えられていなかったコロナの禍がヒタヒタと身近に迫っていることを実感します。
神様のみ国の民として歩む、神様に祈り依り頼む信仰がなかったら、とても耐えられません。

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公園のマンサクの花もほどけ始めました。
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「主が共におられる」

2020-10-28 12:01:18 | 説教
10月25日の美竹教会主日礼拝説教は浅原一泰牧師によってなされました。

タイトルは 「主が共におられる」 
テキストは「ホセア書」6章:4節~6節と「マタイによる福音書」15章21節~28節 でした。

「ホセア書」6:4-6
エフライムよ わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。
お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを、
預言者たちによって切り倒し、わたしの口の言葉をもって滅ぼす。
わたしの行う裁きは光のように現れる。わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、
神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。

「マタイによる福音書」15:21-28
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれた
カナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊に
ひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。
そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながら
ついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか
遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し「主よ、
どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやっては
いけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も
主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」
そのとき、娘の病気はいやされた。


「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。
あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、
逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)。

これはパウロの有名な言葉であり、私自身もそらんじているほど慣れ親しんだ言葉である。皆さんもよく
ご存じの言葉であろうが、ここ最近、なぜかこの言葉が私の心に新鮮に響いてくる。
コロナの嵐が吹き荒れ続けている今この時、私事であるが7月に体調を崩してからの心もとない日々を送る中、
何もかもが思うように進まない現実を突きつけられる日々を送る中で、何故かこの言葉が今までにはない
光り輝きをもって自分の心に鳴り響いてくる。そのように感じるわけである。

それはさておき、今朝与えられたのはそれとは違うマタイの言葉であった。そこには、神を知らず信仰を持たない
異邦人であるカナンの女性が諦めずに、イエスをどこまでも追い求め続ける姿が描かれている。
「わたしを憐れんで下さい。娘が悪霊に苦しめられています」。そうイエスに訴えるこの女性に対してイエスの
周りにいた弟子たちはこう思った。「異邦人のこの女には当然の報いだ。神を無視し続けて来たばちが当たったのだ。
今更、神に頼ってイエスに救いを求めるなどとは調子よすぎるにもほどがある。いい気味だ。」だから弟子たちは
悪びれることもなくイエスに「この女を追い払ってください」と涼しい顔で頼んだのであろう。ただ、そこで
考えさせられるのは、その弟子たちに同調するかのように何とイエス本人も、「わたしは、イスラエルの家の
失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えた、と聖書が伝えていることである。

皆さんはこのイエスの言葉をどう思うだろう。どんなことを感じるだろう。イエスの言葉は尤もだ、と思うだろうか。
むしろ、イエスは本来、イスラエルだけではなく世を救う救い主であるはずなのに、なぜこんな心の狭いことを
言うのだろう、とは思わないだろうか。
口に出しては言わないまでも、心の中ではそう感じてはいないだろうか。
また、そう思っているクリスチャンはかなりの数に上るのではないだろうか。実は私も長い間、この場面での
イエスはなんて冷たいのだろう、なぜもっと温かい言葉をかけてやらないのだろう、と思い続けて来た。
ただ、最近になってこの場面を見てふと立ち止まらされることがある。それは、不思議なことにイエスからそう
言われてもこの女性はめげない、諦めない、ということなのである。それどころかむしろ聖書はその後の展開を
こう伝えている。「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。
イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、
ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』」と。
このように、はねのけられたかのように見えても、現実には彼女は更にイエスを追い求め続ける。これは常識では
考えられない展開ではないだろうか。
ここに、何かとても不思議なことが起こっている、ということなのではないだろうか。
ただ単に彼女の精神力はイエスも態度を変えるほどに人並外れて天晴なものだった、という話なら、人生に悩める人々
はこれを読めば救われる、とか言った見出しで取り上げられて、そこそこはベストセラーになるかもしれない。
しかしこの出来事が繰り広げられているのは神の言葉を伝える聖書の中でである。であるならば、この時の名もない
カナンの女性の姿において神が動いたのだと、言葉では言い表せない神の業が働いていたのだと、そのように
受け止めなければならないのではないだろうか。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。イエスがそう語ったとされる
「イスラエルの家」とは単なる地名ではない。地上に存在するある地域や民族や国家のことでもない。
「神の民」のことである。「国籍を天に置く者たち」のことである。
一方、この女性の出身地であるカナンとは、聖書ではこの世を象徴する土地柄であった。そこでは誰もが安定を求め、
財産や地位を求める地域、自分の土地を耕し農作物を作ることでそこそこの富を得れば安心して暮らせる人々の集合体、
という意味を持っていた。広く豊かな土地を持つ者は富み、栄えて安定していくがその一方で土地を持たない者、体に
不自由などの弱さをかかえている者は小作人や奴隷となって働かされるしか道がなく、そこでは貧富の格差は広がる
一方であったという。何か現代社会と似通っている点が見える気がする。今は大統領選も終盤にさしかかったが、
アメリカなども格差が広がり続ける典型であろう。
そのような価値観にどっぷり染まっている世界の只中から今、一人の女性がイエスに救いを求めて来る。この女を
イエスの取り巻き連中は追い払おうとしているが、彼らの下心は見え透いている。イエスの一番近くにいるポストを
皆が独り占めしたかったに決まっている。しかしその時、イエスが彼女に言った一言、「わたしは、イスラエルの家の
失われた羊のところにしか遣わされていない」というあの一言でもってイエスは、彼女が本気でイエスに従って来よう
としているかどうか確かめようとしていた、とは言えないだろうか
。「あなたは神の民イスラエルのことを本当に
分かっているのか」と、イエスは問いかけているのではないだろうか。それは彼女には試練に聞こえただろう。
手厳しく突き放されたと感じたかもしれない。しかし言われなければ彼女は手っ取り早い救いで満足したかもしれない。
単に娘の病気が癒えさえすれば良い、それが出来なくて何が神様だ、と思ったままかもしれない。だからこそ、
問いかけることでイエスは彼女の目を開かせようとしたのではないだろうか。試練を乗り越えさせようとしたのでは
ないだろうか。であるならば、彼女が諦めなかったのも納得が行く。
試練を乗り越えさせることでイエスが彼女を諦めさせなかったのである。
「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」というイエスの言葉も、カナンの女性の本気度を確かめようと
してイエスが言ったものだとすれば納得が行く。パンが神の言葉だとしよう。福音だとしよう。異邦人のあなたが
本気でそれを求めるのか、と正された彼女が「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と
答えたというのなら、彼女のその姿勢もそれをほめたイエスの姿勢も納得が行く。
これは、カナンの女の精神力によって神の子イエスが態度を変えたという話なんかではない。むしろ救いを求める
彼女の思い・本気度をイエスは確かめ、立ち止まらせ、一時だけの流行りもので終わることがないように、今の世界を
襲うコロナのような荒波が吹き荒れる只中にあっても揺らぐことなく失われることのない信仰へと育み練り清めよう、
磨き上げようとするイエスの慈しみに満ち溢れる愛を伝えている。そうして一人一人とどこまでも共にいようとされる
イエスの姿をこれは伝える話だと、そう思うのである。


ともすれば、この女性を追い払おうとした弟子たちのように、世の教会が自分たちだけ心が安らかであればいい、と
自己中心的な考えに走っていることはないだろうか。心静かに礼拝に集い、賛美と祈りを合わせていられればそれで
いいと自分で自分を満足させようとしてしまってはいなかっただろうか。

現に中世のローマ・カソリック教会では、「パンを小犬にやってはいけない」というイエスの言葉に「ごもっともです」
と答えたカナンの女性の謙虚さがイエスからの賞賛の言葉を招いた、と教え続けていたと聞く。人間の側の態度如何で
主の恵みをも引き出せる、というその教えは確かに分かり易いし魅力的かもしれないが、主の福音とは全く異なっている。
人間が考え出したまがいものである。そんな神から恵みを引き出そうとする人間の側の態度や思惑こそ、預言者ホセアは
「朝の露、すぐに消える霧」と呼んでいたではないだろうか。
分かり易いものに飛びついてすぐに自分で自分を安心させようとする、それが罪ある人間の現実だからこそ、「わたしが
あなたがたから求めているのはいけにえではなくて純粋なる愛なのだ」と、ホセアを通して神は切に訴えていたのでは
なかっただろうか。
その神が今、イエスを通しこの礼拝を通して私たちにも問いかけておられる。「あなたは本当に神の民イスラエルを
求めているのか」。「神の民にしか味わえないはずの福音というパンを、本気であなたは求めているのか」。
これをこの身を排除する言葉と取るのか、それとも本気度を確かめ、育み鍛え、そうしてどこまでも共にいようとされる
主の招きの言葉と取るのか。その信仰が私たちに問われている。

今すぐに、ではない。しかしいつか必ず「あなたの信仰は立派だ」と主が私たちに語りかけようと、その為に今日この日も
礼拝へと神は私たちを招いておられる。今も、これからも、見えないところで主は我ら一人一人を見つめておられる。
その主の愛と恵みに応える信仰をご一緒に養われたい、育まれたいと願って止まない。
(下線はゆうゆうが引いたものです。)

自分だけ安らかであればいいと思ってはいないつもりですが、ともすると「世の中のことはともかく私は、心静かに
聖書を読み祈り続けたい」と容易く引きこもり老人目指して一直線!となりそうな危険な毎日を過ごしています。
自戒せねば・・・・
浅原牧師の説教はいつも(私にとっては)鋭い問いかけがなされます。
そして、家で一人で聖書を読んでいては決して聴き取れない深い解き明かしがなされます。感謝です。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
礼拝の様子とお子様向けのメッセージがYouTubeで配信されています。
礼拝説教も掲載されています。


新型コロナに心奪われて今年は季節の移り変わりも忘れそうです。
イイギリの実はいつの間にか赤くなりヒヨドリが啄んでいました。
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「新しい誕生」

2020-06-10 15:31:43 | 説教
6月7日の礼拝は久しぶりに礼拝堂で、教会員の皆様と守ることができました。
左近深恵子牧師による礼拝説教のダイジェストを載せます。


礼拝の様子はしばらくは YouTube でも配信されるそうです。
ご希望の方はネット配信で礼拝にご参加ください。
礼拝説教も美竹教会のホームページから読むことができます。
全文をお読みになりたい方、是非クリックして御覧ください。


「新しい誕生」  6月7日(日)
テキストは「ヨハネによる福音書」3章:1節~15節

ある日の夜、主イエスのもとに、ニコデモという人が訪ねてきました。ニコデモはユダヤ教の主流を
なすファリサイ派に属し、ユダヤの最高法院の議員の一人であり、おそらく律法の教師でした。
錚々たる肩書を持つまでに至ったニコデモは、有能で、人々から信任厚い人物であったのでしょう。
このニコデモが他の人々と異なるのは、主イエスの所にやって来たというところです。
そしてこの日が、ニコデモのその後の人生の分岐点となったのでしょう。
ニコデモはこの後二度この福音書に登場します。
第一の場面では、主イエスを逮捕しようとする他の議員たちに異議を唱えています。
第二の場面は、主イエスの十字架の死の後です。主イエスの遺体を葬るために没薬と沈香を持って
きて、主イエスの弟子でありながらユダヤ人たちを恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフと
共に埋葬しています。ニコデモの社会的な立場からすれば非常に勇気の要る行動へと向かっていく
分岐点となったこの晩の訪問を、ニコデモに決意させたのは、人々の内側にどのような思いがあるのか
全てをご存じでありながら、人々を見捨てず語り続け、しるしを行い続けられた主イエスであったと
言えるでしょう。

主イエスは、ニコデモの内側を見通しておられます。ニコデモに必要なものを、主イエスの方から
「はっきり言っておく」と強い口調で、こう告げられます。「人は新たに生まれなければ、神の国を見る
ことはできない」(3:3)。新たに生まれなければと言われても、もう一度母親の胎に戻って生まれ直す
ことなどできないと理解できずにいるニコデモに、主イエスは再び「はっきりと言っておく」と言われ、
「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(3:5)と、新しく生まれる
ことの意味を更に告げられます。

ニコデモはそもそも、新しく生まれたいと思って主イエスを訪ねたわけではなかったでしょう。
律法が定める正しい生活を注意深く積み重ねてきたニコデモは、自分の生き方にプラスになる何かを
主イエスから得たいとは思っていたでしょう。それは自力で一歩一歩階段を上るようなニコデモの
人生の歩みに、手すりを付けるようなこと、あるいは踏み台を足すようなことであり、ニコデモが
主イエスに抱いていたのはその程度の期待であったでしょう。
この階段がいつかは神の国に届くことを期待しながら、足元の段差や、上り方を評価してくれる他者の
視線ばかりを見ているニコデモに、主イエスは、今、この時、神の国を見ることを教えます

主イエスはニコデモを、ニコデモが上っていると信じている階段から、主イエスの命の値によって
もたらされる新しい命を、主に従って生きる道へと招きます。

主イエスご自身がニコデモも含めたすべての人の罪を取り除く小羊として十字架に上げられ、死者の
中から上げられ、天に挙げられることで天と地を結ぶ階段となってくださる道へと、招きます。

―――― 中略 ―――

新しい命、永遠の命とは、遠い先の未来においていつか訪れることを望むものではありません。
不老長寿を手に入れることでもありません。神さまが共に居てくださることに終わりが無いということです。
共に居てくださる神さまのご支配の中で生きていく命です。
この新しい命は、人の理想や欲が支配する道
ではなく、キリストが通してくださった道を求めます。
キリストが通してくださったのですから、私たちの視界が狭まってしまっても、曇ってしまっても、私たちは
羊飼いなる主に従って、道を見出すことができます。私たちは道すがら、現実のただ中で働いておられる
神の御業を共に喜び、私たちのために祈っておられる主によって、互いに祈り合いながら、共に
進むことができます。洗礼に置いて水と霊を受けた者は、この新しい命に既に生かされています。
日々聖霊を受けて新しくされ、聖餐の恵みによって養われつつ、神さまが永久に共に居てくださる命を、
いただいています。


私たちにはそれぞれ切実な願いがあり、不安があります。願いが叶えられること、不安が取り除かれる
ことを、日々祈り求めています。欠けを満たしてくださいと祈り、不安の原因を取り除いてくださいと祈る
しかありません。けれど主イエスによって神さまが私たちにもたらしてくださっているご支配は、私たちの
その時その時の願いや不安を超えた確かなものであることに、私たちは心の奥底で支えられています。
たとえ私たちの願い通りに欠けが満たされることが無いとしても、あるいは願い通りに不安の源が
取り除かれることが無いとしても、私たちを覆う死の力を滅ぼされた主が共におられる命を、既に生きて
いることが、私たちに深いところで安らぎをもたらします。

神さまのご意志よりも、他のものに自分を支配させてしまう罪は執拗に私たちを捕らえますが、私たちの
ために御子が命をささげて切り開いてくださった道へと、み言葉と御業に導かれ、聖霊に導かれて、
立ち返ることができます。
私たちは欠けに嘆き、不安に苛まれる日々を幾度も潜り抜けなければならないのかもしれませんが、
状況の厳しさに阻まれない、一時的な気休めではない、主の平安が常に私たちを覆っています。
私たちの中心におられる主イエスを共に礼拝し、神の国の祝宴の席を示す聖餐の食卓から霊の糧を
いただきながら、死によって終止符を打たれることの無い神さまの恵みの中を、共に歩んでいきたいと
願います。                (省略や太字などの文責はゆうゆうにあります。)

毎日聖書を読み、毎週礼拝で説教を聞いて励まされていても、私は日々の暮らしの不安や心細さ、
先行きの不安に襲われます。 そんな私を支えているのは「主、我と共にあり」という信仰です。
主は、いつも私と共にいてくださる、神様にすべてをお委ねし、私は神様の御国の民として歩んで
いるのだ、という信仰は私にこの上ない平安を与えてくれます。
深恵子牧師の説教はそんな私を、また力強く励まし支えてくださるものでした。
これで一週間、神様の御国の民として平安のうちに過ごすことができます(・・・ように!) 
深恵子牧師の説教に大きくアーメン!と唱えました。

もう一つ私を支えているのは「主は私の造り主、私の命の主人公は私ではなく神様だ」という信仰です。
この信仰によって私は自分の存在を肯定的に捉えることができます。
百年足らずで一切は無に帰す私の一生を素直に受け入れられるのは、それは神様が私を生かして
いてくださるから。 その信仰により頼んで、神様がもうよい、という最期、身許に召される日まで私は
生きて行けます。 この信仰によって私は自分の命もすべての命も肯定できます。
ただでさえ気持ちの落ち込むコロナ禍の中では、この世の不条理、人間同士の愚かな争いなどを見たり
聞いたりすると、つくづく人間でいるのが疎ましく、私は森の樹になりたい・・・・と思ったりして
しまいますが、そんな弱い私を支えてくれるのは聖書の信仰です。
そして、礼拝で説教を通して解き明かされる神様の御言葉が背中を押してくれます。



<シジュウカラの巣立ち雛> 雛たちは親鳥の近くで群れて飛んでいます。
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