ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「閉ざされたパブルに吹くペンテコステの風」

2021-05-24 17:55:25 | 説教
5月23日 ペンテコステ礼拝 説教 (左近 豊牧師)
テキストは「イザヤ書」40章27節~31節 「使徒言行録」2章1節~4節
タイトルは「閉ざされたバブルに吹くペンテコステの風」

 先日新聞で、ある情報学の研究者(ドミニク・チェン早大准教授)が、「フィルターバブル」
という言葉を使って、この10数年、特にコロナウィルスの蔓延によって強まっている社会現象に
ついて語っている記事を読みました。
(「インタビュー・わかりあえなさと共に」朝日新聞2021年5月14日朝刊)。
昨年の大統領選挙で明らかになったように、スマホやSNSなどに、自分の好みや都合にあう情報
ばかり入ってきて、自分と似たものの考え方や政治的な信条、価値観のバブルにいつしか閉じ込
められて、知らずうちに異なる価値観を許容できなくなる傾向がみられる。
「わかりあえる集団」と「分かり合えない集団」の区分がはっきりして、他人との何気ない情報を
確認する機会も減ってゆく。
コロナ下の巣ごもりで、一層スマホやネットなどを通して情報を得る比重も高まって、互いのバブル
は固く閉ざされて、外部との接点が失われて、言葉も通じなくなる傾向に拍車がかかっている。
そもそもスマホアプリは、利用する人の好みに合わせた情報に、すぐにたどり着かせて、特定の
情報に対する飢餓感を誘発するように設計されているため、どんどん似通った興味や関心のある
情報が入ってくるようになっていて、いつしか中毒症状に陥るように作られている、とも書かれ
ていました。閉ざされたフィルターバブルがあちらこちらに膨らんで、分かり合えなさの中に
生きる現代と、どう向き合うのかを考えさせられました。
 
そのような中で今年もペンテコステを迎えています。聖書をひも解いてみますと、ペンテコステ
とは、2000年前、世の片隅の閉ざされた小さなバブルに聖霊が吹き寄せて、そこにいたイエス
キリストの弟子たちの祈りの輪に吹き込んで、全体に満ち溢れて噴き出して、全世界へとキリスト
の福音をはじきさせた疾風怒濤の出来事でした。
聖書が語る歴史を、それ以前とは画するような新しい時代の到来を告げる出来事として描き出され
ています。この時に世界に吹き込んだ風は今なお世界を吹きぬけて、今日も美竹教会はじめ世界の
教会に新たな息吹をもたらす聖霊の働きに現れています。
(聖書では「霊」と「風」「息吹」は同じ言葉です)。
今日はマスク越しにではありますが、その聖霊の息吹を魂いっぱいに吸いこんでペンテコステの
喜びを味わってまいりましょう。
 
 ペンテコステに聖霊が降ってもたらされた喜びを、2つに絞って、今日は共に噛みしめて
まいりましょう。聖霊は疾風のような音と共に炎のような舌となって表れたと記されています。
一つ目は、この「炎のような舌」について聞いてまいりましょう。
舌というのは、英語などでも母国語のことをMother Tongueと言ったりしますが、炎のような言葉
を一人一人がいただいた、実は、次の4節で「ほかの国々の言葉」と訳されている「言葉」とここ
での「舌」は同じギリシャ語です。聖霊に満たされた時、炎のような熱くたぎる言葉が、ひとり
ひとりに与えられたのだ、と。

今からちょうど65年前のペンテコステに美竹教会の初代の牧師であった浅野先生が語られた
メッセージを「信音」で読みました。そこには、言と霊というタイトルでペンテコステの意味が
語られていました。抜き出してみます。
『信仰は信(じること)であって単なる理屈ではないのであるから、我々の生活の中に何等か
新しきもの、力づよきものが創造されていくためには神の霊によらざるを得ない。
ペンテコステに於いては実に神の霊が弟子たちの上に降ることによって彼らを一斉に立ち上がら
せた。イエスを失った彼らの周囲には厚い壁のようなものが取り巻いていて、彼らは身動きも
できないような重苦しいものを感じていたであろう。復活のキリストが彼ら一人一人に現れて
彼らを励ましたのであるが、神の霊が降るまでは彼らは動きだすことはできなかった。
霊と結びつかなければ言には力がない。』
(「巻頭言・言と霊―ペンテコステについて―」『信音』No.72、1956年)
創立25周年のペンテコステに語られた、浅野先生のメッセージを通して、聖霊が降って一斉に
立ち上がらせられ、厚い壁の外へとはじき出る炎のように熱き言葉を、霊と結びついた力づよい
言葉を語る舌が与えられたのがペンテコステであることを思い起こさせられたのです。
今年90周年を迎えている美竹教会に確かに働いている聖霊が、常に、今も復活のキリストを思い
起こさせ、このイエスこそ救い主です、との信仰を告白させるのです。
 
それは「ルカによる福音書」の最後に出てくる弟子たちの姿とも重ね合わせられることでしょう。
「使徒言行録」につながるルカ福音書の最後の24章をひも解いてみます。
そこには主イエスの十字架の死に打ちのめされて言葉を失い、さらに復活を告げた婦人たちの
言葉に心凍てつかせて耳をふさいで、夕日に伸びる影を引きずるように立ち去ってゆく弟子たち
が出てきます。エマオという村に向かう途上で復活の主イエスが旅の道連れになられたことが
書かれています。
一緒にいるのが主イエスとは思いもしない弟子たちに、道々、旧約聖書を解き
明かされながら、ご自分について書かれていることをねんごろに説明されながら、家に入って
食卓を囲み、パンを裂いて晩餐を共にされた。
その時になってようやく弟子たちの目が開かれて、ああ、道で話しておられるとき、また聖書を
説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたじゃないか、私たちは復活の主に出会った
のだ、と知る。あたかも炎が内に点されるかのようにして、嬉々として燃えるような言葉を携えて
仲間たちのもとに取って返し、あふれ出す喜びを語る者とされた。
さらに話は続きます。
他の弟子たちもいるところで、主イエスは、聖書を解き明かされます。救い主は苦しみを受けて、
三日目に死人のうちより復活し、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝え
られることを弟子たちに悟らせて、ご自分の力が弟子たちにも与えられることを約束して、こう
いわれた、と。「エルサレムから始めて、あなた方はこれらのことの証人となる。私は、父が約束
されたものをあなた方に送る。高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまってなさい」と。
この約束がペンテコステの日に満たされたことを今日の箇所は綴っているのです。
エルサレムの都の小さな群れに限られていた喜びの輪でした。
閉ざされたバブルの中にあった。そこにペンテコステの風が吹き込み、聖霊が満ち溢れ、復活の
主イエスの証人として、炎のように熱き言葉が一人一人に与えられた。
そして2000年経った今、その言葉が私たちの胸をも熱くせるのです。主イエスとの出会いを証する
炎のような言葉をいただくペンテコステ。今日、私たちも主の食卓に招かれて、聖霊に満たされて、
エマオでパンを裂かれた主を思い起こしながら、弟子たちの前で焼き魚を召しあがり、死の力に
打ち勝たれた、復活の主を、はじけんばかりの喜びの言葉で証し続けてきた弟子たち、そして教会の
先達たちの祝宴に招き入れられているのです。

もう一つの喜びについて、2章4節は、聖霊に満たされた弟子たちが、その語らせるままに「他の国々
の言葉」で話し出したということが挙げられます。
この後の9節以下にいろいろな民族や地域の名が
並べられています。今の地図で言えば、例えば、イラク、イラン、アフガニスタン、そしてトルコ、
南はエジプト、リビアなどが含まれる地域です。複雑に民族や文化が絡み合い、「分かり合える集団」
と「分かり合えない集団」のバブルの間の激しいせめぎあいを耳にすること少なくありませんが、
旧約聖書の時代からいくつもの王朝が入れ替わり、さまざまな民族が入り混じって言葉も文化も
多様に入り組んで複雑な地域が、ペンテコステの出来事では視野に入れられているということです。
10節~11節では、ローマ帝国の首都に住む都会人、生粋のユダヤ人とユダヤ教に改宗した人の背景、
クレタ島に住む島国の文化、アラビアの砂漠の文化を背景とする人たちが触れられていますが、
これは、互いの生活習慣や価値観の隔たりの深さも、ペンテコステの出来事では視野に入れられて
いることがわかります。ここに触れられている地域や文化のほとんどに、主イエスは赴かれることは
ありませんでした。
おそらく3年間の主イエスの活動は、ガリラヤ地方とエルサレムの間に限られていました。
大体140㎞(東京~静岡)位の間に収まる範囲です。けれどもペンテコステの出来事によって、
主イエスを証する言葉は、その数10倍(エルサレム~ローマ2300㎞)に及ぶ範囲にまで燎原の
火のごとくに響き渡ることになるのです。


そのことについて、美竹教会の2代目の牧師をされた平野先生が聖霊について書かれています。
「(主イエスは)『助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなた方にすべての
ことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう』(ヨハネ14:26)
と語っているのである。この語は、聖霊はイエスによる神の啓示の継続者であるということを示して
いる。聖霊は、イエスがその短い地上の生涯の間に教えきれなかったこと、また弟子たちがまだ
受入れる準備ができなかったために教ええなかったことを教えるのである。聖霊の本質的な働きは、
地上のイエスの働きの継続である
」(「パラクレートス(助け主)」『信音』 No.72、1956年)

ペンテコステに弟子たちの閉ざされたバブルに吹いた風は、エマオの宿屋での夕べの食卓の味わいも、
閉ざされた部屋の中での焼き魚の宴(ルカ24章)の余韻も、湖畔で準備してくださった朝食
(ヨハネ21章)で味わった喜びも、包み込んで、満ち溢れて、はじけだして、復活の主の証人として
パレスチナから小アジア、ギリシャ、そしてローマへと弟子たちを突き動かしたのです。
海の文化を知らぬ者に、海に生きる者の言葉を与え、都会に住む者が、砂漠の民への慰めの言葉を
携えさせ、ニューヨークで成功した医師であったものを、幕末に攘夷の殺気みなぎる日本に宣教師と
して遣わし(J.C.ヘボン)、地上の主イエスのお働きは、そうやって聖霊によって継続されて、今日、
ここでの聖餐式の食卓に働いておられます。
私たちも今日、受けるよりも与える幸いへと、ここから
主が聖霊を通してなされる働きに魂の扉を開いて、閉ざされたバブルから、新しい息吹に生きるもの
へと造り変えられる幸いを噛みしめたいと思います。


少し長めのお説教でしたが、私にも分かりやすく力を与えられました。
でも本当を言うと、やはり家に戻ってホームページで読むと一層明確に理解できます。
私はホームページの説教サイトが頼りです。 (-_-;)
説教をお聞きしただけで頭に入って残る方々って、素晴らしいですね~。
浅野牧師、平野牧師の聖霊についてのメーッセージもとても分かりやすく胸に響きました。
同じ著者によって著された「ルカ伝」の最後と「言行録」の最初とが呼応しているということも
初めて知って嬉しかったです。
豊牧師の説教は私の頭の中のイメージがダイナミックに三次元に膨らんで気分が高揚します。
って、言ってること、意味不明・・・・でしょうか? (^^)



ペンテコステ礼拝には何か赤いものを身につける、という風習(?)が
(何処かに?)あるらしいです。赤い洋服もアクセサリーも無い私。
出かける前に靴箱に赤い靴を見つけました。 (^^)


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姉のこと

2021-05-23 22:20:32 | その他
このブログでも何回か書かせていただいた私の姉は4月23日に神様の御許に
召されました。親友と言えるような友人のいない私にとって姉は、友であり、
キリスト教の師でありました。

楽しく長々とお喋りした夜の電話がかかってくることはもうありません。
何十通と送られてきた、上手だけれど、どこか肩の力の抜けたやさしい絵手紙が
届くこともありません。
連れ合いを亡くした者同士で、年末年始を共に過ごしてくれた姉はもういません。
90歳という高齢で、齢に不足はないとは言えますが、私は今、とても淋しいです。

姉は2019年から月に一度くらい美竹教会の礼拝に集わせていただいておりました。
そんな姉を覚えていてくださった美竹教会の皆様から、今日お花をいただきました。
思いがけないことで、有り難いことで、胸が一杯で言葉につまりました。

  

今日はペンテコステ礼拝でした。
礼拝の説教は次回のブログに載せられたら、と思います。
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わたしたちは神に造られたもの(エフェソ 2:10)

2021-05-14 17:05:47 | 今日の聖句
旧約聖書は「申命記」が終わり「ヨシュア記」を、同時くらいに新約聖書は「ガラテヤの
信徒への手紙」が終わり「エフェソの信徒への手紙」を読み始めました。
今日の聖句は「エフェソの信徒への手紙」2章14節~22節です。

02:14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の
肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 02:15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。
こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
02:16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を
滅ぼされました。 02:17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、
近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 02:18それで、このキリストに
よってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
02:19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、
神の家族であり、 02:20使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石は
キリスト・イエス御自身であり、 02:21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて
成長し、主における聖なる神殿となります。 02:22キリストにおいて、あなたがたも共に
建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。


コロナ禍で、経済格差や人種差別、等など人間の傲慢さや愚かさが噴出しているような
気がします。自分の地位を利用してルールを破ってもワクチンを接種したい偉い方々。
接種担当者が「今日の分は終わり」と嘘をついてこっそり親類や知人に接種したり、
アメリカでもワクチン狂騒曲が鳴り響いているそうです。
パンデミックは先進国だけの問題ではなく、まして一国だけでは決して解決せず、
世界中で収束を探らなくてはならないはずです。
そんな中で、香港や台湾、ミャンマー、チベット、ウイグルの問題、イスラエルと
パレスチナの衝突等など、世界各地で争いが続いています。
オリンピックについても、インドのように多数の感染者が出ている国に比べて日本の
感染状況はさざ波程度、だから五輪OK、とはあまりに暴論ではないでしょうか。
健全な精神と肉体を高め合い、世界を1つにするという五輪精神は素晴らしいことなの
かも知れません。中止ということは経済的に大変なことだということも分かりました。
しかし、いまでさえ逼迫している日本の医療体制の中から、世界中から集まる選手を
守るための医療環境を整えなくてはならない。そんな東京五輪にたいして、本当に何時、
何方が世界(IOC?)を納得させるどんな理由でヤメ!と言えるのでしょうか? 
それとも絶対に言えないのでしょうかしら? 
気持ち上向かない日々。

愚かで罪深い人間の私、神様の深い御心は分かっていないかもしれない、自分勝手に
読み間違えているかも知れない。それでも聖書は私に深い慰めを与えてくれます。


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礼拝に来られるときは呉々もコロナにご注意なさってお出かけくださいね。

   
   花の名前はわかりません。道端に咲いていました。
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「人間をとる漁師」

2021-05-04 17:14:51 | 説教
昨日の礼拝説教です。
タイトルは「人間をとる漁師」 テキストは「マルコによる福音書」1章16節~20節
左近深恵子牧師によって聖書の説き明かしがなされました。

 感染症の影響によって、私たちは礼拝堂に共に集うことが妨げられてきました。1年以上もここで共に
主を礼拝することができていない方、あるいはお訪ねすることができていない方が多くいらっしゃいます。
キリストのいのちの言葉をここに集って受けることができない方々のことを礼拝の度に思います。
キリストのいのちである聖餐にこのテーブルを囲んで共に与ることが出来ない方々のことを、聖餐の度に
思います。この教会だけのことではありません。支区や教区や他の教会と協力して開く礼拝や学び、
交わりの機会も妨げられています。讃美の声を重ねること、共に信仰告白の言葉を噛みしめ、祈りに
アーメンと声を合わせ、礼拝後に開かれる集会で講演に耳を傾け、他者の意見に気づきを与えられ、深く
頷き、新しい出会いも与えられる、それらが、普段は異なる場所で、異なる環境で、異なる人々の中で
信仰に生きている私たちにとって、どれだけ喜びと力であったのか、思わされてきました。
集うことが一層難しくなっているこの期間、信仰のつながりの貴さを思わされ、そしてまた、つながりの
意味を問われています。

 主イエスの逮捕と十字架による死は、弟子たちを打ちのめしました。その弟子たちに復活された主が
現れてくださったことを、それぞれの福音書が伝えています。ヨハネによる福音書によると、エルサレムで
家の扉に鍵をかけて閉じこもっている弟子たちのところに主イエスは来られました。主イエスを捕らえた
勢力が自分たちも捕らえるのではないかと恐れて、一つ所に集まっていた彼ら、恐怖心と緊張で身をかたく
していた彼らの只中に主イエスが立たれ、「あなたがたに平和があるように」と語り掛けてくださり、
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、
あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と
言われました。弟子たちは、復活の主に再出発の道を示されました。同じ場所に固まっていても思いは一つに
なれずにいた彼らは、キリストによって罪の赦しを宣べ伝えるという道を与えられ、その道を聖霊によって
力づけられるとの約束を与えられました。そうして弟子たちが向かった先は、ガリラヤでした。

 ガリラヤは、彼らの地元です。主イエスに出会うまで彼らの多くはそこで漁師として生計を立てており、
そこで今日の個所にあるように主から呼びかけられ、主の弟子として新たな人生を歩み始めました。その時
には、このように、裏切りと逃亡の果てに疲れ果てて戻って来ることになるとは思っていなかったでしょう。
エルサレムの一室に鍵をかけて閉じこもっていた彼らは、復活のキリストによって再出発へと動き始めるこ
とができましたが、彼らが向かうことができたのは自分たちの故郷であり、彼らが戻ることができたのは
自分たちのかつての職でした。この時の彼らにとって、それが精一杯の再出発であったのかもしれません。

 彼らは漁に出ます。漁場もその地域の天候も知り抜いているガリラヤ湖での漁は、彼らの資質や経験や
技能が最も強みとなるはずでしたが、夜通し漁をしても一匹も魚がとれないまま朝が明け、そして彼らは
岸に立っておられるキリストに気が付きます。キリストの弟子としての日々は惨めな結末を迎え、漁師で
あった時の自分たちを取り戻そうとしたら、経験も知識も役に立たず、後に残ったのは徹夜の疲れだけ。
その彼らを、復活された主イエスが岸で立って待っておられる、自分たちが奮闘している間も、期待が
焦りに代わり消耗に終わってゆくその間も、自分たちを見つめて待っておられたことに気づきます。
岸に戻ると、主は炭火を起こし魚を焼き、パンも用意しておられました。その魚とパンを取って分け与えて
くださる主の手から受け取り、主と共にいただいたこの朝、弟子たちはこの湖のほとりで主の弟子となった
日からこれまでのことを思い出していたのではないでしょうか。弟子として召されたことの意味を受け止め
直し、真に再出発へと動き出すことができたのではないかと思うのです。

 マルコによる福音書は、最初の弟子4人は二組の兄弟であったことを伝えています。それぞれの家族から
二人もの働き盛りの男性が、主イエスの弟子となった、それは本人たちにとっては勿論、それぞれの家族に
とっても、大変な出来事であったことでしょう。

主イエスはガリラヤで福音を宣べ伝える働きを始めておられました。人々に洗礼を授けていたヨハネの
ところに行かれ、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられると、荒れ野へと入ってゆかれ、そこでサタンから
の試練と格闘された主は、いよいよ神さまのご支配を人々に宣べ伝える働きを始められました。その最初に
なさったのが、弟子たちを呼び集めることでした。先ずシモンとその兄弟アンデレを、次にゼベダイの子
ヤコブとその兄弟ヨハネを、弟子とされました。

効率的に弟子を集めようとするならば、大勢の人が集まっているところで選ぶこともできたでしょう。特に
信仰の中心である礼拝の場で私に従いなさいと呼び掛けをすれば、信仰について深く考えている人、人々の
指導者となることも視野に入れて備えてきた人がそこに居る確率が高く、その人々の中から選抜した者たちを、
弟子とすることも可能であったでしょう。

しかし主イエスはそのようには弟子たちをお選びにはならなかった。普通の人々の日常の営みの場である
ガリラヤ湖のほとりを、一人で歩いておられます。既にガリラヤで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて
福音を信じなさい」と語られたことが14~15節に記されています。「神さまの救いの時は満ち始めた、今も
満ちている、神さまのご支配が近づいている」そう告げられても、未だ人々の間に大きな反応は起きていません。
み言葉を心に留めた人々は中にはいたかもしれませんが、自ら行動を起こすまでには至らない、そのような人々
の中へと入って行かれました。そうして、4人の人物を見いだされたのです。

それは、湖畔で仕事をしていた4人の漁師でした。この時代の大半の人々がそうであり、私たちの多くも
そうであるように、小さな世界の中で、家族や周りの限られた人々との関わりの中で、日常を営んでいた
4人です。なぜこの4名であったのか、何も理由が記されていません。彼らが特別な資質や力を持っていた
からとも、彼らが既に主イエスの言葉を聞いていて、弟子になりたいと思いを募らせていたからとも
言われません。網を打って居たり、船の中で網の手入れをしたりしていた彼らを主イエスが「ご覧になった」
とあるだけです。主がご覧になったことが、弟子としての人生のすべての始まりであるのです。

 兄弟二組は、すぐに主の呼びかけに応えています。シモンとアンデレは網を捨てて、ヤコブとヨハネは
父と雇人たちを舟に残して、主イエスの後についていきます。このようにすぐさま決断し、行動に移せる
のには何か理由があるのではないかと探しても、何も見出せません。彼らが漁師と言う仕事やその暮らしに
不満を持っていて新たな人生を模索していたとも、逆に漁師と言う仕事に誇りを持っていたとも、また家族
との関係がうまくいっていなかったとも、その暮らしが貧しかったとも、逆に豊かであったとも、何も言
われていません。何か弟子たちの側に特別な理由があったから直ぐに応えられたのだと思いたいところが
私たちの中にありますが、そうとは言われていないのです。彼らの行動からは強い決意が伝わってきます。
しかしそれも主の招きがあったからです。彼らを見出され、眼差しを注がれ、呼びかけられた主イエスの
存在と働きかけが無ければ、彼らは立ち上がって弟子として踏み出すことはありませんでした。主イエスの
招きが全ての始まりです。ここに主イエスの弟子たち全てに通じるものを、主イエスに従う信仰者たちの姿、
教会の姿を、見出します。

 主イエスは「わたしについて来なさい」と呼び掛けられました。この呼びかけを文字通りに訳すならば
「あなたがたは来なさい、私の後に」となります。ついて行く者の位置がはっきりと示されています。
主イエスの後です。主イエスが逮捕されても、殺されても、天に昇られて見ることができなくなっても、
主イエスが先であり、従う者はその後を歩む者である、主イエスが主であり、信仰者は従う者であることは
変わりません。どんなに立派な働きも頑張りも、主の後という位置を忘れて、自分が主となってしまって
いたら、それは主の弟子の歩みではなくなってしまいます。

主イエスがこの時続いて言われた「人間をとる漁師にしよう」という言葉を直訳すると「漁師になるように
する」となります。「なるようにする」とは、そのように実を結ばせる、そのように至らせるということです。
魚を針で釣れば傷が付くこともあるかもしれません。とった後の魚は大抵死ぬことになります。そのような
漁のイメージを思い浮かべて、人間をとる漁師になるようにするとはどのようなことなのかと戸惑いがちですが、
人間のいのちを養う神さまの言葉を宣べ伝え、神の国の中へと招き入れることを表すのでしょう。救いが古い
自分に死ぬこと、死んで、洗礼において新しい命に生きる者とされることを考えれば、とった魚がやがて死ぬ
ことになる漁のイメージは、救いの真理の一面を表しているとも言えます。エレミヤ書にも、このような主の
言葉があります、「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる」(エレミヤ16:16)。
ベテランの漁師が水の中にいる魚の位置を把握しているように、主なる神は人のすべてをご覧になっている。
罪の闇の中に紛れて潜んでいても神さまの眼差しからは隠れることができないことを、「彼らはわたしの前から
身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない」(16:17)と続けて言われる主なる神が、
その潜んでいるところからご自分のもとへと引き戻させるために、多くの漁師たちを遣わすと言われます。
神であるみ子は自ら人々の暮らしの中へと入って行かれ、神さまのご支配を告げ知らせ、先ず4人の漁師を、
神さまのご支配の中へと入るように招きます。そして彼らが他の人々をも神さまの国の中へと招き入れる人生を
歩めるのだと、示されます。 

「人間をとる漁師になるようにする」の「する」と言う言葉には、「創造する、造る」という意味もあります。
主イエスの招きは、創造主なる神の招きであると、神さまのご支配の中で、神さまが与えてくださるいのちに
生きる、創造のみ業の中への招きであると言えます。人間をとる漁師一人の一日の働きや、携わる一つの働きで
その成果が測れるような業ではありません。目に見える成果がその時はなくても、何年も、何十年も、それ以上も
かかるような神さまの創造のみ業に参与します。漁師一人一人の営みが創造のみ業の中に織り込まれ、み業の
1つの過程とされていくということです。働きに携わった年数の長さや能力や資質の差がすべてではなく、
そのみ業の中へと入れてくださる主の招きがすべてである、最大の漁師は神さまである、そのような漁へと
キリストは彼らを招かれたのです。

私たちも、主の後を歩み、他の人々をこの神さまが王である国の中へと招くことを求められています。神の国は、
一人で生きるものではないことが、今日の個所から明らかです。一人で成立する信仰はありません。私たちは
自分で自分を招いたわけではなく、自分が先頭になって歩んでいるのでもありません。ただ主におぶさって
運ばれることを望むのでもなく、自分で一歩一歩踏み出していく、そうやってキリストの後を歩みます。
今は共に
集うことができなくても、同じようにキリストの後を歩む信仰者たちと、祈り合って、支え合って歩む者と、
私たちは初めからされています。そして、労働が漁獲と言う報酬で報われない時、圧倒的な疲労と孤独と惨めさを
覚える時、その間も主の眼差しの中にあったのだと、いや、主は初めから私たちを見つめておられ、罪の陰に
潜んでいようとした私たちを釣りあげてくださったのだ
と知るのです。私たちは、わたしたちの存在丸ごとを真に
養ういのちの言葉を受け継ぎ、それを大切な誰かに伝えるために、キリストに召されています。


できることなら「主におぶさって運ばれることを望んで」しまいそうになる自分を反省します。
「罪の陰」では困りますが、隙きあらば隠れ潜んでいたいと願ってしまう私です。
「人間をとる漁師」として召されているということをすっかり忘れて神様に頼るばかり。
生ぬるい信仰の私の心の内も神様は見通されて、果たして許してくださるでしょうか。

美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
説教原稿が載っています。
礼拝の場でお聞きしただけでは中々頭に残りませんが、ホームページ上で読み返すとしっかり心に残ります。
よろしかったら、ぜひ毎週お読みください。



新緑の楓の中<コゲラ>  今、公園は爆発的に輝いています!
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今日の新聞から・・・

2021-05-02 19:57:51 | 今日の聖句
日曜日の朝刊は教会から戻って読むことにしているのですが、今日(5月2日)の朝日新聞朝刊、
心に残った記事がいくつかありました。
今日のブログは新聞の切り抜きです。 手抜きかな?<(_ _)>

1面 「失踪村=ベトナム人技能実習生」
途上国への技術移転という名目で安い労働力として働かされている、と指摘されてきた技能実習生。
その半数以上がベトナム人だ。工場で働く日系ブラジル人ら外国人が多く住んでいる群馬県から埼玉県
にかけての一帯に、各地の実習先から失踪したベトナム人が、知り合いを頼ってたどり着くという。
それに関する取材記事。

3面 「日曜に想う=頭を上に、核を見据えよ」
英国では3月に発表された外交安全保障政策が見直され、現在180発と見られる保有核弾頭の上限を
260発に引き上げるとの方針を明らかにした。 そのことに関してのヨーロッパ総局長の記事。
何千発も持つ米ロに比べると地味な動きだが、軍縮に熱心だと思われていた英国が方針を転換したと
して、議論を呼んだ。こうした核戦力重視の傾向は英国にとどまらない。冷戦後主役の座から降りた
はずの核兵器がここ数年、軍事外交戦略の要として復権しつつあるという。核兵器を遠い世界の存在だと
感じていたのは単なる勘違いで、のんきに構えていた間に、その影はひそかに背後に忍び寄っている。

22面 「声なき声に耳澄ます」
朝日新聞社の大久保真紀編集委員に日本記者クラブ賞が贈られました。
受賞理由:「中国残留日本人、虐待された児童、性暴力被害者など、様々な社会的弱者の実態を長期間に
わたって取材し、新聞記事や著作で報じてきた。その手法は、徹底した現場主義に貫かれ、当事者と信頼
関係を築き、その肉声を伝えてきた。取材対象に「限りなく近く、しかし、同化せず」の基本姿勢や粘り
強い取材は、時代を超えたジャーナリズムの原点であり、後進の目標になる業績である。」
この受賞理由を読んだだけでは、あまり心動かされませんが、これまでを振り返って書かれた大久保記者の
思いや、読者から寄せられた感謝の手記、そして小川糸さん(作家)の寄稿を読むと胸が熱くなります。
小川糸さんの寄稿は・・・・
「世の中が平和でありますように。大久保さんの書かれる記事にはごくごく当たり前の祈りが込められて
いるのだ。だからこそ、読む者の胸に言葉がじんわりと響くのだろう。どうかいつまでも、しなやかに戦う
人でいてください。」と結ばれています。

24面 「感染爆発=向き合った米の底力」
4年間の米ニューヨーク(NY)駐在を終えて、2度目の緊急事態宣言が解除された3月21日に、東京へ
帰国した記者が見たアメリカ(NY)と日本(東京)のコロナ感染対策の相違についての感想記事。
徹底した一斉在宅勤務への切り替え、PCR検査やワクチン接種がコンビニに行く気軽さで受けられる、初の
死者が確認されてわずか2週間で、市内の展示場が1千床の臨時病院に衣替えしたなど次々と繰り出された
NY市の対策。公立学校では月2,3回は検査があり、無症状の陽性者が1名出たときはクラスメート全員が
2週間の隔離を命じられ「自宅での隔離が難しければ快適なホテルを用意します。食費、交通費、医療費は
無料。買い物の代行ほか、あらゆる困りごとに対応します」と市から児童の家には電話が来た。
経済面でも、失業者への対策を含めて日本のGDPに匹敵する規模の財政支出を決め、家計への現金給付も
成人一人当たり最高約35万円にのぼる。
世界最悪の犠牲を出した米国の対策をどこまで参考にするべきか、議論があろうが、対策が小さすぎて後悔
するくらいなら、過大になってしまう弊害をあえて選ぶという姿勢。
それに比べて国民の命と財産をなんとしても守る・・・そんな気迫に欠け、中途半端な策を小出しにしてきた
日本。重症者や死者が欧米に比べて少なく「結果オーライ」の面もあったが、今まさにその「結果」が危うく
なって来たことを3度目の緊急事態宣言は示す。 と、記者は書いています。
コロナの脅威が増す中で、日本はオリンピックを敢行しなくてはならないのでしょうか。
どの時点でどなたが、世界を納得させるどんな理由を挙げて「ヤメ!」の号令を出すのでしょう。


コロナ禍で憂鬱な日々だからでしょうか、楽しい出来事について行けない気分に負けそうです。
気がつくとため息が、気がつくと眉間にシワが・・・
世界規模の新型コロナウイルス・パンデミックの中、呑気に軍備を競ったり、国と国、民族と民族で争ったり、
温暖化の所為か気候は激しく厳しくなり・・・・
本当に!世の中に背を向けて、いくらでも後ろ向きになれそうな自分がいます。
後期高齢者であることを言い訳に、座って聖書を読み、祈るだけの自分も許せない気分です。
全てを見通しておられる神様は許してくださるでしょうか。
今こそ、全ての造り主である神を信じる信仰を与えられている恵みを感謝せずにはいられません。


今日の聖句は 「ローマの信徒への手紙」 14章7節~8節です。
「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」


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パァ!と華やかに、爛漫の<ヤマブキ>の花です。
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