ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「詩編」67編

2020-06-26 15:55:13 | 今日の聖句
このような祈りを神様に捧げたいです

 詩編 67編
   【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。歌。】
   神がわたしたちを憐れみ、祝福し 
   御顔の輝きを
   わたしたちに向けてくださいますように
   あなたの道をこの地が知り 
   御救いをすべての民が知るために。
   神よ、すべての民が 
   あなたに感謝をささげますように。
   すべての民が、こぞって
   あなたに感謝をささげますように。
   諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように
   あなたがすべての民を公平に裁き
   この地において諸国の民を導かれることを。
   神よ、すべての民が
   あなたに感謝をささげますように。
   すべての民が、こぞって
   あなたに感謝をささげますように。
   大地は作物を実らせました。
   神、わたしたちの神が
   わたしたちを祝福してくださいますように。
   神がわたしたちを祝福してくださいますように。
   地の果てに至るまで
   すべてのものが神を畏れ敬いますように。



世界規模のコロナ禍は収束の兆しが見えません。ワクチン開発による「終息」など遥か
先のことのような気がします。
東京は時に、一日50名を超える感染者を出していても、経済への影響を考えてか、
警戒の度合いは緩和され、県を超え、国を超えての行き来も許可されてきています。
経済の落ち込みを避けるために、医療崩壊ギリギリまで感染者が増えても仕方ない、
と行政は(ある意味で)感染者を切り捨てているようにも思えます。
たしかに経済がひどく落ち込めば、職を失い、住むところも失い、日々の食べ物にも
事欠く人々が大勢出てきますし、人心は荒れて犯罪も増えるかもしれません。
子どもたちや若者の教育もどんなふうに収まっていくのか・・・すべて途方にくれます。
世界規模のコロナ禍は日本だけが、一国だけが上手くコントロールできれば、それで
済む問題ではありません。
食べるものも無く、病気を抱えている子供を腕に、途方にくれている父親のすぐ近くで
敵に向かって銃を撃っているシリアの若者をTVで映していました。何をしているのか!
いつもよりTVのニュースを見て新聞をよく読むようになり世界中の人々、庶民の情報が
身近に入って来ます。 飢え、貧困、病、差別、虐待、争い、人類のあらゆる問題が噴出
したかのようです。 不要不急の老人の私にできることは「ステイホーム」だけですが、
十分な食事が摂れ安らかに眠れるベッドのある、何もなし得ない自分が情けないです。


<トラノオ>の花蜜を吸う二頭の<モンシロチョウ>

美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
フェイスブックツイッターも御覧ください。
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今日の聖句は「ヘブライ人への手紙」から・・・・

2020-06-21 17:30:47 | 分からなかった今日の聖句
今日も教会で礼拝を守ることができました。
「ルカによる福音書」5章17節~26節をテキストにして「驚くべきこと」というタイトルで
左近深恵子牧師によるみ言葉の説き明かしがなされました。
先の読めないコロナ禍の状況のもとでの生活は、無意識のうちに私達にかなりなストレスを
与えていると思われます。
深恵子牧師を通してイエス様のみ言葉を聴く時、本当に大きな安らぎを与えられます。
神様の御国の民として歩む平安を与えられていることを感謝します。

美竹教会の礼拝はHPからYouTube で参加することができます。
説教原稿も載っています、ぜひお読みください。


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さて、今日のブログのカテゴリは「分からなかった今日の聖句」です。
パウロとい大使徒は多くの書簡を書きましたが、難しすぎる! 箇所がたくさんあります。
今読んでいる「ヘブライ人への手紙」も私には難しくて、何を言っているのかわからない所が
たくさんあります。
私の聖書に(はてなマーク)が一番多くついているのが「ヘブライ人への手紙」、
二番目が「ローマの信徒への手紙」です。
パウロの手紙に比べると福音書は本当に読みやすいです。
特に「ヨハネによる福音書」は心に響きます。
今日の箇所も言葉も難しいし、言わんとしていることがほとんど理解できません。 
私が理解力に欠けるということはさておいて、毎日のように聖書を読み、毎週のように礼拝に
参加している私でも読み辛いのですからクリスチャンでない私の友人がウーム😠💢となるのも
「宜なるかな」ですね~


「ヘブライ人への手紙」 4章1節~16節
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者が
あなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。 というのは、わたしたちにも彼ら同様に
福音が告げ知らされているからです。 けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。
その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。 「わたしは怒って誓ったように、
『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』」と言われたとおりです。
もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。  なぜなら、ある個所で
七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われて
います。 そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を
告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、神はある日を
「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を
聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。 もしヨシュアが
彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。
それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。  なぜなら、神の安息にあずかった者は、
神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、
同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。 というのは、神の言葉は生きており、
力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、
心の思いや考えを見分けることができるからです。
更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、
さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている
のですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点に
おいて、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、
時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

   
     何となく息苦しい日々、美しすぎる紫陽花
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「新しい誕生」

2020-06-10 15:31:43 | 説教
6月7日の礼拝は久しぶりに礼拝堂で、教会員の皆様と守ることができました。
左近深恵子牧師による礼拝説教のダイジェストを載せます。


礼拝の様子はしばらくは YouTube でも配信されるそうです。
ご希望の方はネット配信で礼拝にご参加ください。
礼拝説教も美竹教会のホームページから読むことができます。
全文をお読みになりたい方、是非クリックして御覧ください。


「新しい誕生」  6月7日(日)
テキストは「ヨハネによる福音書」3章:1節~15節

ある日の夜、主イエスのもとに、ニコデモという人が訪ねてきました。ニコデモはユダヤ教の主流を
なすファリサイ派に属し、ユダヤの最高法院の議員の一人であり、おそらく律法の教師でした。
錚々たる肩書を持つまでに至ったニコデモは、有能で、人々から信任厚い人物であったのでしょう。
このニコデモが他の人々と異なるのは、主イエスの所にやって来たというところです。
そしてこの日が、ニコデモのその後の人生の分岐点となったのでしょう。
ニコデモはこの後二度この福音書に登場します。
第一の場面では、主イエスを逮捕しようとする他の議員たちに異議を唱えています。
第二の場面は、主イエスの十字架の死の後です。主イエスの遺体を葬るために没薬と沈香を持って
きて、主イエスの弟子でありながらユダヤ人たちを恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフと
共に埋葬しています。ニコデモの社会的な立場からすれば非常に勇気の要る行動へと向かっていく
分岐点となったこの晩の訪問を、ニコデモに決意させたのは、人々の内側にどのような思いがあるのか
全てをご存じでありながら、人々を見捨てず語り続け、しるしを行い続けられた主イエスであったと
言えるでしょう。

主イエスは、ニコデモの内側を見通しておられます。ニコデモに必要なものを、主イエスの方から
「はっきり言っておく」と強い口調で、こう告げられます。「人は新たに生まれなければ、神の国を見る
ことはできない」(3:3)。新たに生まれなければと言われても、もう一度母親の胎に戻って生まれ直す
ことなどできないと理解できずにいるニコデモに、主イエスは再び「はっきりと言っておく」と言われ、
「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(3:5)と、新しく生まれる
ことの意味を更に告げられます。

ニコデモはそもそも、新しく生まれたいと思って主イエスを訪ねたわけではなかったでしょう。
律法が定める正しい生活を注意深く積み重ねてきたニコデモは、自分の生き方にプラスになる何かを
主イエスから得たいとは思っていたでしょう。それは自力で一歩一歩階段を上るようなニコデモの
人生の歩みに、手すりを付けるようなこと、あるいは踏み台を足すようなことであり、ニコデモが
主イエスに抱いていたのはその程度の期待であったでしょう。
この階段がいつかは神の国に届くことを期待しながら、足元の段差や、上り方を評価してくれる他者の
視線ばかりを見ているニコデモに、主イエスは、今、この時、神の国を見ることを教えます

主イエスはニコデモを、ニコデモが上っていると信じている階段から、主イエスの命の値によって
もたらされる新しい命を、主に従って生きる道へと招きます。

主イエスご自身がニコデモも含めたすべての人の罪を取り除く小羊として十字架に上げられ、死者の
中から上げられ、天に挙げられることで天と地を結ぶ階段となってくださる道へと、招きます。

―――― 中略 ―――

新しい命、永遠の命とは、遠い先の未来においていつか訪れることを望むものではありません。
不老長寿を手に入れることでもありません。神さまが共に居てくださることに終わりが無いということです。
共に居てくださる神さまのご支配の中で生きていく命です。
この新しい命は、人の理想や欲が支配する道
ではなく、キリストが通してくださった道を求めます。
キリストが通してくださったのですから、私たちの視界が狭まってしまっても、曇ってしまっても、私たちは
羊飼いなる主に従って、道を見出すことができます。私たちは道すがら、現実のただ中で働いておられる
神の御業を共に喜び、私たちのために祈っておられる主によって、互いに祈り合いながら、共に
進むことができます。洗礼に置いて水と霊を受けた者は、この新しい命に既に生かされています。
日々聖霊を受けて新しくされ、聖餐の恵みによって養われつつ、神さまが永久に共に居てくださる命を、
いただいています。


私たちにはそれぞれ切実な願いがあり、不安があります。願いが叶えられること、不安が取り除かれる
ことを、日々祈り求めています。欠けを満たしてくださいと祈り、不安の原因を取り除いてくださいと祈る
しかありません。けれど主イエスによって神さまが私たちにもたらしてくださっているご支配は、私たちの
その時その時の願いや不安を超えた確かなものであることに、私たちは心の奥底で支えられています。
たとえ私たちの願い通りに欠けが満たされることが無いとしても、あるいは願い通りに不安の源が
取り除かれることが無いとしても、私たちを覆う死の力を滅ぼされた主が共におられる命を、既に生きて
いることが、私たちに深いところで安らぎをもたらします。

神さまのご意志よりも、他のものに自分を支配させてしまう罪は執拗に私たちを捕らえますが、私たちの
ために御子が命をささげて切り開いてくださった道へと、み言葉と御業に導かれ、聖霊に導かれて、
立ち返ることができます。
私たちは欠けに嘆き、不安に苛まれる日々を幾度も潜り抜けなければならないのかもしれませんが、
状況の厳しさに阻まれない、一時的な気休めではない、主の平安が常に私たちを覆っています。
私たちの中心におられる主イエスを共に礼拝し、神の国の祝宴の席を示す聖餐の食卓から霊の糧を
いただきながら、死によって終止符を打たれることの無い神さまの恵みの中を、共に歩んでいきたいと
願います。                (省略や太字などの文責はゆうゆうにあります。)

毎日聖書を読み、毎週礼拝で説教を聞いて励まされていても、私は日々の暮らしの不安や心細さ、
先行きの不安に襲われます。 そんな私を支えているのは「主、我と共にあり」という信仰です。
主は、いつも私と共にいてくださる、神様にすべてをお委ねし、私は神様の御国の民として歩んで
いるのだ、という信仰は私にこの上ない平安を与えてくれます。
深恵子牧師の説教はそんな私を、また力強く励まし支えてくださるものでした。
これで一週間、神様の御国の民として平安のうちに過ごすことができます(・・・ように!) 
深恵子牧師の説教に大きくアーメン!と唱えました。

もう一つ私を支えているのは「主は私の造り主、私の命の主人公は私ではなく神様だ」という信仰です。
この信仰によって私は自分の存在を肯定的に捉えることができます。
百年足らずで一切は無に帰す私の一生を素直に受け入れられるのは、それは神様が私を生かして
いてくださるから。 その信仰により頼んで、神様がもうよい、という最期、身許に召される日まで私は
生きて行けます。 この信仰によって私は自分の命もすべての命も肯定できます。
ただでさえ気持ちの落ち込むコロナ禍の中では、この世の不条理、人間同士の愚かな争いなどを見たり
聞いたりすると、つくづく人間でいるのが疎ましく、私は森の樹になりたい・・・・と思ったりして
しまいますが、そんな弱い私を支えてくれるのは聖書の信仰です。
そして、礼拝で説教を通して解き明かされる神様の御言葉が背中を押してくれます。



<シジュウカラの巣立ち雛> 雛たちは親鳥の近くで群れて飛んでいます。
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教会で礼拝、再開

2020-06-03 18:03:18 | 美竹教会
今日、美竹教会からメールでお知らせが来ました。
6月7日(日)から礼拝堂に集まって礼拝を行えることになりました。
マスクは勿論のこと、お隣と距離を空けるなど三密を避けて、感染防止に十分注意を払いながらの再開です。
ガランとした礼拝堂で礼拝をなさっている先生方を想像しながら、家でネット配信の参加は
とても寂しいものでした。 
コロナ禍の前は礼拝堂での礼拝が当然と思っていましたが、今はちょっと泣きそうに嬉しいです。

美竹教会のホームページです、クリックしてどうぞお訪ねください。

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後期高齢者更年期障害?のようだった私の体調はお陰様でそれなりに回復して参りました、感謝です。
鍼灸院に7ヶ月通って一応日常生活は取り戻せた股関節の怪我は、後遺症でしょうか、股関節の痛みが
残っていて、歩くと脚がとても疲れます。 
それでも頑張れば6000歩くらいはなんとか歩けるので、まぁ、いいかぁ、神様の身許に召されるまで
付き合おうかなぁ、と思っています。

誰にも話していない「コロナ禍の私の楽しい秘密・バイエルの秘密練習」もしばらく休んでいましたが
再開できました。 75番まで終わりました。
私からみると「とても美しいではないか!」と感じられる曲も出てきて本当に!本当に、楽しいです。


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