ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

讃美歌58番

2016-04-29 13:34:48 | 讃美歌
讃美歌58番「神よ、み前に」
      "Lord, we come before Thee now" by William Hammond, 1745
        「HENDON] by Henri Abraham Cesar Malan, 1827

1)神よ、御前に ひれ伏し祈る
  我らの願い 受け入れたまえ 受け入れたまえ
2)天つ恵みを 心に満たし
  み名の栄を 歌わせたまえ うたわせたまえ
3)妙に貴き 救いを示す
  命の言葉 悟らせたまえ 悟らせたまえ
4)憂きを慰め 病めるを癒し
  罪の縄目を 解き捨てたまえ 解き捨てたまえ
5)み名を知る者 主をこそ頼め
  尋ね奉(まつ)らば 見捨てたまわじ 見捨てたまわじ

作詞者のウィリアム・ハモンドは1719年に英国サセックス州のバトルに生れ、セントジョンズ大学(ケンブリッジ)
で教育を受けました。 1743年にカルヴァンメソジストに参加し、1745年にはモラヴィア兄弟団に参加しました。
彼はギリシャ語で自伝を書きましたが、これは出版されませんでした。
彼のオリジナルの讃美歌は、彼が古ラテン語讃美歌から翻訳したものと共に “Psalms, Hymns,And Spiritual Songs”
として出版されました。1783年に死亡した彼はロンドン、チェルシーのモラヴィア墓地に埋葬されました。
彼の讃美歌の中には Sacred Harp* の中にも含まれています。
   *主に米国の原始バプティスト派教会で伝承されているアカペラの4部合唱でハープも含めて
    楽器は一切用いない。独特の音符(シェープノート)を用いる・・・・(ということのようですが
    正しいでしょうか? 全くわかりません。 m(_ _)m)
  
作曲はアンリ・アブラハム・セザール・マラン(1787-1864)。19世紀初めからジュネーブなどで活動しました。
ビジネスを学びましたが伝道に入り、カルヴァン派の教会を設立しました。
多くの作品を残しているそうです。
マランはフランス改革派教会で賛美歌運動の創始者の一人だったそうです。

↑ 上の解説はネットからの切り貼りです。
このブログでご紹介した「讃美歌」も130曲となり中々新規ご紹介の讃美歌が無くなりました。
今週の礼拝では久し振りにブログ未掲載の讃美歌を歌って嬉しかったのですが、たったこれだけの
解説ですが、ネットで探すのに苦労しました。 (^^;)
讃美歌解説書でも求めればよいのですが。 

ココをクリックすると讃美歌58番を聴くことができます。

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今年も、公園の<コゲラ>は雛を孵したでしょうか。
雛に餌を運ぶコゲラの親鳥です。
この写真は野鳥写真を撮るのが趣味だった連れ合いの在庫からです。
私の連れ合いの病気は少々深刻になってきました。
もう新緑の中で写真を撮るのは無理でしょう、淋しいことです。
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聖書の学び Ⅵ-(2)

2016-04-27 16:36:08 | 「聖書を学ぶ会」
26日(日)聖書を学ぶ会のテキストです。
受付当番だったので、会に出ることができませんでした。
テキストだけです、申し訳ありません。
テキストだけ見ても私にはさっぱり分かりません、とても難しそうです。
お話を聞きたかったなぁ。
H兄は出席できない時は出られる方にレコーダーでの録音を頼んでいるそうです。
わたしもできたら録音したいですが、レコーダーってどんなものなのでしょう?






  
  公園の<オオタカ>
  卵を温めている雌のため、狩りをして獲物を運んできた雄です。
  この受け渡し場所で雄が鳴いて雌に知らせると即、雌は餌を取りに来ます。

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「どこにいるのか」

2016-04-25 16:25:45 | 説教
昨日の礼拝説教 
テキストは「創世記」3章1節~10節 「ルカによる福音書」3章44節~49節
タイトルは「どこにいるのか」 でした。




 蛇の問いの巧妙さ、女エバの答の屈折、男アダムと女エバの責任逃れ・・・・
 自分一人でサラッと読み下していたら(私の場合)絶対に気づかない聖書の細やかな記述。
 やはり説教をお聴きすることはとても大切だし、それなしには(私の場合)信仰はちっとも
 深まらないですね~
 それでは礼拝に毎週でているから信仰は深まっているのか? (私の場合)それはそれほど
 というか、殆ど期待できないようで、悲しいです。
 今日の説教のマーカーを引いたところは、説教の主題から外れているかも知れませんが、
 私の心にひびいた説き証しです。
 神様を見ることを忘れて「自分の中ににげこんでゆく。罪とは自分の内側に曲がりこんで
 しまった心。神にまっすぐに向かわずに、自分の内側にねじ曲がっている状態」
 礼拝にでても、聖書を読んでも、祈っても、神に向かうことを忘れ、自分は、自分がと
 内側にねじ曲がった心で自分を卑下したり僻んだり、その真逆に誇大に思い上がったり
 救いがたい私です。なぜか今日はそんな自分中心な気分ひとしおでした。


<ツマキチョウの雄>
春の一時期、約一か月の間見られる蝶(スプリングエフェメラル)です。
鳥撮りさんも蝶撮りさんも虫撮りさんもこの蝶を見つけると春到来を実感します。

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約束の地を前にして

2016-04-22 14:04:16 | 今日の聖句
旧約聖書の「申命記」読み終わりました。 今日の聖句は「申命記」の最終章からです。
「申命記」34章1節~6節
モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。
主はモーセに全ての土地が見渡せるようにされた。
ギレアドからダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、
ネゲプおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。
主はモーセに言われた。
「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。
わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。
あなたはしかし、そこに渡っていくことはできない。」
主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。
主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日にいたるまで、
だれも彼が葬られた場所を知らない。


モーセはエジプトから民を救い出すリーダーとして、すぐに不平不満を言い募り、神を
信頼しきれない不信仰な民と神との間で苦労しました。 
モーセの人生は神の御心を行うために苦難の連続でした。 四十年の荒野の旅では
モーセもまた兄アロンと共に神の命令に完全には従わなかったようです。
それゆえ、モーセはヨルダン川を渡ることを許されませんでした。
私はその理由はメリバの泉の事件で、モーセが神を試したからだと思っていましたが
「聖書事典」には、具体的理由は必ずしも明瞭ではないと書かれています。

モーセが死を前にして神から見せられた約束の地は夢のように美しかったに違いありません。 
モーセは約束の地を望んで涙を流したのではないでしょうか。
モーセは神からの召命を実行しただけ、と淡々と運命を受け入れたのかも知れませんが、
私はこの箇所を読むと、約束の地に招き入れられないモーセを思って胸がつまります。


知り合いの野鳥ブログを見ると、公園には渡り途中の
<オオルリ>も入っているようです。(写真は在庫から)

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天の父なる神

2016-04-20 14:23:54 | 祈り
祈りが苦手といっている私ではありますが、毎朝毎晩、共にいます神に祈りを捧げます。
私の祈りの最初の言葉はワンパターンで「天の父なる神様、聖名を賛美します」から始めます。
「父なる神様」とは私たちの、私の、「父」なる神様だと思って祈っていましたが、ある時、礼拝で
左近牧師が「イエス・キリストの父なる御神」と祈り始めました。
エッ、そうなの? 「父」って、私の父でなくイエス様の「父」だったの?
そう言えばイエス様は「アッバ、父よ!」と呼びかけていらしたなぁ~。
それから私は「イエス・キリストの父なる神様・・・・」と祈りを始めることにしていました。

昨日、どうも気になって「聖書事典」で「父である神」の項を読みました。
大納得!です。 神様はイエス・キリストの父であり、私たちも契約を仲立ちに「父なる神の子」で
よいのですね。
これからは安心して以前のように「天の父なる神様、聖名を賛美します。傲慢で信仰浅く欠けの多い私ですが、
どうぞあなたの「子」として受け入れてください」と祈り始めることにいたします。 (^-^)

「聖書事典」 『父である神』の項 ************
『聖書において神を父と呼ぶ場合、人間の父子関係から推測される血族的な関係を現わすのではなく、
「契約」に基づく父が子に対する如くの神の特別な愛に夜関係を表わす(申7:6以下)
旧約聖書において神を父と呼ぶ場合、創造者、贖い主、指導者、尊敬すべき者としてイスラエルの民
全体の父と言う意味である(申32:6、イザヤ63:16他)。
さらにこれは律法が守られる場合にのみ、その父子関係が維持されるという義務を伴っていた(イザヤ1:2)。 
それゆえ、父である神の憐れみとそれにふさわしくない人間の離反が旧約聖書中に一つの緊張した
問題として残されていた。 したがって、旧約聖書では神の父性は一つの約束として成就を待望している。
新約聖書では、イエス・キリストにおいてこれが成就されたと理解する(Ⅱコリント6:18)。 
イエスは独自な意味で神を「アッバ、父よ」と呼んだ。(マルコ14:36他)
そしてイエスの贖罪死と復活を信じて、人間が真に神を父と呼びうるにいたったのである(ヨハネ20:17他)。 
御子キリストを主として持つ者は神を父と呼ぶことができるのである(ヨハネ8:19他)。 
そこで「父なる神を信ず」はキリスト教の信仰告白で最も基本的なものである。』****************


公園の<バン>雛、今頃ずいぶんと大きくなっているでしょうね。
私の連れ合いの病が少々深刻になって、今年の春は殆ど公園に行けません。
写真は在庫からです。

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キリスト教って難しいけれど(難しいから、かな?)奥が深くて、聖書は読み飽きることがなく
心満たされます。 心に重荷を負う方、空しい思いに囚われている方、どうぞ東京は渋谷の
美竹教会に一度、ぜひおでかけ下さい。
「ブログを見て来ました」という方がお一人でも礼拝にいらしたら、このブログ、お休みしても
いいかなぁ、と私は思っているのですが、いまだに一人もいらっしゃいません。 クーッ! (T__T)
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「生命(いのち)の息」

2016-04-18 21:52:11 | 説教
昨日の主日礼拝説教
テキストは「創世記」2章4b~9節 「ヨハネによる福音書」20章19節~23節
タイトルは「生命(いのち)の息」でした。





死ねば骸となる土くれの私たちでも、クリスマスの出来事、イースターの出来事、そしてイースターの
主が聖霊をお遣わしくださった出来事によって、生命の息が吹きこまれ満たされて生きる者とされる、
ということですね。
礼拝で説教をお聴きしているときにはすんなりと頭に入ったと思われたみ言葉が、プリントを
読みなおしてみると少々てこずった今日の御説教でした。 (^^;)

説教の後、左近牧師は熊本・大分の地震で被害を受けた方々、教会への祈りを捧げられました。

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熊本・大分を襲った地震、被災された方々の失われたものの大きさを思うと胸がいたみます。 
我が家は病人をかかえた老夫婦所帯ですので、一層身につまされます。
基本的なライフラインに加えて薬は、病院は・・・・・
一日も早く物理的、精神的平安と平常が戻りますようにお祈り申します。
どうぞ絶望することなく、希望を捨てず一日一日をお過ごしください。


<バン>の雛と親鳥です。 この巣では三羽の雛が孵ったようです。
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聖書に出てくる戒め、法、掟・・・・・しつこく(続) (^^;)

2016-04-16 14:17:10 | 今日の聖句
今日の聖句は「詩編119編」の<タウ>の項です。

  主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。
  御言葉をあるがままに理解させてください。
  わたしの嘆願が御前に達しますように。
  仰せのとおりにわたしを助け出してください。
  わたしの唇から讃美が溢れるでしょう。
  あなたがを教えてくださいますから。
  わたしの下はあなたの仰せを歌うでしょう。
  あなたの戒めはことごとく正しいのですから。
  あなたの御手はわたしの助けとなるでしょう。
  あなたの命令を選び取ったのですから。
  主よ、御救いをわたしは望みます。
  あなたの律法はわたしの楽しみです。
  わたしの魂が命を得てあなたを賛美しますように。
  あなたの裁きがわたしを助けますように。
  わたしが子羊のように失われ、迷うとき
  どうかあなたの僕を探してください。
  あなたの戒めをわたしは決して忘れません。

毎晩、新約聖書1章、旧約聖書2章、プラス詩編を1篇読むようにしています。
詩編119篇はヘブライ語のアルファベットをタイトル(?)として22の項から成っています。
アレフは第一の文字、そしてタウは最後の文字だそうです。
22の詩を読み終わるのに一か月くらいかかりましたが、読んで気づいたこと。
この119篇の22の詩はすべて、神の「掟」「戒め」「命令」「裁き」「律法」を褒め称え讃美し
感謝していました。以前もブログに書きましたが、これらの言葉に違いはあるのでしょうか。
(って、あるに決まっていますよね、きっと。)

↓「Holy Bible」の「タウ」(Tav)の項です。 Holy Bible PSALM 119 <Tav.>

  Let my cry come before You, O Lord;
  Give me understanding according to Your word.
  Let my supplication come before You;
  Deliver me according to Your word.
  Let my lips utter praise, For You teach me Your statutes.
  Let my tongue sing of Your word,
  For all Your commandments are righteousness.
  Let Your hand be ready to help me, For I have chosen Your precepts.
  I long for Your salvation, O Lord, And Your law is my delight.
  Let my soul live that it may praise You, And let Your ordinances help me.
  I have gone astray like a lost sheep; seek Your servant.
  For I do not forget Your commandments.

掟 statutes
戒め commandments
命令 precepts
律法 law
裁き ordinances サテ、違いは何なのでしょう?

↓ ネットに載っていた119編の解説(一部)
******119篇の主題は、もちろん「神の御言葉」です。
神の「ことば」「教え」「さばき」「仰せ」「戒め」など、神の御言葉についての言葉が、
ほとんどの節に登場します。出てこないのは三つの節しかないと言われています。
そして詩篇の中には、アクロスティック(acrostic)と呼ばれるものがありますが、119篇は
その代表です。それぞれの段落の語頭の文字が、アレフ、ベス、ギメル・・・とヘブル語の
アルファベットの順番になっています。ユダヤ人の子どもは、この詩篇を丸ごと覚えるそうですが、
段落の語頭がアルファベットの順になっているので、その分覚えやすいのです。*******

ココにはこれらの言葉はトーラーを言い換えている、とその関係が書かれています。
ということは、厳密な違いは無いということなのでしょうか?
しつこく気にする必要無し、かも知れませんね。 (^^;)


辛夷(こぶし)の枝に翡翠(かわせみ)が止まっていました。
パートナーを見つけてそろそろ巣作りです。

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「聖書の学び Ⅵ」

2016-04-14 13:47:07 | 「聖書を学ぶ会」


  王朝の最後の王たちの時代、第二イザヤは活動した。

  「旧約の王を5人挙げよ」と言う時、必ずあがるヨシヤ王は旧約の宗教改革をした。
  王国の初めは理想を持った統治がなされたが、周囲の状況に合わせて変わってくる。
  他国との文化交流を通して宗教も変わり、ヤハウエ信仰に他の神々を祀ったりして
  ダビデ王朝の王たちは塗れていった。⇒ヨシヤの改革 
  中央の力の及ばない地方聖所の乱れを強権をもって祭儀の集中化を図り地方聖所を
  つぶし、政治・宗教のすべてをエルサレムに集中させた。⇒後に反発が起きた。
  ヨヤキンは第一次捕囚でバビロンへ連れて行かれた。 
  ヨヤキンはのちにバビロン王の  食卓に常に招かれるほど復権した。
  王朝最後の王、ゼデキヤはヨシヤの子で、ヨヤキンの叔父。

  アモス、ホセアが活動した時代のアッシリアによる捕囚との違い。
  アッシリアはイスラエルの民を連れ去り、代りに異民族を連れ込んだため
  民族、人種が入り乱れた。バビロンの場合は連れ去るのみ、だった。
  バビロンに連れて行かれたイスラエル人はケバル川のほとりで、一応
  民族の特殊性を保持できた。 割礼、安息日など。
  これまでは「イスラエル人」「ヘブリュー」「神の民」などと呼ばれて
  いたが「ユダ部族」としてかたまってきた。
  しかし、神殿が無いために信仰から離れる人も増えてきて、実利的に
  エルサレムを絶ちきる人々が信仰をも失って来た。

  バビロンはペルシャ王の前に無血開城した。
  ペルシャ王のキュロス(クロス)は太陽政策をとった。
  捕囚から解放されて自国に戻る民に統治の専門家を手配することもした。
  この時代に第二イザヤは語り、活動した。
  第二イザヤはクロス王を「神の僕」とまで言った。


今年の桜は終わりましたね~
公園の池では<バン>の赤ちゃんが孵っていました。

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これまでより開始時刻を10分間早めての「学ぶ会」は、少しゆったりしたような気がしました。 (^-^)
次回予定日の24日は年に一度の「教会総会」と重なっています。
「聖書を学ぶ会」は延期になるかもしれません。
ホームページお知らせいたします、よろしくお願いいたします。 m(_ _)m
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讃美歌154番

2016-04-12 19:37:46 | 讃美歌
讃美歌154番「地よ、声たかく」
       Text by John of Damacus 8th Century Translated by John M. Neale
       Tune:LANCASHIRE by Henry Smart, 1836

 1)地よ 声たかく 告げ知らせよ
   きょうイェス君は よみがえれり
   いのちの君は あまつ園に
   われらを召して 入れたまえり

 2)とこよのひかり てりかがやく
   みくらにいます 君を仰がん
   あめより漏るる かちうたにぞ
   地なるわれらも 声をあわせん

 3)あめよ よろこべ つちよ うたえ
   ものみなともに ほめたたえよ
   イエス君きょうぞ よみがえれる
   ああかぎりなき さかえの日よ

「ギリシャ聖歌最大の作品」といわれる名歌である。
原作者ダマスコのヨハネ(John of Damascus 675-749)はダマスコの名門に生まれ、パレステイナの修道院をへて
エルサレムの司祭となり84歳の生涯を終えた。 「東方のトマス・アクイナス」といわれるほど偉大な神学者であった
と共に、讃美歌作者としても東方の第一人者であり、「カノン」という複合形式の歌を多く作った。
この歌もイースターの為のカノンの一部で、その荘厳雄大のゆえに「黄金カノン」または「カノンの女王」といわれる。
1862年 John M .Neale により“The day of resurrection!”と、英訳され、Henry T. Smart(1813-1879、英国
ロンドン生まれ)の“Lancashire”の曲が用いられてからスコットランドで普及した。 
しかし英国では余り持ちいれられず、その後米国において非常に普及することとなった。
“Lancashire”の曲は、作曲者である Smart 牧師が Lancashire の Blackburn で牧会をしていた1836年に讃美歌214番
「北のはてなる氷の山(From Greenland's icy mountains)」の為に作曲した。
一説では英国国教会創設(宗教改革)300年を記念して作曲されたとも言われている。
しかし、この曲が今の曲名で普及するようになったのは、スコットランド長老派教会(Presbyterian)の讃美歌集
「The Church Hymnal」に編纂された以降(1867年)であり、特に、この讃美歌集がアメリカに渡り、それまでの
詩編歌中心から変わりつつあったアメリカの長老派の集会で注目を浴び、この曲が色々な讃美歌に用いられるようになってからである。
因みに米国で Lancashire といえば、この曲を指しているが、英国で Lancashire といえば、英国聖公会の Longfellow の
“Holy Spirit, truth divine”の歌詞に配された T.Threlfall の曲を指し旋律は全く異なる。

↑はネットから引用させていただいた紹介文ですが、私には何を言っているのか少々分かり難い文章です。 (^^;)

↓ココをクリックするとメロディを聴くことができます。
「ギリシャ聖歌最大の作品」と言われるそうですが・・・そうなのでしょうかねぇ・・・・
元の詩がギリシャ語で書かれていて、その詞が「ギリシャ聖歌最大の作品」なのでしょうかしら?
↓は John M. Neale が英訳した歌詞です。 ギリシャ聖歌最大の・・・片鱗が窺えますでしょうか。

  1  The day of resurrection!
    Earth, tell it out abroad;
    the passover of gladness,
    the passover of God.
    From death to life eternal,
    from earth unto the sky,
    our Christ hath brought us over,
    with hymns of victory.
  
  2  Our hearts be pure from evil,
    that we may see aright
    the Lord in rays eternal
    of resurrection light;
    and listening to his accents,
    may hear, so calm and plain,
    his own "All hail!" and, hearing,
    may raise the victor strain.
 
  3  Now let the heavens be joyful!
    Let earth the song begin!
    Let the round world keep triumph,
    and all that is therein!
    Let all things seen and unseen
    their notes in gladness blend,
    for Christ the Lord hath risen,
    our joy that hath no end.    (United Methodist Hymnal, 1989)


桜の時期には桜の写真を・・・・と言うほど今年は桜を見れませんでした。

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「聖なる日」

2016-04-10 16:04:16 | 説教
今日の主日礼拝の説教 テキストは「創世記」2章1節~3節 「マタイによる福音書」
12章9節~14節  タイトルは「聖なる日」でした。





私たちが礼拝に集うことは、声高にではなくても、日常を止めて神の前に進む姿、
怒り苦しみ哀しみを負って陰府の淵からよみがえられたキリストにまみえる安らぎの足取り、
この日を大切にする心構えから、確実に救いの証しの一歩を歩んでいること、なのですね。
そしてこの日はわたしにとって救いの日、恵みの日。
キリストにならう私たち証人の一日は、神によって聖別され、祝福されたものなのですね。
左近牧師の力強い御言葉の説き明かしは罪深い軟弱な信仰の私の魂に強く響きます。
また新しい一週間! 罪許された罪人の私が目を上げて生きてゆく糧です。
『聖なる日はやめたくてもやめられない私たちの日常にくさびをうつのです。』


公園の<カルガモ>カップル、今年も可愛い雛を孵すでしょうか。

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今日は礼拝の司会も左近牧師がなさいました。
礼拝での左近牧師の祈りは圧巻でした。(って、私の感想ですが・・・・・)
いつもは説教の後に短い祈りをなさるだけなのですが、今日は礼拝の司会者として
神への感謝、罪の赦しの願い、私たちの苦しみや虚しさへの思い、平和への願い、
世界の為政者への神の祝福の願い等々、格調高い祈りに引き込まれ、心をこめて
「アーメン」と唱和しました。
祈りの苦手な私の好きな祈りは、旧約聖書のソロモンの祈りやダビデの祈りなのですが、
左近先生の祈りも本当に胸に響きます。
東京は渋谷区の美竹教会で、左近牧師の説教や祈りを是非ライブでお聴きください!

私は左近牧師の説教コピーをいつもいただいているのですが、牧師さんというのは
お祈りの原稿も用意されるのでしょうかしら。祈りの苦手な私のお手本として
お祈りのコピーがいただけたら嬉しいのですが、無理でしょうね、きっと。 (^^;)
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