ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「私がここにおります」

2014-02-16 18:35:32 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「イザヤ書」6章1節~8節
タイトルは「私がここに居ります」でした。

今日の個所はイザヤ召命の記事です。
モーセやエレミヤが召命を受けた時、彼らは最初は「私には無理です」と強く躊躇いましたが、
イザヤの場合は自分から「わたしがここに・・・・」と言いました。
召命を受ける際、二つの異なった反応のように思いますが、そうではなく、全く同じです。

礼拝で神に出会い「わたしは罪のために滅びそうだ」と言っています。
イザヤも深い挫折感を持っていました。
イザヤが尊敬していたダビデ以来の傑出したウジヤ王の死、これも挫折のひとつでした。
ウジヤの死によって国は下降し始め、イザヤは時代に対する不安を抱えていました。

イザヤはこれまで民衆の鈍感さを嘆き非難するばかりの預言者でしたが、「聖なる神体験」を通じて、
人々は勿論、自分を含めてすべての人間の罪を実感しました。
聖書の中で唯一である「神を見る体験」をしたイザヤは己の罪を実感しました。
(これは、神の顔を見た者は死ぬ、と書かれているレベルの問題ではありません。)

わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。
しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

5節のこの言葉はイザヤの内面からの絶望の言葉です。
唇が汚れているということは体全体の汚れを意味しています。

自分が「唇に割礼のない」者、つまり心の鈍い人間であるとイザヤは実感したのです。
当時のユダヤは非常に不安定で、イザヤはそれを敏感に感じていましたが、己が最初に裁かれるべき
人間であることを実感し、同時に罪の許しを体験しました。
イザヤは火によって清められ、預言者となる召命を受けたのです。

滅びるべき人間を我々に代わって誰が救いうるか、という声に対して「わたしがここに・・・」と
イザヤは応じました。
「ここ」というのは罪の赦しを受けた所、神の恵みのある、その場所ということです。

神の憐れみを知っている、そしてその場所を知っている、その人のみがその尊さを語れます。
神の憐れみを知っている、そこから始める人に神の召命が臨むのです。

イザヤはそれからは民衆の覚りの鈍さを、愚かさを、嘆かずに粘り強く語り続けたのです。
新約のイエスの弟子たちや使徒たち、伝道者たちもそうでした。
「テモテへの手紙1章13節~15節」のパウロの言葉をご参照ください。
福音を述べ伝える人は神の憐れみの尊さを知っています。
ペテロは何度も召命を受けました。
そのたびにキリストの恵みを知り、もう一度!新たに主のために生きたのです。(繰り返しの召命です)


私たちが神の召しに応えること、誰でもできる伝道は、教会を建てる、礼拝を守るということです。
このことが私たちの人生の生きがいを最期まで支えてくれます。
イエスの福音の御業を地の果てまで伝えること、それはどんな人にでもどこでもできることです。
なぜなら「ここ」とは主の恵みを受けた、その場所だからです。
たとえ死の床にあっても主の教会を建てる御業に「わたしはここにいます」と言って参加することはできるのです。
                                            (以上、文責はゆうゆうにあります。)



川の<カワセミ(♂)>です。


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