ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

”今と向き合う”

2022-06-29 14:45:16 | 祈り


「西南支区だより」第178号(日本基督教団東京教区西南支区)に
美竹教会担任牧師の左近豊先生の言葉が掲載されました。
聖書に依り頼み、絶望せずに祈り続けること、私達クリスチャンへの
励ましの言葉と受け止めました。



強力な破壊力の戦争武器をもって侵攻を続けるロシアの行為はSNSを通して、テレビを通して
リアルタイムに世界中に伝えられています。
世界中の人が見守る中て”人殺し”を演じている、すべての行為が世界中のさらしものになって
いるのにその行為を止めない、そんな恥ずかしいことができるものなのでしょうか。

今の私の祈りは・・・・
ウクライナに一日も早く日常が戻りますように
  世界中の戦争、紛争、弾圧がなくなりますように
地球温暖化による異常気象に歯止めがかかりますように
  そのために世界中の国が人が力を尽くしますように
日本は憲法9条を維持し、武力によらず国の平和を守ってゆきますように
  武力による闘争は更なる武力を生むだけで平和的解決を生みません
私たち人間を御心に叶う者と作り変えてください

神様に祈ることができる信仰を与えられていて感謝です。

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礼拝の祈り

2021-07-27 12:14:09 | 祈り
一昨日の主日礼拝で祈られたお祈りに感激した「祈り苦手」のゆうゆうです。
私が神様に祈りたいと思っていることを余すところなく、簡潔にお祈りされていました。
一人ひとりの苦しみから社会の歪、日本の問題、世界の問題、なんかすべてを簡潔に
神様にお祈りしてくださり本当に感激しました。
礼拝後、恐る恐る・・・「原稿があったらコピーさせていただけますか?」
「あ、これ、差し上げますよ」と、もっていた原稿をくださいました。感激!!
私も神様と真剣に向き合って素直な心で思いを率直に祈れるようになりたいです。


7月25日 主日礼拝の祈り 

恵み深き父なる神様、今朝も私たち一人ひとりの目を覚ましてくださり、礼拝の恵みへと
導いてくださったこと心より感謝いたします。あなたから多くの恵みを受けながらも、
過ぐる週もあなたの御心から離れ、あなたの御ことばに背き、隣人を傷つけて来ました。
自分のことばかりに執着し、不平を述べ、感謝に乏しい日々を過ごしました。心から懺悔
いたします。それでもあなたは諦めることなく私たちに御手を差し伸べ、今朝も御ことばに
耳を傾け共に巣を賛美するこの礼拝の場へと招いてくださいました。心より感謝いたします。

一昨日、オリンピックが開幕しましたが、その一方で新型コロナウィルス感染は広がり続け、
光と影を抱えたオリンピックとなりました。私たちが想像していた以上に解決への道は進まず、
今もなお感染者の数はとどまることを知りません。日夜、治療や看護に当たる医療従事者の
方々の心身の披露は想像を絶するものです。どうか主よ、共にいてその尊いはたらきをお支えください。
一方で、仕事を失う者、目標や行き場を失うも者は増えるばかりです。
世界を見渡すとき、紛争のただ中にある者、飢えに苦しむ者もとどまることがありません。
孤独の中にある者、不安の中にあるもの、病の床にある者、看病に当たる者、一人ひとりの
抱える問題は尽きることがありません。神様、あなたはすべてをご存知です。
御心ならばどうか一人でも多くの者があなたの慈しみの御手によって捉えられ、平安が
与えられるよう、その道筋を整えてください。

今日も世界中の教会で行われている礼拝をどうぞ御守りください。思いがありつつも礼拝に
集うことができない者もその場にあってあなたが祝してください。
I 神学生を始め、この夏に修士論文作成に取り組む新学生たちを、またO神学生始め、夏季伝道
実習の為に各地に遣わされてゆく神学生たちを、新たな地で伝道に励んでおられるK先生を、
主よ、どうかあなたの恵みでつつんでくださり、その働きが祝されたものでありますよう祈ります。
長い夏休みを迎えた教会学校の子ども達をお守りください。
午後には長老勉強会が行われます。よき話し合いの時でありますように。
これよりあなたのみ言葉の説き明かしがなされますが、語る者を強め聴く者の心を開き、
あなたのみ言葉によって来る一週間を歩むものとさせてください。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。

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<オカトラノオ>の白い花でお食事中の<ジャコウアゲハ>
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祈りの本から (続き)

2020-10-03 14:37:31 | 祈り
今回も「一日一祷」の中から、私が倣って祈りたいと思うお祈りを載せます。
石井錦一牧師の祈りです。

「毎日を終末の日として」  (石井錦一牧師)

  神さま
  私はいつか
  死ぬのだということはわかっています

  しかし すぐにくることはないと思って
  まだあれこれと したいこと
  しなければならないことを考えています
  死ぬことはずっとさきこと
  いつかやってくることと思っています

  確かな死を宣告された人たちの
  その死に至るまでの生活の記録を
  よむ時に 感動します
  でも それは人のことであって
  ほんとに私のことにならないのです

  夜の眠りにつきとき
  そのまま 朝を再びみることがなくても
  神のみ手に安らかに委ねて
  きょうまで生きてきたことを感謝して
  眠れる生活が私にないのです

  毎日 毎日を 終末の日として
  朝 再び生きることを許された恵みを
  感謝して生きる心をください
  いつまでも 自分の心をごまかして
  生きている私に きょう いま
  せいいっぱい生き抜く信仰をください

私の場合、後期高齢者ということもあって「死」は、直ぐ傍にあることと思います。
それほど強くしたいことも、しなければならないこともありません。
生きることすら難しい多くの人々がいるなかで、私が神さまから与えられた
これまでの人生を神さまに心から感謝いたします。
体調がちょっと思わしくないだけでオロオロする気の小さな、信仰弱い私は
一人で、病気や死に向き合えるかという自信は全くありませんが、何とか頑張りたいと
神さまにお願いしています。
『朝 再び生きることを許された恵みを
感謝して生きる心をください
生きている私に きょう いま
せいいっぱい生き抜く信仰をください』 希望を持ってこのように祈りたいです。


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公園で見た<オナガ>の巣立ち雛。
大きく口を開けて親鳥に餌をねだっています。

追記: ビックリ!(@_@;) 今日はブログ開始3000日目だそうです!
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祈りの本

2020-09-25 15:44:26 | 祈り
「生かされている恵みを」  (石井錦一牧師の祈り)

  神さま
  物事がうまくいっている間は元気です
  生きることもそれほど重荷ではありません
  生きていることをありがたく
  感謝する日々がおりおりあります

  しかし いったん物事がひどくこじれると
  私の生活はあれこれとみだれてきます
  他人から誤解されて
  生活に疲れてしまったときには
  自分はどうして生まれてきたのか
  なぜ生きつづけないといけないのかと
  思うことがあります
  自分の存在に自信を失い
  何の役にもたたない人間だと思ってしまいます

  生きがいが感じられず
  気のめいるような日々がつづくときに
  なぜだかわからないのですが
  私の心の奥に“生きなさい”という
  命令とも思える声がきこえてきます
  あなたは自分で生きていると思うから苦しいのだ
  あなたは生かされていることを
  忘れてはいけない というみ声をききました

  私の生命(いのち)はあなたのみ手にあると信じて
  きょうも生きる力をあたえてください     

  

祈ることが苦手という私に姉が送ってくれました。
石井錦一、木下宣世、関 茂、渡辺正男という四人の牧師さまによる祈りの本です。
あ~、私はこんなふうに神様にお祈りしたかったのだ、というお祈りが二つありました。
今日はそのうちの一つをご紹介させていただきます。石井錦一牧師の祈りです。
(下線はゆうゆうが引いたものです。)
石井錦一牧師はいくつかの日本基督教団の教会の牧師を務められました。
1972年から94年まで「信徒の友」「こころの友」編集長を務められたそうです。
2016年に召天されました。

自然にしているといつの間にか後ろ向きに生きているような私です。
私の命は神様のみ手にあると強く信じる力、信じて生きる力を、神様にお願いしたいと
思いました。 そして石井牧師に倣ってお祈りしました。


今日の聖句です。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・
イエスによって守るでしょう。 フィリピの信徒への手紙4章6節~7節


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祈りの手本

2020-04-22 21:47:39 | 祈り
収束の目途の全く見えないコロナウイルス感染の脅威、世界中の問題ですから
日本だけどうこうなっても問題は解決しません。
感染との闘いの経験共有、ワクチン開発の情報交換など、世界レベルでの協力が
必要だと思いますが、その辺りはどうなっているのでしょう。
問題はあまりに大きく広く、複雑で私の手に余ります。
私の毎日は「神様が共にいてくださる」ことにより頼んで家に籠もって過ぎています。
そして勿論、毎日コロナの収束を願って神様に祈っています。
祈りが苦手、祈りの言葉がなかなか出てこない私は参考になる祈りをネットで探し、
それをお手本に祈っています。 
(笑われても仕方ありませんね、私は祈る(能)力が弱いのですから。)

(その1) 新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り 
いつくしみ深い神よ、新型コロナウイルスの感染拡大によって、今、大きな困難の
中にある世界を顧みてください。
病に苦しむ人に必要な医療が施され、感染の終息に向けて取り組むすべての人、
医療従事者、病者に寄り添う人の健康が守られますように。
亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、尽きることのない安らぎに満たされますように。
不安と混乱に直面しているすべての人に支援の手が差し伸べられますように。
希望の源である神よ、わたしたちが感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、世界のすべての
人と助け合って、この危機を乗り越えることができるようお導きください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
希望と慰めのよりどころである聖マリア、苦難のうちにあるわたしたちのためにお祈りください。
(2020年4月3日 日本カトリック司教協議会認可)カトリック中央協議会

(その2) 聖イグナチオ教会
憐れみ深い父なる神よ、今、私たちは新型コロナウイルスによる感染症の集団感染危機に
直面しています。
どうか主よ、この危機を私たちが乗り越えることができるように、恵みと力を与えてください。
私たちが不要な恐れにふりまわされることなく、適切な行動をとることができますように。
四旬節にあたり、私たちがまず日頃の生き方をふりかえり、回心することができますように。
今回の危機を通して、私たちがあなたのみ心にかなった生き方を見いだしていくことが
できますように。
感染拡大が止まり、感染している方々に必要な医療と助けが与えられ、治療方法が1日も早く
見つかりますように。
主イエス・キリストによって」  (東京大司教認可)

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   散歩途中のお宅で撮った<モッコウバラ>



山中伸弥先生のサイトに載った記事です。*************************
東京の感染者数は減少しているのか?
日本の中で最も感染者の爆発的増加が心配されるのは首都東京です。
図1は東京都が発表している日ごとの感染者数です。
これを見ると4月7日の緊急事態宣言発令以降、ピークは過ぎたのではないか、やや減少傾向に
あるのでは、と考えてしまいます。
しかし、図2の検査件数を見ると4月に入って伸び悩んでいます。
16日以降のデータには未確定ですが、検査数が増えないと、
感染者の増加を見逃す可能性があります。
愕然とします。検査件数も同じように減っているのです。
つまり感染者数が横ばいや減少しているように見えるのは、単に検査をしていないからだけなのです。

注目すべきは検査件数に対する陽性者の割合(陽性率)。
東京は検査数が日ごとに大きくぶれているので、一週間ごとの陽性率を計算してみました。
2月は3%、3月になって4%、7%と増加し、3月末には18%に急増、4月は19%を維持しています。
検査件数には、同じ人に複数検査した件数も含まれているという事ですので、実際の陽性率はさらに
高いと考えられます。これは危険領域です。
非常に多くの陽性者を見逃している可能性が高いと推定されます。
アメリカは日本よりはるかに多くの検査を行っていますが陽性率は20%程度で、専門家は、まだまだ
陽性率が高すぎるので検査数を3倍は増やす必要があると訴えています。
それが社会活動再開の最低条件だと主張しています。十分に検査をしているドイツは陽性率7%、
韓国は3%です。 
20%以上の陽性率が続く東京は、非常に危険な状態と考えます。
感染者数のみで一喜一憂するのではなく、真の姿をとらえる必要があります。
*********************************************
追記: 4月24日
↑ 検査数が不正確であったと「お詫び、訂正」されていました。
青文字の部分が削除され、赤文字が追加されました。サイトをご覧になれば
わかるのですがコピべさせていただいた者として追記させていただきます。
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礼拝の祈り

2020-02-09 20:18:39 | 祈り
『天の父なる神様、御名を賛美いたします。与えられている恵みを感謝いたします。
神様、コレをお聞きください、アレもヨロシクお聞き上げください。
感謝と賛美の気持ちを込めてイエス様の御名によりお祈りいたします。』 (ゆうゆうの祈り)

私の祈りは「本当に神様を信じているの?!」と自分で自分に突っ込みたくなるほど情けなく、
心からなる賛美と感謝に程遠い(感じの)ものです。感謝と賛美の気持ちが無いわけではない、
と思うのですが言葉が広がりません。 毎朝毎晩ワンパターン。
そんな私は、主日礼拝の司会の方々によってなされる礼拝の最初の祈りをいつも感心して
お聞きし、心を合わせて「アーメン!」と唱えます。
どなたの祈りも素敵なのですが、時々司会も務められる左近豊牧師の礼拝の最初の祈りが私は
大好きです。本当に!本当に!と心を込めて祈りを合わせます。
録音できないかな~と願っているのにその時になるといつもすっかり忘れてしまいます。  (・・;)

今日は偶々豊牧師が司会をなさったのですが、先生の祈りの途中で、スマホで録音出来るかも
しれないと気づいて録音してみました。 集中していないようですみません。<(_ _)>。
最初の20秒位、聞き逃してしまい残念なのですが、家で録音を聞いて書き起こしてみました。
聞き取れないところもありましたが、下のようなお祈りでした。


2月9日(日) 主日礼拝 司会者の祈り 左近豊牧師

(録音できなかった部分)・・・・・・・なすべき働きを新たに為すことができますように。
憎しみの炎に油を注いでもたらしてきた過ちへの悔い(?)に立ち返る勇気をお与えください。
声にならない訴えを聞き取る繊細さと、光と影を見極める眼差しと、被造物の痛みに震える心と、
研ぎ澄ますこと、おろそかにならないよう、どうぞ導いてください。
寄る辺がない者たちが支えられて、飢えている人が充たされて、家を失っている人たちが安らぐ
場所を得、病いに苦しんでいる人が慰めと癒やしがあたえられるように、どうぞ力を尽くすことが
できますように支えてください。
度重なる災害、また事故によってふる里を失い、また愛する者を奪われ時と共に深まりゆく悲しみに
苦しむ者たちがおります。あなたはそのお一人お一人、その心をご存知でありますから、どうぞ
その嘆きを聞きあげて、時にかなってふさわしい慰めをお与えください。
学校や施設を通してみ言葉の種を蒔く働きに召されている者たち、教員も職員も学生も生徒も
そして、その経営に関わる全ての者の心も体も魂もあなたが支え、蒔かれた種を芽吹かせてくださり
育ててくださり、実らせてくださるあなたへの信頼を持ち続ける力を注ぎ続けてくださいますように。
創造主なる神様、どうか私たちを今日も新しく創り変えてください。御子イエス・キリストの十字架を
通して、日々、外なる人はたとえ滅びようとも、内なる人を日々新たにしてくださいますように。
そして、あなたの御手の業、この世に証しする、そのような生涯を全うさせてくださいますように。
この群れに属する一人ひとりをどうぞお導きください。
今、体また心、魂に痛みを覚えている者を癒やしてください。躓きを覚えている者の傍らに立って
くださり、倒れている者を助け起こし悲しんでいる者の友となり、思い悩んでいる者を慰めて
くださいますように。 愛する者を喪った寂しさを深く覚えている者といつもあなたが共にいて
くださることを示し続けてください。 家族、また親しい者のために祈り続けている者の祈りを
聞きあげてくださいますように。 希望を失い疲れはてている時にはあなたの喜び(?)に開かれて、
あなたの呼びかけに応え、あなたに助けを求める者としてください。
すべての者を聖霊で満たしてくださり、たがいに重荷を担い合うことができますように。
あなたの御心を実現する者として私たちを力づけ作り上げてくださいますように。
これらすべての祈りに、あなたの愛に満ちたご計画において、あなたが受け止めてくださいますように
切に願います。 言葉にはならない呻きを聖霊が執り成してくださいますように。
これらの感謝と願いを私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

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春まだ浅い、烟るような草むらで・・・<レンジャク>です。
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私の祈り

2019-07-21 22:09:39 | 祈り
     主の祈り

    天にまします我らの父よ。
    願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
    御国(みくに)を来たらせたまえ。
    みこころの天になるごとく、
    地にもなさせたまえ。


先週は三日間、妹家族のお見舞に行きました。
妹の長男(私の甥・独身・一人暮らし)は今年の1月頃から職場で猛烈ないじめにあって
鬱状態です。月曜から土曜までの5日間、朝9時から夕方6時までの正味8時間、何の
仕事も与えられず、誰も口を利いてくれず、ただ職場に座っているのが今の甥の仕事
だそうです。鬱で幽霊のようになってしまった長男を見かねた妹はせめて、との思いから
毎夜電話をし、昼休みにはメールも入れて息子と会話しているそうです。
甥の休みの、日曜日、月曜日の二日間は自宅から一時間半かけて甥のマンションに行き、
疲れてただただ眠っている甥の面倒を看ています。

私の妹は「脊柱菅狭窄症」で、激痛のためスムーズに歩けません。そんな妹が途中何十回も
ベンチに座ったり腰を曲げたりしながら車と電車で毎週通っているのです。
さらに、妹のお連れ合いは三年前に胃癌のため胃の全摘手術をしていて、抗癌剤治療は終え
ましたが、肝臓などにも転移しています。男性は(というと語弊がありますので、妹の
お連れ合いは、と言いましょうか)気持ちが弱いのでしょうか、息子の現状を直視できない
ようで、妹の愚痴を受け止めて聴くことすらできないようでした。

負いきれないような苦しみの中にある妹は私に「一度、息子の状態を見てほしい、私が
どんな状態か見てほしい。話を聞いてほしい」と言って来ました。妹と私は電話では結構
頻繁に話をしていますが、「是非一度、実際に来て、見てほしい」というのです。
三日間、妹と共に行動して、衝撃的な甥の変わり様、やつれよう、妹の痛みと苦しみ、
お連れ合いの胸の痛みをヒリヒリと感じました。私はずっと見ていました。妹の話も
たっぷり聞きました。でも私は、まともに目を合わせることすらできない甥の姿を見て
甥と言葉を交わすこともできませんでした。
甥のために、妹のために、祈ることも思い浮かびませんでした。

電話で妹の話を聞いては、神様に「甥を鬱の暗闇から引き上げてください、妹の症状を
少しでも和らげてください、医師たちが狭窄症の治療方法を一日も早く発見しますように!」
と、毎晩祈っていたのに、今も毎朝毎晩お祈りしているのに。
甥と妹を前にしては祈ることを忘れていました。
どんな風に祈れば良かったのか・・・・・よくわかりません。
「○○君をお救いください、☓☓ちゃん(妹のこと)の足の痛みを和らげてください。
お連れ合いの病が再発しませんように!」と祈るべきだったのでしょう。
祈ることによって、神様に手を合わせることによって甥や妹に平安が与えられたかも
しれません。本当に私は生ぬるいクリスチャンです。(泣)
甥が嫌でなかったら、また甥のマンションに行きましょう。
そしていつの日か甥と一緒に手を合わせ神様に祈りたいです。これが今の私の祈りです。

追記(2019/07/22) 
良いときも悪いときも神様により頼める私でよかったです。
キリストによる平安を与えられている信仰に感謝です。
妹も甥も神様の御言葉に触れ、その福音に与る日が来ることを神様に祈っています。   

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オオムラサキツツジの蜜を吸う<モンキアゲハ>です。
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迂闊な私の反省

2017-08-23 18:02:10 | 祈り
16年間病気と付き合い闘った夫の趣味は野鳥を撮ることで、亡くなる三か月前まで公園で
鳥撮りを楽しむことができました。
公園には同じように鳥撮りを楽しむ方が何人もいて、その皆さんとの情報交換やカメラや
自分の撮った野鳥写真の自慢話も楽しみでした。
今、私は独りで時々公園に出かけますが、心優しい鳥撮りカメラマンは夫がいた時と
同じように私に話しかけ、野鳥の情報などを教えてくれます。

今日も公園で翡翠を見ていると、お仲間だった鳥撮りさんから「俺、大腸がんで
手術した・・・・」と話しかけられました。
彼も私もいつ病気になっても不思議ではないことで、とても他人事とは思えません。
私は医学の進歩を話して、癌でも大丈夫、頑張れ!と励ましました。

家に戻って気が付いたのですが、なぜ私は彼に「神様にお祈りさせていただきますね」と
言うのを忘れたのでしょう!迂闊でした。
その一言は彼にとって大きな慰めになったはずです。自分の迂闊さが残念です。
次、公園で出会ったら「心安らかに過ごせますように私の神様にお祈りしています」と
必ず告げます。
今、彼のためにお祈りしています。


今年の八月はまるで梅雨時のように雨ばかりです。
公園で、かわいい「アマガエル」を撮りました。
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神、我と共に在り

2016-08-13 16:33:47 | 祈り
今日はネットで心に響く三浦綾子さんの「祈り」に出会いました。  

  三浦綾子の祈り

    神よ
    人生は
    一人 林を歩み行くようなものかも知れません
    自分の前には何の道もなく
    また 自分の後を従いてくる者もありません
    そんな辛いものかも知れません。
    でも、どんな辛い道でも
    主が手を引いて下さるなら
    私たちは 安んじて生きて行けるのではないでしょうか
    何十年かの人生の中で
    人は幾度 大きな重荷を肩に負い おろし 
    また負って来たことでしょうか
    でも 主が共に在すならば
    ああ 本当に共に在すならば
    それは 何と幸いな人生であることでしょう


五月の末に連れ合いに旅立たれてから二か月半が経ちました。
日常生活は夫婦二人のものから自分独りのものに少しずつシフトしています。
家を空けるときの火の元、鍵の点検から食事時間の配分など細々したことにも
少しずつ慣れてきている気がします。
しかし心の空洞は相変わらず暗く深く、時に叫びだしたくなるほどの寂寥感に襲われます。
毎日聖書を読み、朝晩祈り、主日礼拝に出席して、私は自分が必死に神様にしがみついて
過ごしている気がいたします。
自分の心も体も委縮して小さくなってしまった実感がひしひしと迫ります。
「前向きに」「立ち直って」「外に出るように」 心優しい友人知人が励ましてくれます。
今、私の心は内側にねじ曲がり、入り込んでいることがよくわかります。
いつか、神様に向かって、世の中に向かって、隣人に向かって、無理せず自然の流れの中で
大きく開かれる時が来ますように!ひたすら願い祈る毎日です。

伴侶がいなくなった寂しさは衝撃的なものではありますが、私の場合、たった一人になって
しまった、という心もと無さと不安感がジワジワジワジワ心を締め付け、いたたまれなく
なるのです。 
神様を信じているのに! 神様にすべてをお委ねしているのに! です。
「主が共に在すならば ああ ほんとうに共に在すならば それは なんと幸いな人生で
あることでしょう」 三浦綾子さんの祈りが胸に迫ります。
もし信仰が無かったら、もし祈ることが許されていなかったら、もし聖書を読む恵みが
無かったら私はいったいどうしていたでしょう。
インマヌエル、主、我と共にあり。 アーメン。

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公園のクサギボタンに止まる<クロアゲハ>
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天の父なる神

2016-04-20 14:23:54 | 祈り
祈りが苦手といっている私ではありますが、毎朝毎晩、共にいます神に祈りを捧げます。
私の祈りの最初の言葉はワンパターンで「天の父なる神様、聖名を賛美します」から始めます。
「父なる神様」とは私たちの、私の、「父」なる神様だと思って祈っていましたが、ある時、礼拝で
左近牧師が「イエス・キリストの父なる御神」と祈り始めました。
エッ、そうなの? 「父」って、私の父でなくイエス様の「父」だったの?
そう言えばイエス様は「アッバ、父よ!」と呼びかけていらしたなぁ~。
それから私は「イエス・キリストの父なる神様・・・・」と祈りを始めることにしていました。

昨日、どうも気になって「聖書事典」で「父である神」の項を読みました。
大納得!です。 神様はイエス・キリストの父であり、私たちも契約を仲立ちに「父なる神の子」で
よいのですね。
これからは安心して以前のように「天の父なる神様、聖名を賛美します。傲慢で信仰浅く欠けの多い私ですが、
どうぞあなたの「子」として受け入れてください」と祈り始めることにいたします。 (^-^)

「聖書事典」 『父である神』の項 ************
『聖書において神を父と呼ぶ場合、人間の父子関係から推測される血族的な関係を現わすのではなく、
「契約」に基づく父が子に対する如くの神の特別な愛に夜関係を表わす(申7:6以下)
旧約聖書において神を父と呼ぶ場合、創造者、贖い主、指導者、尊敬すべき者としてイスラエルの民
全体の父と言う意味である(申32:6、イザヤ63:16他)。
さらにこれは律法が守られる場合にのみ、その父子関係が維持されるという義務を伴っていた(イザヤ1:2)。 
それゆえ、父である神の憐れみとそれにふさわしくない人間の離反が旧約聖書中に一つの緊張した
問題として残されていた。 したがって、旧約聖書では神の父性は一つの約束として成就を待望している。
新約聖書では、イエス・キリストにおいてこれが成就されたと理解する(Ⅱコリント6:18)。 
イエスは独自な意味で神を「アッバ、父よ」と呼んだ。(マルコ14:36他)
そしてイエスの贖罪死と復活を信じて、人間が真に神を父と呼びうるにいたったのである(ヨハネ20:17他)。 
御子キリストを主として持つ者は神を父と呼ぶことができるのである(ヨハネ8:19他)。 
そこで「父なる神を信ず」はキリスト教の信仰告白で最も基本的なものである。』****************


公園の<バン>雛、今頃ずいぶんと大きくなっているでしょうね。
私の連れ合いの病が少々深刻になって、今年の春は殆ど公園に行けません。
写真は在庫からです。

美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ね下さい。
キリスト教って難しいけれど(難しいから、かな?)奥が深くて、聖書は読み飽きることがなく
心満たされます。 心に重荷を負う方、空しい思いに囚われている方、どうぞ東京は渋谷の
美竹教会に一度、ぜひおでかけ下さい。
「ブログを見て来ました」という方がお一人でも礼拝にいらしたら、このブログ、お休みしても
いいかなぁ、と私は思っているのですが、いまだに一人もいらっしゃいません。 クーッ! (T__T)
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