ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

クリスマス礼拝

2018-12-22 18:33:43 | 美竹教会
明日23日はクリスマス礼拝です。
美竹教会では洗礼式、聖餐式も行われます。
礼拝後は祝会もあります、皆さま、どうぞお出かけください。


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「賛美から賛美へ」

2018-12-16 19:47:10 | 説教
12月9日の主日礼拝説教 左近深恵子牧師によってなされました。 
タイトルは「賛美から賛美へ」 テキストは「ルカによる福音書」1章39節~45節でした。






ヨハネを身ごもったエリザベトとイエスを身ごもったマリア、二人の女性の
神様への篤い信仰が丁寧に語られました。 
私はマリアのように「お言葉どおり、この身に成りますように」という生き方ができていません。
「神様に全てお委ねします。御心のままになりますように・・・・」とペラペラ (・・;) 祈っては
おりますが、実際はアレコレ思い煩い、平安とは程遠い日々を過ごしています。
それでも、私に信仰が無かったら、と考えるのは恐ろしいです。
クリスチャンでよかった、神様にめぐり合えて(めぐり合わせていただき)よかったと感謝です。

美竹教会のアドベントクランツの蝋燭が三本灯りました。
来週、12月23日はクリスマス礼拝です。
教会で静かに主イエスの御降誕を賛美し祈るクリスマス礼拝、ぜひお出かけください。


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紅葉を背景にして<コゲラ>です。
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「支配者への従順」 その2

2018-12-13 11:48:22 | 分からなかった今日の聖句
新約聖書は今「ローマの信徒への手紙」を読んでいます。「ロマ書」は私にとっては難しいところが多いです。
今日の「分からない聖句」は「ローマの信徒への手紙」13章1節~7節です。


<支配者への従順>
13:01人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって
立てられたものだからです。13:02従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は
自分の身に裁きを招くでしょう。 13:03実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には
恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、
権威者からほめられるでしょう。 13:04権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。
しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、
神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 13:05だから、怒りを逃れるためだけでなく、
良心のためにも、これに従うべきです。 13:06あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に
仕える者であり、そのことに励んでいるのです。 13:07すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。
貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。


読んですぐの感想は、えっ、そうなの? 上に立つ権威には従うべき、ってそうなの?デシタ。
昨夜偶々、以前ビデオに撮っていた「クォ ヴァディス」(1951年・アメリカ)という映画を見ました。
皇帝ネロが自分が思い描く新都市実現のためローマを焼き尽くし、その罪を信者の増えてきているクリスチャンに
押し付けるのですが、その映画にはパウロとペトロが出てきました。
皇帝ネロの在位期間は紀元54年から68年です。
パウロが「ローマの信徒への手紙」を書いたのは ↓ のように言われています。


『書簡中には執筆時期をうかがわせる記述はないが、おそらくパウロがエルサレム教会のための募金を行い、
「聖なるものたちに仕えるために」エルサレムを訪問しようとしていたころであると考えられる。
すなわち第二回ギリシア訪問のころで、58年初頭のローマ訪問の直前の冬であろう。』
(ウィキペディア解説より)
『つまり、この手紙が書かれたのは西暦55年か56年の春に彼が行った旅行の直前だった、ということになります』
(Bible tool box というサイトより)

パウロは皇帝ネロの行為を知っていてなお、このように考えていたのでしょうか、分かりません。

また、ウィキペディア解説には ↓ のような文章もあります。
『ローマ書』にはパウロ神学ともいうべきものが明白に打ち出されており、初期キリスト教思想の根底をつくるもの
となった。マルティン・ルターは『ローマ書』を「新約聖書中もっとも重要な書簡であり、すべてのキリスト者
によって精読されるべきもの」と激賞している。
「ローマ書のあゆみ」という言葉があるが、それは『ローマ書』にあらわれる語句を追っていくことで人間個人の
救いの道が現れるというものである。たとえば
  •3:23 - 「すべてのものが罪を負い、神の栄光を失った」
  •6:23a - 「罪の結果は死である」
  •5:8 - 「しかし神はイエスをとおして永遠の命を与える」
  •10:9 - 「口でイエスを主であるといい、心で神がイエスを死から復活させたと信じるならあなたは救われる。」
  •10:13 - 「主の名を呼ぶものは誰でも救われる」

「ロマ書」でパウロの言わんとするところはユダヤ人、異邦人、すべての人への信仰の勧め、すべての人が神の救いに
与ることだと私にも分かります。
そして、私も救われるべき罪びとであると深く自覚し、救われている喜びを感謝しています。
実は、このブログの2012年11月26日に私は「支配者への従順」という同じタイトルで記事をアップしています。
その時の結論は『パウロが13章1節で支配者への従順を説いた、その支配者とは「メシア的・自己犠牲的な王」を
思い描いていたのだと思います。』で、私は納得したようです。 (忘却の彼方デス・・・・・(^^ゞ )
毎週礼拝に出席しているクリスチャンですが、私のハテナ?は相変わらず的外れ、進歩無しのようです。 <(_ _)>
そして言えることは、いつもの感想、聖書はホントウに何度読んでも難しいし、深いし、興味尽きず「孤島に一冊だけ
持っていけるとしたら」やはり聖書かな~ということです。


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こんな文章も見つけました。 ↓ 歴史は興味深いが難しい、パウロの考えを理解するのも難しいです。

パウロの、国家に対する態度は保守的であり、服従の倫理であるとされるが、終末的な様相を呈する当時の状況の中で、
国家が信仰生活の明瞭な敵対者として登場していないという現実において、限定的に、社会と国家の下での生活を
尊重していくことが勧められている。 Melma! メルマガスタンド[メルマ!]というサイトより

ネロ帝はローマ帝国による最初のキリスト教の迫害を行ったことでよく知られている。
64年、ネロ帝はローマ大火の原因をキリスト教徒の放火であると断定した。それまでキリスト教についてはほとんど
知られていなかったがこれで人々にその存在が知られるようになった。
ネロは捕らえたキリスト教徒を簡単な裁判で死刑に決め、猛獣の餌食にしたり、十字架にかけたり、松明代わりに
燃やしたりしたという。またこのとき、キリスト教の最高指導者として捕らえられたペテロも、逆さまに十字架に
かけられ殉教した。パウロもこのときローマで殉教したとされている。 (「世界史の窓」世界史用語解説というサイトより)
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最近すっかりご無沙汰の公園はきっと<秋色>ですね。
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「喜びが感謝に」

2018-12-07 12:28:40 | 説教
11月18日の主日礼拝説教
タイトルは「喜びが感謝に」 テキストは「ルカによる福音書」17章11節~19節
左近深恵子牧師によるみ言葉の説き明かしでした。
プリントは大分前にいただいていたのですが、載せるのが遅くなりました。 <(_ _)>






  「クリスマス礼拝のご案内」ハガキを受け取った友人から電話が来ました。
  24日のイヴ礼拝に出てくださるとか・・・・・嬉しいです。
  彼女の第一の目的は、勿論イヴ礼拝への参加、そして第二の大切な目的は夕礼拝の後の
  独り者同士の食事とワイン・・・・・・かも・・・・・それでも嬉しいです。
  このブログでご紹介したことがありますが、彼女は、イエス様が病気の女性やサマリアの女性に
  「女よ・・・・・・」と呼びかける、と言って怒った彼女です。 (^-^) 
  それでも礼拝に来てくださる・・・・・嬉しいです。


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何年前かの12月、藪からそーっと覗くと目の前の枝に
三羽の<マヒワ>幼鳥が止まっていました。

ヒョイとこちらを向きました。 カワイ~イ!
夫の撮った野鳥写真は表情豊かで一味違います。
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2018年クリスマス礼拝のお知らせ

2018-12-05 14:10:34 | 美竹教会
  今年のクリスマス礼拝とイヴ礼拝のお知らせ葉書を発送しました。
  まだ届いていないという方、このページをご覧になって美竹教会の
  クリスマス礼拝、イヴ礼拝に是非お出かけください。

  

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律法とは?

2018-12-02 19:59:31 | 今日の聖句
今、新約聖書はパウロによる「ローマの信徒への手紙」を読んでいます。
今日の聖句は「ローマの信徒への手紙」の7章7節~25節です。

07:07では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、
わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを
知らなかったでしょう。
07:08ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。
律法がなければ罪は死んでいるのです。
07:09わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。
しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、
07:10わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導く
ものであることが分かりました。
07:11罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを
殺してしまったのです。

07:12こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
07:13それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその
正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、
掟を通して示されたのでした。
07:14わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、
罪に売り渡されています。
07:15わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって
憎んでいることをするからです。
07:16もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
07:17そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 07:18わたしは、
自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを
実行できないからです。
07:19わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 07:20もし、わたしが望まないことを
しているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
07:21それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 07:22「内なる人」としては
神の律法を喜んでいますが、
07:23わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則の
とりこにしているのが分かります。
07:24わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを
救ってくれるでしょうか。
07:25わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では
神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。


パウロ、難しい、難しすぎます。
そもそも律法というのは何なのでしょう? 私は漠然と、律法というのは人間の犯した罪、犯罪を裁くための法律、
くらいに考えていましたが、全く間違っていましたデス。
詳しく説明してくれる方はいないかな~とネット検索したら比較的わかりやすい解説が載っていました。


<ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説>
ヘブライ語で、教える、道を示すなどを意味する語に由来する術語で、ヤハウェ神がイスラエルの民 (そして全人類) に
啓示したとされる宗教的、儀式的かつ倫理的命令、法をさし、神意の表現であると信じられている。
伝承によれば、モーセがシナイ山上で神から授けられたというが、その実際の内容については一致した見解はなく、
ときに、いわゆるモーセの十戒、モーセ五書 (書かれた律法)、あるいは旧約聖書全体をもさし、
さらにはモーセは書かれた物のほかに、口頭でも啓示を受けたとの説に立ち、この口伝を収集した
いわゆるミシュナ (口伝律法) をも律法に含める説もある。
キリスト教でも律法を神の隣人への愛の法として基本的に受入れるが、律法はキリストによって完成されたとしている。

“全人類に”なので、私たち異邦人には律法は関係ない、ということはありませんでした。
何年も教会に通って、御言葉の説き明かしをお聞きしているのに、分かっていな自分が恥ずかしいです・・・・が、
(私には)ちょっと難しすぎます
私はと言えば、律法については下のイエス様の言葉が好きです。


「マタイによる福音書」22章35節~40節
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして訊ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスはいわれた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』それが最も
重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』律法全体と預言者は
この二つの掟に基づいている。」

この言葉にしても「では、思いを尽くして神様を愛するとはどんなふうにすること?」とか、当時の偉い律法の専門家が
イエス様に訊ねたように「では、私の隣人は誰?」とか考え出すと難しいです。
私のような素人(知識少なく信仰弱くかなり傲慢で意志弱い)信者は聖書を毎日読み、毎日祈り、が大切になってきます。
聖書は本当に大切な大切な生きる道標、暗い海での頼り、灯台です。



       今日からアドベント(待降節)に入りました。
       美竹教会のアドベントクランツの蝋燭一本が灯されました。
       アドベントクランツの蝋燭、一本目は「希望」 二本目は「喜び」
       三本目は「喜び」 四本目は「愛」を表すそうです。

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