ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「生きる力の源」

2014-02-02 20:55:54 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「ネヘミヤ記」8章1節~12節
タイトルは「生きる力の源」でした。

テキストの10節「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」
この喜ばしい御言葉の意味を今日は学びましょう。

ようやく神殿を建て直し城壁を完成させたこの時は、イスラエルの民が70年におよぶバビロニアの捕囚から戻って、
その後、約100年が経っていました。
この日、民は広場に集まって、そこで聖書(創世記から申命記までの律法と書)が聖典として読み上げられました。 
民がそれを読むことをエズラに求めたのです。
民は律法の言葉を聞いて、声を上げて嘆き悲しみ涙しましたが、それは最初だけで、最後には喜びの涙に変わりました。
聖書の律法は守るに厳しいものであるから民は涙したのではありません。
イスラエルの人々にとって律法は神を賛美し(詩編119編)神の御言葉として慕わしく思えるものでした。

この時人々は、自分たちが神の御心を傷つけていたことを知り、嘆き悲しんだのです。
自分の愚かさを知り、それでもなお自分を愛してくださる神の愛の深さを知り、哀しみ泣き、
その後、その悲しみは消えることのない喜びに変えられたのです。
9節には「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。 嘆いたり、泣いたりしてはならない。」
ネヘミヤとエズラの慈しみに満ちた言葉があります。

人々は聖書の御言葉を聞くうちにその中に神の御顔が見えたのではないでしょうか。
イスラエルの人々は神の愛を忘れ異国の神を崇拝することを繰り返しました。
その過ちを気づかせるために神はイスラエルの民に苦しみを与えましたが、それは決してイスラエルを
滅び尽くすものではありませんでした。
イスラエルの民は再び神の前に集められたのです。
そして、祭司から神の御言葉を聞き、自らの罪の深さを知り、涙し、それが喜びに変えられたのです。
罪を嘆くより救われたことを喜びなさいという神の御言葉が分かったのです。

私たちにとって一番大切なことは「神に愛されていることを知る」ということです。
私たちが背こうが、忘れようが、どうしようが神の愛は私たちを包み込んでいます。
主を喜ぶということこそ私たちの生きる力の源なのです。
神の愛を知って生きること以上の幸せはありません。
                                   (以上、文責はゆうゆにあります。)



実を啄む<メジロ>


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。

他の教会はどうなのでしょうか、今、美竹教会は私も含めて高齢者が多く健康に不安を覚える方も多いようです。
少しずつ親しくなった教会の兄弟姉妹、二週続けて礼拝を休まれるとちょっと心配になります。
「放蕩息子」状態の私が美竹教会に戻ったとき、最初に声をかけてくださった方が先週と今週お休みでした。
教会でいつも聞かれるお声が聞こえないととても寂しい・・・・夕方、恐る恐る電話をしました。 
お元気な声を聞いて安心しました。 来週は礼拝に出られそうです。 神様、姉妹に慰めと癒しの御手を差し伸べてください。

年配の教会員が多い美竹教会えすが、若い方々も信仰の道に、福音の喜びにお招きしたいものです。
サテ、どのように伝道したらよいのでしょう。 神様、道をお示しください。
コメント
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