ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

やっぱり・・・・・・

2018-08-23 19:30:29 | その他
以前友人と、愚かな人間の今を嘆いて「ノアの箱舟」再来について話したことを
このブログに書いたことがあります。
三日前の古新聞ですが、20日の朝日新聞に載った記事です。 
新聞から画像を作ることが上手くできず見難い写真記事でお許しください。
本当に!と納得するところに傍線を引いたので、さらに読みづらくなりました。<(_ _)>


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人工的なプラスチック、コンクリート放射性物質の堆積、CO2濃度の上昇やオゾン層や生態系の
破壊、海洋酸性化による地球の急激な変化。
気候が後戻りできないほど変質し、破壊的な災厄をもたらすという危機感。
世界全体が気候の非常事態を迎えつつある。
大期中の温度上昇が臨界点を超えれば様々な破滅的事態を連鎖的に引き起こしかねない。
地球を大規模の改変してしまった人間の責任として、今後は地球の賢明な管理者になる
という発想もある。
現在の状況の責任は人類全体が負うべきとは言えず、資源や土地、労働力を自国の外部から
収奪してきた結果であり、日本も収奪した側に含まれる。(私も、勿論!)
途方もないタイムスケールで荒廃させた地球のこれからは種の大量絶滅の進行に怯え続ける
ものとなるかもしれない。
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「ノアの箱舟」はもう一度起こるでしょうか。
どんな風に生きて行けばよかったのか、これからどんな風にすればよいのか、呆然とするばかりです。
何も為し得ぬ私は「主よ、御心のままに」と祈るほかありません。
信仰を与えられ神様に全てを委ねて生きている私なのに明日も明後日も思い煩ってしまいます。
信仰無くして生きておられる方は何をよりどころとしていらっしゃるのでしょう・・・・・

「箴言」1章7節には「主を畏れることは知恵の初め」とありますね~。

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ギンヤンマ四匹・・・ではありません。産卵中の雌雄の水鏡です。
今夏の酷暑と相次ぐ台風の到来、異常気象のなかでいつまで呑気に
写真を撮っていられるでしょう。
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「善きサマリア人」の譬え

2018-08-18 16:59:48 | 今日の聖句
新約聖書は「ルカによる福音書」を読んでいます。
今日の聖句は 10章25節~37節 イエス様の譬え話のひとつ「善きサマリア人」です。

10:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、
永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 10:26イエスが、「律法には何と書いてあるか。
あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 10:27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、
力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』と
あります。」 10:28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。
追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 10:31ある祭司がたまたま
その道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 10:32同じように、レビ人もその
場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 10:33ところが、旅をしていたある
サマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 10:34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯を
して、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 10:35そして、翌日になると、デナリオン銀貨
二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、
帰りがけに払います。』
10:36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」

「私の隣人とはだれですか」という律法の専門家の問いに、なぜ主イエスは「だれが追いはぎに襲われた
人の隣人になったと思うか」と問い返されたのでしょう。
「その人を助けた人です」と専門家は答えましたが、私は、追いはぎに襲われた旅人の隣人は、祭司、
レビ人、サマリア人の三人だと思いました。
そして、旅人(隣人)を自分のように愛した人はサマリア人だけだったのです。
このサマリア人は対立関係にあるユダヤ人を隣人としました。

この譬えで主イエスは「隣人を愛するとはどういうことなのか」を語られたのだと思います。
この聖句からそのことを理解するのは難しいこととは思われません。
実行するのはとても難しいことですが・・・・・
イエス様の仰ることを実行することはどれも、私のような人間には難しくいつも反省・・・・(・・;)
それにしてもこの問いのすり替えはどういうことなのでしょう。

律法の専門家の問いは、確かめたかったことは、誰が自分にとっては隣人か、つまり誰までを愛さねば
ならないのか?ということかな、と私は考えました。それに対して主イエスは「だれが襲われた旅人
の隣人になったか?」という問いで答えました。
「隣人とはだれか?」にたいして「誰が隣人だったのか?」 うーん、禅問答のように深くて目がくらみます。

と、ここで、この記事を書いている最後の今になって気づいたのですが、ここで大切なのは律法の専門家が
ゴダゴタ訊ねているような隣人が誰か?ということではない! 主イエスは隣人を自分のように愛するとは
どのような事なのかを教えようと、語ろうとなさっている。
それは、必要とされ求められる時に傍らに寄り添う人、それが本当の隣人(愛の人)であり、あなたもその
ようになりなさい、と主は言われている。
それを気づかせるために「だれが隣人になったのか」とあえて問われたのでしょう。
そういうことでしょうか、なんか、ようやく気付いて・・・・・・はぁ~深すぎる!


「加藤常昭著 信仰講和3 主イエスの譬え話 2001年刊」という本が家にありました。
そこに二章にわたって「善きサマリア人」の解説が載っています。
私にはとても難解で、分からないところがたくさんありましたが、参考になりました。
以下は、その本から私が勝手に抜き出した文章です。

「善きサマリア人」とは英語の「グッド・サマリタン」からの翻訳だが、ドイツなどでは「憐れみ深い
サマリア人」の物語と呼ばれ、その方がよりふさわしい。

追いはぎに会った人に対して誰かが隣人になってあげねばならない。その時に手を出すことが愛の始まりで、
その必要を見ぬいて隣人になってあげることが大切。
律法学者の「隣人とはだれのことか」という考え方からすると、祭司もレビ人もユダヤ人の仲間であるから、
本当は隣人のはず。けれどもここで隣人になることを拒否した。

律法の専門家が、自分を正当化しながら問うたのは、主イエスに質問をしたのは「私の隣人とはだれですか」
ということでした。
ところがこの譬え話の最後に主は、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われました。
律法の専門家の狭い隣人理解を広げようとなさったのではありません。博愛という言葉があるように、ひろく、
誰でも愛する大きな隣人愛を勧められたのではありません。差別を捨て、報われようと報われなかろうと、
誰でも愛さなければならないと言われたのではありません。キリストの教会が語る隣人愛を、ただそのような
ものだと理解するだけでは正しくありません。
傷ついていた旅人にとっては、だれであろうと、その傍らに行き、隣人になってあげる人が求められていたのです。
誰が、自分の隣人である値打ちを持つかということではなくて、自分が本当に隣人を必要としている人の隣人に
なってあげることができるか。それが急所なのです。(76頁後半から77頁前半部分)

主イエスがこのサマリア人の話をされたとき、律法の専門家にもこの憐れみの心を体得してほしいと願って
おられた。主イエスが来てくださったのはこの憐れみの木頃が人間の心に回復されることを願ってのこと。

サマリア人がやったことはそう特別なことではない。誰でも出来ることで、愛の業というのはささやかな
ものでいい。自分に出来ること、ささやかなことをしながら、それを必要とするひとの傍らに隣人となる。
そこに神の永遠のいのちに生きる愛の道が拓けてくる。



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ヤンマのぶら下がり、今日は<オニヤンマ>です。
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地図無し、ナビ無し、雲だけ!

2018-08-14 13:56:23 | 今日の聖句
旧約聖書は「民数記」を呼んでいます。
今日の聖句は「民数記」9章15節~23節 「雲が幕屋を覆う」です。

9:15 幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。夕方になるとそれは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた。
9:16 いつもこのようであって、雲は幕屋を覆い、夜は燃えるは火のように見えた。 9:17 この雲が天幕を離れて昇ると、それと
共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまるそこに宿営した。9:18イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、
主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。 9:19 雲が長い日数、幕屋の上にとどまり
続けることがあっても、イスラエルの人々は主の言いつけを守り、旅立つことをしなかった。9:20 雲が幕屋の上にわずかな日数しか
とどまらないこともあったが、そのときも彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。9:21 雲が夕方から朝までしか
とどまらず、朝になって、雲が昇ると、彼らは旅立った。昼であれ、夜であれ、雲が昇れば、彼らは旅立った。9:22 二日でも、
一か月でも、何日でも、雲が幕屋の上にとどまり続ける間、イスラエルの人々そこにとどまり、旅立つことをしなかった。
そして雲が昇れば、彼らは旅立った。9:23 彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して
なされた主の命令に従い、主の言いつけを守った。


「成人男子が六十万人」という聖書の記述から類推すると、多分百万人近い大集団が40年もの間荒れ野を旅する、というより彷徨う。
モーセという(神から与えられた)超カリスマ性のある指導者に導かれて、その旅の指針は幕屋を覆う雲だけ!!
何と言うべきか・・・・・・集団の中にいる自分を想像して、その過酷さ、あてど無さに呆然とします。
しかもこのイスラエルの人々は約束の地、蜜と乳の流れるカナンには入れなかったのですからね~ 
モーセもカナンを望むピスガの山で死にます。
神から与えられるマナとウズラの肉と、水だって潤沢に与えられないこともあるシナイ半島の荒れ野を40年間!
イスラエルの民のなんという強い信仰でしょう。
「神、我と共に在り」「私の命は神様が私に与えてくださったもの」という信仰を与えられているのに、なお!明日のことも
明後日のことも思い煩ってしまう自分が情けないです。
虚しい思いに囚われることの多い今日この頃の社会、自分も含めた人間。
私の命は神様が良しとなさって与えてくださっている、という信仰が無かったら限りなく空しいばかりです。
一人でも多くの方が神様のみ言葉に出会って救いに与れたら、と祈る毎日です。

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<マルタンヤンマ(雄)>のぶら下がり。
フランスのトンボ学者にちなんだ命名だそうです。
写真で見ると美しいブルーがみえますが、実際には枯れ枝か
枯葉のようで素人が見つけるのはなかなか難しいです。
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讃美歌321番「わが主 イエスよ」

2018-08-02 11:52:00 | 讃美歌
讃美歌321番「わが主 イエスよ」
“More love to Thee, O Christ” by Elizabeth Payson Prentiss, 1869
「PRENTISS」by William Howard Doane, 1868

先週の主日礼拝で歌いました。

  1)我が主イエスよ、ひたすら
    祈り求む 愛をば
    まさせたまえ 主を愛する
    愛をば 愛をば
  2)世の安きと楽しみ
    求めたりし 身なれど
    今は願う 主を愛する
    愛をば 愛をば
  3)来たれ来たれ 苦しみ
    憂き悩みも いとわじ
    勇み歌わん 主を愛する
    愛をば 愛をば
  4)いまわの息 かすかに
    残る時も 愛をば
    増させたまえ 主を愛する
    愛をば 愛をば

作詞したElizabeth P.Prentiss(1818-1878)は、牧師の家庭に生まれ後に牧師夫人となった。
この詩は、彼女が病の床にあった1856年作られた。
13年後に夫に見せたところ夫君はこれを出版するようにすすめた。
William Howard Doane(1832-1915)がこれを見て作曲し1870年に彼が出版した "Song of Devotion"に
収録されてから数年間のうちに全米を風靡した。
敬虔な魂の祈りであり、今なお往年の人気を保持している。
W.Howard Doaneは、音楽の才に恵まれ数多くの作品(作曲)を残しているが、本業はオハイオ州シンシナテイを
中心として活躍した実業家である。
シンシナテイの教会で日曜学校の校長や聖歌隊の指揮者を務めるなど音楽を通じて伝道活動(福音主義運動)にも
大きな貢献をした。
シカゴには彼を記念した音楽堂があり、彼の宗教運動に対する偉大な功労に対してフランス政府から叙勲を
受けている。                            (以上はネットからの引用です)

ここをクリックすると讃美歌321番のメロディーを聴くことができます。

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日差しを避けて涼し気な<半夏生>の陰にぶら下がった<アオヤンマ>です。

暑~~い!毎日が続いています。
カリフォルニアやイタリアギリシアの山火事も強風に煽られて納まる気配がありません。
今年の夏の異常気象は地球環境が臨界点を超えて壊れ始めたとしか思えず恐ろしいことです。
8月2日朝日新聞の朝刊に「地球環境 限界なのか」というインタビュー記事が載っていました。
知らない言葉も多くて私には中々理解しにくいのですが、地球という緑の星の環境を守ることは
人類全体にとっての急務なのではないでしょうか。
これまで、いわゆる先進国が人間の利便性を求めることを良しとして開発最優先できた結果が
現在だとしたら、今になって引き返すことはできず修復可能とは思えず、呆然とします。
便利さを享受して生きて来た私も責任を負うべき愚かな人間の一人だと思い暗い気持ちになります。
神様、ノアの箱舟のような、地球を真っ新にするようなことはもうなさらないのですよね。
愚かな人間の愚かな止め処ない欲望を止め、神様を知る賢い知恵を、本当の知恵を人間に
お与えください!って、もう遅いのかな~~ 地球は本当に臨界点を超えてしまったのかな~~

40度を超える気温、道路の温度は60度を超えているのではないでしょうか。
後期高齢者の私は昼間外を歩く勇気が無くなり、家でくすぶっています。 
頭も燻って働かなくなりました。
休み勝ちのブログ、お許しください。 <(_ _)>
コメント (1)
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