ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

終末論って・・・

2019-04-27 19:58:05 | 聖書
「テサロニケの信徒への手紙一・二」読み終わりました。
これで何回目かな? 毎日、旧約を三章、新約を一章、通読しているのですが、スースー、スースー、
なんと風通しの良い我が頭脳。 毎回新鮮で、いつも初読状態で本当に困ります。
大好きな?(参考文献はコレしか持っていない)「聖書事典」でテサロニケの手紙の項を読みました。


「聖書事典」 「テサロニケの信徒への手紙 一、二」の項より抜書
手紙一の終末論
テサロニケ信徒への手紙一の終末論は、主イエスの来臨を間近に待ち望んでいるという点では将来的
終末論という要素がある。しかし、そのことは決して主イエスによって既にもたらされている終末論的な
恵みの現在がこの手紙には認められないということではない。
むしろ主イエスの来臨を将来のできごととして待望すると共に、主イエス・キリストにあるテサロニケの
兄弟たちが神に選ばれ、愛され、すべて光の子、昼の子であるという恵みに現在に生かされていることを
パウロは認めて感謝している(Ⅰテサ1:2-4:9,5:5)。
この手紙には未来的終末論が支配的であるという説もあるが、この手紙には、まさに近づきつつある将来的
終末論と共に、すでに終末的な恵みの現在がしめされているので、両者の関係は二者択一ではなく、両者
併存の緊張関係にあると解される。テキストに即して言うならば、Ⅰテサ5:5は明らかに現在的終末論を
表している。キリシア語原文は、「というのは、あなたたちは光の子、また昼の子であり、私達は夜の子でも
また闇の子でもないからである」となっている。ここで用いられているエステもエスメンも共に直接法
現在形であり、「光の子、昼の子」は「夜の子、闇の子」を圧倒し、超克する終末論的概念として神の創造の
光にあって「新しく想像されたもの」「神の子」と同義に解される。(Ⅱこり5:17,ガラ3:26)
W.ハルニッシュもその論文「終末論的実存」においてすでに早くからこのエステとエスメンの直接方現在形を
重視して、受洗者はすでに今や終末論的人格として、新しい被造者(Ⅱコリ5:17)と言いうることを示している。
ホルツも同じ意味で、その根拠としてガラ3:26とⅡコリ5:17を示している。テサロニケの信徒への手紙一には
もちろん間近に迫った将来的終末論が生き生きと示されている。
だからといって、現在的終末論はまだ示されていない、等ということは少なくともこのテキストからは言えない。

さらに手紙二の終末論が続きます。ハァ~~ (-_-;)
 
私は自分の知らないことを読んだり聞いたりするのが嫌いではありません。
硬いスルメをガシガシ囓っているような快感すら感じたりして・・・・・・・(^^)
先日、一度も教会に行ったことがないという同じ合唱団で歌っている知人がこのブログを読んでくれました。
感想を尋ねると「ウーン、ちょっと堅い感じかな? もう少し柔らかい記事を、もう少し面白く・・・」と
言われました。 「終末論」難しいよね~~\(^o^)/
でも私はこういうことを読んだり聞いたりするのが結構好きで、全くわからなくても面白かったりして・・・(^^)
それにしてもエステとエスメンてなんのことでしょう。ネットで調べられませんでした。(;_;)


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樹林公園の山櫻(続き)です。 今年の櫻はこれで終わります。
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21日(日)はイースター礼拝です

2019-04-18 16:25:26 | 美竹教会
今週の日曜日4月21日はイースター礼拝です。
神の御子イエス・キリストが十字架上で死に、死に打ち勝って復活なさったこと、
その死によって罪ある私達人間が赦されたことを感謝し祝う大切な日です。
十字架につけられたイエスに対して民衆は「本当に王だというなら今すぐ
十字架から下りて自分を救ってみよ。」と罵り、囃し立てました。

以前、説教の中で「イエス・キリストはなぜ十字架から下りてきてこの世の力を
示さなかったのでしょうか?」と問いかけられた時、私は「本当にどうしてだろう。
神の子として力を示せばよかったのに・・・」と思いました。
何も分かっていなかった(今も分かっていない)自分が恥ずかしいです。(;_;)

それでは究極の敵、悪である死を滅ぼすことはできないから、それでは本当に
人間を救うことはできないから、と今は信じています。
イエス・キリストが一度死んで蘇られた、死に打ち勝ったからこそイエスの福音は
世界中に、私のような者にももたらされたのです。
今はその救いに与っていること、自分を丸ごと委ねられる平安に心から感謝しています。

↓美竹教会のお知らせ<信音>に載ったイースターメッセージです。*****************


4月21日は「区議会議員選挙」の日です。
政治活動を熱心にしている友人から電話がありました。
私も政治に無関心ではありませんが友人のように積極的に果敢に活動はしません。
怠惰なこともありますが、友人のように、これぞわが道!と言えるほどの知識も
自信も勇気もありません。いつも是々非々、日和見的な私です。
電話で何十分も友人と話しました。 
友人は選挙と政治について、私はキリストの救いについて・・・・・・(^^)


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樹林公園の櫻(続き)です。
思わず深呼吸、本当に見事な櫻でした。
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「私を思い出してください」

2019-04-12 21:25:02 | 説教
4月7日(日)の礼拝説教
テキストは「ルカによる福音書」23章39節~43節
タイトルは「私を思い出してください」でした。






7日はCS(教会学校)分級の当番で説教はライブでお聴きできませんでした。
プリントをいただけて嬉しいです。
『救いとは神様の祝福を信じること』 神様に出会えて本当に感謝です。

この日の分級、小さな生徒さんは風船バドミントン、小学生は厚紙でブーメラン作り。
ブーメランは室内でも飛ばせましたが教会の駐車場に出て飛ばしたり、
今回は全員楽しそうでホッ! やはり身体を使って遊ぶのは楽しいですね!


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樹林公園の櫻(続き)です。
櫻は青空にも映えますが曇天もまた微妙に櫻にふさわしい。
椿や櫻、樹に咲く花は場の空気が変わるようで、素敵です。
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讃美歌142番

2019-04-10 09:26:40 | 讃美歌
4月7日(日)の礼拝で歌いました。

讃美歌142番「さかえの主イエスの十字架を仰げば」
When I survey the wondrous cross Isaac Watts, 1707
「HAMBURG」 Arr. From a Gregorian Chant, by Lowell Mason, 1824
 1 栄えの主イェスの 十字架を仰げば
   世の富 誉れは 塵にぞ等しき
 2 十字架の他には 誇りはあらざれ
   この世のものみな 消えなば消え去れ
 3 見よ、主の御頭(みかしら) 御手御足よりぞ
   恵みと悲しみ こもごも流るる
 4 恵みと悲しみ 一つに溶け合い
   荊(いばら)は眩(まばゆ)き 冠(かむり)と輝く
 5 ああ、主の恵みに 報ゆる術(すべ)なし
   ただ身と霊(たま)とを ささげて額(ぬか)ずく

イギリスの讃美歌の父Isaac Watts(1674-1748)の代表作である。
英語讃美歌中最もポピュラーな4つの歌の一つに数えられている。
他の3つは、22番「めさめよわがたま」98番「あめにはさかえ」260番「ちとせの岩よ」である。

曲名の“HAMBURG”の理由は分らない。
作曲者Lowell Mason(1792-1872 米国)が他の讃美歌の曲としてグレゴリアン聖歌から
編曲した旋律がこの讃美歌の曲となってから全米で愛唱されるようになった。
「HAMBURG」は原曲からずいぶんかけ離れた形になっているが、旋律の音域が僅か減5度の
狭い範囲に圧縮されて歌い易く、単純な和声でありながら個性を持ち、且つ厳粛な響きを
持っているため、Mason の曲の傑作の一つに数えられている。

Isaac Watts牧師は、幼時から詩才があり、1707年英国で最初の讃美歌集(Hymns and
Spiritual Songs)を出版。生涯で600編以上の讃美歌を作りチャ-ルス・ウエスリーによる
メソジスト運動と相まって英国讃美歌の第2期黄金期を創出し、ドイツに勝るとも劣らない
貢献をこの世界にもたらした。
(第1期は宗教改革から1700年頃までの詩篇歌が中心であった。)

作曲者Lowell Mason は、全く独学で音楽を勉強し、音楽教育に力を注ぎ後にボストン音楽学校を
設立した。アメリカで最初の「音楽博士」である。
メイスンは、英国におけるジョン・B・ダイクス(1823-1876)或はそれ以上に、米国の
讃美歌史上に重要な人物である。
彼の曲のスタイルは、どこまでも大衆的、民謡的、さらに米国的であり欧州の曲をたくさん
編曲しているが、ときには原曲の姿が判らないほどに手を加え、これを米国的なメイスン的な姿に
変えてしまった。それが米国人の好みにぴったり合致し全米に広がる要因ともなった。
               *******************************以上、ネットからの解説です。

ココをクリックすると讃美歌142番「さかえの主の・・・」を聴くことができます。      

このブログのカテゴリ「讃美歌」では、礼拝で自分が歌った曲をご紹介(と言っても、ネット記事
からのコピペですが(;_;))しています。これまでに150以上の讃美歌を載せました。
新しい讃美歌をご紹介するのがなかなか難しくなりました。
讃美歌ネタはブログの記事としては比較的楽に作れますので私にとって貴重なのですが、サテ、
これからはどんなものにしましようか、考え中です。
こんな記事は?とか、讃美歌ネタはこうしたら?等などアドバイスが頂けたらホントウに
ありがたいのですが・・・・・苦悩するゆうゆうです。


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樹林公園の山桜写真(続き)です。
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わたしたちは主のもの

2019-04-03 12:39:33 | 今日の聖句
先週、3月31の礼拝説教は浅原一泰牧師によってなされました。
テキストは「創世記」4章6節~9節 「ヨハネによる福音書」18章1節~11節
タイトルは「剣をさやに納めなさい」 でした。

浅原牧師の説教では、私はいつもその冒頭でガツっと心を掴まれることが多いです。
今日も、最初の一撃を受けて、慌てメモをとり始めたのですが、忘れ物名人のワタクシ、
大切なメモを教会に置き忘れてきてしまいました。
私がとったいい加減なメモすら無くて、断片的な記憶しか残っていません。
まあ、でも、冒頭の部分が心に残っているので、そこのところを書いてみます。
迷えるゆうゆうの的はずれな信仰・・・・・・

「虚無とか虚しい思いというのは闇(やみ)の支配する世界です。
キリストは光です。キリストによって生きる人は光の中にいます。」
このような言葉から
説教が始まったと思います。

暗闇は悪魔の支配する世界
キリストのご支配する世界は光の世界

私を縛っていた「人生は虚しい」という思いから私を解き放ってくれたのは、六十代で
再び通い始めた教会で与えられた「私は神様の被造物である」という信仰でした。
神様が私を作ってくださった、神様は万物を創造され支配なさっているという信仰でした。
すべては神様のみ心に沿って運ばれている、という信仰によって私は心底救われました。

老病死、生まれるのも死ぬるのも、病気になってしまうのもすべては神様のご支配、人事を
超えた出来事はすべて神様のみ心であって、そのこと自体を私達はどうすることもできない。
私にできることは喜びを与えられたら感謝し、苦しみや悲しみには涙して祈ること。
神様のみ心にゆだね、神様のみ心を信じて、期待して人間は真剣に祈るのみ、というのが
私の信仰、私の福音です。

私が好きな聖書記事は「コヘレトの言葉」で、私の中にはいつも “すべては虚しい、しかし、
人間は与えられた生を存分に味わうがよい“と書かれた(私はそのように読んでいるのですが)
「コヘレトの言葉」があります。”世の不条理“とは人間から見て言ったもので、神様の
み心がどこにあるのかは人間には計り知れない。そのことを思い患い、嘆いても(感情の
動物である人間には避けられないことではあるけれど)致し方無いのではないか、という考えが
頭から消えません。私の祈りがなかなか(ほとんど)聴かれない、今の私の思いからほど遠い、
ということがたくさんありますが、それは神様のみ心と思い、その時は諦めたり運命を呪ったり。
(諦める=神様にお委ねする、ということなのでしょうか、ここはよくわかりません。)

私が、信仰によって救われているという時、気持ちの中に、生殺与奪は神様に下駄をあずけて
いるというような安心感があります。
でも、こういう考えでボーッとしているといつの間にか、政治、経済、文化、すべて
この世の中の出来事、人間に起こる出来事をヒリヒリと皮膚で感じることができなくなり、
センサーが鈍麻し、ともすれば無関心、無感動、無気力になってしまう恐れがあります。
虚無という闇の世界にどっぷり浸かって動かない心、感情に支配されます。
ともすると闇の支配に引っ張られて自分を委ねそうな私がいます。


信仰弱く浅く、キリスト教の知識も無い今の私の願いは下の聖句を心に思い、いつも目覚めて
神様を見続け、祈り続けることです。
「ローマの信徒への手紙」14章7節~8節
わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人も
いません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。
したがって、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。


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夫の生前、偶々二人で見つけた樹林公園には山櫻が咲き誇っていました。
毎日のように通い、それから毎年通い、写真もたくさん撮りました。
寿命だったのでしょうか、あんなにあった山櫻、今は見る影もありません。
夫も亡くなりました。写真の中のあふれるような櫻を見ると感無量です。
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