ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

あ~ぁ! 「ヘブライ人への手紙」!!

2023-01-26 12:58:45 | 聖書
サラサラ、とではありますが毎日聖書を読んでいます、音読も時々入れて。
何度目かの「ヘブライ人への手紙」読み終わりました。
参考書も解説書も開かない私の読み方がいい加減だということはよ~くわかっていますが、
それにしてもわからない箇所がてんこ盛り。嘆き続けています。
判らない「ヘブライ人の手紙」を嘆いた、このブログのこれまでの記事です。↓

2014/05/22
2016/02/29
2017/02/08
2017/02/11
2018/01/26
2020/06/21
2020/07/02

ネットで読みやすそうな解説書も見つけたのですが(聖書のお話「ヘブライ人への手紙」
荒川教会 国府田裕人著
)膨大で、素人高齢者クリスチャンの私は読む気力がわきません。
理解力の衰えも痛感し、諦めそうになります。 (-_-;) 
でも気がつくと私は知らず知らずのうちにドンドン自分勝手に神様を作り、想像している
ような気がして恐ろしいです。
聖書のみ言葉をしっかり聞き取って(理解して)独りよがりになりがちな私の信仰の支え
としたい、と心から願うのですが「ヘブライ人の手紙」と「ローマの信徒への手紙」は
とてもとても難しいです!

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まだ固い梅の蕾に<メジロ>が来ました。
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終末論って・・・

2019-04-27 19:58:05 | 聖書
「テサロニケの信徒への手紙一・二」読み終わりました。
これで何回目かな? 毎日、旧約を三章、新約を一章、通読しているのですが、スースー、スースー、
なんと風通しの良い我が頭脳。 毎回新鮮で、いつも初読状態で本当に困ります。
大好きな?(参考文献はコレしか持っていない)「聖書事典」でテサロニケの手紙の項を読みました。


「聖書事典」 「テサロニケの信徒への手紙 一、二」の項より抜書
手紙一の終末論
テサロニケ信徒への手紙一の終末論は、主イエスの来臨を間近に待ち望んでいるという点では将来的
終末論という要素がある。しかし、そのことは決して主イエスによって既にもたらされている終末論的な
恵みの現在がこの手紙には認められないということではない。
むしろ主イエスの来臨を将来のできごととして待望すると共に、主イエス・キリストにあるテサロニケの
兄弟たちが神に選ばれ、愛され、すべて光の子、昼の子であるという恵みに現在に生かされていることを
パウロは認めて感謝している(Ⅰテサ1:2-4:9,5:5)。
この手紙には未来的終末論が支配的であるという説もあるが、この手紙には、まさに近づきつつある将来的
終末論と共に、すでに終末的な恵みの現在がしめされているので、両者の関係は二者択一ではなく、両者
併存の緊張関係にあると解される。テキストに即して言うならば、Ⅰテサ5:5は明らかに現在的終末論を
表している。キリシア語原文は、「というのは、あなたたちは光の子、また昼の子であり、私達は夜の子でも
また闇の子でもないからである」となっている。ここで用いられているエステもエスメンも共に直接法
現在形であり、「光の子、昼の子」は「夜の子、闇の子」を圧倒し、超克する終末論的概念として神の創造の
光にあって「新しく想像されたもの」「神の子」と同義に解される。(Ⅱこり5:17,ガラ3:26)
W.ハルニッシュもその論文「終末論的実存」においてすでに早くからこのエステとエスメンの直接方現在形を
重視して、受洗者はすでに今や終末論的人格として、新しい被造者(Ⅱコリ5:17)と言いうることを示している。
ホルツも同じ意味で、その根拠としてガラ3:26とⅡコリ5:17を示している。テサロニケの信徒への手紙一には
もちろん間近に迫った将来的終末論が生き生きと示されている。
だからといって、現在的終末論はまだ示されていない、等ということは少なくともこのテキストからは言えない。

さらに手紙二の終末論が続きます。ハァ~~ (-_-;)
 
私は自分の知らないことを読んだり聞いたりするのが嫌いではありません。
硬いスルメをガシガシ囓っているような快感すら感じたりして・・・・・・・(^^)
先日、一度も教会に行ったことがないという同じ合唱団で歌っている知人がこのブログを読んでくれました。
感想を尋ねると「ウーン、ちょっと堅い感じかな? もう少し柔らかい記事を、もう少し面白く・・・」と
言われました。 「終末論」難しいよね~~\(^o^)/
でも私はこういうことを読んだり聞いたりするのが結構好きで、全くわからなくても面白かったりして・・・(^^)
それにしてもエステとエスメンてなんのことでしょう。ネットで調べられませんでした。(;_;)


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樹林公園の山櫻(続き)です。 今年の櫻はこれで終わります。
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ためらう、偉大なリーダー、モーセ

2018-07-06 11:50:54 | 聖書
旧約聖書は「出エジプト記」を読み始めました。
モーセは神から「虐げられているイスラエルの民をエジプトから救い出す」使命を果たすようにいい渡されるのですが、
アーダ、コーダと言って何とか神様の命令を逃れようとします。
以下は聖書からの抜き書きです。
ブログを読んでくださっているクリスチャンでない方、どうぞモーセのアーダ、コーダを一度お読みくださいませ。


モーセの召命 3章1節~20節

エジプトで人を殺してしまったモーセはミディアンの地に逃れ、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていた。
あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。
そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。
この不思議な光景を見届けようと道をそれたモーセに神は柴の間から声をかけられた。
「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」 
モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、
その痛みを知った。わたしはエジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、
カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。 今、行きなさい。
わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから
導き出さねばならないのですか。」
そして神に訊ねた「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに
遣わされたのです』と言えば、彼らは『その名は一体何か』と問うにちがいありません。 彼らに何と答えるべきでしょうか。」
「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、
ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
これこそ、とこしえにわたしの名
これこそ、世々にわたしの呼び名。

行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに
現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。
あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ
導き上ろうと決心した』と。 彼らはあなたの言葉に従うであろう。
あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。
どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』
わたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。
わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。 その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。」

使命に伴うしるし 4章1節~16節

モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」
と言うと、主はモーセの持っている杖を蛇に替えたり、彼の手を一時的に重い皮膚病に罹らせるというしるしを見せ、「たとえ、彼らが
あなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。 しかし、この二つのしるしの
どちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。
川からくんできた水は地面で血に変わるであろう。」

それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった
今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」
主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、
また見えなくするのか。主なるわたしではないか。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」

モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」
主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを
知っている。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちの
なすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。
あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」

こうして最終的にモーセは(多分、しぶしぶ)神様の召命を受け入れることになりました。
モーセとアロンはエジプト王、ファラオとの交渉に入りますが、ファラオがこれまたアーダ、コーダと言ってイスラエル人を解放しようとしません。
モーセ(神)は次々とファラオとエジプトに災難(しるし)を与えるのですが、ファラオはなかなかギブアップせず、神の前にひざまずこうとしません。
その話も面白くて凄いのでそのうちブログに載せます。
結局、モーセは壮年男子だけで六十万人、女性、老人、子どもを合わせると多分、百万以上の人間、プラス家畜を引き連れてエジプトを脱出します。
その後も神に導かれて乳と蜜の流れるカナンの地に入るまでの40年間、イスラエルの民のリーダーとして砂漠を旅します。
そしてナント! モーセはカナンの地に入ることを許されずに最期を迎えます。
モーセは「出エジプト記」に続く「レビ記」「民数記」「申命記」で(延々と)様々な掟、神との契約などを整えます。
そしてモアブのピスガの山頂で、イスラエルの民がこれから渡ってゆくカナンのすべての町を見渡し、このモアブで死にます。(涙)
聖書、何度読んでも飽きることがありません。


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六月の夕暮れ、午後6時の公園。
右の光は沈む太陽です、「燃える柴」ではありません。 (^-^)
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「ナホム書」は「12小預言者」の第7番目って?

2018-05-18 23:15:59 | 聖書
毎日読んでいる聖書、旧約聖書は、何度目かの「ナホム書」になりました。
まず先に私の唯一の参考図書「聖書事典」の解説を読みました。


「聖書事典」の「ナホム書」解説文書のはじまり**********
1.正典での位置 本書はヘブライ語正典の第2部「預言者」の後半である「後の預言者」の
第4書「12小預言者」のうち第7番目の書である。*********

そういえば、「ヨナ書」や「ハバクク書」の解説も“正典での位置”から
始まっていました。 今まで、勝手に読み飛ばしていましたが、正典、ヘブライ語正典、第2部「預言者」の後半・・・・?? 
私には何のことやら分かりません。 早速、ネットで検索、検索です。


聖書正典(せいしょせいてん。またはカノン(英: Canon))とは、ユダヤ教およびキリスト教の正典である。
ユダヤ教ではヘブライ語聖書(一部アラム語)が聖書正典であり、キリスト教では旧約聖書と新約聖書が聖書正典である。

教会会議の基準で、神的な霊感を受けて書かれたと認められた文書群であり、ユダヤ教、正教会、カトリック教会、
プロテスタント、自由主義神学の高等批評でそれぞれ相違がある。
トリエント公会議は聖書正典を旧約46書、新約27書、合計73巻とした。
プロテスタントは旧約39巻、新約27巻の66巻である。
宗教改革時代はカトリック教会とプロテスタント教会の間に、正典の範囲について議論があったが、双方の間に
聖書が絶対の権威を持つことについての異論はなかった。
旧約聖書はキリスト教徒の名称であるため、ユダヤ教では旧約聖書と呼ばない。
また、ユダヤ教では2区分または3区分にわけられる。そのためこの区分をめぐって複数の説が唱えられてきた。

三大区分説
1.律法(トーラー)5巻。 創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記。
2.預言者(ネヴィイーム)8巻。
    1.前預言者4巻。 ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記
    2.後預言者4巻。 イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、12小預言者(ホセア書他。ナホム書はこの7番目)
3.諸書(ケトビーム)11巻。
    1.真理(エメト)3巻。 詩編、箴言、ヨブ記
    2.巻物(メギロート)5巻。 雅歌、ルツ記、哀歌、伝道の書(コヘレトの言葉)、エステル記
    3.その他3巻。 ダニエル書、エズラ記・ネヘミヤ記、歴代誌

フーム、なんとなく分かりました。
「聖書事典」の記述は、この“三大区分説”に則って書かれているのですね。

ところで「教会会議」の基準で決められた、とありますが、「教会会議」って何なのでしょうか? 
また、公会議との違いは?


教会会議(synodもしくはcouncil)とは、教会の会議。通常はキリスト教教会が、教義や管理上の問題を話し合うために催す会議を指す。
公会議は教会全体の会議であるため(あるいはより正確には、会議の参加者たちを教会全体であるとみなす者が集めた会議であるため)にそう呼ばれる。

↓ 公会議についてのより詳しい解説 
公会議とはキリスト教において全世界の教会から司教(主教)等の正規代表者が集まり、
教義・典礼・教会法などについて審議決定する最高会議。
それぞれの公会議は、開催地の名前を伴って~公会議と呼ばれ、同地域で複数回の公会議が行われた場合は
それぞれ第~を冠する。
別称として、世界公会議、エキュメニカル会議、普遍的公会議、全地公会議、総会議、万国公会議などがある。
公会議(公会)に対して、地方ごとに行われる教会会議も存在する。とくに西ヨーロッパにおいて、地方ごとの
教会会議もしばしば公会議 (concilium, council) と称されることがあるが(例:1095年のクレルモン教会会議を
「クレルモン公会議」と称するなど)、世界公会議と、こうした地方ごとに開催された公会議とも呼ばれる教会会議の
性格は異なる。

教会会議のより権威ある最高会議が公会議なのですね。

公会議は新約聖書の使徒行伝にみられるエルサレム会議がそのルーツであるといえる。初代教会では信仰についての議論が
紛糾すると、各地域において代表者が会議を開き、決議を行っていた。だが、アレイオス派の問題が生じるにいたって、
すべての地域の代表による会議の開催が必要となった。そうして開かれたのが最初の公会議である325年の第1ニカイア公会議であった。
以後、多くの公会議が行われているが、場合によっては、後の公会議や教皇の勅令によって、公会議の無効、または議決の
部分的修正がされる場合がある(たとえば449年のエフェソスにおける会議は「公会議」を名乗りつつも、完全に政治的計算から
行われたため、エフェソス強盗会議(陰謀公会)と呼ばれ、公会議の中には数えられていない)。
西方教会においては、1378年の教会大分裂(シスマ)によってローマとアヴィニョンに教皇が並立し、教皇権の混乱と弱体化を
引き起こした。 この事態は教皇首位説のもとでは解決困難であり、公会議にこそ教会の最高決定能力があるとする公会議主義の
主張が台頭した。
1414年のコンスタンツ公会議では公会議主義者の主導によって公会議主義が決議されたが、教皇至上主義派の巻き返しもあって
後のバーゼル公会議では教皇首位説が決議されることになった。
古代から中世まで、この種の宗教会議はしばしば東ローマ帝国の皇帝や時の権力者が召集し、また議長を務めることすらあり、
世俗権力の強力な影響下で議論されることが多かった。そのため、ローマ使徒座を首位とする西方教会(カトリック教会)では、
ローマ教皇(教皇)自ら出席せずにその特使(枢機卿)を派遣して、後に教皇が決議を承認するという形式が慣例となっていた。
しかし、現在のカトリック教会の定める教会法では、教皇による召集が義務となっている。

公会議に関しては、キリスト教の各教派によってその重要性の解釈は異なっている。
•カトリック教会では、325年の第1ニカイア公会議から1962-65年の第2バチカン公会議までの21回の公会議を認めている。
•プロテスタント諸教会は(宗教改革期以降の公会議はもちろんのこと)すべての公会議を認めているわけではないが、
 特に初期の数回の公会議の重要性は認識されている。
 とくに、当時優勢であった異端アリウス主義を大論争のうえ排斥し、アタナシオスらによって三位一体論を公式に採択した
 第1ニカイア公会議(325年)および第1コンスタンティノポリス公会議(381年)、さらに三位一体論が正統的な神学である
 ことの再確認と、キリストの神人両性論が公式に採択されたエフェソス公会議(431年)およびカルケドン公会議(451年)は、
 プロテスタントの全教派を通して最も重要な歴史的な公会議であるとされている。

聖書の三大区分、教会会議と公会議、今日は聖書とキリスト教のお勉強でした。
それにしても覚えられないな~〈´Д⊂

「高等批評」という言葉も初めて、読めば読むほど分からないことばかりてんこ盛り (´Д⊂

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明後日の日曜日はペンテコステ(聖霊降臨祭)で、礼拝後は祝会です。
皆さま、どうぞお出かけください!


公園の<カキツバタ>も終わりました。
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「ヤコブの手紙」の中見出し

2018-03-03 12:42:45 | 聖書
新約聖書「ヤコブの手紙」読み終わりました。
私の、聖書を読むための唯一の参考文献「聖書事典」によると
『新約聖書に登場するヤコブは少なくとも5人いるが、本書の著者と関係があるとされるのは、
主イエスの兄弟ヤコブである。しかし、本書のような文学的に優れた文書が、この人の筆になるとは
到底考えられないので、彼の名を借りて執筆された無名のユダヤ人キリスト者の作と考えられる。
本書はパウロの信仰義認とのかかわりにおいて低く評価されてきたが、最近の理解によれば、
本書の信仰理解はパウロのものと矛盾するのではなく、その誤解された理解に対してこれを訂正する
ものとして書かれたと言われる。』だ、そうです。

「ヤコブの手紙」は、行い正しくない、なかなか信仰に叶った生活ができていない私にとって、
とても参考になる文書でした。これが完璧にできる聖人君子はそうそういらっしゃらないとは
思いますが、毎日の生活の中で、心がけたいな~、気を付けような~という規範となるような
ことが書かれているように思いました。ここに書かれているように(主のみ心によって)私たちが
生きてゆけば、戦争や虐待、迫害、差別、貧困などが無くなるのではないか、と私は信じて
希望しているのですが・・・・・・・

「ヤコブの手紙」は短い文書なので、読み終わってからパラパラと拾い読みしてみると、
中見出しが具体的で親しみやすいことに気づきました。

「ヤコブの手紙」中見出し

『信仰と知恵』
『貧しいものと富んでいる者』
『試練と誘惑」
『神の言葉を聞いて実践する』
『人を分け隔てしてはならない』
『行いを欠く信仰は死んだもの』
  2:24 人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
『舌を制御する』
  3:8 舌を制御できる人は一人もいません。
  3:9 私たちは舌で父である主を賛美し、また舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。
『上からの知恵』
『神に服従しなさい』
  4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがおこるのですか。
     あなたがた自身の内部で争い合う欲望がその原因ではありませんか。
『兄弟を裁くな』
『誇り高ぶるな』
『富んでいる人たちに対して』
  4:15 「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
『忍耐と祈り』

聖書の文書の中見出し、これまであまり気にかけたことはありません。
他の旧約、新約聖書の文書の中見出しはどんなでしたっけ?記憶にありません。
聖書文書の中見出しはどなたがどんなふうに付けているものなのでしょう?

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春ですね~、梅の花の蜜を吸いに来た<ヒヨドリ>です。
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「天使」って?

2018-01-26 12:44:59 | 聖書
「ヘブライ人への手紙」を2章まで読みました。私には何となく読みにくく難しい文章です。
第1章4節 「御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を
受け継がれたからです」という文章もよく理解できません。
「天使」って何だったっけ? という感じで、お恥ずかしい。
「聖書事典」の天使の項を読みました。
後日、アップできたら書いてみますが、第2章はさらに私にとっては分かり難い文章です。
毎日聖書を読んでいても、知識もなく、頼るのは「聖書事典」のみでダラダラ読んでいると、
分かりやすく耳障りの良い(自分に都合の良い)文章だけが浮き上がってきて、その他の
大部分を読み飛ばしているようです。
素人の聖書読みはそんな感じで仕方無いのでしょうか?

「聖書事典」より************************
ヘブライ語でもギリシア語でも、天使と訳されている語は「使者」を意味する。
人間よりもいくぶん地位が高く、天において神に仕える超自然的で霊的な人格的存在。
被造物なので礼拝の対象とされてはならない。
人間のような聖別を持たず、結婚することは無い。
神の使いは人間の形をとってアブラハム、モーセ、ヨシュアに現れ、またエリヤや
ダニエルにも現れた。
イエスの生涯において特に明らかで、イエスと先駆者ヨハネの誕生を告げ、
羊飼いたちにイエスの到来を告げ、荒れ野の誘惑に勝利を得られたイエスに仕え、
イエスの復活と昇天の知らせを弟子たちにもたらした。
天使は神自身の現れとして、神と共に、また神を区別されたものとして現れる。
自由意思を持つ人格的な存在なので、御使いの中には堕落した者もいる。
特別の名を持つ者もあり、ミカエルは戦いに関して現れ、ガブリエルは告知などに現れる。
エデンの園の入口のケルビムやイザヤが幻に見たセラフィムも天使であろう。
**************************************
解説を読むと「そうそう」と、旧約聖書の場面も新約聖書の場面も思い出されました。
よかった~ (^-^)

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猛禽から逃れ、枝に固まって難を避ける<アオゲラ>です。
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「テサロニケの信徒への手紙 一」

2017-12-15 16:29:01 | 聖書
「テサロニケの信徒への手紙 一」を読み始めました。 わずか5章という短い文書です。

「聖書事典」の解説から ******************
「テサロニケ信徒への手紙 一」はパウロ、シルワノ、テモテによって、パウロによって建てられた
テサロニケの教会宛てに後50年に執筆されたものと推定されるので、新約文書中最古の文書であり、
パウロの七つの真正書簡中最初の書簡である。
(「テサロニケの信徒への手紙 二」はパウロの名によって、パウロの弟子によって書かれたものと
推定される)

テサⅠの終末論は、主イエスの来臨を間近に待ち望んでいるという点では、将来的終末論という要素がある。
しかし、そのことは決して主イエスによってすでにもたらされている終末論的な恵みの現在がこの手紙には
認められないということではない。
むしろ主イエスの来臨を将来の出来事として待望するとともに、主イエス・キリストに在るテサロニケの
兄弟たちが神に選ばれ、愛され、すべて光の子、昼の子であるという恵みの現在に生かされていることを
パウロは認めて感謝している(テサⅠ 1:2-4:9,5-5)
この手紙には未来的終末論が支配的であるという説もあるが、この手紙には、まさに近づきつつある
将来的終末論と共に、すでに終末的な恵みの現在が示されているので、両者の関係は二者択一ではなく、
両者併存の緊張関係にあると解される。テサⅠ 5:5はあきらかに現在的終末論を表している。

(中、略)

テサⅠにはもちろん間近に迫った将来的終末論が生き生きと示されている。
だからと言って、現在的終末論はまだ示されていない、等ということは少なくともこのテキストからは言えない。
***************************************

!ハイ、分かりました、多分!
神様を信じて生きている毎日の毎時間、私の心は満たされています。
もちろん、不安に襲われ鬱々と過ごす時間もたくさんありますが、面と向かって問われたら「私は神様に
依って満たされている」と答えます。
つまり「終末的な恵みの現在を自覚している」と自分では思っています。
聖書を読む恵み、神共に在りと信じて祈りながら生活できる恵み、感謝です。
しかし、フト、こういう信仰を、神様を知らない友人知人隣人に一体どうやったら伝えられるのかな~
と考えます。 
ほとんど焼け石に水状態ですが、私は、友人知人隣人との会話に(できる時は)必ず私の信仰、
私の神様のことを話すようにしています。 一方的な働きかけは全く実を結びませんね~。
困難、艱難に出会った友人知人隣人から何らかの働きかけがあったら、お互いに引き付けあって
神様の存在を伝えること、知ることができるのかもしれません。

面白い牧師さんのブログを見つけました。
時々「ヤケのヤンパチ」のように見えたりして笑ってしまいますが、言わんとするところ、その志に
拍手したいです。日本のキリスト教、クリスチャンはなんとなくエリートっぽいのでしょうか。
いつもキャアキャア笑いあっているお隣の奥さん、私の妹、一緒にカラオケに行く仲間、お稽古ごとの
仲間たちにキリストによる本当の平安を伝えるには・・・・・・・私は時々考えます。

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冬の夕暮れ、自然はなんと美しいのでしょう。
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献げ物のカレンダー

2017-05-11 12:15:20 | 聖書
「民数記」28章~29章(献げ物の規定)を読みました。
生きた家畜を屠っての献げ物、少々興味が湧いてこの箇所をまとめてみました・・・・・が! 
途中で、以前もこの箇所をまとめてこのブログにアップしたような気がしてきました。
自分のブログ記事を忘れるなんて、恥ずかしいことですが、聖書は膨大で難しく、何度読んでも
新鮮な書物ですから、私のポカをどうぞ大目にください。
ということで「献げ物のカレンダー」再掲です。<(_ _)>
私の以前の記事をご記憶の方は(お一人もいらっしゃらないと思いますが)どうぞスルーしてください。
献げ物については「レビ記」にも詳しく記述されています。興味のある方はそちらもお読みくださいませ。

*************************************************************************
日ごとの献げ物
無傷の一歳の羊二匹を、日ごとの焼き尽くす献げ物として、毎日、朝夕に一匹ずつ。
上等の小麦粉十分の一エファに上質のオリーブを砕いて取った油四分の一ヒンを混ぜた穀物の献げ物。   
添えるぶどう酒の献げ物として酒を注ぐ。

安息日の献げ物
無傷の一歳の羊二匹をささげ、上等の小麦粉十分の二エファにオリーブ油を混ぜて作った穀物の献げ物と
ぶどう酒の献げ物を添える。
日ごとの焼き尽くす献げ物とぶどう酒の献げ物に加えるべきものである。

一日(ついたち)の献げ物
毎月のついたちには、若い雄牛二頭、雄羊一匹、無傷の一歳の羊七匹を焼き尽くす献げ物として、主にささげる。
雄牛一頭について穀物の献げ物として、オリーブ油を混ぜた上等の小麦粉十分の三エファ、雄羊一匹について、
穀物の献げ物としてオリーブ油を混ぜた上等の小麦粉十分の二エファ、子羊一匹について、穀物の献げ物として
オリーブ油を混ぜた上等の小麦粉十分の一エファをささげる。
それに添えるぶどう酒の献げ物は、雄牛一頭についてぶどう酒二分の一ヒン、雄羊一匹について三分の一ヒン、
子羊一匹について四分の一ヒンとする。
一年を通じて毎月ささげる焼き尽くす献げ物である。
また、日ごとの焼き尽くす献げ物およびぶどう酒の献げ物に加えて贖罪の献げ物として雄山羊一匹を主にささげる。

除酵祭の献げ物
第一の月の十四日は、主の過ぎ越しである。十五日は祭りの日である。あなたたちは七日の間、酵母を入れない
パンを食べる。初日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。
若い雄牛二頭、雄羊一匹、一歳の羊七匹、すべて傷の無いものを燃やして献げる焼き尽くす献げ物として主にささげる。
雄牛一頭について穀物の献げ物としてオリーブ油を混ぜた上等の小麦粉十分の三エファ、雄羊一匹について十分の
二エファ、子羊七匹については、一匹につき十分の一エファを献げる。
雄山羊一匹を贖罪の献げ物とし、あなたたちのために罪を贖う儀式を行う。
日ごとの焼き尽くす献げ物の一部として、朝にささげる焼き尽くす献げ物のほかに、以上のものをささげねばならない。
七日の間、毎日、日ごとの焼き尽くす献げ物とぶどう酒の献げ物に加えてささげるべきものである。
七日目には聖なる集会を開く。 いかなる仕事もしてはならない。

七週祭の献げ物
初物の日、すなわち七週祭に新穀の献げ物を主にささげるときには、聖なる集会を開く。
いかなる仕事もしてはならない。
若い雄牛二頭、雄羊一匹、一歳の羊七匹を焼き尽くすささげものとしてささげる。
雄牛一頭について、穀物の献げ物としてオリーブ油を混ぜた上等の小麦粉十分の三エファ、雄羊一匹について
十分の二エファ、子羊七匹については、一匹につき十分の一エファを献げる。
また、雄山羊一匹をささげて罪を贖う儀式を行う。
日ごとの焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物のほかに以上のものを献げる。それにはぶどう酒の献げ物を添える。

第七の月の一日(ついたち)の献げ物
第七の月のついたちには聖なる集会を開く。 いかなる仕事もしてはならない。角笛を吹き鳴らす日である。
若い雄牛一頭、雄羊一匹、無傷の一歳の羊七匹を、焼き尽くす献げ物とする。
雄牛一頭について、穀物の献げ物としてオリーブ油を混ぜた上等の小麦粉十分の三エファ、雄羊一匹について
十分の二エファ、子羊七匹については、一匹につき十分の一エファを献げる。
また、雄山羊一匹を贖罪の献げ物とし、罪を贖う儀式を行う。
新月に捧げる焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物、および日ごとの焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物、それに
添えるぶどう酒の献げ物のほかに、以上のものを規定に従ってささげ、燃やして主にささげる宥めの香りとする。

第七の月の十日の献げ物
第七の月の十日には聖なる集会を開く。 苦行をし、いかなる仕事もしてはならない。
若い雄牛一頭、雄羊一匹、一歳の羊七彦を焼き尽くす献げ物として。
それらは無傷のものでなければならない。
雄牛一頭について、穀物の献げ物としてオリーブ油を混ぜた上等の小麦粉十分の三エファ、雄羊一匹について
十分の二エファ、子羊七匹については、一匹につき十分の一エファをささげる。
雄山羊一匹を贖罪の献げ物とする。
日ごとの焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、それに添えるぶどう酒の献げ物のほかにささげる。

第七の月の十五日の献げ物 八日間にわたって献げ物をするようです。
一日目
聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。 
若い雄牛十三頭、雄羊二匹、一歳の羊十四匹を、焼き尽くす献げ物として主にささげ、宥めの香りとする。
それらは無傷のものでなければならない。
雄羊十三頭については、一頭につき穀物の献げ物としてオリーブ油を混ぜた上等の小麦粉十分の三エファ、
雄羊二匹については、一匹につき十分の二エファ、子羊十四匹については一匹につき十分の一エファを献げる。
また雄山羊一匹を贖罪の献げ物とする。
日ごとの焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、ぶどう酒の献げ物のほかにささげる。

二日目
若い雄牛十二頭、雄羊二匹、無傷の一歳の羊十四匹をささげ、おのおのについて、規定の数量の穀物の献げ物と
ぶどう酒の献げ物をささげる。
雄山羊一匹を贖罪の献げ物とする。 日ごとの献げ物にほかにささげる。

三日目
雄牛十一頭、雄羊二匹、無傷の一歳の羊十四匹をささげ、おのおのにつて、規定の数量の穀物の献げ物と
ぶどう酒の献げ物をささげる。
雄山羊一頭、贖いの献げ物。 日ごとの献げ物のほか。

四日目
雄牛十頭、雄羊二匹、無傷の一歳の羊十四匹、規定の数量の穀物の献げ物とぶどう酒の献げ物をささげる。
雄山羊一匹、贖罪の献げ物。 日ごとの献げ物のほか。

五日目
雄牛九頭、雄羊二匹、無傷の一歳の羊十四匹、規定の数量の穀物の献げ物とぶどう酒の献げ物
雄山羊一匹、贖罪の献げ物。 日ごとの献げ物のほか。

六日目
雄牛八頭、雄羊二匹、無傷の一歳の羊十四匹、規定の数量の穀物の献げ物とぶどう酒の献げ物。
雄山羊一匹、贖罪の献げ物。 日ごとの献げ物のほか。

七日目
雄牛七頭、雄羊二匹、無傷の一歳の羊十四匹をささげ、各々について、規定の数量の穀物の
献げ物とぶどう酒の献げ物をささげる。
雄山羊一匹を贖罪の献げ物とする。 日ごとの献げ物のほか。

八日目
聖なる集まりを開く。 いかなる仕事もしてはならない。
雄牛一頭、雄羊一匹、無傷の一歳の羊七匹を焼き尽くす献げ物とした主にささげ、燃やして宥めの香りとする。 
おのおのについて、規定の数量の穀物の献げ物とぶどう酒の献げ物をささげる。
雄山羊一匹を贖罪の献げ物とする。 日ごとの献げ物の他。

以上は祝日に主にささげられるもの。
満願の献げ物や随意の献げ物としてささげる焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、ぶどう酒の献げ物および
和解の献げ物とは別のものである。
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道端に咲く<クビナガヒナゲシ>
雑草だと思いますが、近年よく見かける可憐な花です。
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新しい聖書を買いました。

2017-04-18 22:02:15 | 聖書
一昨日の日曜日、イースター礼拝に来てくれた未信者の友人が聖書を買いたいと言いました。

私が毎日読んでいる聖書ももう十年近く使っていて、背中の糸綴じ部分がグサグサ、
コロンとした小さな聖書の文字は老眼には厳しく、私も新しい聖書が欲しいと思っていました。
礼拝の後、二人で銀座の「教文館」に行き、聖書を買いました。
私の新しい聖書は 21.8cmx16.5cmx5.5cm 字が大きくて読みやすい!

家に戻って、早速新しい聖書を開き、お気に入りの箇所やわからない箇所に丁寧に(きっと、
丁寧なのは最初だけですね)線を引いたり印をつけたりしました。 嬉しいです。

ご参考までに(なんの参考にもならないかな?)線を引いたのは下のようなところです。

☆お気に入り
  「ルカによる福音書」24章30節~32節  エマオで現れる
  「サムエル記 下」6章20節~22節  踊るダビデと嗤うミカル
  「サムエル記 下」19章6節~8節  ダビデとヨアブ
☆信仰
  「ダニエル記」3章17節~18節  シャドラクたちの信仰
  「マタイによる福音書」16章16節~  ペトロの信仰
  「マルコによる福音書」9章23節~24節  父親の信仰
☆祈り
  「民数記」14章13節~19節  モーセの祈り
  「サムエル記 下」7章18節~29節  ダビデの祈り
  「列王記 上」8章22節~53節  ソロモンの祈り
  「ヨハネによる福音書」17章1節~26節 イエスの祈り
☆どうして?と思うところ
  「創世記」4章1節~7節 カインとアベルの献げ物についての神の評価
  「マタイによる福音書」27章15節~ 「ルカによる福音書」23章13節~14節
         ポンテオ・ピラトに関して
☆その他 心に響くところ
  「コリントの信徒への手紙 一」7章14節 夫が救われますように、共に
                      御国に入れますように!

  「申命記」3章23節~28節  モーセの願い
  「ローマの信徒への手紙」14章7節~8節  私たちは主のもの

一緒に行った友人は一回り小さな聖書を買いました。
彼女は家が遠いこともあってクリスマス礼拝とイースター礼拝くらいしか
美竹教会には来られませんが、「少し真面目に聖書を読みましょう」と言ってくれました。
嬉しいことです。


私の新しい聖書です。

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?(ハテナ)マーク その3

2016-09-04 20:22:31 | 聖書
「ルカによる福音書」23章13節~24節
ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、言った。
「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れてきた。わたしは
あなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男にはなにも見つからなかった。
ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に
当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。
このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。
ピラトはイエスを釈放しようと思って、あらためて呼びかけた。
しかし人々は、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。
「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。
だから、鞭で懲らしめた釈放しよう。」
ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。
その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。
そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求通りに釈放し、イエスの方は
彼らに引き渡して好きなようにさせた。


私の三つ目のハテナマークは「使徒信条(信仰告白)」でいつも悪者にされている
ポンテオピラトのことです。
ピラトはイエスについて罪を見いだせず何回もユダヤ人にそのことを告げます。
イエスとユダヤ人(祭司長や議員や民衆)との間を行ったり来たりしてイエスを死刑にする判決を
下すことを避けようとします。 
最終的には自分の地位保全のためにイエスを十字架に付けることを許すのですが・・・・  
ピラトの優柔不断な姿は私自身を見るようです。 その弱さに私は親近感すら感じてしまいますが、
そのピラトは「使徒信条(信仰告白)」の中で「ポンテオピラトの下に苦しみを受け・・・・・」と、
2000年近くにわたってクリスチャンによって悪者のように唱えられ続けています。
先週の主日礼拝の説教で、左近深恵子牧師は光(イエス)と闇(ユダヤ人)の間を行ったり来たりする
ピラトについて語られました。 昼食をとりながらの懇談会で、ピラトについてお尋ねしてみました。
短い使徒信条の中にピラトを入れることによって、そこにローマ帝国との関係を描き出し、
そのことによってキリスト教がユダヤ地方のローカルなカルト?ではなく世界に広がる宗教であることが
示されるそうです。(記憶力減退気味の私は少々うろ覚えで自信イマイチですが)
そんな説明だったと思います。
な~るほど、と納得しました、ってホントに分かったのか、自分?ではありますが・・・・(´_`。)
そういうことのようです。
ピラトのように闇と光の間をウロウロしている私の信仰は本当に弱く浅く薄いものです。
私の依るべき方は神様しかおられないのに困ったことです。
「神は常に私と共にいてくださる」という信仰がなかったら私は本当に生きていくのが辛いです。

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ぎっくり腰になってしまった(泣きっ面に蜂の)私は今日は礼拝に出られませんでした。(ノд・。)


<ツバメシジミ> シジミよりも小さな個体でした。
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