ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

妹の孫娘

2020-11-23 12:43:11 | 今日の聖句
今日の聖句は「ルカによる福音書」 21章1節~4節 です。

21:01イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。
21:02そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、 21:03言われた。
「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。

21:04あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から
持っている生活費を全部入れたからである。」

妹の孫娘は新型コロナウィルス感染拡大の直前に大学を休学してオーストラリアに行きました。 
アルバイトをしながら大好きな料理の道を学ぶ専門学校に通うためでした。
オーストラリアへ旅立つ前、妹は孫娘に「何かあったら教会に行きなさいね。」と言って
おいたそうです。
半年たった今、コロナ禍の影響で孫娘は日本に帰ることができないでいます。

は アルバイトも見つからず、苦しい生活を送っている彼女と妹のメールのやりとりです。

「この間、教会のバザールに行ったら、缶詰をとても安く売っていたのでたくさん買ってきて、
本当に助かった~~ 礼拝で献金があったけど、お金が無いのでどうしようか迷って100円だけ
してきた、あれでよかったのかな~」
「100円は Haru にとって精一杯の献金だから良かったと思うよ。 神さまにお祈りしなさいね。」 
「お祈りって何を言えばいいの?」 
「神さまに感謝しなさい。健康で無事に過ごさせていただいていること、何でも感謝の言葉を・・・・」

岐阜に住む私の妹はクリスチャンではありません。でも東京に来ると私と一緒に美竹教会の礼拝に
出席するのをとても楽しみにしています。
「私はクリスチャンではないけれど、実家にいた頃のお母さんや姉さんの生活から、心の中に自然と
神様のことがあるのかもしれないね~」と妹は言います。
妹のアドバイスから教会にいった孫娘の Haru。その心に神様の御言葉は残るかもしれません。
そんなふうにして神様の御心は伝わっていくのかもしれません。
私は、妹が神様の御国と民として歩む日が来ますように、その機会を与えてくださるよう
神さまにいつもお祈りしています。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。


コスモスの蜜を吸う<ツマグロヒョウモン(♀)>です。
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群衆の力

2020-11-11 12:23:11 | 今日の聖句
「マルコによる福音書」11章1節~11節

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、
イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、
まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここに
お返しになります』と言いなさい。」 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないである
のを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいて
どうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれに
お乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って
道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや
夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


「マルコによる福音書」15章6節~14節

ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき
人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、
いつものようにしてほしいと要求し始めた。 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放して
ほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた
からである。 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。
そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうして
ほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」 ピラトは言った。「いったい
どんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。

新約聖書は「マルコによる福音書」を読んでいます。
今日の聖書箇所は、ベトファゲとベタニアでは「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福が
あるように」とイエスを賛美した民衆が、エルサレムで祭司長たちに扇動されると「十字架に
つけろ」と叫ぶという所です。ベトファゲやベタニアで讃えられていた主が、すぐ近くの
エルサレムでは十字架の判決を受けるって、この民衆の変わり身は何??と思います。

一人ひとりは穏やかで冷静でもいられる人間ですが群れをなして「民衆」となると強力なパワーを
持ちます。一人では生きられない人間(私)は様々な群れ(団体)に所属していますが、その多くは
人畜無害というか、それほど深刻になる問題を抱えてはいないつもりでいます。
でも、気づかないだけで私も何かに対して大きな負担や圧力をかけているかもしれません。
普通に生活していることがすでに何か(例えば地球環境や人間以外の生物等)に対して負の存在
なのかもしれません。群衆の中の一人として、今自分はどちらを向いているのか、自分が属している
群れは何をしようとしているのか、冷静に考えられますように!



「新共同訳聖書」の載っている地図です。
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