ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「むさぼりの底で」

2016-07-31 21:05:02 | 説教
今日、7月31日の主日礼拝は目白町教会担任教師の土肥研一先生によってなされました。
土肥先生は普段は日本基督教団出版局で働いていらして、教会の教師もなさっています。
説教のテキストは「ローマの信徒への手紙」7章7節~12節 タイトルは「むさぼりの底で」
************************************
律法によらなければわたしは罪を知らなかったでしょう。
たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。


「ハイデルベルク信仰問答」は16世紀にドイツの町ハイデルベルクで書かれたカルヴァン派の
信仰問答書で、129の問答が、人間の悲惨、救い、感謝の三部に分かれて書かれています。

人間の悲惨さについて、自分の悲惨を知るには律法に依らなければならない。
律法は聖なるもの、光であり、私達に属していない、神に属しているものです。
私は幼いころから「彷徨うように地上に生きている」という感覚を持ち続けていました。
教会にあこがれ、そこに行けば何か解決するのではないか、と考えていました。

「罪」とは心が自分の内側に曲がっている状態です。本当は心は世界に、神に、隣人に開かれて
いるはずのものです。それが自分の中に曲がりこんでゆくのが罪です。
神の御言葉(律法)は私たちの曲がり具合、悲惨さを照らし出します。

律法といえば、モーセの十戒がありますが、その第十番目の戒律が「むさぼるな」というものです。
これは「隣人のものを欲してはならない」と言っているものです。
私達は神からあふれるほどの恵みをいただいている、だから隣人のものを欲してはならない、
というのです。 十戒は原語を読むと決して命令形ではかかれていません。
「あなたはむさぼらないでしょう」「あなたは隣人のものを欲するはずはない、なぜならあなたは
私の愛と恵みを知っているのだから・・・」
この声を通してパウロは(そして私達も)むさぼり、罪、悲惨を知らされます。この律法が私たちの
心にずっと突き刺さるということは、生涯にわたって繰り返される恵みの出来事です。

あのダビデ王は家臣の妻バト・シェバに心惹かれ、その家臣を戦死させて奪いました。 
預言者ナタンに諌められたダビデは「私は主に対して罪を犯しました」と懺悔しました。
律法の声を聴くとき、私達は「むさぼりの底」にいる自分に気づきます。
それは神のみがご存知のことで、律法は神に願うよりほかない場所に私たちを連れて行きます。
これは正に私たちの救いの出来事なのです。

私は、昼間の出版社での仕事が終わると、その帰り道、殆ど毎日教会に寄って律法の力で
自分のダメなところと向き合います。「むさぼりの底」で私はイエスに出会います。
預言者ナタンがダビデに言った言葉「主があなたの罪を取り除かれた」という神の許しの声を
十字架の上に聞いて、もう一度歩み始めることができます。

ここで、律法の意味が変わってくる、新しい意味が加わるのです。
復活の主と共に生きる時、律法は新しい生活の手引きとなるのです。
神の御言葉「私の恵みはあなたに十分にある」 十字架の上の主の御言葉「あなたは
むさぼらなくてよい」という御言葉に寄りすがって今週も歩みましょう。  (文責:ゆうゆう)
********************************************

お説教を聞きながらメモした要約は非常に大雑把で間違っているところもあります。
土肥先生、そして読んでくださった方々、どうぞお許しください。
説き明かしをお聴きして、神からの恵みを感謝することもせず、他人と比較しては嘆いたり
悲しんだりする(むさぼるだけの)毎日の私は本当に愚かでかたくなな者だと思い至りました。
「あなたは隣人のものを欲するはずはない、なぜならあなたは私の愛と恵みを知っているのだから・・・・・」  
本当にそうです、
「この律法が私たちの心にずっと突き刺さるということは、生涯にわたって繰り返す恵みの出来事です。」 
本当にそうです。
どうか喜びと平安を持って最期まで生きてゆけますように私をお導きくださいと心から祈りました。
(土肥先生が幼い頃から抱いていた「彷徨うように地上に生きている」という感覚、胸に迫りました。)



公園の花一輪、咲き残っていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「詩篇49編」

2016-07-29 16:58:48 | 聖書
今、旧約聖書は「歴代史下」を読んでいます。
ソロモン王がエルサレム神殿を建て、亡くなった後、イスラエルは南北に分裂します。
ここには北王国イスラエルが滅び、南王国ユダも滅びるまでが描かれているようです。
新約聖書は「ルカによる福音書」の、イエスが捕えられ十字架に付けられる所を読んでいます。 
信仰薄き私は自分の十字架を背負ってイエスのみ跡をたどっているでしょうか?
ただただ聖書を読み、祈り、礼拝に集い、神様にしがみついています。

今日は詩篇49遍も読みました。心に深く響く詩でした。

「詩編」49編

   諸国の民よ、これを聞け この世に住む者は皆、耳を傾けよ
   人の子らはすべて 豊かな人も貧しい人も。
   わたしの口は知恵を語り わたしの心は英知を思う。
   わたしは格言に耳を傾け 竪琴を奏でて謎を解く。

   災いのふりかかる日 わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも
   どうして恐れることがあろうか 財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。
   神に対して、人は兄弟をも贖いえない。
   神に身代金を払うことはできない。
   魂を贖う値は高く とこしえに、払い終えることはない。
   人は永遠に生きようか。 墓穴を見ずにすむであろうか。
   人が見ることは 知恵ある者も死に 無知な者、愚かな者と共に滅び
   財宝を他人に遺さねばならないということ。
   自分の名を付けた地所を持っていても 
   その土の底だけが彼らのとこしえの家 代々に彼らが住まう所。

   人間は栄華のうちにとどまることはできない。 屠られる獣に等しい。
   
   これが自分の力に頼る者の道 自分の口の言葉に満足する者の行く末。
   陰府に置かれた羊の群れ 死が彼らを飼う。
   朝になれば正しい人がその上を踏んで行き 誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。
   しかし、神はわたしの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる。
   人に富が増し、その家に名誉が加わるときも あなたは恐れることはない。
   死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず 
   名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。
   命のある間に、その魂が祝福され 幸福を人がたたえても 
   彼は父祖の列に帰り 永遠に光を見ることはない
   
   人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。 屠られる獣に等しい。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
7月31日(日)は土肥研一先生が説教で、御言葉を解き明かしてくださいます。
若き伝道者、土肥先生の(多分)歯切れの良いきっぱりとしたメッセージ、楽しみです。
教会は初めて、というかたもどうぞ是非お出かけください。


  
  川のカルガモ雛は大分大きくなっていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「海が割ける時」

2016-07-23 20:26:14 | 説教
先週の主日礼拝説教です。




美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。

連れ合いを喪うという悲しみの中で、危うく、いただいた礼拝説教のプリントを
載せ損ねてしまうところでした。 明日は、もう次の主日礼拝です。
今、私の時は止まり、心は固く凍りついたような状態です。
神様やイエス様の御姿さえ見失っているような状態です。
それでも「主は我と共にあり」とお題目(笑)のように唱え思い続け、礼拝に出ています。
苦しくても祈り続けています。 聖書と礼拝が今の私の拠り所です。
世界中のご夫婦の50%は連れ合いに先立たれるわけで、カップルの半数がこのような
悲しみ、寂しさに耐えていると考えると、凄いです。
熟年、老年の方が一人で歩いているのを見ると、この人もまた・・・・とつい勝手に
想像してしまいます。(笑)


公園の翡翠(カワセミ) 池の木陰で一休み。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

列王記 下 (読書メモ)

2016-07-20 10:49:11 | 読書メモ(列王記下)
列王記(下)はこれまで何度か読みました。
ソロモン王の没後、分裂した南王国(ユダ)と北王国(イスラエル)の王達の列伝です。
互いに相手の国の王様を引き合いに出して書かれているのですが、文字で読むと
イマイチ分かりにくく、同名の王様もいたりして混乱します。。
自己流の記号を付けたりして読書メモを取りながら読んでみました。 
読んでいる間もなんとなく分かりやすかったのですが、後でメモだけ見てもやはり私には
分かりやすいです。(笑)  ブログをご覧の方で分かりにくいメモだ!と思われる方が
いらしたら、どうぞ聖書の「列王記下」を読みながらメモをご覧になってみてください。






美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。

 「迷える羊・からし種の会」(仮称) 
   毎月第4日曜日の午後、 昼食持ち寄り会費無しで教会員どなたでも
   気軽に参加できる交わりの会を新しく開設いたします。
   初回は7月24日(日)礼拝後です。
   皆さま、こぞってご参加ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「過ぎ越しの羊」

2016-07-15 21:47:57 | 説教
先週の主日礼拝説教です。




<ご報告>
連れ合いの病のためしばらくブログを休んでおりましたが、5月29日夕刻、
私の連れ合いは自宅で、静かに旅立ちました。
夫の仏式の葬儀は通夜、告別式と続き、先日四十九日の法要のあと遺骨を
菩提寺の墓地に納骨して一応、一段落いたしました。
身体も疲れましたが気持ちの整理は全くつかず、この先もどんな風になるのか
私は自信がありません。
とりあえず教会の礼拝からはじめて少しずつ外にでるようにしなくては、と先週は
美竹教会に行き、お説教のプリントも戴きました。
ブログにアップすることにしました。
まだまだ「開店休業」状態が続くと思いますがブログも徐々に再開したいと思います。
「インマヌエル(主、我と共にあり)」の信仰に依り頼み日々を過ごしています。


夫に届けられた花篭の一つです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする