今日、7月31日の主日礼拝は目白町教会担任教師の土肥研一先生によってなされました。
土肥先生は普段は日本基督教団出版局で働いていらして、教会の教師もなさっています。
説教のテキストは「ローマの信徒への手紙」7章7節~12節 タイトルは「むさぼりの底で」
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律法によらなければわたしは罪を知らなかったでしょう。
たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
「ハイデルベルク信仰問答」は16世紀にドイツの町ハイデルベルクで書かれたカルヴァン派の
信仰問答書で、129の問答が、人間の悲惨、救い、感謝の三部に分かれて書かれています。
人間の悲惨さについて、自分の悲惨を知るには律法に依らなければならない。
律法は聖なるもの、光であり、私達に属していない、神に属しているものです。
私は幼いころから「彷徨うように地上に生きている」という感覚を持ち続けていました。
教会にあこがれ、そこに行けば何か解決するのではないか、と考えていました。
「罪」とは心が自分の内側に曲がっている状態です。本当は心は世界に、神に、隣人に開かれて
いるはずのものです。それが自分の中に曲がりこんでゆくのが罪です。
神の御言葉(律法)は私たちの曲がり具合、悲惨さを照らし出します。
律法といえば、モーセの十戒がありますが、その第十番目の戒律が「むさぼるな」というものです。
これは「隣人のものを欲してはならない」と言っているものです。
私達は神からあふれるほどの恵みをいただいている、だから隣人のものを欲してはならない、
というのです。 十戒は原語を読むと決して命令形ではかかれていません。
「あなたはむさぼらないでしょう」「あなたは隣人のものを欲するはずはない、なぜならあなたは
私の愛と恵みを知っているのだから・・・」
この声を通してパウロは(そして私達も)むさぼり、罪、悲惨を知らされます。この律法が私たちの
心にずっと突き刺さるということは、生涯にわたって繰り返される恵みの出来事です。
あのダビデ王は家臣の妻バト・シェバに心惹かれ、その家臣を戦死させて奪いました。
預言者ナタンに諌められたダビデは「私は主に対して罪を犯しました」と懺悔しました。
律法の声を聴くとき、私達は「むさぼりの底」にいる自分に気づきます。
それは神のみがご存知のことで、律法は神に願うよりほかない場所に私たちを連れて行きます。
これは正に私たちの救いの出来事なのです。
私は、昼間の出版社での仕事が終わると、その帰り道、殆ど毎日教会に寄って律法の力で
自分のダメなところと向き合います。「むさぼりの底」で私はイエスに出会います。
預言者ナタンがダビデに言った言葉「主があなたの罪を取り除かれた」という神の許しの声を
十字架の上に聞いて、もう一度歩み始めることができます。
ここで、律法の意味が変わってくる、新しい意味が加わるのです。
復活の主と共に生きる時、律法は新しい生活の手引きとなるのです。
神の御言葉「私の恵みはあなたに十分にある」 十字架の上の主の御言葉「あなたは
むさぼらなくてよい」という御言葉に寄りすがって今週も歩みましょう。 (文責:ゆうゆう)
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お説教を聞きながらメモした要約は非常に大雑把で間違っているところもあります。
土肥先生、そして読んでくださった方々、どうぞお許しください。
説き明かしをお聴きして、神からの恵みを感謝することもせず、他人と比較しては嘆いたり
悲しんだりする(むさぼるだけの)毎日の私は本当に愚かでかたくなな者だと思い至りました。
「あなたは隣人のものを欲するはずはない、なぜならあなたは私の愛と恵みを知っているのだから・・・・・」
本当にそうです、
「この律法が私たちの心にずっと突き刺さるということは、生涯にわたって繰り返す恵みの出来事です。」
本当にそうです。
どうか喜びと平安を持って最期まで生きてゆけますように私をお導きくださいと心から祈りました。
(土肥先生が幼い頃から抱いていた「彷徨うように地上に生きている」という感覚、胸に迫りました。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/66/07af84863bffa5eaadaef36a8f0cbf6b.jpg)
公園の花一輪、咲き残っていました。
土肥先生は普段は日本基督教団出版局で働いていらして、教会の教師もなさっています。
説教のテキストは「ローマの信徒への手紙」7章7節~12節 タイトルは「むさぼりの底で」
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律法によらなければわたしは罪を知らなかったでしょう。
たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
「ハイデルベルク信仰問答」は16世紀にドイツの町ハイデルベルクで書かれたカルヴァン派の
信仰問答書で、129の問答が、人間の悲惨、救い、感謝の三部に分かれて書かれています。
人間の悲惨さについて、自分の悲惨を知るには律法に依らなければならない。
律法は聖なるもの、光であり、私達に属していない、神に属しているものです。
私は幼いころから「彷徨うように地上に生きている」という感覚を持ち続けていました。
教会にあこがれ、そこに行けば何か解決するのではないか、と考えていました。
「罪」とは心が自分の内側に曲がっている状態です。本当は心は世界に、神に、隣人に開かれて
いるはずのものです。それが自分の中に曲がりこんでゆくのが罪です。
神の御言葉(律法)は私たちの曲がり具合、悲惨さを照らし出します。
律法といえば、モーセの十戒がありますが、その第十番目の戒律が「むさぼるな」というものです。
これは「隣人のものを欲してはならない」と言っているものです。
私達は神からあふれるほどの恵みをいただいている、だから隣人のものを欲してはならない、
というのです。 十戒は原語を読むと決して命令形ではかかれていません。
「あなたはむさぼらないでしょう」「あなたは隣人のものを欲するはずはない、なぜならあなたは
私の愛と恵みを知っているのだから・・・」
この声を通してパウロは(そして私達も)むさぼり、罪、悲惨を知らされます。この律法が私たちの
心にずっと突き刺さるということは、生涯にわたって繰り返される恵みの出来事です。
あのダビデ王は家臣の妻バト・シェバに心惹かれ、その家臣を戦死させて奪いました。
預言者ナタンに諌められたダビデは「私は主に対して罪を犯しました」と懺悔しました。
律法の声を聴くとき、私達は「むさぼりの底」にいる自分に気づきます。
それは神のみがご存知のことで、律法は神に願うよりほかない場所に私たちを連れて行きます。
これは正に私たちの救いの出来事なのです。
私は、昼間の出版社での仕事が終わると、その帰り道、殆ど毎日教会に寄って律法の力で
自分のダメなところと向き合います。「むさぼりの底」で私はイエスに出会います。
預言者ナタンがダビデに言った言葉「主があなたの罪を取り除かれた」という神の許しの声を
十字架の上に聞いて、もう一度歩み始めることができます。
ここで、律法の意味が変わってくる、新しい意味が加わるのです。
復活の主と共に生きる時、律法は新しい生活の手引きとなるのです。
神の御言葉「私の恵みはあなたに十分にある」 十字架の上の主の御言葉「あなたは
むさぼらなくてよい」という御言葉に寄りすがって今週も歩みましょう。 (文責:ゆうゆう)
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お説教を聞きながらメモした要約は非常に大雑把で間違っているところもあります。
土肥先生、そして読んでくださった方々、どうぞお許しください。
説き明かしをお聴きして、神からの恵みを感謝することもせず、他人と比較しては嘆いたり
悲しんだりする(むさぼるだけの)毎日の私は本当に愚かでかたくなな者だと思い至りました。
「あなたは隣人のものを欲するはずはない、なぜならあなたは私の愛と恵みを知っているのだから・・・・・」
本当にそうです、
「この律法が私たちの心にずっと突き刺さるということは、生涯にわたって繰り返す恵みの出来事です。」
本当にそうです。
どうか喜びと平安を持って最期まで生きてゆけますように私をお導きくださいと心から祈りました。
(土肥先生が幼い頃から抱いていた「彷徨うように地上に生きている」という感覚、胸に迫りました。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/66/07af84863bffa5eaadaef36a8f0cbf6b.jpg)
公園の花一輪、咲き残っていました。