ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

讃美歌15番

2014-04-30 09:40:43 | 讃美歌
讃美歌15番 「我らのみ神は」 

礼拝は神のお招きによってだけ、始めることができますので、まず、神の招きの言葉(招詩)が読まれ、
その後、この讃美歌が歌われました。 「礼拝 讃美」に分類されている讃美歌です。

  1) 我らのみかみは 天地(あめつち)すべます
     国々しまじま 喜びたたえよ

  2) みいつの光は 世界を照らせり
     大地はかしこみ み前にふるえり

  3) 誰かはさからう み神のみわざに
     だれかはなみする み神のみむねを

  4) よろずの君らよ み前にひれふせ
     すべての力は み神のものなり

  5) 天(あめ)にも地(つち)にも み歌ぞきこゆる
     「わららの神こそ まことの神なれ」

↓ ネットからの引用です。

イギリス会衆派の歌人によって作られた典型的な礼拝の歌である。
原作者 Josiah Conder(1789‐1855)はロンドンの書籍商の子で、文学的才能に恵まれ多くの著書をものにした。
この歌は彼の編集した歌集 “Psalms and Hymns”の中に収められた自作の一編で、彼の最高の作品の一つである
と「讃美歌略解」では説明がある。
The Cyber Hymnal(http://www.cyberhymnal.org./)で調べるかぎり十数篇の作品の中にこの歌
“The Lord is king! Lift up thy voice”は載っていない。
英米ではあまり普及していないのかもしれない。

作曲者 Ralph Harrison(1748-1810 英国人)プレスビテリアン派の牧師の息子として生まれ
Warrington Academy を卒業後、各地の教会で牧し、1786年マンチェスターアカデミーが創立されたとき
古典に関する調査員に任命され、マンチェスター地方の古今の詩篇歌を集め聖歌集として編集出版した。
この中に自身の作も含まれており、この曲はハリソン作と明記されている。
それ以来、この曲は、英国讃美歌中の傑作の一つに挙げられ、ひろく愛唱されるようになった。

英米ではあまり普及していないのか、ひろく愛唱されているのか、どちらなのでしょうね? (^^;)

ここをクリックすると「讃美歌15番」を聴くことができます。



ハルジオンの花に止まる<モンシロチョウ> 公園はいよいよ蝶の季節です。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「証人の喜び」

2014-04-28 10:03:21 | 説教
昨日の礼拝説教 
テキストは「詩編」68篇18節~21節 と 「使徒言行録」1章6節~11節
タイトルは「証人の喜び」でした。

「使徒言行録」の今日のテキストにはイースターから40日後の出来事が書かれています。 
アジアの一地方の信仰が当時の世界帝国ローマに、そしてヨーロッパに広がっていった、
その担い手の弟子たちが何をしたか、何を証ししたかが記されています。

福音書とそのあとの手紙を結ぶための一粒の麦としての聖霊の証言の書、と言われる使徒言行録は
「ルカによる福音書」とセットになっていて、その後編とみられます。
ルカがどんな人であったかは分かりませんが、壮大な歴史観を持った人と思われます。
ルカの歴史観は聖書の歴史観と同じなのですが、『ルカは歴史を旧約の時、イエスの時、教会の時と三区分して理解している。 
イエスの時とはイエスが中心となって神の御業を現わした時、教会の時とは、救いの御業がイスラエルから全世界に
述べ伝えられた時で、この歴史観の下にルカは使徒言行録を書いた。』とコンツェルマンは言っています。

新しい歴史の始まりの時に聖霊が下るのですが、このことについては来週の説教でお話しします。 

今日の記事はイエスが天に上げられる時を述べています。
教会は使徒信条(信仰告白)でイエスが「天に上り全能の父の右に座したまえり」と2000年間ずっと告白してきました。
今日のテキストは神の国をめぐるイエスと弟子たちのやり取りですが、ここで聖書は何を証ししようとしているのでしょうか。
弟子たちはイスラエルがいよいよローマ帝国から独立、復興するという期待を持って主に問いましたが、
それに対するイエスの答(7節)は期待を裏切るものでした。 
しかしそれは期待を裏切って絶望させるものではなく、さらなる期待をいだかせるものでした。

終わりではなく始まりを知らせ、皆のより大きな証言を期待されたのです。
これから弟子たちは単なる目撃者ではなく証言者として、語る者として、大いなる御業の大事な部分を担うことになります。
イスラエルの再興だけに終わらない“教会の時”の幕開けを告げています。
そして今日、私たちもまたキリストの証し人であり、御国の完成の喜びが与えられています。

イエスは天に上げられました。 
キリストが天に上られたという事は何を意味しているのでしょうか、なにが起こったことなのでしょう。

この後、↓のようなお話が続いたのですが、フォローできませんでした。 m(_ _)m
Howの問いかけと What の問いかけ
見えないものが見えてくる
エマオの弟子たちのキリストへの気づき
見えなくなって見えてくるもの


イエスが天に上られる前に弟子たちとかわされた最後の会話は天国についての問答でした。
天国とは神の支配される場、です。
現実の醜い世界、重荷を負わされ、踏みにじられ、見捨てられ、憎しみや妬みの満ちた、およそ神の国からほど遠い存在。
しかし、イエスが洗礼を受けられた時には天からの光が注がれ、イエスが十字架につけられた時には
神殿の垂れ幕が裂けて神と人間との間に道が通いました。
現実はあたかもイエスが居まさらぬ世に見えますが、神はここに、この場所に下っておられるのです。 
天上も地上も地下の世界もすべてイエスの御業のゆえに神の支配のもとにおかれているのです。 
この世の地獄が神の国に結びつけられた、神の国が現実に結びつけられたのです。 
私たちはこの方(イエス)のゆえに神に連なり国籍を天とする地上の証し人とされているのです。

『現実の世界では断ち切られた家族の鎖ではあるが、一人、また一人と神に召されて天国において再び結び合わされるでしょう・・・・』
という家族を亡くしたアメリカ人の broken chain という詩があります。

いさかいや行き違いの中にあっても、今ここで楽園にいることができる、私たちの中に神の国は始まっているのです。
私たちにはその、キリストの証し人の喜びが与えられているのです。          (以上、文責はゆうゆうにあります。)

「天国は今ここに、ここから始まる」というメッセージでした。
神さまの証人として生かされている、と信じられる平安は私にとっては何物にも代えがたい賜物です。
この喜びを一人でも多くの方に知っていただけたら・・・・・・私がこの拙いブログを始めた理由です。 (^-^)



原っぱには菫(タチツボスミレでしょうか)がたくさん咲いています。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
昨日は教会総会でした。
これからの方針、予算決算、長老選挙、すべて無事に終了したのですが、最後の<その他>で大きな教会の試練が
議題になりました。 教会の営繕の問題です。 莫大な予算が必要なようです。
いつも12時には教会を出なくてはならない私は、なんとか三時までいましたが、この議題についてはほとんど殆ど
聞くことができませんでした。 どうなるのカナ~心配です。 来週、教会の兄弟姉妹に尋ねてみましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「主の僕の詩」第2詩

2014-04-26 13:52:07 | 今日の聖句
今日の聖句は「イザヤ書」49章1節~6節
第二イザヤ書の主の僕の詩の二番目です。

島々よ、わたしに聞け  遠い国々よ、耳を傾けよ。
主は母の胎にあるわたしを呼び 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き 
わたしをとがらせた矢として矢筒の中に隠して わたしに言われた
あなたはわたしの僕、イスラエル あなたによって私の輝きは現れる、と。

わたしは思った わたしはいたずらに骨折り うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり 
働きに報いてくださるのもわたしの神である。
主の御目にわたしは重んじられている。
わたしの神こそ、わたしの力。

今や、主は言われる。
ヤコブを御もとに立ち帰らせ イスラエルを集めるために
母の胎にあったわたしを ご自分の僕として形づくられた主は こう言われる。
わたしはあなたを僕として ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
だがそれにもまして わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。



主の僕・・・・誰なのでしょうね~
イザヤのような気もします。 ここではイスラエルにも呼びかけているようです。

こういうことは聖書を何百回と読み、多くの書物で学んでいる神学者にお任せいたしましょう。

素人信者のわたしは「・・・・私を裁いてくださるのは主であり・・・・・わたしの神こそわたしの力」
分かりやすい箇所だけ感謝して読ませていただきます。
今はわからない御言葉もいつか、眼光紙背に徹して、分かる日が、来るかな~~?



公園のハナミズキが満開でした。綺麗ですね~「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
明日は教会総会です。
今年度の会計や、伝道方針、長老選挙など重要な総会。 
いつもはお昼で帰らなくてはならない私も年に一回、この日だけは午後までいて総会に出席します。 (^-^)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

婦人は、静かに・・・・

2014-04-25 21:47:19 | 今日の聖句
今日の聖句は、今読んでいる「テモテへの手紙一」から、2章11節~15節です。

婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。
むしろ、静かにしているべきです。 なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。
しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。
しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。


「テモテへの手紙一、二」の書かれた目的は「異なる教え」「作り話やきりのない系図」「悪霊どもの教え」
「不当にも知識と呼ばれている反対論」「愚かで無知な議論」などを退けることであった。
それの伝えようとする主題は積極的に言えば「健全な教え」「健全な言葉」で、その内容は「信心」「品位」
「貞淑」などのような美徳である。 これは当時のヘレニズム世界の価値観と重なり合う。

このような道徳の実践は基本的には模倣を通して可能になると考えられている。
テモテはパウロおよび彼の言葉を「手本」とすべきであり、テモテもまた、「言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で
信じるひとびとの模範」とならなければならない。
しかしここで模範の連鎖を通して伝えられる内容は、所詮、通俗的市民倫理を超えるものではない。  
(↑ 以上、わたしの唯一の参考文献「浅所事典」より抜書きです。)



上の聖句は女性を(男性も、かも知れませんが)迷わせる聖句ですね~
聖書事典の解説の最後に「所詮、通俗的市民倫理云々」と書かれていますが、
それに結びつけて、ハイ本当にそうですね、分かりました! 一件落着・・・・
で宜しいのでしょうか?

前回テモテへの手紙を読んだのは昨年1月だったようですが、その時はこの聖句に対して
かなり真剣に不満だったようです。

「テモテへの手紙」に関してもこれまで、このブログでいくつか記事を書いていますが、
「聖書事典」も参照していて、かなり真剣に読んでいたようです。
最近の私の聖書の読み方は少々おざなりになっていないか? 深く反省。

何回読んでも頭に残らない聖書の読み方、これでいいのかなぁ、どんなふうに読んだら心に、頭に残るだろうか。 
旧約の歴史や新約のイエスの生涯、パウロの言葉など、少しずつではあっても知っていることとして蓄積はされているような・・・・
しか~し!それよりも忘却力の方が勝っている気がする、恐ろしい! 



ハナミズキを背景に<スズメ>を撮りました。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。

インマヌエル(神、我らと共に)の平安に与かっている喜びと安らぎを一人でも多くの方に知っていただきたい。
一日一回、教会のことをネットに載せてブログを書いたら、ひょっとして読んでくださる方がいるかも知れない。
そして教会やキリスト教に興味や救いを見出す方がいるかも知れない・・・・
教会でのご奉仕がほとんどできない私が考えた、家でできる something がこのブログです。
素人(?)信者の書くことは内容はいい加減でまとまりも無く、かえって伝道にマイナスなのでは?と
思い迷う今日この頃です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「主の僕の詩」

2014-04-23 12:35:06 | 今日の聖句
今日の聖句は「イザヤ書」42章1節~4節

見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない この地に裁きを置くときまでは
島々は彼の教えを待ち望む。

(ここでは「裁き」と言うのは、道、正しき道を現わしていると、
以前礼拝説教で聞いたような気がします。)

イザヤ書40章~55章は第二イザヤと言われています。
その第二イザヤ書には四つの主の僕の詩と言われるテキストがあります。

第1詩 42:1-4(5-9節はその付論)
第2詩 49:1-6(7-13節はその付論)
第3詩 50:4-9(10-11節はその付論)
第4詩 52:13-53:12

今日の聖句は第1番目の「主の僕の詩」です。

↓ 「聖書事典」の「主の僕」の項からの抜書きです。
最も問題とされるのは主の僕とは誰かという事で、集団説と個人説がある。
集団説は主の僕をイスラエルの民と考えるが、しかし、一連の四つの詩は直接的には
個人の生と死について語っているので、イスラエル説には難点が多い。
個人説はモーセからイザヤ、ヒゼキヤ、ヨシヤ、エレミヤ、ヨヤキム、セルバベルなど、
第1詩に関しては、バビロン捕囚の解放直前の状況を想定してキュロスという説もある。
個人説ではメシア節が重要視される。
イザヤ42:1において「主の僕」と「選び」が結びついていて、この結びつきは
「イスラエルを除けば(イザヤ41:8)ダビデとその子孫に典型的である。
最後の第4詩は特に「苦難の僕の詩」と言われ、内容は旧約聖書の深みに到達している。
主の僕の受ける苦難によって人々は癒され、多くの人の罪が担われ執り成されたと告げられている。
初代教会が、イエスの十字架上の苦しみをこのテキストから理解したことは確実であろう。 

この先の「主の僕の詩」を丁寧に読んでゆこうと思います。 特に第4詩が楽しみです。

イザヤ書は勿論、「主の僕の詩」もこれまで何度も読んでいるのに、頭に残っていない・・・・
自分でも恐ろしいくらい聖書の御言葉が沁み込んでいきません。 
諦めず、赦しを乞いながら読み続けてゆくことにいたします。  (T__T)



<カイツブリ>ファミリー
親鳥の片方は餌を捕りに、その間、片方は必ず雛の傍にいます。

美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

讃美歌21 290番

2014-04-22 11:48:42 | 讃美歌
一昨日のイースターの礼拝説教の終わりの方で左近豊(とむ)牧師は講壇から降りて
ピアノでこの讃美歌のメロディを弾かれました。
イエスさまと一緒に踊るようにイースターの喜びを感じる、ということでしょうか。

「讃美歌21」 290番 「Lord of Dance」 です。

  1   おどりでる姿で 主イェスは
      神がすべて 造られた日も
      かいばおけに生まれた夜も
      よろこびを告げた

    繰り返し
      おどれ輪になって
      リードする主とともに
      福音の喜びへと
      招かれた者はみな

  2   網をつくろう ペトロたちは
      すべて捨てて イェスに従い
      ねたむ学者の 目をしりぞけ
      主の弟子になった
    繰り返し

  4   暗い雲が光をとざし
      神のみ子が釘づけられて
      悪がちからをふるうなかも
      みわざはすすんだ
    繰り返し
           
  3   きよい安息日に 主イェスは
      歩けない人  立ち上がらせ
      律法やぶると責められても
      みこころに生きた
    繰り返し     
  
  5  重い墓石もけやぶり
     朝のひかり照りかがやいて
     おどりの主イェスはよみがえり
     初穂となられた
    繰り返し


世界の教会は礼拝の中で「新しい礼拝のことば」として「踊り」をリタージカル・ダンスとして取り入れるところが増えています。
初期シェーカー教徒(18世紀半ばにイギリスに生まれたクエーカー派の一派)にとってダンスは「神への自然な応答」として盛んに用いられました。 
この曲は作詞のシドニー・カーターがシェーカーの旋律をアレンジして曲にしました。
アメリカでは広く親しまれている旋律で、アトランタ・オリンピックの開会式で使われた曲でもある。 (ネットからの引用説明です)

ココをクリックすると心弾む「lord of dance」を聴くことができます。
カバーの写真が素敵です。 (^-^)



<ダイミョウキマダラハナバチ>草いちごの花に止まった春の蜂です。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
ホームページの「お招きの言葉」や「牧師紹介」のページが上田先生から左近先生に代りました、ご覧くださりませ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イースター礼拝

2014-04-21 12:09:27 | 説教
昨日のイースター礼拝の説教 
テキストは「イザヤ書」60章1節~3節 と 「ルカによる福音書」24章1節~9節 タイトルは「復活の朝日」 でした。

イースターの礼拝をささげられることを感謝します。
十字架の出来事、イースターの喜びがあるゆえに日曜日、皆で集まることが始まり教会が生まれました。 
イエスの復活以降、日曜日は休みとなり主の礼拝を守ることに繋がったのです。

教会が大事にしてきた聖書の読み方は、聖書を歴史を貫いてきた証言の書として読むという姿勢です。
証言とは体験、経験したことを言葉で言い表し伝えることです。
戦争や収容所での体験、権力者の暴虐行為、自然災害などは映像でも見られることではありますが、
証しをする言葉によってしか知り得ないことがあるのです。 
証言を聴く者はその中に真理を聴きます。 20世紀から21世紀は証言の世紀といわれます。

聖書の民は出会った神の姿、神の言葉を証言しました。 
そして神に出会った人だけではなく、それ以降の人もまた語り続けました。
旧約聖書を Old testament 新約聖書を New testament と言いますが、testament には証言と言う意味があります。
伝えることで生かされ、また語ることを通して歴史の中で生き抜く営みの中で、聖書は受け継がれてきました。
神に選ばれた生身の人が次の世代に語り、それを受け入れ再体験し、それが共同体に組み込まれていったのです。 
新しく語る人の命のリレーをもって私たちに伝えられ、私たちは又、それを語り継ぐべく神に選ばれているのです。

リチャード・ボウカム著「イエスとその目撃者たち」の中に、福音書は証言記事であるという視点を持って読むことが大事、
聖書は証言と言う形の歴史的記述である、と書かれています。 
無批判の信用を前提としていないが、証拠があるから信用すると言う読み方もしない。
非合理的なものではないが、証言を合理的に信じることは可能なのです。

今日のテキストも、イエスの墓を訪れた婦人たちの証言を聴き、受け入れるのは私達一人一人の判断に任せられています、
そしてそこには聖霊の働きが伴います。

イエスが十字架で亡くなったのは金曜日の午後三時、次の日の土曜日は安息日で何もできませんから、イエスの弟子たちは
金曜日の夕暮れから動き始め、日没ぎりぎりにイエスを墓に納めたことでしょう。 
次の日、土曜日はひたすら日曜日を待ち望んで過ごし、日曜日の早朝、イエスを丁重に葬るために墓に行きました。 
墓にあるはずの遺体は無くなっていて、婦人たちは「道に行き暮れし旅人」ようだったことでしょう。

人の死は絶体で、死んだらすべて終わりのはず、その死が無くなっていたのがイースターです。

この証言を聴いて二千年、教会はこれを命の言葉として受け入れ告白してきました。 「信仰告白」です。
信仰告白の「イエスは黄泉にくだり・・・・」給うた土曜日に、一体なにが起こったのでしょうか。
黄泉という死が支配する神のいまさらぬ世界に神の子が下り「神います場所」に変えたのです。 
パウロは「死は勝利に飲み込まれた」といい、ルターは「我々の死はキリストの死によって絞め殺された」と言いました。 
キリストによって死の力は凌駕されたのです。
それがイースターの喜びであり、教会の信仰です。 死は終止符をうたれ、撃ち破られました。

空虚な墓がキリストの命によって満たされたのを見て、そのことを弟子たちに話した婦人たちはさながら
伝道師のようだったでしょう。
この時の「話した」という言葉は未完了形で、終わらない、繰り返し繰り返し語り続けることを表しています。

証言する婦人たちは喜びに満ちているゆえに語らざるをえなかったのです。
死は、イエスの戦いの結果、喜びに変えられました。 主は甦りの主、復活の初穂となられました。

死ねば全てはお終いという意味のなかった命の衣を聖書の神は脱がせて、復活の命の衣を着せて下さるのです。
教会はこの証言を信じて神の許に集まり、時を得ても得なくても語り続けてゆくのです。
私たちは、慰められ罪赦されて、毎週教会から押し出されてゆくのです。    (以上、文責はゆうゆうにあります。)


イエス復活の意味、その喜びを説き明かされて、これからも神に、教会に連なって生きてゆきたいと思いました。
神さまが共にいてくださらなかったら多分、私は生きてゆけない、生きてゆきたくないでしょう。



親鳥から餌をもらう<バン>の雛、バン・ザビエル君。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
昨日は礼拝後、子ども達のたまご探しがありました。
年長の子供たちが礼拝堂の中のいろいろな場所に卵を隠し、それを子ども達みんなで探すのです。
15分位のイベントですが、皆楽しそうでした。

そのあと、左近豊(とむ)牧師の歓迎会を兼ねてイースターの愛餐会がもたれました。
家庭の事情で、礼拝に参加する間しか家を空けられない私は残念ながら不参加でした。
いつか、教会の御用のために何時間でも教会に残れるようになったら嬉しいことです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レント第40日(土)

2014-04-19 17:41:23 | 今日の聖句
今日、レント第40日(土)の聖句は「ルカによる福音書」23章50節~56節です。

さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。
ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。
この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を
十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。
その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。
イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が
納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。



明日はいよいよイースター、私たちの罪を贖って十字架にかかって死んだイエス・キリスト復活の日です。
美竹教会では、イースター礼拝の後、子ども達お楽しみの「たまご探し」をして、そのあと、復活を祝って
食事会(愛餐会)がもたれます。
あしたは、左近豊牧師の歓迎会も兼ねての愛餐会となります。



公園では<カイツブリ>も雛を孵しました。
カイツブリの有名な? 「負んぶ育児」風景です。 (^-^)


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
明日はイースター礼拝、初めての方もどうぞ、教会の扉を押して礼拝にお出かけください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜も昼も切に祈っています。

2014-04-18 21:11:52 | 今日の聖句
「テサロニケの信徒への手紙」 3章7節~13節

それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。
あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。
わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。
この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょか。
顔を合わせて、あなた方の信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。
どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。
どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、
わたしたちがあなたがたを愛しているように。
そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、
わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。



私は寝る前に、旧約聖書と新約聖書、それに詩編を一編ずつ読むようにしていますが、
新約聖書は今、「テサロニケの信徒への手紙」を読んでいます。

昨晩は上の聖句を読みながら、何故か上田光正牧師と奥様を懐かしく思い浮かべました。
美竹教会の教会員はみんな、上田先生ご夫妻を懐かしく思っています。
新しい任地、曳舟教会でもきっと教会員の先頭に立って神様へのご奉仕のお勤めを真心こめてなさっていらっしゃることでしょう。

私達も左近先生に導かれて、神様を中心にした美竹教会を建ててゆきたいと祈って過ごしますので、
上田先生も奥様もどうかお元気でお過ごしください。 いつもお祈りさせていただいております。 




公園では<バン>の雛が七羽も孵りました、親鳥は大忙し。
雛の頭頂部はまあるく禿げています。 誰かさんが言いました「バン・ザビエル・・・・・・・」(笑)


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それでもなお・・・・・

2014-04-16 12:42:03 | 美竹教会
先週は礼拝のあと祈祷会が持たれ、左近先生が証しとして、先生が最も強く影響を受けた方の話(言葉)をなさいました。

1950年~60年にかけて、輝かしい最盛期であったニューヨークのユニオン神学校には、ラインホルド・ニーバー、パウル・ティリッヒなど、
世界中から錚々たる神学者が集まっていたそうです。

その中の一人にマイエンバーグという旧約を専門とする先生がいました。
彼の講義は大人気で、神学校の一番大きな教室がいつもいっぱいになり、時には立ち見で授業を聴く学生がいたほどでした。
彼の最終講義には道を隔てた向かい側のユダヤ教の神学校からも学生がたくさん来て、彼らはマイエンバーグ教授に敬意を表して、
靴を脱いで裸足になって教室に入り最終講義を聴いたそうです。

そのマイエンバーグ先生の言葉です。
「わたしは毎朝起きた時、神に祈るよりも前に、聖書を開いて読むよりも前に、まずその日の新聞でニュースを読む。 
世界中の恐ろしい出来事、悲惨な出来事、不条理な出来事を読む。 
そして、それでもなお『私は神の威光を褒め称える』と本当に言えるかどうかを自分に問う。」

マイエンバーグはニュースでどのような状況を知ってもなお神を賛美し、その威光を褒め称えたのでしょうか? 
粗忽な私は、左近先生の御話の肝心な点を聞き漏らしていたようで、オチがどうだったのか覚えていません。 m(_ _)m

そのあと、左近先生はご自分が大学を去って牧師となられたことを感謝する日々です、と続けられたと思うのですが・・・・

実は、レベルは全く低いのですが (^^;) 私も、人間の世界の様々な不条理、不幸、惨状を見たり聞いたりするたびに、
「それでもなお私は神を信じ、神にすべてを委ね生きて行けるか?」と自分に問うことが度々あります。
そして私の場合はいつも「神を信じ、私の生きるも死ぬるも神に委ねることなくしては自分はとても生きて行けない」という
利己的な気持ちで神さまに依り頼むことになってしまいます。

自分のことと照らし合わせて物思いにふけっているうちに、左近先生の証しは終っていました。 
いつか機会があったら、教会員の何方かにお訊ねしてオチを教えてもらわなくては・・・・・お馬鹿ですね~ 

左近先生の証しのなか「不条理でも、悲惨でも、不公平でも、神の威光を褒め称えられるか」という言葉は印象的でした。
「ヨブ記」を読み直してみよう、と思いました。

マイエンバーグという方のこの話は、ピュリッツァー賞候補者でもあったビークナーという人が書いているそうですが、
マイエンバーグとビークナ―についてネット検索したのですが、何も情報はありませんでした。 
ひょっとしたら、御両名の名前も間違っているかも知れません。 そうだったら幾重にもすみません。 m(_ _)m



そろそろ繁殖地に帰る<シロハラ>
公園の森に集結していました。 ツグミも一緒でした。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
一昨日の日曜日は、子ども説教も、礼拝説教も、祈祷会の証しも左近先生でした。
何処を切っても金太郎(左近先生)の金太郎あめでした! (^-^)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする