ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

姉が教会学校を始めた理由

2012-11-29 14:48:35 | CS(教会学校)

昨晩、年の離れた一番上の姉と電話で話をしました。
長姉は神学校を出てキリスト教の伝道師となり、その後牧師と結婚して、義兄が引退する10年くらい前まで
5か所の教会で牧師夫人として神様に奉仕しました。

「そういえば、〇子ちゃん(私の事)霊南坂教会の遠足のこと、覚えてる?」
「エッ? お姉さん、あの事忘れてなかったの?」

*************************

それは、もう何十年も昔の話です。 
小学生低学年の私は毎週日曜日、霊南坂教会(もう時効なので名前を出してもよいでしょうね・笑)の教会学校に通っていました。
子供の足で20分はかかる道のりで、礼拝に出席する姉と手をつないで行っていたと思います。
姉は当時、働きながら神学校で学んでいました。

ある時、教会学校の遠足がありました。
前の晩、二人の姉に見守られてリュックを詰めた私、案内のプリントには「お菓子は持ってこないように」と書かれていましたので、
真面目な私は当然おやつの準備はしませんでした。

遠足の日、お弁当が終わって先生が「サア、おやつにしましょう。 おやつを持ってこなかったお友達がいるようですから、おやつを
持ってきた人は少しずつこの籠に入れて、持ってこなかったお友達にわけてあげましょう」と言いました。

ことが食べることだったからでしょうか(笑) それを聞いたときの私の驚きは強烈でした。
嘘をついた先生、言いつけを守らなかったお友達、籠に入った”お恵み”のお菓子・・・・・・
驚きと悔しさ、悲しさと、何故か恥ずかしさでうつむいて籠の中からキャラメル一つを取るのが精一杯でした。

遠足が終わって霊南坂教会に到着すると、家までの遠い道のりを心配して姉が迎えに来てくれていました。

私はおとなしくはないし自分の思っていることを言えない子供ではありませんでした。
手をつないだ姉に自尊心ズタズタの気持ちを思う存分ぶつけました。
悲しくてシクシク泣いていたかも知れません。

姉はお菓子屋さんで袋菓子を一袋買ってくれました。

************************************

「あの事があったので、私は妹たちのために家で教会学校をやろう!と決めたのよ。」
昨晩の電話で、姉が教会学校(土曜学校)を始めた理由をはじめて知りました。 (^-^)
私の姉はやはり豪傑姉さんでした。(笑)


そんなこともあったなぁ・・・・・・・
霊南坂教会の教会学校も、家での教会学校(土曜学校)も楽しく懐かしい思い出です。
幼いころ神様に出会えて幸せでした。




    <カワラヒワ>です。



私が今、通っている美竹教会でも教会学校をやっています。
教会学校とは別に神学生の姉妹がバイオリン教室も開いています。
幼いころに神様を知り、祈る心を育てることはとても大切なよいことだと思います。
お子様をどうぞ教会学校に通わせてみませんか?
美竹教会のホームページから教会学校を覗いて見てください。

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独りでいてほしい

2012-11-28 19:45:40 | 今日の聖句
「コリントの信徒への手紙 Ⅰ」 7章

7章はコリントの信徒たちからの質問に答えるという形で「結婚について」や「未婚の人たちと
やもめ」についてのパウロの考え*) が述べられています。
とても面白い章でした、できたら皆様には全文を読んでいただきたいところです。
所どころ抜き書きしてみますね。

7節
わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい

8節
未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいてほしい。

12節~13節
ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。
また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。


私の夫は未信者で、私は一緒に暮らしています。(^-^)

14節
なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに
聖なる者とされているからです。


32節
思い煩わないでほしい。
独身の男は、どうすれば主によろこばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に
喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。
独身の女や未婚の女は体も霊も聖なるものになろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、
どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。


下線をひいた部分の教えを受けて、カソリックの神父様や尼僧は独身なのでしょうか?

*) 12節には「主ではなくわたしが言うのですが・・・・・」
  25節には「私は主の指示を受けてはいませんが・・・・」とあります。




   赤や黄色、秋の色を背景にした<マヒワ>
    多分(♂)だと思います。



私の通っている、東京渋谷区にある美竹教会のホームページです。 クリックしてぜひ!お訪ねください。
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子どもを祝福する

2012-11-25 20:40:20 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「マタイによる福音書」 19章13節~15節 でした。

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。 弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。
天の国はこのようなものたちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。




この当時、子どもというのは弱くて力なく、社会的生産力も無く軍隊で働くこともできない、社会の
お荷物的存在とみられていたそうです。
病気になっても満足な医療も受けられない子供のために、多くの親はユダヤ教の祭司などに、頭に手を
置いて祝福してもらうことをを望みました。

大祭司とも言えるイエスの祝福をいただこうと親たちは子供を連れてきたのでしょう。

この時のイエスは十字架の受難を前にして弟子たちを教育したり大勢の人を癒したりでとてもお疲れに
なっていたに違いありません。  それを気遣って弟子たちはイエスから子供を遠ざけようとしました。

しかしイエスは子供の頭にてい置いて祝福なさいました。

イエスが「天の国はこのような者たちのものである」といったのは、子供は純真無垢で嘘もつかず、世の中の
汚れも知らない、というような子供の「性質」を言ったわけではありません。

昨今のいじめの問題でもわかるように、子どもは決してピュアなだけではありません。
残虐で冷酷で無慈悲な面ももっています。

以前の口語訳聖書では子供を幼子(おさなご)と訳していましたが、多分12歳くらいまでを指すのでしょう。

幼子、子供は弱く、力もなく、親や周囲の大人に頼らなくては、一人では生きてゆけない「存在」です。
その事がわかっているので、子どもは無条件で親や周囲の大人により頼みます

私達もそういう幼子のように神にのみより頼む「存在」となるなら、天の国*)は私たちに開かれているということ
がここでは説かれているそうです。

    *)天の国(天国)とは空の上にあるものではなく神が支配なさる世界を指しています。

私はクリスチャンですが、原罪、十字架の赦し、イエスキリストの復活、命の甦りなどについて、信じているのですが、
そこに絶対の確信があるとは、残念ながら言えません。  苦しい所・・・・・・(^^;)

今日のお説教を聴いて、これからも聖書を読み、祈り、教会に繋がり、幼子のように神にのみ依り頼んで
生きてゆきたいものだとの思いを強くしました。

美竹教会のホームページに上田先生の説教全文が載ります。 ぜひ、そちらをご覧ください。





      赤ちゃん時代のポメラニアン、生後二か月でした。




今日、美竹教会では礼拝後、三本のクリスマスツリーの飾りつけをしました。
クリスマス礼拝は12月23日(日)午前10時半からです。
午後は子供たちを中心に楽しいクリスマス祝会があります。
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使徒パウロの苦労

2012-11-24 12:54:07 | 今日の聖句
今日の聖句は「コリントの信徒への手紙 Ⅰ」 4章からです。

1節
人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。

ここでパウロは、アポロとパウロの役割の違いはあっても、その使命は一致していることを強調している、
と聖書事典には書いてありました。

10節
わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。
わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。


「知恵のある者」として驕り高ぶり、傲慢になったコリントの信徒たちに、パウロは、人間の知恵に対して神の知恵、
賢さ強さに対して愚かさ弱さを対置して諌めています。 

コリントの信徒が分裂した背景には、信者が、少数の高い社会層と多数の低い社会層に分かれていたこともあるそうです。
そしてパウロは手紙の中で一貫して全体の「一致」を薦めています。

思いを尽くし、言葉を尽くしてコリントの信徒を諌めるパウロの熱い思いは感じますが、手紙の文章の一字一句、
一節一節を理解することは私にはできません。
パウロは、使徒の使命というのは、本当に大変なものだとの感慨ひとしおです。
(何事もなすことなく毎日を終わっている私の日常、平穏を感謝ですが、これでよいのか?の思いもあります。)

聖書を読む時のわたしの参考書は「新共同訳 聖書事典」だけなのですが、昨晩は、事典で「コリント信徒への手紙」
の項を読んでいるうちに、猛烈な睡魔に襲われ眠ってしまいました。
ダラシナイ自分を大いに反省しています。 m(_ _)m





      これからは時々、我が家の大切な家族だったポメラニアンの
       思い出写真を貼らせていただきます



私の教会、渋谷駅から歩いて5分、美竹教会のホームページです。
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神のために働く

2012-11-23 19:45:03 | 今日の聖句
今日の聖句は 「コリントの信徒への手紙 Ⅰ」 3章5節からです。

中見出し「神のために力を合わせて働く」の中の一節です。
ここでもパウロは、私はアポロ派、私はパウロ派と仲たがいしているコリントの信徒を諌めています。

アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くために
それぞれ主がお与えになった分に応じて仕えたものです。



私の毎日は日常生活の雑事と、時間があるとアレもやりたいコレもやりたい、という自分の欲望を満たすことで過ぎています。
教会の御用のために使う時間、神様のために働く時間は本当に微々たるもので反省することばかりです。

私にできることはないかなぁと、このブログを始めました。

聖書や教会について自分の思いだけで書いていますから、間違いがたくさん(ほとんどかな?)あると思います。
また、聖書に関しては分からないことが多いのですが、素人として疑問はそのまま書こうと思っています。

ここを読んで教会や聖書に興味を持ってくださる方が、ヒョットしていらっしゃるかもしれない、という願いを持って
なるべく毎日書き続けたいと願っています。  これが結構大変・・・・・・ (^^;)

そうだ、祈りながら書く、これが大切なんだ!と、今、この文章を書いていて気付きました。
アレコレ思い煩うことなく神様を見上げて書くこと、コレですね~ (^-^)





   セイタカアワダチソウを背景に<スズメ>


渋谷にある日本基督教団美竹教会のホームページです。 ここをクリックしてお訪ねください。
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「問題」と「神秘」

2012-11-22 22:42:10 | 今日の聖句
「問題と神秘」というのは、アルフォンス・デーケン神父が感銘を受けたフランスの哲学者、
ガブリエル・マルセルという人のテーマの一つだそうです。


この世の中の出来事を理解するためには「問題」と「神秘」の二つのアプローチを区別して考えるべきだ、
とマルセルは説いたそうです。

「問題」というのは、全体を客観的に眺めて、何であるかが分かればハウ・ツーで解決できるような問いかけです。

これに対して「4歳の幼子がなぜ死ななければならなかったか」とか「私は何者なのか」という問いかけは
技術的なノウハウで解決することは不可能です。 これらは「神秘」の次元に属します。

命の誕生や死を含めて、私たちには完全に理解できない「神秘」の次元があるということを
しっかりと意識しなくてはなりません。
「神秘」は「問題」のように解決できない以上、人間のコントロール下に置くことはできません。

「神秘」に近づこうとする際の望ましい態度は、支配を試みることではなく、素直な驚き、謙遜、
そして開かれた心である、とマルセルは強調しました。

『ただ「問題」を考えることだけが重要で、それが何よりも優先されるべきことだ』 という考え方は
大きな間違いだとマルセルは教えてくれました。



今日の聖句は「コリントの信徒への手紙 Ⅰ」 2章7節です。

私たちが語るのは、隠されていた神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるために、
世界の始まる前から定めておられたものです。








マルセルのテーマについては、デーケン神父の著書「よく生きよく笑いよき死に出会う(82頁~85頁)」
からの引用です。 興味のある方は是非一度お読みください。

私の通っている教会、渋谷駅から歩いて5分、美竹教会のホームページです。
毎週日曜日、午前10時半から礼拝がもたれています。
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心を一つに、思いを一つ

2012-11-21 22:23:53 | 今日の聖句
昨晩から「コリントの信徒への手紙 Ⅰ」を読み始めました

今日の聖句は 「コリントの信徒への手紙 Ⅰ」 1章10節 です。

さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなた方に勧告します。
皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。


コリントは地味の豊かさと交易により経済的に繁栄し「富んで豊かなコリントス」と呼ばれていました。
パウロはキリスト教を伝えるためにコリントに1年半滞在したことがあります。
パウロが去ったあとアポロと言う人やペトロが宣教に来て、違った型のキリスト教を伝えたことなどで
コリントの信徒たちは分裂していたようです。

パウロがこの手紙を書いた背景はそういうことで、今日の聖句は分裂を心配したパウロの心の叫びなのでしょう。


イエスが十字架にかかられ、ようやくキリスト教会ができた初期の頃から、もう分裂があったということは驚きです。
人が心を一つ、思いを一つにするというのは、私には至難の業、ほとんど不可能に思えます。
キリスト教もたくさんの派に分かれていますよね。

以前「宗教は一人一派だ」と言うことを聞いたことがあります。
クリスチャン同士でお互いにつまづくこともあるでしょうね。
どうしたら人間同士、心を一つ、思いを一つに保つことができるのでしょう。

齢を重ねたおかげで私は、今更他人につまづくことはなさそうな気もしますが、イマイチ自信はありません。
毎日神様に祈り、常に聖書の御言葉にフィードバックしながら生活することしか方法は思い浮かびません。





    紅葉を背景に<マヒワ(♀)> 
     止まっているのは秋楡(あきにれ)の木で、びっしり付いた実を啄んでいます




私の通っている日本基督教団美竹教会のホームページです。 どうぞお訪ねください。
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クリスマスカード

2012-11-20 12:26:02 | 美竹教会
教会の婦人会で使うクリスマスカードの写真を三枚用意しました。
この中の一枚を、12月7日の「婦人会クリスマス祝会」で皆さんに選んでいただきます。
写真が決まったらA4のカードに印刷してみんなで寄せ書きをして、病気や諸々の事情で
長い間教会に見えていない方々にお送りします。



その1 <ポメラニアンとポインセチアのリボン>


        





その2 <ポメラニアンとポインセチア>






その3 <ジョウビタキとポインセチア>


                               



サテ、皆さんはどの写真を気に入って下さるでしょう。 全部ダメ!というのは勘弁してくださいね。 (^^;) 
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七を七十倍せよ

2012-11-18 22:19:50 | 説教
今日の礼拝の説教
テキストは「マタイによる福音書」18章21節~35節 でした。

「わたしに対して罪を犯した兄弟を何回赦すべきでしょうか、七回までですか」というペトロの問いに対して
イエスは「七の七十倍までも赦しなさい」と言います。

そしてイエスは・・・・・

1マンタラントン(物凄い額)の借金をしている家来を憐れまれた王はその家来の借金を帳消しにしてあげました。
ところが、この家来は自分に100デナリオンの借金をしている仲間を赦せず借金を返すまでと、牢に入れてしまいました。
王である主君は怒って「お前を憐れんで借金を帳消しにしたのに、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と
借金を返済するまでと、家来を役人に引き渡しました・・・・・というたとえ話をされ・・・・・

「あたながたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」
と結ばれました。

ここからが上田先生のお説教です *************

王は神、家来は私たち人間をさしています。

この家来の犯した罪は、自分が莫大な借金を赦されたことを忘れていたことのように思いますが「赦された自分が仲間を
赦さない、そのことを神がいかに悲しむか」ということを忘れていることが罪なのです。
家来は仲間に対してではなく、神に対して罪を犯しているのです。

そして、35節の「心から」兄弟を赦す、ということが大切なのです。

この時の「赦す」という行為は、徳や修行による赦す/赦さないを問われているのではなく、日々神の前に祈り、
隣人のために祈るか、が問われているのです。

私たちの無限の借金(罪)はイエスの十字架で帳消しにされた、つまり贖われたのです。
これは神の全き恵みです。
そして神は私たちに期待しています。 期待しているからこそ悲しまれるのです。
上の家来が犯した罪を私たちは犯さないように、神の赦しと期待を忘れずに日々を過ごしましょう。
*****************

罪の問題は難しい、人に対する罪は勿論、神への罪はさらに分かりにくい、と上田牧師が言われていましたが
今日の説教は(も!)難しかったです。
説教で話された罪は「原罪」というものとは違う、単に人間的な道徳的な罪なのでしょうか? 




    <翡翠(カワセミ)>
     カワセミというと水清き所に住む野鳥のように思いますが、
     最近は都市公園の少し濁った水でも(餌の小魚がいれば)営巣もすれば子育てもします。



美竹教会のホームページには1週間くらいのタイムラグがありますが、先生の説教全文が載ります。
よろしかったら是非お読みください
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本当に大切なこと

2012-11-17 19:26:34 | 今日の聖句
今日の聖句は 「ローマの信徒への手紙」 14章からです。

1節~3節
信仰の弱い人を受け入れなさい。 その考えを批判してはなりません。
何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。
食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は食べる人を裁いてはなりません。


上の聖句に関連して私が知っていて、納得、納得!と思う聖句は下のものです。

「コリントの信徒への手紙」 8章13節
それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、
わたしは今後決して肉を口にしません。


パウロの時代は(それ以前も?)ユダヤの人々は食べ物や食事について律法で厳しく定められていたのでしょうか。
この手紙で、パウロは、考えるべきは食べる、食べないの問題ではなく、それによってつまずく人がいるのなら、
その人のためにも食べないほうがよい、と言っているのだと思います。

本当に大切なことは神の御心を知り、行うことのみ、それ以外は枝葉末節である! 
がしかし! 枝葉につまずく(弱い)人がいるならばつまずきの原因とはならないほうがよいということでしょう。

毎日の雑事に振り回されて嘆いたり怒ったり、人を非難したりすることが多い私ですが、一番大切なこと、
神の御心を知り、それを行うことにフト気づくとほとんどのことは許せるし、笑って過ごすせます、人生にはどうでもよいことが
かなりたくさんあるということに気付きます・・・・・・のはずなのですが・・・・・・
口で言うほど易くはなく、実際は中々難しいです・・・・・・・・(^^;)

そのためにも、弱い私は毎日祈り、聖書を読み、教会の礼拝に出ることが欠かせません。





<ヒガラ>
10~13㎝の小鳥です。
羽の模様がシジュウカラにとてもよく似ていますが、翼帯の数やノドの黒い模様など違いが分かると
見分けるのも容易です。 シジュウカラの大きさは13~16.5㎝ですから、比べると大分小さな野鳥です。




私の通っている日本基督教団<美竹教会>のホームページです、どうぞご覧ください。
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