降節第一主日礼拝の昨日は講壇交換ということで、曙教会の左近深恵子牧師が
御言葉の説き明かしをしてくださいました。
テキストは「エレミヤ書」33章14節~16節 と 「ルカによる福音書」21章25節~36節
タイトルは「見えてくる道」でした。
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私共の暮らしは、小さな、しかし大切な営みが噛み合うことで回って行きます。小さな営みの一つが
思いがけず喜びとなり心躍らせることもありますが、ささいな出来事に不安を掻き立てられることもあります。
周囲には限りなく広い世界が広がっていて、ニュースで痛ましい事件や出来事を見聞きし、それらの出来事が
私共の生活に影響を与えていることにも気づいています。しかし実際の毎日はささやかな出来事に喜んだり
あわてたり、小さな世界の中だけで回っているように感じます。その私どもが主イエスを救い主として与えられ、
主につながる者とされているとは、どのようなことなのでしょう。
今日のルカ福音書の個所は神殿で人々に語られた主の言葉を記しています。主イエスは逮捕される直前まで
エルサレムの神殿で、日々、人々に語っておられました。エルサレムの神殿は神の民にとって、ただの建物ではなく
信仰の中心でありました。その見事さに見とれ、称えていた人々に、主はこの神殿の「一つの石も崩されずに
他の石に留まることは無い」ほど神殿が崩壊する時が来ると言われました。神の民にとって神殿を失うことは
信仰の中心、生活の中心を失うことであり、すべてが終わるに等しいことでありました。
けれど主イエスは、都や神殿が崩壊しても、それが全ての終わりではないと言われました。
神殿という建物や都が、救いの拠り所になるわけではないのだ、と。
ルカ福音書が記されたのは、既にエルサレムがローマ帝国によって滅ぼされてしまった後の時代だと
考えられています。「一つの石も崩されずに、他の石の上に留まることは無い」ほど徹底的に神殿が破壊され、
都が滅ぼされ、そのすさまじい戦いの影響が色濃く残る時代であっただろうと考えられています。
人々はこの状況がいつまで続くのか分からない中で、それでもすべてが終わったのではないという主イエスの
言葉を聞いています。神殿という建物や、エルサレムという都が自分たちの救いの拠り所ではないのだと主は
告げられています。
滅びないと思っていたもの、自分にとってなくてはならないものが滅びる時、私どもは希望の拠り所を失い
打ちのめされます。そのような人々に主イエスは、希望の拠り所は滅びるものにではなく、滅びないものにあるのだ
と語ってくださいました。
希望の拠り所は滅びないものにあると言われたからと言って、主が何かを大切に思う私どもの思いを否定して
おられるのではなく、滅ぶべきものに滅びないかのような妄想を抱くことから私どもを引き戻そうとして
くださっているのです。私どもの毎日はしばしば荒れ野のような状況としか思えないことがあります。
生活の周りに広がる青々と茂る緑も静かに豊かな水を湛えた泉も見当たらず、生きることを自ら喜べる根拠が
失われているように感じることがあります。そのような時、そこらに転がっているただの石ころを希望の拠り所と
したくなってしまう私どもを、主は引き戻そうとしておられるのです。
では主は、何が滅びるものであり、滅びないものだと言われるのでしょう。何が私どもの拠り所なのでしょう。
主イエスは天体が揺り動かされ、海がどよめき荒れ狂うような仕方で「人の子」が力と栄光を帯びて来られると
言われました。預言者たちも旧約聖書の時代からしばしば救いの完成される日を、世界を、宇宙を揺さぶるもの
として告げて来ていました。
私どもにとって救いとは自分の内側に変化をもたらすもので、このような変化を自分の内側に起こすことが
できるのは神様だけなのだと聖書を通して知らされます。しかし、救いはその人の個人的な領域で終わるものでは
ないことを聖書は告げています。私どもの視野を超えて、思考や創造の能力を超えて大きな御業なのだと述べています。
また私どもの歩みは、天地という滅びゆくものにのみ養われているのではないと主は言われます。
滅びない糧に魂を養われる者の歩みは、決して空しく終わらないことを主は私どもに示して下さっています。
私どもはそれぞれに主の福音に出会った者です。主イエスがこの自分を生かして下さる救い主なのだと受けとめる時を
それぞれ与えられ主イエスに繋がる洗礼に与る恵みを与えられました。一人一人に注がれる洗礼の御業は一人一人の
私的な経験に止まらない、一つの教会の業に止まらない、天地を統べ治めたもう神様の御業であります。
救いが完成される御業も個人の希望や理想に従属させられるものではなく、主の力の及ばぬ所の無い完全な救いが
主に依ってもたらされると主は教えておられます。 大地を揺り動かすような力が私どもの主なのではなく、
父、子、聖霊なる神が主なのだと教えられます。
しかしまた主は「はっきり言っておく。全てのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」と言われます。
「時代」という曖昧な言葉で言い表されるものは、不正を憎み、貪欲さを退け、他者と主の恵みを分かち合おうとする
人々の思いを飲みこみ、押し流して行く抗いがたい時代の力であります。私どもが滅びてほしいと願っている力は廃れず、
時に勢力を増す時代が滅びずに続いている現実。それは私どもの死を超えて、子や孫の世代にも続くのではないかと
不安に感じる、それが私どもの生きている現実です。この現実を主イエスは私どもに先だって見つめておられ、
御自分の後に従い、滅びないものを映し出す足跡を時代の中に刻んでゆくことを願っておられます。
主は「天地は滅びる」とも言われます。この世で生きている者にとって天地は確かなものの代表ともいえましょう。
私たちの生物学的な命を支える衣食住は天地を通してもたらされます。しかし、私どもの歩みは天地という滅びゆくもの
にのみ養われているのではない、と主は言われます。滅びない糧に魂を養われる者の歩みは決して虚しくは終わらない
ことを主は私どもに示して下さるのです。
何が滅びないものなのか、主はこう言われます。「私の言葉は決して滅びない」。不正や貪欲さや自己中心的な在り方
と言った時代と呼ばれる流れが今は権勢を誇っています。また天地から自分たちが少しでも多くのものを獲得しようと、
国々や人々の間で対立が絶えません。時代や天地といった存在感や影響力の大きさを誰もが認める者の前では、
言葉ははかなく頼りなく思われがちです。しかし預言者イザヤもこう述べています。「草は枯れ、花はしぼむが、
私たちの神の言葉は永久に立つ」(40:8)。神様は言(ことば)なる御子を、世の光なる御子を世の闇の中に人として
与えてくださいました。
預言者エレミヤが告げた言葉「ダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は孝平と正義をもってこの国を治める・・・
その名は『主は我らの救い』とよばれるであろう」(33:14~16)も主イエスによって実現されました。この義の若枝こそ
主イエスです。主の言葉は決して滅びず、主イエスにおいて実現され完成されるのです。
私どもは、このキリストに結び付けられ、滅びることの無いキリストに属する者とされ、滅びることの無い希望を与えられ、
それぞれの生活に遣わされています。救いが完成されるという希望が、この「時代」のなかで主に従う生活を営む
活力となります。決して滅びない御言葉に養われて、たくましさと安らかさのある生活を送ることができるのです。
私どもは自分のこれから先をさやかに見ることはできず、命の先も死の先も見ることはできません。
しかし、主が道を備えておられることを知っています。主は、救いが完成される終わりの日まで私どもの良い羊飼いであられ、
先に立って私どもを導いてくださいます。それが今の「時代」を歩む私どもの希望であり力のみなもとです。
今の時は神様が一人取りに与えて下さっている神様からの贈り物です。病の内にあっても、苦しいことが続いても、
虚しい思いに包まれても、今日は、主イエスの十字架によって罪を贖われ、主に従って歩み始めた私どもが、
主の御前にいたる途上の一日です。
主イエスの御前に立つために、この日も捧げましょう。
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御説教のプリントのコピーをいただいたのですが、最終稿ではなくて、書き込みがたくさんあって
読みずらかったので(^^;)ゆうゆうが勝手に端折ったりして打ち直しました。 文責はゆうゆうにあります。
公園に冬鳥が入ってきています。 今季、初見初撮りの<ツグミ>です。
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
御言葉の説き明かしをしてくださいました。
テキストは「エレミヤ書」33章14節~16節 と 「ルカによる福音書」21章25節~36節
タイトルは「見えてくる道」でした。
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私共の暮らしは、小さな、しかし大切な営みが噛み合うことで回って行きます。小さな営みの一つが
思いがけず喜びとなり心躍らせることもありますが、ささいな出来事に不安を掻き立てられることもあります。
周囲には限りなく広い世界が広がっていて、ニュースで痛ましい事件や出来事を見聞きし、それらの出来事が
私共の生活に影響を与えていることにも気づいています。しかし実際の毎日はささやかな出来事に喜んだり
あわてたり、小さな世界の中だけで回っているように感じます。その私どもが主イエスを救い主として与えられ、
主につながる者とされているとは、どのようなことなのでしょう。
今日のルカ福音書の個所は神殿で人々に語られた主の言葉を記しています。主イエスは逮捕される直前まで
エルサレムの神殿で、日々、人々に語っておられました。エルサレムの神殿は神の民にとって、ただの建物ではなく
信仰の中心でありました。その見事さに見とれ、称えていた人々に、主はこの神殿の「一つの石も崩されずに
他の石に留まることは無い」ほど神殿が崩壊する時が来ると言われました。神の民にとって神殿を失うことは
信仰の中心、生活の中心を失うことであり、すべてが終わるに等しいことでありました。
けれど主イエスは、都や神殿が崩壊しても、それが全ての終わりではないと言われました。
神殿という建物や都が、救いの拠り所になるわけではないのだ、と。
ルカ福音書が記されたのは、既にエルサレムがローマ帝国によって滅ぼされてしまった後の時代だと
考えられています。「一つの石も崩されずに、他の石の上に留まることは無い」ほど徹底的に神殿が破壊され、
都が滅ぼされ、そのすさまじい戦いの影響が色濃く残る時代であっただろうと考えられています。
人々はこの状況がいつまで続くのか分からない中で、それでもすべてが終わったのではないという主イエスの
言葉を聞いています。神殿という建物や、エルサレムという都が自分たちの救いの拠り所ではないのだと主は
告げられています。
滅びないと思っていたもの、自分にとってなくてはならないものが滅びる時、私どもは希望の拠り所を失い
打ちのめされます。そのような人々に主イエスは、希望の拠り所は滅びるものにではなく、滅びないものにあるのだ
と語ってくださいました。
希望の拠り所は滅びないものにあると言われたからと言って、主が何かを大切に思う私どもの思いを否定して
おられるのではなく、滅ぶべきものに滅びないかのような妄想を抱くことから私どもを引き戻そうとして
くださっているのです。私どもの毎日はしばしば荒れ野のような状況としか思えないことがあります。
生活の周りに広がる青々と茂る緑も静かに豊かな水を湛えた泉も見当たらず、生きることを自ら喜べる根拠が
失われているように感じることがあります。そのような時、そこらに転がっているただの石ころを希望の拠り所と
したくなってしまう私どもを、主は引き戻そうとしておられるのです。
では主は、何が滅びるものであり、滅びないものだと言われるのでしょう。何が私どもの拠り所なのでしょう。
主イエスは天体が揺り動かされ、海がどよめき荒れ狂うような仕方で「人の子」が力と栄光を帯びて来られると
言われました。預言者たちも旧約聖書の時代からしばしば救いの完成される日を、世界を、宇宙を揺さぶるもの
として告げて来ていました。
私どもにとって救いとは自分の内側に変化をもたらすもので、このような変化を自分の内側に起こすことが
できるのは神様だけなのだと聖書を通して知らされます。しかし、救いはその人の個人的な領域で終わるものでは
ないことを聖書は告げています。私どもの視野を超えて、思考や創造の能力を超えて大きな御業なのだと述べています。
また私どもの歩みは、天地という滅びゆくものにのみ養われているのではないと主は言われます。
滅びない糧に魂を養われる者の歩みは、決して空しく終わらないことを主は私どもに示して下さっています。
私どもはそれぞれに主の福音に出会った者です。主イエスがこの自分を生かして下さる救い主なのだと受けとめる時を
それぞれ与えられ主イエスに繋がる洗礼に与る恵みを与えられました。一人一人に注がれる洗礼の御業は一人一人の
私的な経験に止まらない、一つの教会の業に止まらない、天地を統べ治めたもう神様の御業であります。
救いが完成される御業も個人の希望や理想に従属させられるものではなく、主の力の及ばぬ所の無い完全な救いが
主に依ってもたらされると主は教えておられます。 大地を揺り動かすような力が私どもの主なのではなく、
父、子、聖霊なる神が主なのだと教えられます。
しかしまた主は「はっきり言っておく。全てのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」と言われます。
「時代」という曖昧な言葉で言い表されるものは、不正を憎み、貪欲さを退け、他者と主の恵みを分かち合おうとする
人々の思いを飲みこみ、押し流して行く抗いがたい時代の力であります。私どもが滅びてほしいと願っている力は廃れず、
時に勢力を増す時代が滅びずに続いている現実。それは私どもの死を超えて、子や孫の世代にも続くのではないかと
不安に感じる、それが私どもの生きている現実です。この現実を主イエスは私どもに先だって見つめておられ、
御自分の後に従い、滅びないものを映し出す足跡を時代の中に刻んでゆくことを願っておられます。
主は「天地は滅びる」とも言われます。この世で生きている者にとって天地は確かなものの代表ともいえましょう。
私たちの生物学的な命を支える衣食住は天地を通してもたらされます。しかし、私どもの歩みは天地という滅びゆくもの
にのみ養われているのではない、と主は言われます。滅びない糧に魂を養われる者の歩みは決して虚しくは終わらない
ことを主は私どもに示して下さるのです。
何が滅びないものなのか、主はこう言われます。「私の言葉は決して滅びない」。不正や貪欲さや自己中心的な在り方
と言った時代と呼ばれる流れが今は権勢を誇っています。また天地から自分たちが少しでも多くのものを獲得しようと、
国々や人々の間で対立が絶えません。時代や天地といった存在感や影響力の大きさを誰もが認める者の前では、
言葉ははかなく頼りなく思われがちです。しかし預言者イザヤもこう述べています。「草は枯れ、花はしぼむが、
私たちの神の言葉は永久に立つ」(40:8)。神様は言(ことば)なる御子を、世の光なる御子を世の闇の中に人として
与えてくださいました。
預言者エレミヤが告げた言葉「ダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は孝平と正義をもってこの国を治める・・・
その名は『主は我らの救い』とよばれるであろう」(33:14~16)も主イエスによって実現されました。この義の若枝こそ
主イエスです。主の言葉は決して滅びず、主イエスにおいて実現され完成されるのです。
私どもは、このキリストに結び付けられ、滅びることの無いキリストに属する者とされ、滅びることの無い希望を与えられ、
それぞれの生活に遣わされています。救いが完成されるという希望が、この「時代」のなかで主に従う生活を営む
活力となります。決して滅びない御言葉に養われて、たくましさと安らかさのある生活を送ることができるのです。
私どもは自分のこれから先をさやかに見ることはできず、命の先も死の先も見ることはできません。
しかし、主が道を備えておられることを知っています。主は、救いが完成される終わりの日まで私どもの良い羊飼いであられ、
先に立って私どもを導いてくださいます。それが今の「時代」を歩む私どもの希望であり力のみなもとです。
今の時は神様が一人取りに与えて下さっている神様からの贈り物です。病の内にあっても、苦しいことが続いても、
虚しい思いに包まれても、今日は、主イエスの十字架によって罪を贖われ、主に従って歩み始めた私どもが、
主の御前にいたる途上の一日です。
主イエスの御前に立つために、この日も捧げましょう。
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御説教のプリントのコピーをいただいたのですが、最終稿ではなくて、書き込みがたくさんあって
読みずらかったので(^^;)ゆうゆうが勝手に端折ったりして打ち直しました。 文責はゆうゆうにあります。
公園に冬鳥が入ってきています。 今季、初見初撮りの<ツグミ>です。
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