ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

星を目指して歩む

2012-12-31 09:19:00 | 説教
昨日の礼拝説教 テキストは「マタイによる福音書」2章1節~12節でした。

物語のあらすじは **************
ユダヤのベツレヘムでイエスがお生まれになった時、東方から占星術の学者たちがエルサレムに来て
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。私達は東方でその方の星を見て
拝みに来ました」と尋ねました。

これを聞いたヘロデ王は不安を抱き、祭司長や律法学者を集めて問いただし「ユダヤ人の王(メシア)は
ベツレヘムに生まれる」と預言者が書いていることを知りました。
ヘロデは占星術の学者たちに、その子が見つかったら自分も行って拝みたいので知らせてくれるように
頼みました。

学者たちは東方で見た星が自分たちに先だって進み、幼子イエスのいる場所で止まるまで歩き続け、
ついに母マリアと共におられる幼子を見つけました。
彼らは喜びに満ち溢れ、ひれ伏して黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げました
「ヘロデ王のところへ帰るな」という夢のお告げを受けて博士たちは別の道を通って
自分たちの国へ帰って行きました。 ************** というものです。


贈り物(金、乳香、没薬)は産地がそれぞれ違うことから三人の博士といわれますが、
博士たちははたして何人だったのでしょうか。
また、博士たちはどこから来たのでしょうか
古代では占星術は立派な学問でしたが、占星術の盛んなバビロニアから来たのではないか、
それぞれ別の国の博士でどこかで落ち合ってきたのかもしれない、等など
この物語は多くの謎に満ちていてメルヘンのようで、私たちに様々なことを想像させます。

ところで、ヘロデをはじめとして、集められた祭司や預言者も気づかない星の存在に気付いたのは
神について無知な異邦人の博士たちでした。
そしてこの人たちは星に導かれ、歩き続け、最後にイエスに出会うことができました

博士たちはなにがあろうと歩くことを止めず、ひたすら星を目指して歩いた、導いたのはメシアのあの星でした。
私たちの信仰生活もこれに似ています。

この物語は神に出会うために旅をしている私たちの人生と同じ、博士たちのこの旅は人生を象徴していると言われます。
星はまた、イエスを指し示すもの、聖書(旧約)、聖霊、とも言われます。

ヘロデや祭司長、律法学者が気づかなかった星「王の王、主の主がおられる」という信仰が私たちに与えられている
ことはとても幸せなことです。
人生には目的があり必ずそこにたどり着く、普通の人々にはこの導きの星は示されていません。
私達もイエスを見たわけではありませんが、私たちには信仰、御霊が与えられ、聖書、教会が与えられています。

ルターは説教で「私達には捧げる金や乳香、没薬がなくても信仰を携えて主の御許に捧げたい。
主が最も喜ばれる献げ物は信仰であるから・・・・・」と言いました。

私達も信仰を捧げるために最期まで旅を続けましょう!





        日本には旅鳥または冬鳥としてくる<オジロビタキ>
       雄はノドの部分が橙色をしています、この個体は多分雌か若鳥です。





私の通っている渋谷区の美竹教会、新年の主日礼拝は1月6日(日)午前10時半からです。
どうぞおたずねください。
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ユダヤ人と異邦人

2012-12-29 21:42:58 | 今日の聖句
今日の聖句 「フェソの信徒への手紙」

8節~9節
事実、あなたがた(異邦人)は、恵みにより、信仰によって救われました。
このことは、自らのちからによるのではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。 それは、誰も誇ることがないためなのです。


14節~17節
二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と
戒律ずくめの律法を廃棄されました。
こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に作り上げて平和を実現し、
十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。



パウロはユダヤ人も異邦人も、割礼をうけた人も受けない異邦人もイエス・キリストにおいて
一つであると説いています。
そして、割礼や律法に固執する「ユダヤ主義的キリスト教徒伝道者」を論敵とみなして激しく
糾弾しています。

律法に関しては、イエスは「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、
主を愛しなさい」を第1の掟、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」を第2の掟と
言われました。

パウロは、律法は「聖なるものであり、正しく、そして善いものではあるが、人間はそれを
実行できず、罪の自覚を引き起こす」として、人間が神に義とされるのは「立法の行いによるのではなく、
信仰による」とし、律法のすべては「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されるとしました。


私は聖書に述べられている(完璧な)異邦人ですが、ここでちょっと自分が当時のユダヤ人だった
と想像してみました。 (^-^)

自分たちは神から選ばれた民(選民)であると信じて、神との契約を前提とし基礎とする「律法」を
重んじていたユダヤ人。
そのユダヤ人がイエスの出現と贖いの十字架に出会い、洗礼を受けてキリスト教徒となった時、
これまでの思想の尻尾を体に残して、律法の遵守や割礼にこだわり続けたとしても、それはある程度
やむを得なかったようにも思えてしまいます。

イエスの十二弟子の筆頭のペトロでさえ、割礼をしていない異邦人との食事の問題では揺らいで、
パウロに注意されたくらいなのですから・・・・・・・

神様を正しく信じる難しさ。
信仰の不確かな私は、教会に通い、聖書を読み、お祈りをして導かれたいと思っています。

(ユダヤの人々が律法のうち特に重視したのは、一神教、契約のしるしの割礼、安息日の規定、
 食事の規定だったそうです。)





         野いばらの赤い実を啄む<ツグミ>




明日は今年最後の主日礼拝ですが、教会ではクリスマス以後の最初ということで
新年第一回の主日礼拝と言うのでしょうか?
美竹教会のホームページをご覧ください。
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教会はキリストの身体であり・・・

2012-12-28 14:36:34 | 今日の聖句
多分10%くらいしか理解できずに、「ガラテア信徒への手紙」は読み終わり (^^;)
いよいよ「エフェソの信徒への手紙」に入りました。

頑迷固陋な私の脳に刺激を与え、少しでも理解の助けになるように、まず最初に私の唯一の参考図書
「聖書事典」を読みました。。

下は「聖書事典」からの抜書きです。**********

この手紙はパウロ自身が書いたものではなくパウロの名を借りて書かれたことから「パウロの名による手紙」
(あるいは第2パウロ書簡)として位置づけられている。

冒頭と結びの挨拶を除くと大きく二つに分けられ、前半部は、神への賛辞、感謝、執り成しの祈り、参加、頌栄など
教会での典礼的特徴がきわだっている。
後半部はカテキズム*1) 伝承、徳・悪徳目録、家庭訓などを使用した倫理的勧告的特徴が顕著である。
おそらく礼拝の中で朗読される事を意図した手紙であろう。

エフェソの信徒へ・・・・・となっているが、本来は個別的な教会宛でなく、小アジアの諸教会で朗読された
回状であったと思われる。

この手紙の最大の思想的特色は教会論にある。
ユダヤ人も異邦人もないというパウロの福音は、イスラエルと異邦人という図式を超えたまったく新しい
一つのキリストの身体であり、聖なる宇宙的意義をもつ教会、全体教会論に到達している。

******************************************************


今日の聖句は「エフェソの信徒への手紙」 1章10節と23節です。

10節
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。
天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。

23節
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場所です。


*1) カテキズムとは、キリスト教の教理指導書で、新約聖書の時代から今日まで使われているそうです。
   文体として問答形式をとる事が多く、「教理問答」「信仰問答」などが日本語の定訳となっていますが、
   語義的には問答体である必要はなく、実際に問答体ではない例も存在するそうです。
   歴史的に有名なカテキズムのひとつに「ハイデルベルク信仰問答(改革派)」があります。
   日本語で書かれたカテキズムの中には「日本基督教団信仰問答(日本基督教団)」があります。 ****** Wikipediaからの抜書きです。





     今日の写真は日本で最小の野鳥<キクイタダキ>です。
     体長10㎝足らず、体重は3g~5g 
     この写真では見えませんが、頭頂に黄色い冠を戴いていることから
     漢字で<菊戴>と書きます。




私の通う教会、東京渋谷区の美竹教会のホームページです。
教会の扉はいつもあなたに向かって開かれています、どうぞお入りください。
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救いがたい人間

2012-12-26 22:48:50 | その他
この地球上には、飢えや貧困、内乱や戦争の危機など、命に係わるほどの厳しい状況の下で
生きている人々がたくさんいます。

「そのような人々がいる国の政治家は私利私欲、党利党略を離れて、その国で一番困っている人、
一番貧しい人に光を当てる政治をするように、神様、各国の政治家を厳しく導いて下さい」と私は
毎晩祈っています。

人はパンのみにて生きるに非ず、ではありますが、まずパンなくしては生きてゆけません。
そして、少なくともパンの問題ぐらいは人間の知恵で解決してほしいと私は思っています。
神様の御手を煩わせるまでもなく、それくらいは、これだけ文明の発達した人間の力で
なんとかなる、と信じたいのです。

何故それができないのでしょうか。
そんなにも人間は愚かなのでしょうか。
救いがたい人間。

「ガラテアの信徒への手紙」 1章6節~7節

キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に
乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし
キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。

上の聖句はガラテアの信徒が、パウロを非難する論敵*1) たちに惑わされているのを嘆いた
パウロの言葉です。

イエスキリストが人間の罪を贖うために十字架にかかってくださってからまだ間もない時期に、
もう信仰の分裂が起こっていたのですね。
人間とはなんと愚かな存在なのでしょう。

愚かというよりは、これが人間の本質なのでしょう。
人と人が理解しあうのは殆ど不可能なのかも知れません。
救いがたい人間。

*1)  パウロの論敵は割礼をうけることと、信仰に加えて律法を遵守することが救いにとって必要と
   説きました。
   これに対してパウロは神への信仰のみが救いへの道であると説いています。




        <シメ>という強面の冬鳥です。


何を書いているのかよく分からない文章になりました。 (^^;)
もっとクリアに聖書の言葉、神様の御言葉を知りたい方は私の通っている美竹教会をお訪ねください。
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クリスマス礼拝

2012-12-23 22:09:34 | 説教
今日はクリスマス礼拝、イエス様のご降誕を祝う日です。
美竹教会のアドベント・クランツには4本の蝋燭が灯りました。






午後は子供たちを中心としたクリスマス祝会。
家族の事情で居残りのできない私は礼拝だけ出席して、相変わらずの早帰りでした。 (T__T)
礼拝の終わった12時には教会を出なくてはならない私・・・・・「シンデレラ」と呼んでください。 (笑)



さて、今日の説教テキストは「ルカによる福音書」2章8節~14節でした。
上田先生は成人説教の前に子供たちに小さなお話をなさいました。
そのお話を載せることにいたします。

**********************************

100年位前のアメリカの新聞の社説に掲載された有名なお話

ニューヨークに住むバージニアという8歳の女の子が
『私の友だちには「サンタクロースなんていない」という子がいます。
記者様、サンタクロースは本当にいるのでしょうか?』
という手紙を THE SUN という新聞社宛に出しました。

その返事は、新聞社の社説に載りました。

サンタクロースなんていないんだという、あなたのお友達は間違っています。

きっと、その子の心には「うたぐりや根性」がしみこんでいるのでしょう。 
「うたぐりや」は目に見えるものしか信じません。
自分の分からないことは、みんな嘘だと決めてかかっているのです
人間の心というものは、もともとちっぽけなものなんです。
私たちの住んでいる、この限りなく広い宇宙では、人間の知恵は、一匹の虫のように、
そう、それこそ、ありのように小さいのです。

その広く、また深い世界を推し量るには、世の中のことすべてを理解し、
すべてを知ることのできるような、大きな深い知恵が必要なのです。

バージニア、サンタクロースがいるというのは、決して嘘ではありません。
この世の中に、愛や人への思いやりや、真心があるのと同じように、サンタクロースも確かにいるのです。

あなたにも分かっているのでしょう。世界に満ちあふれている愛や真心こそ、
あなたの毎日の生活を、美しく、楽しくしているものだということを。

サンタクロースがいない、ですって! 
サンタクロースが信じられないというのは、妖精が信じられないのと同じです。

サンタクロースを見た人はいません。
けれども、それはサンタクロースがいないという証明にはならないのです。

この世界で一番確かなこと、それは、子供の目にも大人の目にも見えないものなのですから。
バージニア、あなたは、妖精が芝生で踊っているのを、見たことありますか?
もちろん、ないでしょう。
だからといって、妖精なんてありもしないでたらめだなんてことにはなりません。

この世の中にある見えないもの、見ることができないものが、なにからなにまで人が頭の中で作り出し、
想像したものだなどということは決してないのです。

目に見えない世界を覆い隠している幕は、信頼と想像力と詩と愛とロマンスだけが、そのカーテンを
一時引きのけて、幕の向こうのたとえようもなく美しく、輝かしいものを見せてくれるのです。

そのように美しく、輝かしいもの、それは人間の作ったでたらめでしょうか? 
いいえ、バージニア、それほど確かなそれほど変わらないものは、この世には他にないのですよ。

サンタクロースがいない、ですって? とんでもない。
嬉しいことにサンタクロースはちゃんといます。
それどころか、いつまでも死なないでしょう。
1千年の後までも、百万年の後までも、サンタクロースは、子供たちの心を、今と変わらず、
喜ばせてくれるでしょう。
 
****************************************************

神様は目に見えないけれど、いつも必ず私の傍にいてくださる・・・・・
今年のクリスマス、上田先生のお話を聞いた子供たちはそう思ったに違いありません。


成人説教は美竹教会のホームページで是非お読みください。(一週間くらいのタイムラグがあります。)
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私の信仰

2012-12-22 10:00:59 | 今日の聖句
今日の聖句は 「ガラテヤの信徒への手紙」 1章4節~5節 です。

キリストはわたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、
御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。
わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。


「ガラテア信徒への手紙」を読み始めました。

読み始めてすぐの上の聖句を読んで、改めてイエス様の御降誕の意味がストンと胸に落ちました。
クリスマスを喜び迎え、祝う気持ちになりました。

イエス様は私たちの罪を神様に贖ってくださるために十字架にかかられた。
十字架への道を歩むためにお生まれになったのですね。

私はキリスト教の神に出会って、神様に心を開くことで本当に救われています。
どんなに孤独な時も私のすぐ傍らにいてくださり、悩むとき、迷う時に灯台のようにわが行く道を
示して下さる神様を知ることができて感謝しています。

キリスト教が無かったら世界の戦争の半分は起こらなかった等など、キリスト教の功罪や聖書の矛盾を
指摘する声は本やネットなどからたくさん聞こえてきます。

でも、私にとっては、私の信仰は神様と私の繋がりであり、そのことによってこの年になってはじめて
自分が生きている意義を感じることができています。

神に感謝、明日はいよいよクリスマス礼拝です。





     <百舌(モズ)雌> お腹の鱗模様が特徴です。



私の教会、美竹教会のクリスマス礼拝は明日午前10時半からです。
午後には子供たちを中心とした楽しい祝会が開かれます、どうぞいらしてください。
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偉大な使徒パウロ

2012-12-19 23:07:19 | 今日の聖句
「コリントの信徒への手紙 二」11章23節

苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、
死ぬような目に遭ったことも度々です。
ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。
鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。
一昼夜海上に漂ったこともありました。



「コリント信徒への手紙 二」は、コリントに現れて信徒を惑わす、パウロとは違った福音を述べ
るパウロの論敵(使徒?伝道者?)に対して、最後までパウロの激しい反論が続きます。

上の聖句はその中で述べられているパウロの受けた艱難の数々です。

コリントの教会にはユダヤ人と異邦人がいてその軋轢があったと思います。
当時、ユダヤ人は自分たちは神に選ばれた民であり自分たち以外の人をを異邦人として差別し、
食事も共にしませんでした。
また割礼をうけない異邦人に対する拒否反応も少なからずありました。

歴史や文化の違いに関係なく、神により頼む信仰のみが神の前に正しい人(義人)であるとするパウロの考えは、
当時のユダヤ人には(たとえ洗礼を受けたキリスト教徒であっても)受け入れ難かったのでしょう。
様々な論敵が現れてパウロを否定し、コリントの信徒を惑わせました。

パウロは必死に論敵に反論し、コリントの信徒たちを諌めています。

10章にはパウロの人となりをうかがわせる文章があります。
「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている(1節)」
「手紙は重々しくて力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらないと言う者たちもいる(10節)」
パウロはどんな人だったのでしょうね。

キリストの福音を述べ伝えるためにすべてをなげうって伝道するパウロ。
パウロがいなかったらはるか東方の異邦人、日本人の私達にも救いの道は示されなかったわけですから、
改めてパウロは偉大な使徒だったのだと感嘆し、心から感謝します。




     <キセキレイ>川の近くに生息する野鳥です。



コリント信徒への手紙はかなり重い内容でした
次のカラテア信徒への手紙はどうかな~ 読みやすいかな~  チラッと覗いてみましたが、
これまた重くて大変そうです。
う~ん、どうも消化不良気味で、ブログの文章もまとまらず時間ばかりかかります。

しか~し! 読まないわけにはいきませんね。 
パウロの志の一端でも理解できるよう、私も頑張ります。 (^^;)
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神、我と共に在り

2012-12-16 21:58:52 | 説教
待降節第三主日 今日の説教のテキストは「マタイによる福音書」1章18節~25節
タイトルは「神、我らと共に在す」でした。

テキストの要約 *************

聖霊により身ごもった許嫁のマリアを前に戸惑うヨセフに、夢の中で主の天使が現れて言いました。
「恐れずマリアを妻として迎えなさい。 そしてマリアの産む男の子をイエスと名付けなさい。」

このことが起こったのは預言者を通して「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 
その名はインマヌエルと呼ばれる」と言われていたことが実現するためでした。

インマヌエルという名は「神は我々と共におられる」という意味です。
ヨセフは眠りから覚めるとマリアを迎え入れ、男の子が生まれその子をイエスと名付けました。

***************

↓ は上田先生のお説教から私が聞き取った説き証しです。  

当時、夢は神の御意志を表す大切な手段でした。
夢で天使のお告げを受けてもヨセフはマリアに起こったことをすぐには理解できず、
多分生涯かかって納得していったに違いありません。
私達の信仰もこれに似て、信仰を告白し、その後一生かかって理解してゆくものでしょう。

ヨセフにはイエスの誕生から、父親としてイエスを育てるという使命が与えられました。

イエスのもう一つの名前「インマヌエル」の意味は、神、我と共に在り、ということです。
神が私達と共にいてくださるということは、神と私達一人一人と個人的につながり、
主イエスと私たちが個人的につながっているということです。

キリスト教を一言でいうならば「インマヌエル(神、我と共に在り)」であると言えます。
神様は私達一人一人に寄り添っていて下さるのです。

上田先生はここで、「Footprints (足跡)」という美しい詩を紹介されました。

   ある夜、彼は夢を見た。
   それは主とともに海岸を歩いている夢だった。
   その時彼の人生が走馬灯のように空を横切った。
   その場面場面で彼は砂浜に二組の足跡があることに気がついた。
   ひとつは主のもの、そしてもうひとつは自分のものであった。

   そして最後のシーンが現れた時、彼は砂浜の足跡を振り返って見た。
   すると彼が歩んできた今までの道に、一組の足跡しかない時があるのに気づいた。
   そしてそれは彼の人生で最も困難で悲しみに打ちひしがれている時のものであった。

   彼は、主に尋ねた。
   「主よ、かつて私があなたに従うと決心した時、あなたはどんな時も私とともに歩んでくださると
   約束されたではありませんか。でも私の人生で最も苦しかった時、一組の足跡しかありません。
   私が最もあなたを必要としていた時、どうしてあなたは私を置き去りにされたのですか?」

   主は答えられた。
   「私の大切な尊い子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。
   あなたが試練や苦しみの中にあった時、一組しか足跡がなかったのは私があなたを背負って歩いたからです。」   

主は私たちが気づこうが気づくまいが、常に私と共にいてくださるのです。
なんと大きくて深い慰めでしょう!
私という一人の人間の側に寄り添ってくださる主。 
主イエスの誕生に心から感謝です!
この世の最大の罪は「インマヌエル」を知らない人が多いことにあります。


イエスの誕生と同時にマリアにはイエスの母と言う使命、ヨセフには父親としてイエスを
育てる使命が与えられました。
クリスマスを前に、私達一人一人に神様はどんな新しい使命をお与えになっているのか、
私たちは考えるべきでしょう。





   羽ばたく公園の<オナガガモ>



美竹教会のアドベント・クランツ、蝋燭三本に火が灯りました。 来週はクリスマスです。 
教会で静かなクリスマス礼拝と子供を中心とした楽しい祝会をお過ごしください。
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使徒パウロ

2012-12-14 16:23:50 | 聖書
今、聖書は「コリント信徒への手紙 二」を読んでいますが、なかなか手強い。
こういう難しい手紙を書いた使徒パウロとはどんな人だったのでしょう、少し調べました。
と言っても、私の参考図書は「聖書」と「聖書事典」だけです。
長くなりますが、両方からの抜き書きを書いてみますね。

「聖書事典」から **********

パウロは当時のローマ属州キリキアの首都タルソスで紀元前後頃に生まれたユダヤ人です。
ユダヤ教の伝統を重んじる家庭に生まれ、生まれた時からローマ市民権を持っていました。
若くしてファリサイ派の一員となりユダヤ教の律法に熱心な生き方を自覚的にとり、
その結果キリスト教会を迫害し、これを撲滅する活動に従事していました。

そのパウロがダマスコ周辺でキリストの幻視(復活のキリストとの出会い)を体験、
キリスト教に回心しました。
パウロは回心と同時に自分は神により異邦人*1) に福音を伝える使徒とされたという
自覚を持ちました。 (召命体験)

その後約30年近くに3回の伝道旅行に出かけ、異邦人を中心とする多くの教会を設立しました。
第3伝道旅行に赴いた紀元後56年ころエルサレムで逮捕され、58年ころに裁判のため
ローマに連行され、おそらく60年ころ処刑されたと推定されます。

「聖書」から  *************

パウロの回心の場面 「使徒言行録」9章1節~18節からの抜き書きです。 

さて、サウロ(パウロのヘブライ名)はなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、
大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。
それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが
知らされる。」
同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。

サウロはこの後三日間目が見えず、食べも飲みもしなかった。

ダマスコにいたアナニアという主の弟子は、幻の中で、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに
わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。 行って、目の見えないサウロに手を置き元通り
目が見えるようにするように」と言われた。

アナニアがそのようにすると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元通り見えるようになった。
そこで、身を起こして洗礼(バプテスマ)を受け、食事をして元気を取り戻した。

**************


新約聖書にはパウロの名による手紙が13通ありますが、疑問の余地のない真正なパウロの手紙は
7書簡だけだそうです。

「コリントの信徒への手紙 二」は真正書簡なのですが、私には分からない部分が多くて難しい。
まあ、毎日1章ずつ、一生懸命読んでゆくことにいたします。


*1) 異邦人 ヤハウェと契約を結んだ民、イスラエル人は自ら選民であるという自覚を持ち、自分たち以外の
        民族、国民をすべて異邦人と呼んで、蔑視する傾向にあった。  「聖書事典」より 

  





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落胆しません

2012-12-12 22:47:43 | 今日の聖句
なにやかやと忙しく過ごしているうちに、聖書は「コリント信徒への手紙 二」を読み始めました。

パウロの書いた手紙は相変わらず難しく、分からない文章が多くてただ読み下しているだけで困ります。
申し訳なくも残念なのですが「今日の聖句」として心に響く聖句を探すのはかなり大変で
理解できない聖句を挙げる方が簡単そうです。 m(_ _)m

私に理解できる文章のなかから、心に響く聖句を探して載せることにいたします。

「コリント信徒への手紙 二」 4章16節~18節

だから、わたしたちは落胆しません。
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。  
わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。


実際には思い煩うことも多い毎日です。
上の聖句に励まされ、落胆することなく、うつむくことなく、私も生きてゆけたら嬉しいのですが・・・・・・。








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