ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「聖書講談」 面白かった~!

2019-02-25 18:58:33 | 美竹教会
講談は午後からお聞きするものと思っていた私は、礼拝前の北川牧師が黒紋付の羽織姿で
最前列に座っておられるのを見てちょっと驚きました。(礼拝は洋服で、と思っていました。)

礼拝が始まって、最初はCSの子どもたちへの説教なのですが、北川牧師が張り扇で釈台を
パン、パン!と叩いた一瞬で子どもたちの目は完璧に北川牧師に集中しました。
バベルの塔のお話をお聞きして礼拝堂から出ていく子どもたち、この後はどんな話かなぁと、
立ち去り難い様子でしたよ~(笑)

礼拝説教、前半は講談調で、サムソンが最後に神様に「私に力をもう一度!」と叫ぶ大音響の後、
普通のお説教調(?)で、祈りを諦めないこと、と締めくくられました。

午後からの聖書講談第一話はご自分の経歴やなぜ講談か、という話とイスラエルに王が誕生し、
ソロモン王を経て神様から離れていった話(だったと思います、笑いすぎて記憶が飛んで
しまったようで・・・・<(_ _)>) 第二話はバラバ・イエスの話でした。

講談ってあんなにも大きな声と張りで、物凄いエネルギーを使って話すものなのですね。
初めてライブで講談を聞いて、その迫力に圧倒されました。
講談の「お話」は聖書の記事を軸にして合間、合間に脚色を入れてご自分で作られるそうで、
一つの話を完成させるのに半年くらいかかるそうです。
合間、合間の脚色部分がとっても面白かったです。ホントに上手! 

北川牧師(神田ナザレ師)は社会人弟子の講談師ということで、師匠である神田陽子師の席
以外では、新宿末廣亭や鈴本演芸場などの寄席では語ることはできず、教会、学校などで
話されることが多いそうです。
聖書のことを知ってもらうため、伝道の手段として、神様のことを知ってもらう手立てとして、
講談を語られているわけですが、教会の外の世界で、クリスチャンでない方々に、もっともっと
多くの方に聞いてもらいたいものだと思いました。
日本のプロの講談師は80名足らずと、とても少なく、牧師で講談師というのは北川牧師くらいで、
日本一、世界一なのです、と笑っておられました。


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<アオジ>のつがい、そろそろ山に帰ります。
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捕囚

2019-02-22 22:26:30 | 今日の聖句
旧約聖書は今「列王記下」を読んでいます。
今日の聖句は17章24節~41節です。

17:24アッシリアの王はバビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムの人々を連れて来て、
イスラエルの人々に代えてサマリアの住民とした。この人々がサマリアを占拠し、その町々に
住むことになった。 17:25彼らはそこに住み始めたころ、主を畏れ敬う者ではなかったので、
主は彼らの中に獅子を送り込まれ、獅子は彼らの何人かを殺した。17:26彼らはアッシリアの王に
こう告げた。「あなたがサマリアの町々に移り住ませた諸国の民は、この地の神の掟を知りません。
彼らがこの地の神の掟を知らないので、神は彼らの中に獅子を送り込み、獅子は彼らを殺しています」
17:27アッシリアの王は命じた。「お前たちが連れ去った祭司の一人をそこに行かせよ。その祭司が
そこに行って住み、その地の神の掟を教えさせよ。」 17:28こうして、サマリアから連れ去られた祭司が
一人戻って来てベテルに住み、どのように主を畏れ敬わなければならないかを教えた。
17:29しかし、諸国の民はそれぞれ自分の神を造り、サマリア人の築いた聖なる高台の家に安置した。
諸国の民はそれぞれ自分たちの住む町でそのように行った。 17:30バビロンの人々はスコト・ベノトの
神を造り、クトの人々はネレガルの神を造り、ハマトの人々はアシマの神を造り、 17:31アワ人は
ニブハズとタルタクの神を造り、セファルワイム人は子供を火に投じて、セファルワイムの神々
アドラメレクとアナメレクにささげた。

17:32彼らは主を畏れ敬ったが、自分たちの中から聖なる高台の祭司たちを立て、その祭司たちが
聖なる高台の家で彼らのために勤めを果たした。 17:33このように彼らは主を畏れ敬うとともに、
移される前にいた国々の風習に従って自分たちの神々にも仕えた。 17:34彼らは今日に至るまで
以前からの風習に従って行い、主を畏れ敬うことなく、主がイスラエルという名をお付けになった
ヤコブの子孫に授けられた掟、法、律法、戒めに従って行うこともない。
17:35主は彼らと契約を結び、こう戒められた。「他の神々を畏れ敬ってはならない。これにひれ伏す
ことも、仕えることも、いけにえをささげることもあってはならない。 17:36大いなる力と伸ばした腕を
もってあなたたちをエジプトの地から導き上った主にのみ畏れを抱き、その前にひれ伏し、いけにえを
ささげよ。 17:37主があなたたちのために記された掟と法と律法と戒めを、常に実行するように努めよ。
他の神々を畏れ敬ってはならない。 17:38わたしがあなたたちと結んだ契約を忘れてはならない。
他の神々を畏れ敬ってはならない。 17:39あなたたちの神、主にのみ畏れを抱け。そうすれば、主は
すべての敵の手からあなたたちを救い出してくださる。」
17:40しかし、彼らは聞き従わず、ただ以前からの風習に従って行うばかりであった。
17:41このように、これらの民は主を畏れ敬うとともに、自分たちの偶像にも仕えていた。
その子も孫も今日に至るまで先祖が行ったように行っている。


旧約聖書は、そして「列王記下」も、何回か読んでいるのに、今日の聖句はようやく今頃、私の頭に
染み込みました。捕囚と言うのは「バビロン捕囚」だけでなく、当時の戦勝国が当たり前に行っていた
行為なのですね。
クト、アワ、ハマト、セファルワイム・・・・初めて読んだように目に飛び込みました。
サマリアに移り住んだ諸国民の神々の多彩なこと、今日、ようやく私の目に入ったような・・・・・
自分の甘い読み方を大いに反省しました。
聖書はいつまでも新鮮で飽きることがない、などと呑気なことを言っていてはダメですね。


**************「聖書事典」捕囚の項から抜き書きです。
古代オリエント世界で、大国が支配に抵抗した民族をその居住地から強制的に移住させたこと。
それゆえ前721年にアッシリアがイスラエル北王国を滅ぼした後に、生き残りの人々を領内に散らしたことも
これに当たる。しかし聖書なかで最も重要なのは、前587年に新バビロニア王ネブカドネツァルがユダ王国を
滅ぼし、住民の多くをバビロンに捕らえ移した「バビロン捕囚」である。*****************

24日の特別礼拝には二人の友人が来てくれるそうです。一人は「神田ナザレ師」の講談だけ聞きに
来るとかで「エッ、そんな~」とも思いますが「それでも良いかな~」とも思います。 (^^) 
皆様も、どうぞお出かけください!


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春霞のようなノイバラの藪の中、<ヒレンジャク>です。
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聖書講談を楽しもう!(お知らせ)

2019-02-15 22:04:30 | 美竹教会
チラシ↓をご覧ください。 
2月24日の日曜日は特別礼拝です。
礼拝説教は日本キリスト教団代々木中部教会の北川正弥牧師によって
御言葉の解き明かしがなされます。
その後、午後1時から、講談師「神田ナザレ」さんの聖書講談が演じられます。
北川牧師は講談師「神田ナザレ」という芸名で聖書を講談で語る活動を
しておられるそうです。
ネットで「神田ナザレ」を検索するといくつかのサイトが出てきますが、
ここの記事が分かりやすいような・・・よろしかったらクリックしてお読みください。



新共同訳の聖書は買ったけれど『時間があってもなかなか読む気にならず、まだ
「マタイによる福音書」をさ迷っているのよ』という友人も講談に惹かれて(?)
24日は、立川の先から遥々渋谷まで来てくれるそうです。
“その時、怒ったサムソンは~~ パン!パン!!”と扇子で机(釈台というらしい)を
叩くのでしょうか、なんだか面白そうですね。
よろしかったら皆様もぜひおでかけください。


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「ザアカイの家」

2019-02-08 12:01:42 | 説教
1月20日、主日礼拝の説教です。
タイトルは「ザアカイの家」 テキストは「ルカによる福音書」19章1節~9節 です。






自分自身も気づいていないような願望、自分にとって一番必要で大切なもの、
神の子、主イエスはザアカイにそれを与えてくださいました。
祈っても祈りきれない何か・・・・・でも神様は私達の、私のすべてをご存知です。
そのことを信じる平安を与えられていることを感謝します。
信仰の道に導かれた恵みを感謝します。 私にとっての福音です。

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「公園の野鳥を見に行きましょう」と友人が声をかけてくれました。
ミソサザイの出る石碑後ろの藪、キクイタダキが来そうなサワラの木、
ルリビタキの出そうな切り株などを覗きながらの探鳥散歩でした。
探せたのはクロジ、鶯、エナガくらいでした。 写真は在庫からです(^^)
<ミソサザイ>

<キクイタダキ>
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CS分級は恐ろ楽しい・・・・

2019-02-03 20:03:03 | CS(教会学校)

美竹教会の礼拝は日曜日の午前10時半からですが、教会では礼拝説教の初めにCS(教会学校)の
お子さんたちへ、子ども向けの説教があります。その後、階下の集会室で子どもたちと先生と約30分間、
大人の説教が終わるまでがCSの分級時間となります。

この分級当番が年に2回くらい私にも当たるのですが、今日は私の分級当番の日でした。
二歳くらいから小学生までと年齢層が広く、30分間、全部の子どもたちの興味をつないで楽しく過ごすのは
結構たいへんです。他の先生方はどんなふうになさっているのか、そういえば連絡簿に載っているはずなのですが・・・・
うっかり屋の私は連絡簿を見るのを忘れます。
あ、そういえば、今日は連絡簿への記載を忘れました。 (;_;) 来週必ず書かなくては!

これまで私は、礼拝堂でお説教をお聞きした後でもあるし、分級は「子どもたちと弾けて遊ぶ」路線で来ました。
風船バドミントン(ラケットは団扇)、風船バレー、柔らかボールのサッカー、しっぽ鬼、巨大オセロなどなど。
ところがよる年波か、最近膝の調子がイマイチの私は、今日は運動路線を変更して絵本を読むことにしました。
絵本といっても「布で作った絵本」でとても素晴らしい手作り絵本、世界に一つしかない絵本です。
区立図書館から借りたものですが、昨日、私の友人に見せたところ彼女は大感激してくれました。

今日のCSは小学生の男子一人、女子一人、三歳くらいの女の子、一歳半くらいの女の子の四人でした。
「布で作った絵本」はそれぞれの年齢に合わせて興味を持ってくれるのではないかな?と期待する私。 
小学生のお姉さんが読んでくれるというのでお願いしました。
と、ところが、読み始めてすぐ、集会室に「オモシロクナ~イ!!」という大声が響き渡りました。
ぎょえ~~~! おもしろくない??? この美しい、素晴らしい絵本が! というのは大人の私の考えなのでしょうね~ 
三歳くらいの女の子はつまらない!というのです。
小学生のお姉さんは頑張って最後まで読んでくれました。

その後、焦った私は隠し持った私の遊び道具の録音機を出して、みんなの好きな歌を歌ってもらいました。
一歳半くらいの女の子も歌ってくれて無事録音できて少し嬉しそうでした。 ヤレヤレ。

CSの分級当番、本当に刺激的で恐ろ楽しい。

<布で作られた絵本>





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神様の愛

2019-02-01 21:29:50 | 今日の聖句
今日の聖句は「コリントの信徒への手紙一」13章1節~7節 です。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの
完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、
誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、
いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、
すべてに耐える。


「愛」は行為だ、と考えていた時期があります。
困難な状況にある人に手を差し伸べる、苦しむ友人や身内に手を差し伸べる、年老いた親の面倒を看る、病気の
身内を介護する、などの行為が愛であり行為の伴わない愛はイメージできませんでした。
愛=愛すること=行為だと考えていました。行為の背景に高尚な心根などなくても良い、とは思っていません
でしたが、いくら心を痛めても、いくら言葉を尽くしても行為の伴わない愛は胡散臭いと考えていました。
そして自分の生活第一に生きている私は他の人のためには何もしていない、具体的な行動はなにもしていない。
本当に私は「愛」少ない人間だと思って来ました。

今日の聖句の「愛」は具体的行為ではなく、心の持ちようが述べられています。
神様の私たちへの愛はこんなに凄いものでした。私達もこのように神様を愛し、友人知人、すべての人を
愛しなさいとイエス様は教えてくださいます。
愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない・・・・妬み深い私にはこの愛を実行することは不可能です。
自分の利益を最優先させてしまう私には不可能です。
堪え性がなく、すぐに苛立ち、疑り深い私には不可能です。
あ~ぁ! 今日の聖句で、私は「愛少ない」どころか「愛」の欠落した人間だとわかりました。
愛は行為だ、などと浅はかな私の考えではとても今日の聖句は実行できません。
それでも、神様も隣人も愛せないなんて悲しすぎます。少しでも神様の愛にお応えできる人間になれますように。 
神様の愛をすこしでも友人、知人に伝えることが私にはできるでしょうか、聖書を読み、祈る毎日です。

「聖書事典」の解説は私には難しいのですが、「神様がいつも共におられる」という信仰を持ち、神様の愛を感じて
生きて行けば、愛はふさわしい形で一人ひとりの行為(愛の業)に現れてくる(はず)と理解しました。


↓「聖書事典」の「愛」の項目からの抜書です。**********
イエスの言葉として、有名なものは山上の説教の中での戒め「敵を愛し、自分を迫害する者のために
祈りなさい」(マタイ5:44) 律法学者の問に対する答えの形で言われている「心をつくし、精神をつくし、
思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:37,19)は
最も重要な掟と言われるものである。この言葉は、神への愛と隣人への愛が同質のものであるべきと強調されている。
ルカ福音書では、この戒めに続いて善いサマリア人のたとえ話が述べられ、愛の具体的な形が示される。

ヨハネ福音書では御子キリストの到来が神の愛によるものであると言われている。
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)
(ヨハネ手紙一)では、神の愛、神への愛、人間相互の愛のそれぞれの関係が述べられている。
御子を我々のために遣わされたところに神の愛の本質があること。まず神によって愛されたわれわれは、その
同じ愛をもって神を愛し、また他者を愛すべきことが命じられる。
主イエスは、神から与えられた愛をもって神と人を愛すべきことを教えられたが、現実にはわれわれはその愛を実行する
ことが不可能であることをしめしているのが、復活後のイエスとペトロとの対話である。(ヨハネ福音書21:15-17)
信仰としての愛(コリント手紙一13章)
聖書には愛について多く語られるが、その究極的なものは(コリント手紙一)13章である。
単に抽象的な愛を賛美しているのではない。信仰、希望との関わりにおいて愛が語られている。それは神から
出たものであり、キリストの出来事において具体化され、ここにわれわれの生の根源がある。
終末のときの完成を待ち望みつつ、生けるキリストに従うときにのみ愛の業が可能となるのであって、
それは信仰に他ならないのである。 **********

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残り少ないコムラサキの実を啄む<メジロ>です。
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