今日の聖句は「コリントの信徒への手紙一」13章1節~7節 です。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの
完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、
誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、
いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、
すべてに耐える。
「愛」は行為だ、と考えていた時期があります。
困難な状況にある人に手を差し伸べる、苦しむ友人や身内に手を差し伸べる、年老いた親の面倒を看る、病気の
身内を介護する、などの行為が愛であり行為の伴わない愛はイメージできませんでした。
愛=愛すること=行為だと考えていました。行為の背景に高尚な心根などなくても良い、とは思っていません
でしたが、いくら心を痛めても、いくら言葉を尽くしても行為の伴わない愛は胡散臭いと考えていました。
そして自分の生活第一に生きている私は他の人のためには何もしていない、具体的な行動はなにもしていない。
本当に私は「愛」少ない人間だと思って来ました。
今日の聖句の「愛」は具体的行為ではなく、心の持ちようが述べられています。
神様の私たちへの愛はこんなに凄いものでした。私達もこのように神様を愛し、友人知人、すべての人を
愛しなさいとイエス様は教えてくださいます。
愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない・・・・妬み深い私にはこの愛を実行することは不可能です。
自分の利益を最優先させてしまう私には不可能です。
堪え性がなく、すぐに苛立ち、疑り深い私には不可能です。
あ~ぁ! 今日の聖句で、私は「愛少ない」どころか「愛」の欠落した人間だとわかりました。
愛は行為だ、などと浅はかな私の考えではとても今日の聖句は実行できません。
それでも、神様も隣人も愛せないなんて悲しすぎます。少しでも神様の愛にお応えできる人間になれますように。
神様の愛をすこしでも友人、知人に伝えることが私にはできるでしょうか、聖書を読み、祈る毎日です。
「聖書事典」の解説は私には難しいのですが、「神様がいつも共におられる」という信仰を持ち、神様の愛を感じて
生きて行けば、愛はふさわしい形で一人ひとりの行為(愛の業)に現れてくる(はず)と理解しました。
↓「聖書事典」の「愛」の項目からの抜書です。**********
イエスの言葉として、有名なものは山上の説教の中での戒め「敵を愛し、自分を迫害する者のために
祈りなさい」(マタイ5:44) 律法学者の問に対する答えの形で言われている「心をつくし、精神をつくし、
思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:37,19)は
最も重要な掟と言われるものである。この言葉は、神への愛と隣人への愛が同質のものであるべきと強調されている。
ルカ福音書では、この戒めに続いて善いサマリア人のたとえ話が述べられ、愛の具体的な形が示される。
ヨハネ福音書では御子キリストの到来が神の愛によるものであると言われている。
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)
(ヨハネ手紙一)では、神の愛、神への愛、人間相互の愛のそれぞれの関係が述べられている。
御子を我々のために遣わされたところに神の愛の本質があること。まず神によって愛されたわれわれは、その
同じ愛をもって神を愛し、また他者を愛すべきことが命じられる。
主イエスは、神から与えられた愛をもって神と人を愛すべきことを教えられたが、現実にはわれわれはその愛を実行する
ことが不可能であることをしめしているのが、復活後のイエスとペトロとの対話である。(ヨハネ福音書21:15-17)
信仰としての愛(コリント手紙一13章)
聖書には愛について多く語られるが、その究極的なものは(コリント手紙一)13章である。
単に抽象的な愛を賛美しているのではない。信仰、希望との関わりにおいて愛が語られている。それは神から
出たものであり、キリストの出来事において具体化され、ここにわれわれの生の根源がある。
終末のときの完成を待ち望みつつ、生けるキリストに従うときにのみ愛の業が可能となるのであって、
それは信仰に他ならないのである。 **********
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残り少ないコムラサキの実を啄む<メジロ>です。