ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「修養会」お知らせ

2015-09-28 23:22:55 | 美竹教会
  ↓ 下のチラシの要領で美竹教会「修養会」をいたします。
    立派な?高齢者の私としては「終活」という言葉には敏感に反応してしまいます。
    聖書に学ぶ終活・・・・う~ん、どんな説教、どんな修養会になるのでしょう、楽しみです。
    これまで教会にいらしたことがない、という方もどうぞ勇気を出して、
    扉をくぐって教会に入ってきてください。 絶対に新しい展望が開けますよ。    

  


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「因果の破れ」

2015-09-27 22:19:15 | 説教
今日の礼拝説教  テキストは「ヨハネによる福音書」9章1節~12節
タイトルは「因果の破れ」でした。






教会学校の分級当番だった私は、本日はライブでお説教をお聴きすること叶わず。
戴いたプリントを家で二度読みました。 (^-^)


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「今後の予定」のページに秋の二大イベント! 「修養会」と「お楽しみ会」の
お知らせが載っています。 どうぞご覧ください。
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讃美歌228番「ガリラヤの風かおるあたり」

2015-09-24 15:25:05 | 讃美歌
20日の礼拝で歌いました。
「主の祈り」の中の「御国を来たらせたまえ」から発想し、平和な地球を願って作詞されたそうです。

讃美歌228番 「ガリラヤの風」 作詞: ko Yuki,1929
                   作曲:Lowell Mason,1823 MISSIONARY HYMN
 1) ガリラヤの風 かおるあたり、
   「あまつ御国は 近づけり」と、
    のたまいてより いく千歳(ちとせ)ぞ、
    きたらせたまえ、 主よ、 み国を。

 2) たたかいの日に いこいの夜(よ)に、
    みくにをしたう あつきいのり、
    ささげられしは いく千度(ちたび)ぞ、
    きたらせたまえ、 主よ、み国を。

 3) 憎み、あらそい、 あとを絶ちて、
    愛と平和は 四方(よも)にあふれ、
    みむねの成るは いずれの日ぞ、
    きたらせたまえ、 主よ、み国を。 

原作者由木康氏(1896―)の作品は日本キリスト教団賛美会員会編纂の讃美歌集で一番多い。
又、数多くの歌詞が翻訳されている。
氏は,関西学院文学部をおえて、聖書と神学を学び日本キリスト教団東中野教会牧師、
青山学院神学部その他で聖歌学を講ずる一方讃美歌の編纂に携わった。
この曲は,氏が昭和6年版「讃美歌」の改訂に携わっていた頃,一夜主の祈りの中の
{み国をきたらせたまえ}と言う句から霊感を受け,第一次大戦中の経験を思いおこして,
永遠の平和が実現する神の国を待望しつつ作った歌である。

旋律の“Missionary Hymn”はLowell Mason(1792-1872)によるものであるが、
讃美歌214番「北のはてなる」のためにこの曲を作曲した。
ところが,この曲はうたい易く且つ原歌詞(214番)の気分とよく合っているので,
たちまち全米に広がり,各派の讃美歌集や日曜学校の聖歌集にまで採り入れられた。
メイスンの代表作の一つである。
この曲は『変ホ長調』であるが,214番は『ニ長調』である。

讃美歌228番のオルガン伴奏が、ここをクリックすると聴くことができます。
本当に歌いやすい讃美歌です、どうぞ伴奏に合わせて歌ってみてください。


公園の野草園にさいていました。 <シュウメイギク>

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神様が準備してくださった善い業

2015-09-22 22:05:16 | 今日の聖句
今日の聖句は一昨日の礼拝説教「本当の道」のテキストだった「エフェソの信徒への手紙」2章1節~10節です。

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、
かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して
歩んでいました。 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、
肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人人と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき
者でした。 しかし、憐み豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、-あなたがたの救われたのは恵みによるのですー
キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな
恵みを、来たるべき世に現そうとされたのです。 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。
このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。
それは、だれも誇ることがないためなのです。 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、
神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。
わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。


こうして書いてみると(キーボードで打ったとしても)説教で説き明かされたメッセージがよ
り一層鮮やかに納得できます。
左近深恵子牧師は教会学校の子供たちへの説教で、脳梗塞で倒れて右半身が不自由になっても
死の直前まで左手で創作を続けた、彫刻家・船越保武の生涯と作品について話されました。
クリスチャンであった船越氏は最期まで神様から準備された道を歩みとおした人でした。
「神様は私たちが病気になっても年をとっても、いつも必ず、私たちに善い業を準備して
くださっています。教会学校の皆さんもこれから色々経験して自分が神様から示された善い業を
見つけてください」と話されました。 分かりやすくてとても良いお説教でした。


公園の<ヤブラン>が綺麗でした。

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「本当の道」

2015-09-21 10:15:14 | 説教
昨日の礼拝説教は「講壇交換」ということで、曙教会牧師の左近深恵子先生がなさいました。
説教のテキストは「創世記」1章26節~28節 と「エフェソの信徒への手紙」2章1節~10節 
タイトルは「本当の道」でした。

左近深恵子牧師は左近豊牧師の奥さまで、曙教会での牧会は10年目を迎えたそうです。
大学1年、高校2年、中学1年のお子達のお母様でもあります。
(交換と言うことで、左近豊牧師は曙教会で説教、午後の研修会を担当されたようです。)







深恵子牧師の説教は、率直で聖句に添って丁寧に解き明かされ、神様が一人一人に
備えてくださっている善い業の道を自分の思い込みで軽んじたり過小評価することなく、
神様の召しにお答えして歩めるように祈り続けましょう、というメッセージがスーッと
胸に響きました。
私が鉛筆で『』をいれた箇所は、第2節の「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者。
すなわち、不従順な者達の内に働く霊」についての説き明かしだと思いますが、この世に何故、
納得できない不条理、不幸、社会の格差などがあるか、という私の積年の疑問に答をいただいた
ような聖句、そして説き明かしでした。
「勢いとも、流れとも、空気とも言えるような力に呑み込まれるように、人が罪に支配されてしまう。」
「その流れが過ちであると多くの人が気づきながら、多くの人がまた呑みこまれてゆく状況が、
かつても今もあります。」
「私どもは皆、このような力に覆われて罪の闇を排気ガスのように自分の内側に吸い込み、
周りの人に撒き散らしながら、過ちと罪を重ねて歩むものの一人でありました。」
そういう私たちは、今は「神さまによって私どもは、キリストと共に生かされる者となりました。」
私たちキリストに連なる者のなすべきこと、神様から与えられている使命を、私も手探りしながら
はたしてゆきたいと思いました。


子育てが終わって秋の日差しの中でホッとする<翡翠>父さん。

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「初めに言(ことば)があった」

2015-09-17 13:40:41 | 今日の聖句
新約聖書は「ヨハネによる福音書」を読み始めました。
今日の聖句はヨハネ伝の1章1節~5節です。
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。


他の福音書の書き始めはどのような言葉なのでしょう、興味あります。
イエス・キリストの生涯とその福音を記した、四つの福音書の書き始めを並べてみました。 

「マタイによる福音書」1章1節~6節
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによって
ベレツとゼラを、ベレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブは
ナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによって
オベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。

「マルコによる福音書」1章1節~4節
神の子イエス・キリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

「ルカによる福音書」1章1節~4節
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたち
に伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。
そこで、敬愛するティオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、
順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

なかなか、なかなか・・・・・聖書はなんと豊かで飽きない書物であることでしょう。


コウホネの池を泳ぐ<カルガモ>です。

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ヴィアドロローサ

2015-09-15 13:25:51 | 美竹教会
イエス様がゴルゴタの丘まで十字架を背負って歩いた道をヴィアドロローサと呼ぶそうです。
日本語では「悲しみの道」「苦難の道」などと呼ばれます。
先日の礼拝後祈祷会で話されたT兄の「証し」のタイトルでした。

↓ Tさんの証しの概略です。

私は学生時代に初代浅野順一牧師の頃の美竹教会に通い始め、その頃から礼拝の奏楽奉仕を
しておりました。 卒業後、40年間の公務員生活のうち25年間を外国で過ごしましたが、
仕事で滞在している合間に70か国以上の国々を訪れました。
イスラエル、特に城壁に囲まれ、東西南北に宗派ごとで四分割されているエルサレム旧市街は
印象に強く残っています。 北東はムスリム地区、北西はキリスト教徒地区、南西はアルメニア
正教徒地区、南東はユダヤ人地区となっています。
エルサレムのヴィアドロローサを歩いた時には、二千年前、ここをイエス様が十字架を背負って
最後に歩かれたのだと思うと胸に迫るものがありました。
浅草の仲見世通りよりも狭い道を十字架を背負って歩かれたイエスは、途中で三度躓かれたそうですが、
とても十字架を背負って登れる道ではないと思いました。
マタイ、マルコ、ルカ伝にはキレネ人のシモンという人がイエスに替わって担がされたと書いてあります。
ゴルゴタの丘の上には「聖墳墓教会」と言う教会が建てられています。
二千年前、イエス様が十字架に架かられた跡に建つその礼拝堂に入りましたが、イエスの墓の前で、
私は思わずひざまずいておりました。
礼拝堂には全世界からありとあらゆる宗派のクリスチャンが集まっていて、礼拝を捧げ、祈りを捧げ
それはうるさくて、喧騒に包まれていました。
日本人は私と同行者の二人だけでしたが、私は世界中からのクリスチャンに囲まれながら、
エルサレムからはるか遠い東の国の日本人の私がどうしてクリスチャンになったのだろう、
何故クリスチャンなのか、茫然と考えていました。 
文化も思想も歴史も環境も何もかもが異なっている私とキリスト教、答は見つからず、
その時「自分ははまだ求道者なのだ」と強く感じました。
そして、何故自分がクリスチャンなのか分からない私はいまだに、自分は求道者なのだ
という思いを持っています。   (以上、文責はゆうゆうにあります。)

美竹教会では月一くらいで礼拝後祈祷会がもたれます。
そこでは、教会の兄弟姉妹の「証し」が話されます。
どなたの証しも、私には新鮮で時には深く考えさせられます。
私は、と言えば、証しすることが何もないような心許ないフラフラした信者です。 (T__T)


韮の花に止まった<ベニシジミ(夏型)>です。

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「世の光」

2015-09-13 21:37:13 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「ヨハネによる福音書」8章12節~20節
タイトルは「世の光」でした。






    
      公園の<曼珠沙華>です。

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以前、青年伝道礼拝に来て下さった私の友人が、今日は礼拝前の
「聖書の学び」の会から参加してくれました。
常にも増して嬉しく、感謝の礼拝でした。 (^-^)
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讃美歌第二編 179番

2015-09-10 10:05:30 | 讃美歌
先週の讃美歌練習の時に歌いました。 難しい歌で、なかなか歌えず覚えられず。 (^^;)

讃美歌第2編179番 「みまえにわれらつどい」   
        “Let us break bread together, on our knees”  詩:黒人霊歌
        “COMMUNION SPIRITUAL”  曲:黒人霊歌

1)みまえにわれらつどい
  ともにわかつみ糧(かて)を
  世の光なる主のことばもて 祝したまえ
2)み招きにこたえつつ
  あずかるさかずきをも
  世の光なる主のことばもて 祝したまえ
3)みわざをたたえうたい
  みまえにつどう民を
  世の光なる主のことばもて 祝したまえ


聖餐を主題とした数少ない黒人霊歌である。
3節からなる英語の歌詞は、1節がパンを割き、2節がぶどう酒を飲み、3節が神を称えたものだが、
その他の歌詞は全く同一である。 しかし、実際に聖餐式で使うことを考慮し、各節の後半の
同一歌詞の2行は原歌をやや離れて意訳されている。
訳者の岸本洋一氏は、編曲(1962年)されたものを聖餐式で用いている
The East Harlem Protestant Parish, New Yorkの教会での礼拝を経験された。
ひざまずいて聖餐にあずかり、頭をたれて罪人の私を憐れんでください(ルカによる福音書18章13節)と
神に祈る内容である。
この歌は、素朴で敬虔な表現ゆえに1955年頃からアメリカで大変ポピュラーになった。

この黒人霊歌の原曲は、The Hymnal 1982 Companion (no. 325) の解説によると、
William Barton の Old Plantation Songs (1899;短縮版) および John W. and Frederick J. Work の
Folk Songs of the American Negro (1907) に収録された。
また、Johnson 兄弟の The Second Book of Negro Spirituals (1926) に "When I Fall On My Knees
(Wid My Face to de Risin' Sun  スペルの間違いではありません)" という題名でピアノ伴奏付きの
編曲版が載っている[Companion to The United Methodist Hymnal (no. 618) はこれが最初の印刷版の
ようである]と言う。1940年代以降に一般の讃美歌集にも採用されるようになった。 (以上、ネットより引用)

ここをクリックすると讃美歌第二編179番を聴くことができます。
帯に短し襷に長しという感じで良い演奏が見つかりませんでした。
(って、参照したサイトに失礼かな? ごめんなさい)

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美竹教会で 「2015年度 西南支区 信徒研修会」

2015-09-08 18:41:26 | 美竹教会
お知らせです。
美竹教会を会場にして、下のような研修会が企画されているようです。
講師は美竹教会の左近豊牧師。 (^-^) 皆さま、覚えてご参加ください。

  

旧約、新約をとおして聖書の中にはたくさんの「祈り」が登場します。
私は旧約の「ダビデの祈り」や「ソロモンの祈り」が好き(?)ですが、また「子を授けたまえ」と
泣きながら神に祈るハンナの祈りも印象的です。
イエス様は新約の中で私たちに、このように祈りなさいと、「主の祈り」を教えてくださいました。 
私も毎朝毎晩、神様にお祈りしています。
「主の祈り」を唱える時もありますが、大体は「天の父なる神様、聖名を讃美いたします・・・・」
から始まって、自分の思いを祈ります。 そして思うに、多分私の祈りは稚拙です。
何と比べてかというと、私の場合は、礼拝の司会者(教会の長老の方々)や左近牧師の祈りと
比較することしかできないのですが・・・・
ダビデやソロモンとは生活(歴史的)背景やスケールが違い過ぎて比べる気にはなりません。 (^^;)
私は、祈りの時に主を、神を思い浮かべてそれに向かって祈っていないことが多いのです。
何を祈ろうか、次々と浮かんでくるのは言葉、言葉、言葉で、自分は本当に神と対峙して
祈っているのか分からず、言葉を探しているうちにますます神様が見えなくなったりします。
「2015年度 西南支区 信徒研修会」 出席して「聖書に学ぶ祈り」勉強したいです。


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