「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」で始まる「コヘレトの言葉」を読んでいます。
若い頃、初めてこの書を読んだとき、こんな言葉も聖書にあるのだ!と驚いたことを思い出します。
所々に入る「さあ、飲み食いして人生を楽しむのだ、それが人間の幸福だ!」みたいな聖句にも驚きました。
このブログでは「コヘレトの言葉」についての記事をこれまで何回も書いています。
深まらない私の聖書理解 (T_T) ですが、自分の生を肯定できる信仰を与えられている平安。
神様への感謝は深まっていると思い(願い)ます。
今日の聖句は「コヘレトの言葉」からの抜書きです。
(03:18~22)
人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないと
いうことを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊を
もっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。
すべては塵から成った。すべては塵に返る。人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。
人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。
それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。
(06:12)
短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。
人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。
(07:29)
ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが
人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
(08:09)
わたしはこのようなことを見極め、太陽の下に起こるすべてのことを、熱心に考えた。今は、人間が人間を
支配して苦しみをもたらすような時だ。
(09:07~09)
さあ、喜んであなたのパンを食べ
気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。どのようなときも純白の衣を
着て頭には香油を絶やすな。太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。
それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ。
↓「新共同訳 聖書事典」(2004年)から木田献一先生の解説文です。これも何回かブログに載せています。
『コヘレトの言葉は冒頭の「なんという空しさ、すべては空しい」という有名な言葉にはじまり、極めて特色
ある思想を展開している。論理的一貫性を見極めることは必ずしも容易ではない。万物の無常を認め実体性を
拒否する思想は、旧約聖書ではほとんど他に見られない。脈絡を書いた金言を集めた印象の強い構成であるが、
内容は決して単に雑然とした断片的思想を集めてものではない。
固有性のつよい、考え抜かれた知恵の言葉を集めたものである。
コヘレトの言葉の思想の特色は、一切は空しいことに根底をおいている。これは透徹した認識であって、単に
「なんという空しさ」という詠嘆を意味するものではない。一切のことがめぐりめぐって循環しており、一定
の確固たる目的があるものとは思えない。「かつてあったことは、これからもある」そして、「太陽の下、
新しいものは何一つない(1:9)」と断定している。にもかかわらず、コヘレトは神を畏れ敬うことを拒否して
いるのではない(3:14,5:6,7:18,8:12,13,12:13)。むしろ、結局神を畏れ敬うことのみが根本的に
重要であることを確認しているのである。人智で量り難い神の知恵といつくしみを忘れてはならない。
人間はどこまでも謙虚で、神を畏れることが大切であると言うのである。
天地創造の神の業、終末における神の審判、人間のなすすべてのことについての責任、これらすべてのことは
聖書の根本的な教えである。しかし、これらすべてのことを固定的に考えてはならない。人生には悲惨も多いが、
また神が与えられる幸福と快楽も感謝すべき賜物である。これらの思想はヘレニズム時代に到達された認識である。
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
東京に雪が降った前日、公園で<トラツグミ>に会いました。
若い頃、初めてこの書を読んだとき、こんな言葉も聖書にあるのだ!と驚いたことを思い出します。
所々に入る「さあ、飲み食いして人生を楽しむのだ、それが人間の幸福だ!」みたいな聖句にも驚きました。
このブログでは「コヘレトの言葉」についての記事をこれまで何回も書いています。
深まらない私の聖書理解 (T_T) ですが、自分の生を肯定できる信仰を与えられている平安。
神様への感謝は深まっていると思い(願い)ます。
今日の聖句は「コヘレトの言葉」からの抜書きです。
(03:18~22)
人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないと
いうことを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊を
もっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。
すべては塵から成った。すべては塵に返る。人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。
人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。
それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。
(06:12)
短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。
人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。
(07:29)
ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが
人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
(08:09)
わたしはこのようなことを見極め、太陽の下に起こるすべてのことを、熱心に考えた。今は、人間が人間を
支配して苦しみをもたらすような時だ。
(09:07~09)
さあ、喜んであなたのパンを食べ
気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。どのようなときも純白の衣を
着て頭には香油を絶やすな。太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。
それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ。
↓「新共同訳 聖書事典」(2004年)から木田献一先生の解説文です。これも何回かブログに載せています。
『コヘレトの言葉は冒頭の「なんという空しさ、すべては空しい」という有名な言葉にはじまり、極めて特色
ある思想を展開している。論理的一貫性を見極めることは必ずしも容易ではない。万物の無常を認め実体性を
拒否する思想は、旧約聖書ではほとんど他に見られない。脈絡を書いた金言を集めた印象の強い構成であるが、
内容は決して単に雑然とした断片的思想を集めてものではない。
固有性のつよい、考え抜かれた知恵の言葉を集めたものである。
コヘレトの言葉の思想の特色は、一切は空しいことに根底をおいている。これは透徹した認識であって、単に
「なんという空しさ」という詠嘆を意味するものではない。一切のことがめぐりめぐって循環しており、一定
の確固たる目的があるものとは思えない。「かつてあったことは、これからもある」そして、「太陽の下、
新しいものは何一つない(1:9)」と断定している。にもかかわらず、コヘレトは神を畏れ敬うことを拒否して
いるのではない(3:14,5:6,7:18,8:12,13,12:13)。むしろ、結局神を畏れ敬うことのみが根本的に
重要であることを確認しているのである。人智で量り難い神の知恵といつくしみを忘れてはならない。
人間はどこまでも謙虚で、神を畏れることが大切であると言うのである。
天地創造の神の業、終末における神の審判、人間のなすすべてのことについての責任、これらすべてのことは
聖書の根本的な教えである。しかし、これらすべてのことを固定的に考えてはならない。人生には悲惨も多いが、
また神が与えられる幸福と快楽も感謝すべき賜物である。これらの思想はヘレニズム時代に到達された認識である。
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
東京に雪が降った前日、公園で<トラツグミ>に会いました。