ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

栄華を極めたソロモンよりも・・・

2022-02-27 15:54:41 | 今日の聖句
今日の聖句は 「ルカによる福音書」 12章22節~29節 です。

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、
体のことで何を着ようかと思い悩むな。 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は
烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちの
だれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。 野原の花がどの
ように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を
極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は野にあって、
明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたには
なおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと
考えてはならない。また、思い悩むな。




大根の首から延びた小さな葉っぱ、なんて美しいのでしょう。思わずパチリ! 
ソロモン王と台湾故宮博物館の彫刻「翠玉白菜」を思いました。


今日は聖句をもう一つ  「ルカによる福音書」 12章13節~21節

群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を
持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、
イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物を
しまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと
大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから
先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい
だれのものになるのか』と言われた。
自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」


ロシアがウクライナに侵攻しました。
プーチン大統領が(多分)侵攻の正当性を主張している場面をテレビで見ました。
たまたまミュートで見ていたので顔の表情しかわかりませんでしたが、だからこそ
よけい感じたのかな、かなりの迫力でした。 
富か、権力か。 
戦争で人を殺してまでの執着というのは一体何が目的なのでしょう。


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「元裁判長と約束の腕時計」

2022-02-09 17:57:32 | その他
2月9日(水)の朝日新聞に載っていた記事です。

********************
1972年に起きた「あさま山荘事件」を含む連合赤軍事件で逮捕・起訴され、無期懲役が確定した
連合赤軍元幹部の吉野雅邦受刑者。
吉野受刑者の一審裁判で裁判長を努めた故・石丸俊彦さんは、判決言い渡し後、「法の名において
生命を奪うようなことはしない。被告は、その全存在をかけて罪を償ってほしい」と、そう説諭した。
石丸さんは退官後1992年、吉野受刑者の両親を介して聖書を贈呈し、その後毎年、クリスマスカード
などを送っていた。2000年前後から吉野受刑者の仮釈放を祈るという内容のカードを送るようになり
「私にできることがありましたら、いくらでもお手伝いいたします」(2002年のクリスマスカード)
石丸さんは2007年4月1日、82歳で死去されたが、その遺言で「吉野受刑者が娑婆に出るときは身に
つけて欲しい」と愛用の腕時計を残した。

吉野受刑者は、判決文や石丸さんとのやりとりを通して自身を見つめ続けた。その結果、
「私にとっての『革命運動』とは、社会を変革する組織的運動ではなく、弱者への後ろめたさから
免れ、果てには生き続けていることへの負い目から自由になる、
自己破滅を目指しての挑戦だった
ように思える」との境地に至った。
「石丸先生の恩に報いるためにも社会復帰を果たして、贖罪としての生き方をしたい」と記者への
手紙に誓いをつづっている。

新聞には石丸さんから送った誕生日カードの写真があった。
そこには「神によってこの世に生命を与えられました尊いお誕生日を心からお祝い申し上げます。
上からの御恩寵御慈愛が日に日に豊かにふりそそがれますように、主にお祈りいたしております」
と書かれていた。
********************

十代で受洗したあと、教会から離れ神様から離れ、社会運動や職場の組合で動いていた頃、私の
頭の中には「世界中の人が平等にならなくては私の心は穏やかであり得ない」という思いが確かに
ありました。しかし、純粋から程遠く生ぬるい私は、自分が神様の被造物である、という言葉に
救われるまで、激しく運動に突き進むこともなくダラダラと、それでも何となく負い目を感じながら
生き続けました。今も生き続けています。
吉野受刑者の言葉は、自分の生活が満たされていることに安住せず、弱者への後ろめたさから
社会運動に突き進んだ若者の純粋な魂を見る思いで、高齢でこれと言った行動のできなくなった今も
私の胸をざわつかせます。
イエス様は全てを捨てて私に従いなさいと言われました。
今の安定を神様に感謝するだけでよいのでしょうか?


わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、
どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出
そうとしている。「ヨハネの黙示録」3章15節~16節


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 もうすぐ春ですね。<ヒヨドリ>です。
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