ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「神の安息」にあずかる

2016-02-29 12:57:33 | 分からなかった今日の聖句
今日は「分からなかった今日の聖句」: 「ヘブライ人への手紙」4章1節~11節です。 
前の3章から読んでいくと、モーセを指導者としてエジプトから出たイスラエルの民は
不信仰のゆえに神の怒りに触れ、誰も神の安息にあずかれなかった。
あなた方はそうであってはならない、とパウロは言っているようですが、よく分からない
言葉や言い回しが結構たくさんあります。
美竹教会「冬の伝道礼拝」で話された大宮謙先生がお薦めくださったように、買ってから
殆ど開いていない私の英語版聖書も見てみました。 
英語版の方の聖句はさっぱりしていて(私には)さらに取っ掛かりが無いような・・・・(ノд-。)

だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者が
あなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に
福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。
その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。
「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』」と
言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と
言われているからです。そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせは
しない」と言われています。そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、
また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、
神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが
神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。
もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることは
なかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
なぜなら、神の安息にあすかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて
休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。
さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。


Holy bible 「HEBREWS」4 The Believer’s rest”
Therefore, let us fear if, while a promise remains of entering His rest, any one of you may
seem to have come short of it. For indeed we have had good news preached to us, just as they also;
but the word they heard did not profit them, because it was not united by faith in those who heard.
For we who have believed enter that rest, just as He has said, “As I swore in My wrath, They shall
not enter My rest,” although His works were finished from the foundation of the world.
For He has said somewhere concerning the seventh day: “And God rested on the seventh day from all
His works”; And again in this passage, “They shall not enter My rest.”
Therefore, since it remains for some to enter it, and those who formerly had good news preached to
them failed to enter because of disobedience.
He again fixes a certain day, “Today,” saying through David after so long a time just as has been
said before, “Today if you hear His voice, do not harden your hearts.”
For if Joshua had given them rest, He would not have spoken of another day after that.
So there remains a Sabbath rest for the people of God.
For the one who has entered His rest has himself also rested form his works, as God did from His.
Therefore let us be diligent to enter that rest, so that no one will fall, through following
the same example of disobedience.
ふ~、英語を打つだけでも大変です、打つだけでも少しは頭に、心に、沁みるかな~ (^^;)


<ジョウビタキ(♂)>日本には冬鳥として渡来します、三月にはシベリア方面に渡って行きます。
一緒に鳥見・鳥撮りをしていた連れ合いの病気が少々深刻になってきて最近は公園に出かけられません。
今日のジョビ男君も何年か前に撮った写真です。(T__T)

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「交換講壇」 説教:左近深恵子牧師

2016-02-27 09:07:17 | 美竹教会
明日、2月28日の主日礼拝は「交換講壇」ということで曙教会
左近深恵子牧師が美竹教会で説教されます。
心に響くメッセージが聴かれることと思います。
これまで教会に行ったことが無いという方も是非お出かけください。
今日は、明日の礼拝説教テキスト(聖句)を載せることにいたします。

説教のテキストは「ミカ書」7章18節~20節と「ヘブライ人への手紙」9章11節~14節
タイトルは「救いの道」 です。

「ミカ書」7章18節~20節
あなたのような神がほかにあろうか 咎(とが)を除き、罪を赦される神が。
神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りをたもたれることはない
神は慈しみを喜ばれるゆえに。
主は再び我らを憐み 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。
どうか、ヤコブにまことを アブラハムに慈しみを示してください
その昔、我らの父祖にお誓いになったように。


「ヘブライ人への手紙」9章11節~14節
けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、
人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更におおきく、更に
完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度
聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、
また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清める
ならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられた
キリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するように
させないでしょうか。


様々な雑事が重なって、私は明日の礼拝に出られません。
左近深恵子牧師の説教をお聴きでなくて、とっても残念です。
特にテキストの「ヘブライ人への手紙」は私にはよく理解できない聖句ですので、
なお一層、お説教をお聴きしたいと思ってしまいます。
後で、何とか説教コピーをいただけないかな~


<侘助> 大好きな美しい椿です。

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讃美歌291番 「主にまかせよ」

2016-02-24 10:42:14 | 讃美歌
先日の礼拝で歌いました。 説教題「ストレートな信仰」にふさわしい讃美歌でした。

讃美歌291番 「主にまかせよ」
        Harre, meine Seele, by Friedrich Raeder, 1845
        「MON DIEU, MON PERE」by Henri Abraham Cesor Malau, 1827

  1 主にまかせよ、汝(な)が身を、
    主はよろこび たすけまさん。
    しのびて 春を待て、
    雪はとけて 花は咲かん。
    あらしにも やみにも
    ただまかせよ、汝が身を。

  2 主にまかせよ、汝(な)が身を、
    主はよろこび たすけまさん。
    なやみは つよくとも
    みめぐみには 勝つを得じ。
    まことなる 主の手に
    ただまかせよ、汝が身を。

19世紀ドイツのヨハン・フリードリヒ・レーダーによる作詩。
商業活動に携わる中で讃美歌を作ったようです。
その活動においての失敗や不安があった中で生まれた詩だと思われます。
主に委ねるべきことを自分の魂に向けて語る詩篇の趣です。

作曲はアンリ・アブラハム・セザール・マラン。
19世紀初めからジュネーブなどで活動しました。
ビジネスを学びましたが伝道に入り、カルヴァン派の教会を設立しました。
多くの作品を残しているそうです。 
(解説は香椎プロテスト教会の“香柏だより”というブログから
引用させていただきました。)

ここをクリックすると讃美歌291番を聴くことができます。


公園の水場に来た<エナガ>です。
14㎝の身体の半分は尾羽で、とても小さな野鳥です。

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「ストレートな信仰」

2016-02-22 10:54:05 | 説教
昨日(2月21日)は冬の伝道礼拝ということで、青山学院大学准教授で宗教主任の
大宮謙先生をお招きしてお説教をお聞きしました。
テキストは「マルコによる福音書」5章21節~43節
説教題は「ストレートな信仰」でした。
説教コピーはいただけなかったので少々いい加減(脚色過剰?)な私のメモからの
説教要旨を載せます。(聞き違いや勘違いなどのミス、文責はゆうゆうにあります。)

******************************
今日のテキストには二つの物語が出てきます。
自分の12歳の娘が死にかかっている、ヤイロという名の会堂長の物語と、12年の
長きにわたって出血が止まらずに苦しむ病気の女性の話です。

会堂長というのは当時のユダヤ人の教会、シナゴーグの管理責任者でそれなりの
地位の人です。ヤイロはその地位から他人から頼まれることはあっても、自分が
他人にものを頼むことは無かったことでしょう。
すでにイエスの評判を聞いていたヤイロは娘の死に臨んでイエスの前に進み出てひれ伏し
娘の命を救ってくれるように頼みました。

出血の止まらない女性の病は、重い皮膚病と同じく、当時は宗教的に穢れていると
みなされ、彼女はユダヤ人社会から弾き出され、隔離されて独りで生活していました。
イエスはこの女性に「娘よ」と呼びかけていますから、二十代くらいの女性だった
のでしょうか。この女性は病気に加えて孤独と言う、言葉に言い表せないような
苦しみも抱えて12年、彼女の人生の半分くらいの時間、若く華やかな時を二重に
苦しんで過ごしていました。彼女もイエスの評判を聞いていたことでしょう。
イエスに近づいたところまではヤイロと同じですが、イエスへの接し方はヤイロとは違い
自分の宗教的穢れを自覚する彼女は、イエスの後ろからそっと衣に触れたのです。
病気から、孤独な暮らしから、救われたいと願う女性は群衆の後ろから手を伸ばし、
せめて、という願いを込めてイエスの服に触れました。
助けを求める手が触れた、その手を通して彼女の苦しみがイエスに伝わりました。
私達の悩みや苦しみや痛みは他人にはなかなか理解されず孤独感が募ることが多いのですが、
イエスは服に触れられただけで女性の苦しみを分かってくだる方でした。
人間の悩みを感じて下さる鋭い感覚。

「誰がわたしにふれたのか」というイエスの問を(イエスが怒って訊ねたと勘違いした)
弟子たちは「この大群衆ですから・・・」と執り成しました。 
自分の穢れがイエスにうつってしまったのでは恐れた女性は、自分のしたことに恐れを
いだいてイエスの前に進み出ました。
すると「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」とイエスは言われました。
このイエスの愛に溢れる言葉はこの女性が12年間、聞いたことも無い優しさで、女性の
身も心も解放したことでしょう。イエスなら自分を何とかしてくれるとの強い思い、
それが信仰だ、とイエスは言ってくれたのです。
「娘よ、よくぞ私を信じてくれた!」とも言い換えられるイエスの思いのこもった言葉です。
娘のストレートな信仰が娘を救いました。

その時、ヤイロの娘が死んだと言う知らせが届きました。イエスは「恐れることはない。
ただ信じなさい」とストレートな信仰を求めました。人々は「子供は死んだのではない。
眠っているのだ」と言うイエスを嘲笑い、ストレートに信じることをしませんでした。
ヤイロの娘は息を吹き返し歩き出し、イエスはヤイロと病気の女性の二人の切実な願いを叶えました。

「恐れることはない。だ信じなさい」
信じるという事は100%確かな場合にはありえません。不確かな時に信じる行為が生じます。
私たちが礼拝を捧げていると言うのは信じるべき事柄ではなく事実です。しかし、礼拝に神が
共にいますことは信じる対象です。全てが分かることは信仰の対象では無く事実です。
そして信じることには「勢い」もある程度必要かもしれません。切羽詰まった状況でこそ信じる
ことが素直にできるのかもしれません。ゆとりのある時にただ信じることはできなくなります。
ゆえに、イエスは「恐れるな、ただ信じなさい」と言われているのです。

イエスは御自分が十字架に架かり私たちを救ってくださるほどに私たちを愛し、常に共に
いて下さる方であります。全ての人が離れ、全ての物を失ってもイエスは共にいてくださり、
ただ「信じなさい」と言ってくださっています。
私たちはただストレートに信じることを求められています。
私たちは何者でもありません、主に与えられた命、与えられた日々の生活の中で
ストレートの信仰を持ち続けましょう。
******************************

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」というイエスのことばを「よくぞ私を信じてくれた!」
という暖かい血の通った言葉として聞いた大宮先生の読みに感動しました。
左近先生も聖書の言葉をそれはそれはダイナミックに説き明かして下さいます。
旧約聖書の説き証しはいつも心躍るものがあります。
毎日聖書を読んでいても、サラーッと読み流している私はそんな風には読んでいません。
茶話会の時にどうしたら聖書のぬくもりやダイナミックさを読み取ることができるのか、
大宮先生にお訊ねしました。
英語の聖書や、文語体の聖書など少し読みにくい、サラッと読めない、噛みごたえのある聖書を
読むのも一つの方法と教えていただきました。
文語体の聖書、母の形見で持っています。 今晩から読んでみようかな~


公園で餌付けされた<ルリビタキ(♂)>です。
三月になると北の国に旅立ちます。

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来週の礼拝は交換講壇で、荻窪の曙教会の左近深恵子牧師が美竹教会でお説教してくださいます。
深恵子先生は左近豊牧師の奥さまです。(^-^)
以前一度、説教をお聴きしましたが、アルトの深いお声が魅力的でキッパリと分かりやすいお説教でした。
教会は初めて、という方も是非お出かけください。
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テトスへの手紙

2016-02-20 15:00:37 | 今日の聖句
新約聖書は今、「テトスへの手紙」を読んでいます。
今日の聖句は2章11節~15節です。

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、
わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、
信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち
偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の
現れを待ち望むように教えています。
キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちを
あらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民をご自分のものとして
清めるためだったのです。
十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。
だれにも侮られてはなりません。


パウロが同志テトスへ宛てた手紙という形式で記された文書で、
「テモテへの手紙一、二」と共に「牧会書簡」と呼ばれる。
著者、受取人に関しては様々な説がたてられてきたが、特定の人物を結びつけることは
困難であった。教会秩序や安定した市民生活に強い関心をいだくパウロ主義者の集団が
生み出した文書と考えるのが妥当であろう。
著者は「分裂を引き起こす人」(テト3:10)を排除し「不従順な者、無益な話をする者、
人を惑わす者、」(テト1:10)を避けるように勧め、「健全な教え」「健全な言葉」を説く。
その内容は、それぞれの立場の人が自らの役割を果たすようにという通俗的な市民道徳であり
「長老」「監督」がそれを支える。(テト1:6-9)

「聖書事典」の「テトスへの手紙」の項より抜書きです。


<アオジ>のペア、手前が雄です。

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明日は美竹教会の「冬の伝道礼拝」として青山学院大学准教授の
大宮謙先生がお説教をなさいます。
礼拝後は大宮先生を囲んで、食事をしながら「懇談会」です。
教会は初めてと言う方、是非お出かけください!
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讃美歌162番 「あまつ御使いよ」

2016-02-18 14:51:47 | 讃美歌
先日の礼拝で歌いました。

讃美歌162番 「あまつみつかいよ」
  All hail the power of Jesus’Name, by Edward Perronet, 1779
  「CORONATION」by Oliver Holden, 1793

 1 あまつみつかいよ、イエスの御名の
   ちからをあおぎて主とあがめよ。
   ちからをあおぎて主とあがめよ。
 2 いのちをささげし あかしびとよ、
   ダビデの御裔(みすえ)を主とあがめよ。
   ダビデの御裔を主とあがめよ。
 3 世のつみびとらよ、イエスの愛と
   なやみをおもいて主とあがめよ。
   なやみをおもいて主とあがめよ。
 4 よろずのくにびと、みまえに伏し、
   みいつをあおぎて主とあがめよ。
   みいつをあおぎて主とあがめよ。
 5 とわに世をしらす イエス君にぞ、
   かむりをささげて主とあがめよ。
   かむりをささげて主とあがめよ

キリストの統御を主題としたイギリスの有名な歌である。
原作者Edward Perronet(1726-1792)は父親がウエスレーと親しかったところから、
若い頃はメソジスト運動に共鳴し、ウエスレーと共に伝道した。
晩年、カカンタベリーの小さな独立系教会を牧し、そこで生涯を終わった。
この歌は「復活について」と題されていたが、一般には「統御」の歌として用いられる。
華麗壮大な歌である。

曲名は”CORONATION”(戴冠式)
作曲者Oliver Holden(1793年作)アメリカの独立戦争にも活躍した音楽家で、
初代大統領ワシントンが大統領就任後最初にボストンを訪問の際、歓迎式典の作曲と指揮を依頼された。
この曲は、彼が最初の子供(娘)を授かった時の感激と感謝を表すために作曲したものと言われているが、
曲名の CORONATION は歌詞中の"crown Him Lord of all" にちなむ。

英語の歌詞の出だしは次の通りである。
All hail the power of Jesus' Name! Let angels prostrate fall;
Bring forth the royal diadem, and crown Him Lord of all.
Bring forth the royal diadem, and crown Him Lord of all.   (以上、ネットからの引用です。)

ココをクリックすると讃美歌162番を聴くことができます。

 
 <トラフズク>です。
 川の対岸の竹藪の中で動きません。
 竹が風にあおられると一瞬、隙間から姿が見えました。

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冬の伝道礼拝 (お知らせ)

2016-02-16 11:39:16 | 美竹教会
美竹教会「冬の伝道礼拝」のお知らせをいたします。
当日は大宮謙先生をお迎えして説教をお聴きします。

  日時:2月21日(日) 午前10時半~12時
  説教:「ストレートな信仰」 青山学院大学准教授・宗教主任 大宮謙先生


礼拝後には大宮先生を囲んでの「茶話会」をいたします。
キリスト教に関する疑問や聖書についての質問、なんでもお訊ねいたしましょう。 (^-^)
教会は初めてという方、大歓迎!です。
一人でも多くの方の参加をお待ちしております。

   大宮先生は慶応大学卒業後、日興証券に勤務。
   その後、献身されて東京神学大学で新約聖書学を専攻されました。
   西那須野教会、逗子教会の牧師を経て現職にあります。



春色を背景にした<モズ(♂)>です。


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「あってあるもの」

2016-02-14 22:39:23 | 説教
受難節(レント)第1主日礼拝の説教
テキストは「ヨハネによる福音書」18章1節~14節 タイトルは「あってあるもの」でした。





  今日のお説教は難しかったです。
  礼拝でライブでお聞きしている時も、最後の方はよく分からなかったのですが、
  いただいたプリントを読み返しても難しいです。 み言葉の説き明かしを私は
  下のように受け取ったのですが、実はあまり分かっていません。 (^^;)
  *************************
  レントの40日間をイエスキリストが苦しまれたことを思い起こし、自らの歩みを
  振り返って悔い改める。このような習慣、つまり救いの喜びだけでなく、哀しみを
  言葉にして祈り続け、悲哀を恥としないで語り伝えることは、苦悩を語り継いで
  きた神の民に連なることでもある。このようなレントの歩みの中で、私たちは
  ヨハネ福音書に証しされたキリストの十字架への道行きを辿る者とされる。

  祈りの場所にずかずかと押し入ったローマの兵士やユダヤ教の指導者たちに
  イエスは根源的な問いを発している。
  「あなた方は真実の神を探しているのではないか。矛盾と乖離を抱えた惨めな
  罪人である自分を救ってくれるメシアを探しているのではないか?『それは、
  わたしである』」(及川信牧師説教より)
  サマリアの女性やエルサレムの人々はその昔モーセが出会った神『わたしは
  ある』と語られる方にであう。しかし、皆がサマリアの女性のようではなかった。
  レントの時、それは嘆きを恥としない時、嘆きの極みにキリストの十字架を
  仰ぐものとされて罪を悔いる時である。*************************

  
  公園の野鳥は人に慣れていて、こんな風に手乗り状態で撮れることも・・・・(^-^)

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讃美歌264番 「うえなく尊き」

2016-02-12 19:09:36 | 讃美歌
先週の主日礼拝で、久し振りにこのブログに未掲載の讃美歌を歌いました。
初めての讃美歌で殆ど歌えませんでしたので、礼拝後の讃美歌練習で
この讃美歌を練習した時はとても嬉しかったです。
では、それで歌えるようになったかというと少々心許なく・・・残念ですが。 (^^;)

讃美歌264番 「うえなく尊き」
Praise to the Holiest in the height by John Henry Newman,1865
「GERONTIUS」by John Bacchus Dykes,1868

1)うえなく尊き 神を褒めよ 
  御言葉くすしく、教(のり)はかたし
2)罪の世贖う 主をくだしし
  救いの神をば 崇(あが)め奉れ
3)血をもて我らを 救い給う
  主イエスの恵みは げにかしこし
4)苦しみしのびし わが主の愛
  世のためたたかう 強き愛よ
5)うえなく尊き 神を褒めよ
  御言葉くすしく、教(のり)はかたし

この讃美歌についてのネットでのコメントは探せませんでした。

作詞者のJ.H.ニューマンについてはここをクリックしてWikipediaを読んでください。
作曲者のJ.b.ダイクスについてはここをクリックしておなじくWikipekiaをお読みください。

ここをクリックすると讃美歌264番を聴くことができます。
いや~美しい! なんと美しい讃美歌でしょう!
最後まで聴いたら、しっかりと覚えられました。 この次に歌うのが楽しみです。

今日の記事はいつにも増してコピー&ペーストで申し訳ありません。 m(_ _)m


公園の葦原に居ついた<クイナ>
用心深いのかなかなか表に出てきません。

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「聖書の学び Ⅴー3」

2016-02-10 11:12:27 | 「聖書を学ぶ会」

 イザヤ書は新約聖書に頻繁に引用されている。
 両者の間には700年の隔たりがある。
 イザヤ書を第五福音書と呼ぶこともある。

 イザヤはエルサレム(南王国ユダ)で活躍した。
 同時代の南王国ユダの預言者にはミカがいた。
 ミカの預言書は12小預言書にあるが、記述がイザヤ書の1章から39章と重なっている。
 北王国イスラエルには同時代(BC8世紀)アモス、ホセアがいた。

 学問上の定説として三つに区分するが、このようにクリアに切れるものではなく、
 前後の重なりがある(イザヤ書の研究者 大島力牧師)

 イザヤ書に出てくる王たち。
 王の名を手掛かりに活躍の時代を割り出す。

 1章―12章: 審判の言葉
 希望の言葉としては7章の「インマヌエル(神共にいます)」
 アッシリア王、ティグラト・ピレセル三世は西方(パレスチナ、小国の集まり)遠征を企てる。
 13章―23章: 諸国民への託宣はすべての預言書に出てくる。
 神は全世界を支配することを示す。

 エフライムとアラム(今のシリア)の王はアハズに対アッシリア同盟に加わるように申し入れていた。
 しかし「落ち着いて静かにしているように」というイザヤの言葉を聞かなかったアハズは
 アッシリアに助けを求め、アッシリアの属国、傀儡政権になってしまう。
 アッシリアの狙いはパレスチナではなくエジプトにあった(エジプトも同じように 
 メソポタミアを狙っていた)ので、黙ってやり過ごすことをイザヤは勧めた。
 預言者は情報通であり、それを分析していた。

 北王国イスラエル(エフライム)はアッシリアによる
 雑婚政策の結果、純潔が失われ、北王国はBC721年に滅ぼされた。
 国のアイデンティティを失い、サマリア地方(北王国)はますますユダと仲が悪くなる。

 センナケリブの先勝碑文に“ユダを籠の鳥のように囲った。”という文言がある。
 しかし、ある朝突然、センナケリブの軍隊がいなくなってしまい、エルサレムは解放された。
 エルサレム不滅都市という信仰を(誤って)持った。 ← エレミヤの指摘。

****************************************************************** 
このようなお話を礼拝前の20分間でお聴きするのですが、どちらかというと
旧約聖書が好きな私は、とても面白くて楽しくワクワクする時間です。
本当は20分では物足りなくもったいない気もしますが、家の都合もあって
礼拝前の時間が一番出やすい私はこれで我慢デス。


笹薮から池に出てきた<ウグイス> 
これからどんどん梢にも止まるようになり、囀りはじめると山に帰ります。

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「最近の活動と今後の予定」ページにクリスマスに礼拝堂で撮った集合写真を載せました。 
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