ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「復活の主が共に」

2013-03-31 23:45:41 | 説教
イースター礼拝の説教  テキストは「マタイによる福音書」 28章 16節~20節でした。

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
そしてイエスに会い、ひれ伏した。 しかし、疑う者もいた。
イエスは近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを
すべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」



復活の主の存在は、目で見て確かめなくては分からないことかもしれません。
今日の聖句では弟子たちは目で見ても、なお疑う者もいました。
しかし、本当の信仰、愛とは疑うことをしない、証拠を求めるものではありません。
復活の主を信じることは、理解や感覚を超えたものです。
喜びや平安は主を信じることから得られ、その確信は主を信じる生活から来ます。

復活した主と弟子たちの出会いは弟子たちの考えを覆すものでした。
自信のない中途半端な弟子たちにイエスは近づいて、伝道することを命じ、そして世の終わりまで
あなたがたと共にいると言われました。 
この出来事があってから弟子たちは伝道に励み教会を建てます。

主に従う生活は疑いを吹き払ってくれるものです。
常識的には、疑いが無くなってはじめて信じるものかも知れませんが、実際は、主に従って生きてみて
本当に信じることができ、疑いが消え去るのです。


マタイ伝の最後の言葉「わたしは世の終わりまで、共にいる」という「わたし」とは復活の主のことです。
この言葉は、マタイ伝1章23節の「その名はインマヌエル、神は我々と共におられる」という言葉と
呼応していて、マタイ伝は「神、我らと共に在り」 人間と共におられる神を語り続けています。


復活の主に従う生活とは、暗く不安な弱い存在の我々人間を神がすべて新しくしてくださる生活です。
弱さや孤独、虚無感もなくなり、神が私共の中に入ってくださり、生きているという生活です。

今日は一人の方の洗礼式がありました。
洗礼とは 英語で in the name of…… と言いますが、元のギリシア語では into the name of……となり、
into~ は ~の所有となるという意味です。

洗礼を受けることは父と子と聖霊の所有となり、復活の命を受け継いで生きる、ということです。
神が私たちの中に入り込み生きてくださる、私たちの新しい主人となって下さるのです。


神と一つになることは神のような人間になって偉くなるということではありません。
私たちは内側から強められより一層謙虚になるはずです。

地上での全権を持っている主、神の愛がこの地に踏み込んで私たちを永遠の命へと導いてくださる、
世界中が暗い中にあってもキリストは世界の希望であり、そして光です。

では、私たちは実際にはどのような歩みをしたらよいのでしょうか。

主は弟子たちに「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われました。
この言葉に出会わなかったら、弟子たちはまたそのまま日常に戻ってしまったかも知れません。
弟子たちは主の戒めの道を守り、全ての民に福音を伝え教会を作ることに励みました。
人間の幸福への道、「マタイによる福音書」5章~7章の「山上の教え」を伝えました。

敵を愛する能力など私たち人間にはあるはずもありませんが、能力の有無ではありません。
その力は洗礼から、つまりキリストの所有となることから私たちに与えられるものです。

第一歩、基本が洗礼です。
幼子も老人もすべての人が洗礼に招かれています。
洗礼を受け、恵みに従ってまず生きる、その生活が信仰より先にあります。
主は「わたしの恵みと平安の中にいなさい」と私たちに語りかけているのです。

(文責はゆうゆうにあります。 下線はゆうゆうが入れました。
 今日は、まず信じて生きていくことが大切だと教えられた気がいたします。
 聖書を読み、祈り、礼拝に出席し、毎日を生きていると自然に平安が感じられる今日この頃です。)





公園の山桜 (クリックすると大画像が見れます)


今日は一人の兄弟が洗礼を受けました。本当に素晴らしい感謝な出来事です。
礼拝の後、教会学校の子供たちも一緒に祝会が持たれ、食事をしながらゲームをして
楽しいひと時を過ごしました。
美竹教会のホームページです。 神さまに守られて生きる幸せをあなたもご一緒に!
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ヨハネの黙示録(4)

2013-03-30 15:27:22 | ヨハネの黙示録
6章 「六つの封印が開かれる」 子羊によって巻物の封印が開かれて行きます。

一つ目の封印を開くと
弓を持った者が乗った白い馬が現れ、冠を与えられ勝利の上にさらに勝利を得ようと出てゆきました。

第二の封印を開くと
地上から平和を奪い取って殺し合いをさせる力を与えられた者が火のように赤い馬に乗って現れました。

第三の封印を開くと
手に秤(はかり)をもった者が乗った黒い馬が現れました。
この時、ヨハネさんは四つの生き物の間から「小麦は1コイニクスで1デナリオン。大麦は3コイニクスで1デナリオン。
オリーブ油をぶどう酒とを損なうな」という声を聞いたそうです。 

「小麦が1コイニクスで・・・・なんたらかんたら」の妙なセリフに笑ってしまいました。
寝ぼけたり夢の中で、私は時々このようなわけのわからないことを考えることがあります。
その時は実につじつまが合っているように思うのですが、目覚めてみると奇想天外というか・・・(笑)

(↑ ゆうゆうの独り言です。)


第四の封印を開くと
青白い馬が現れました。
乗っている者の名前は「死」と言い、それに陰府(よみ)が従っていました。
彼らは地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死を、地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられました。

第五の封印を開くと
神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂が「いつまでわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」と
大声で叫んでいました。
その人たちには白い衣が与えられ「これから同じように殺されようとしている兄弟たちの数がみちるまで、しばらく待つように」
と告げられました

第六の封印を開きました。
すると大地震が起き太陽は暗くなり、月が血のようになって天の星は地上に落とされました。
天は巻物が巻き取られるように消え去り、山や島が移動しました。
偉い者も、富める者も奴隷もすべての者が洞穴や岩間に隠れて、山や岩に「私たちをかくまってくれ」と言いましたが、
一体だれがそれに耐えられるでしょう。


この後、第七の封印が開かれるはずですが、7章には別の物語が挿入され、第七の封印を開くのは8章で、となります。


7章
「刻印を押されたイスラエルの子ら」
大地の四隅に立っている四人の天使が捲(めく)り上がらないように大地を押さえていると、もう一人の天使が神の刻印を持ってきました。
「神の僕(しもべ)たちの額に刻印を押し終わるまで、大地も海もそのままに・・・」と四隅の天使に言って、僕(しもべ)に
刻印を押しました。
押された人々はイスラエル12部族夫々から一万二千人、全部で十四万四千人でした。

「白い衣を来た大群衆」
この後、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった数えきれないほどの大群衆が白い衣を見につけて「救いは、
玉座に座っておられるわたしたちの神と子羊のものである」と叫び神を礼拝した。
長老の一人が「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、彼らは神の玉座の前に招かれ、もはや飢えることも渇くこともなく、
命の水の泉に導かれ、神が彼らの目から涙をぬぐわれる」とヨハネさんに言いました。


上の二つの挿話のあと、ようやく巻物の第七の封印が子羊によって開かれます。




川で遊ぶ<コガモ> どうやら雌雄のペアのようです。
野鳥たちはこれからが抱卵、子育て、雛の巣立ちシーズンです。




明日はいよいよ、復活節礼拝です。
午前10時半からで、明日は嬉しいことに受洗式もあるはずです。
美竹教会の礼拝に是非いらしてください。
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ヨハネの黙示録(3)

2013-03-29 22:52:00 | ヨハネの黙示録
4章 ここには「天上での礼拝」の様子が記されています。

その後、ヨハネは最初の声の主に「ここへ上って来い。この後、必ず起こることをあなたに示そう」と言われ
天に設けられた玉座を見ることになります。

玉座に座っている方は碧玉や赤瑪瑙のようで、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていました。
玉座の周りの24の座には、金の冠をかぶり白い衣を来た24人の長老がいました。
玉座からは稲妻や雷が起こりました。
玉座の前には七つのともし火が燃えていて、これは神の七つの霊だそうです。
玉座の前は水晶に似たガラスの海のようでした。

玉座の中央とその周りには、前にも後ろにも一面に目があり、六つの翼をもった四つの生き物がいました。

第一の生き物は獅子、第二の生き物は若い雄牛、第三は人間のような顔を持ち、第四は鷲のようでした。

これらの四つの生き物が昼も夜も絶え間なく「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、 全能者である神、主、
かつておられ、今おられ、やがて来られる方」と礼拝し、世々限りなく生きておられる方の栄光と誉をたたえて
感謝をささげると、続いて24人の長老が、金の冠を玉座の前に投げ出して玉座の方を礼拝しました。
「主よ、私たちの神よ、あなたこそ、栄光と誉と力を受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、
御心によって万物は存在し、また創造されたからです」


5章「子羊こそ巻物を開くにふさわしい」

玉座の方は右手に七つの封印で封じられた巻物を持っていました。

長老の一人が「見よ、ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、
その巻物を開くことができる」と言いました。

玉座と四つの生き物、長老たちの間には、七つの角と七つの目がある子羊が立っていました。
この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊だそうです。

子羊が玉座の方から巻物を受け取ると、四つの生き物と24人の長老は、竪琴とたっぷり香の入った金の鉢を手に持って
子羊の前にひれ伏しました。
玉座と生き物と長老たちの周りには万の数万倍、千の数千倍の天使がいました。

天と地と、地の下と海にいるすべての被造物とそこにいるあらゆるものが「玉座に座っておられる方と子羊とに、讃美、誉れ、
栄光、そして権力が世々限りなくありますように」と言うと、四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。

子羊とか、ダビデのひこばえという言葉はイエス・キリストを表しているようです。

続いて6章では七つの封印の内の六つが開かれます。 お楽しみに・・・・・ (^-^)




満開の桜に翡翠が止まりました。(クリックすると大画像が見えます。)



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ヨハネの黙示録(2)

2013-03-28 12:49:03 | ヨハネの黙示録
2章から3章は、声の主から「こう書き送れ」と命じられた、七つの教会宛の手紙が書かれています。

エフェソにある教会には
あなたがたの労苦と忍耐を知っている。
あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。
しかし、あなたは初めのころの愛から離れてしまった。
どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻りなさい。

スミルナにある教会宛
わたしはあなた方の苦難や貧しさを知っているが、本当はあなた方は豊かなのだ。
あなた方の何人かは牢に投げ込まれるが、死に至るまで忠実でありなさい。
そうすれば、あなたに命の冠を授ける

ペルガモンにある教会宛
あなたは私の名をしっかり守って、私の証人アンディパスが殺された時でも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
しかし、あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。ニコライ派の教えを奉ずる者がいる。悔い改めなさい。

ティアティラにある教会宛
わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。
しかし、自らを預言者と称してわたしの僕たちを惑わしているイゼベルという女を大目に見ている。
この女と共にみだらなことをするものも悔い改めないなら、ひどい苦しみに遭わせよう。
わたしが行くときまで、今持っているものを固く守りなさい。

サルディスにある教会宛
あなたは生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
目を覚まして、死にかけている残りの者たしを強めなさい。
私は盗人のようにあなたがたのところへ行くので、目を覚ましていないとわからない。 
サルディスには少数ながら衣を汚さなかった者がいる。彼らは白き衣を着て私と共にあるくであろう。

フィラデルフィアにある教会には
あなた方は力は弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。
あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、試練の時に、わたしもあなたを守ろう。
わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、もっているものを固く守りなさい。

ラオディキアにある教会には
わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。どちらかであってほしい。
冷たくもなく熱くもなくなまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。
あなたは「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言っているが、
自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることがわかっていない。
あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。
熱心に務めよ。悔い改めよ。私は戸口に立ってたたいている。

どの教会に宛てても、惑わされることなく、信仰に固く立ち悔い改めることを勧めています。


衣食住足りて生温い生活に慣れ、センサーの鈍麻した私は、ラオディキアへの警告が身に沁みます。
(↑ ゆうゆうの独り言です。)



土手の上の白い花、木蓮と辛夷です。
(画像をクリックすると大画僧が見られます。)


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心に重荷を負っている方、苦しんでいる方、そして元気一杯の方もどうぞお訪ねください。
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ヨハネの黙示録(1)

2013-03-27 14:05:55 | ヨハネの黙示録
「ヨハネの黙示録」はヨハネという人がパトモスという島で見た終末の「幻」について、
アジア州の七つの教会に送る手紙形式で書かれています。
著者のヨハネについては「ヨハネの福音書」を書いたヨハネや「ヨハネの手紙」を書いた
ヨハネと同一人物か、または別の人物か、分からないようです。

聖書の中では、幻視者は幻によって、一見不条理に見える歴史の真の意味と、神の支配の
現実に気づくのだそうです。
聖書の幻は覚醒した意識から明瞭な言葉が語られる点でシャーマンの憑依や脱魂とは異なるそうです。
                                  (「聖書事典」より)

送り先の七つの教会とはエフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、
フィラデルフィア、ラオディキアだそうですが、さて、一体どのあたりなのでしょう。

ネットの地図で調べましたが、外国の地名、しかも古代の地名は改名したりもあって
な~るほどココなのかぁ、と納得するまで結構時間がかかりました。
大まかなものですが地図を載せます。 現在のトルコ共和国ですね。



① パトモス島(Patmos Island)この島はギリシア共和国です。
② エフェソ(Ephesus)
③ スミルナ(Smyrna) (現在の Izmir)
④ ペルガモン(Pergamum) (現在の Bergama)
⑤ ティアティラ(Thyatira) (現在の Akhisar)
⑥ サルディス(Sardis)
⑦ フィラデルフィア(Philadelphia) (現在の Alasehir)
⑧ ラオディキア(Laodicea) (現在はデニズリ県エキス・ヒール村?)


そして、今日の聖句は1章12節~16節  ヨハネに語りかけた声の主の様子です。

わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。
振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、
胸には金の帯を締めておられた。
その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬された
しんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。
右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。


この箇所の中見出しは「天上におられるキリストの姿」となっていますが、ヨハネさんが幻で見たキリストは
こんな迫力ある姿だったのですね~

いつも思うのですが、聖書って本当に面白い、と言っては不謹慎でしょうか。
何しろ、興味尽きない書物です。
私は今、旧約聖書は「箴言」を読んでいるのですが、これも本当に興味尽きない文書です。


今週の日曜日はいよいよイースター(復活節)です。
美竹教会のイースター礼拝に是非、お出かけください。
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主イエスの眼差し

2013-03-26 12:45:05 | 「先週の講壇より」
3月17日(日)の礼拝説教「わたしはここに立てり」の一部が週報に載りました。

上田先生の篤き(熱き)説教の一部をお読みください。




礼拝後、事務連絡をなさった伝道委員のお一人、Hさん
「先生の素晴らしい説教を聴く人でこの会堂をいっぱいにしようではありませんか! 
伝道に励みましょう。 まずは祈りです。
みなさん、美竹教会のために祈りましょう!」と話されました。

本当に。 
上田光正先生の説教を聴く方を、神さまの御言葉を求める方を、一人でも多く
美竹教会にお招きしたいものです。
祈りだけでなく、何かできることはないでしょうか。
主よ、その道がありましたら、私たちに示し、私たちをお導きください。

美竹教会のホームページには説教全文が載っています。
ぜひお読みください。
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讃美歌 136番

2013-03-25 16:22:23 | 讃美歌
昨日の礼拝で歌いました。

1) 血しおしたたる 主のみかしら
   とげにさされし 主のみかしら
   なやみとはじに やつれし主を
   われはかしこみ きみとあおぐ

2) 主のくるしみは わがためなり
   われが死ぬべき つみびとなり
   かかるわが身に かわりましし
   主のみこころは いとかしこし

3) なつかしき主よ はかり知れぬ
   十字架の愛に いかに応えん
   み顔をあおぎ み手によらば
   いまわのいきも 安けくあらん


この讃美歌(独語:O Haupt voll Blut und Wimden:おお、血と涙にまみれた御頭よ)は
ドイツの讃美歌だそうです。
イエス・キリストの受難の讃美歌であり、英米でも知られ、受難週や聖餐式、
特に受難日(聖金曜日)に歌われる讃美歌です。

中世ヨーロッパのベルナール(Bernard de Clairvaux (1090-1153)が、
「十字架にかかりて苦しめるキリストの肢体への韻文の祈り」というラテン語の詩文を作詞しました。
その第七部の「頭への祈り」を、17世紀のドイツの讃美歌作者パウル・ゲルハルト Paul Gerhardt, 1656)が
ドイツ語に訳したそうです。

この曲はヨハン・セバスティアン・バッハの「マタイ受難曲」の中で実に5回以上用いられています。

日本語の讃美歌は、由木康によって意訳された歌詞に、英米で最もよく用いられているバッハ版の和声をつけて、
「血しおしたたる」として、讃美歌(1954年版)に収録されています。









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「この人こそ神」

2013-03-24 22:31:26 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「マタイによる福音書」27章45節~58節
タイトルは「この人こそ神」でした。

******************************************
イエスはその日の朝、9時頃十字架につけられた。
昼の12時に全地は暗くなり、それが三時頃まで続いた。
イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれた。
これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
イエスは大声をだして息を引き取られた。
そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けた。
十字架の側で百人隊長はこれらのことを見て「本当に、このひとは神の子だった」と言った。
夕方になるとアリマタヤ出身のヨセフと言う金持ちの弟子が来て、イエスの遺体を渡してくれるよう、
ピラトに願い出て、ピラトは渡すようにと命じた。
*********************************************


主の最期の光景です。 
二千年過ぎた今でも鮮烈な、イエスの生の御言葉が述べられています。
イエスは絶望と落胆の内に、挫折の断末魔の叫びをあげたのでしょうか。
これまでの預言者や殉教者は皆、神を賛美しながら死んで行ったのに、何故イエスは違ったのでしょうか。
「わが神、わが神」と呼びかけるこの言葉は決して絶望を意味するのではありません。
同じ呼びかけ「わたしの神よ、わたしの神よ なぜ私をお見捨てになるのか」で始まる詩篇22編が
神への賛美で終わっているのを読むとわかります。
イエスはこの詩篇のように唱えたかったのだと思います。

世俗的な見方からすれば、イエスは神に見捨てられ死を与えられたのは事実です。
しかし、イエスを側で見た百人隊長は「この人は神の子であった」と言いました。
これは信仰告白です。
最初の教会の信仰告白ともいえます。
教会はその後二千年にわたってこの告白をし続けました。

「真(まこと)の人」イエスが何故見捨てられたのか
「真の人」とは、真理に適った人とか理想的な人の意味ではなく、神の前の真の人とは神のみを信じ、
神にのみ依り頼む人です。
つまり誰よりも弱い人なのです。
祭司や民衆は「彼は他人を救ったのに自分は救えない。イスラエルの王なら十字架から降りろ」と
言いましたが、イエスはそうしませんでした。

神が造られた時の人間、原罪を犯す前の人間(真の人)は自分が殺されないために相手を殺すような
ことはしなかったはずです。
殺し合うということは無かったのではないでしょうか。

イエスは神が造られた本来の人間だった、神にのみ依り頼む、本当に神の子だったのです。


十字架の出来事を他人の出来事として見る限り、主イエスと他人同士の関係を捨て自分の者として
受け入れない限り、ここは理解できません。
わたし達人間が十字架につけたのではなく、神がイエスを十字架につけられたのです。
(参照 : 「コリントの信徒への手紙二」 5章21節 
罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。
わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです
。)



イエスが息を引き取られた午後三時にエルサレムの神殿の幕が裂けたということは
神と私たちを隔てる壁が取り払われたことを意味します。

(参照 : 「ヘブライ人への手紙」4章26節 
だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に
近づこうではありませんか。)


神殿の幕が裂け、神と私たちの隔てがとり去られたのですから、これから後は私たちは
神に大胆に近づくことができるのです。
自分の故郷を天に持つことができるのです。

              (以上、文責はゆうゆうにあります。今日の要約は一段と難しく上手く纏りませんでした m(_ _)m )




<辛夷(こぶし)>


今日は嬉しいこと!に、礼拝に新しい方が見えましたよ!
礼拝に出て祈り、讃美歌を歌い、聖書の説明かしをお聴きすると何故か元気がでます。
あなたもご一緒にいかがですか。
美竹教会のホームページです、ご覧ください。
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明日から「ヨハネの黙示録」

2013-03-23 13:08:31 | 今日の聖句
「ユダの手紙」 読み終わりました。

ユダの手紙は、ヤコブの手紙の場合と同じように、エルサレム教会の権威者であった「主イエスの兄弟」ユダ
の名を借り、全教会に宛てた手紙の形をとることによって、手紙を権威づけているそうです。
内容は、著者と異なる信仰理解に立つ偽教師たちの教えを排斥し、読者たちがその影響を受けて福音から脱落
することのないように警告しているものです。

たった1章のユダの手紙は新約聖書のなかで最小の文書で、特徴は手紙の形式による論争文書ということで、
その際、旧約聖書に登場する背教者の例を引いて、異端的な教えを伝える人々に審判を宣告しています。
例えば 「ソドムやゴモラ」 「カインの道」 「バラムの迷い」 「コラの反逆」です。

以上は、「聖書事典」からの受け売りです。
「ソドムとゴモラ」等、旧約聖書に登場する背教者については、いつか調べて載せるようにいたします。


そして、今日の聖句は「ユダの手紙」 20節~21節です。
しかし、愛する人たち、あなたがたはもっとも聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。 
聖霊の導きの下に祈りなさい。 
神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、私たちの主イエス・キリストの
憐れみを待ち望みなさい。




明日からは、新約聖書の最後の文書「ヨハネ黙示録」を読み始めます。
黙示録を読むのは4回目か、5回目のはずですが、荒唐無稽な文書だった、という以外にほとんど記憶がない
と言うのは我ながらあきれます。 大丈夫かな~私の頭・・・・・・
今回は前よりはしっかりと、少しでも頭に残るように頑張って読まねば。




枝に飛び降りる<緋連雀(ヒレンジャク)>



美竹教会の明日の日曜礼拝は午前10時半から始まります。
美竹教会のホームページには礼拝の順番などが載っています、ご覧ください。
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聖書の愛 

2013-03-22 19:12:52 | 聖書
聖書には愛という言葉がたくさん出てきます。
聖書の「愛」とはどんなものなのでしょう、実は私はよくわからないのです。 
早速、私のただ一つの参考図書「新共同訳 聖書事典」の「愛」の項を読みました。


  注) 斜体文字は私、ゆうゆうのつぶやきです。
     普通の文字は「聖書事典」からの抜書きです。
     太字は参照されている聖句(聖書の言葉)です。(ゆうゆうが挿入しました。)




愛を表すギリシア語は4種類あるが、新約聖書に現れるのは2つで、神の愛、すなわち徹頭徹尾
相手に仕える愛としてのアガペーと一般的な愛を表すフィリアである。 
フィリアは厳密には友情を表すのに用いられるが、同時に肉親同士の愛や恋愛、美しいものを求める
情熱的な愛なども含む。


1)イエスの「愛」に関する言葉として有名なものは、
山上の説教の中の「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5:44)である。 

  「マタイによる福音書」5:44
  しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。


もう一つ重要なイエスの言葉として挙げられるのが「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイによる福音書 22:37と39)である。
ここでは神への愛と隣人への愛が同質のものであるべきと強調されていて、善いサマリア人のたとえ話が続いている。

  「マタイによる福音書」22:37~39
  イエスは言われた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
  これが最も重要な第一の掟である。 第二もこれと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」



2)ヨハネ文書
「ヨハネによる福音書」には愛について記されている個所が多いが、有名なのは「神はその独り子を
お与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネによる福音書 3:16)である。

  「ヨハネによる福音書」3:16
  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
  独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。


同じ趣旨が「ヨハネの手紙 一」4:9以下に詳細に説明されている。
ここでは、神の愛、神への愛、人間相互の愛のそれぞれの関係が巧みに述べられている。

  「ヨハネの手紙 一」4:7 ~12
  愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、
  神を知っているからです。 愛することのない者は神を知りません。 神は愛だからです。 
  神は、独り子を世にお遣わしになりました。 その方によって、私たちが生きるようになるためです。 
  ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、
  私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。 
  愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。 
  いまだかつて神を見た者はいません。 私たちが互いに愛し合うならば、神は、わたしたちの内に
  とどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。


御子を我々のために遣わされたところに神の愛の本質があること、まず神によって愛された私たちは、
その同じ愛をもって神を愛し、また他者を愛すべきことが命じられる。


3)神の愛と人間の愛
「ヨハネによる福音書」 21:15~17で、イエスは私たちに、神から与えられた愛をもって神と人を愛すべきと
教えられたが、現実には私たちはそれを実行することが不可能であることを示している。
ここでは、イエスがペトロに「私を愛するか」と問い「私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と
ペトロが答える問答が三度繰り返されるが、イエスの求められる愛とペトロの言っている愛とが完全に食い違っている。
しかし、三度目にはイエスの方から近寄られ、ペトロの人間的な愛を求められた。 ←ここ、よくわかりませ~ん。 

  「ヨハネによる福音書」21:15~17
  食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。
  ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あながたご存じです」と言うと、イエスは、
  「わたしの子羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスはいわれた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
  ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、
  「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
  ペトロはイエスが三度目も「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。
  そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
  イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」



4)信仰としての愛
聖書で語られる愛の究極的なものは「コリント信徒への手紙 一」13章に見られる。
ここでは信仰、希望とのかかわりにおいて愛が語られている。

  「コリント信徒への手紙 一」13:2~7
  たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも愛がなければ、無に等しい。
  全財産を貧しい人人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、
  愛が無ければ何の益もない。
  愛は忍耐強い、愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
  礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
  不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを偲び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。


愛は神から出たものであり、キリストの出来事において具体化され、そこにわれわれの生の根源がある。 
終末の時の完成を待ち望みつつ、キリストに従う時にのみ愛の業が可能となる、それが信仰である。
「それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」
(コリント信徒への手紙 一 13:13)

  コリント信徒への手紙 一 13:13
  それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。



以上が「聖書事典」からの抜書きと、参照されている聖句(聖書の言葉)です。

 
山浦玄嗣著「イエスの言葉―ケセン語訳」に「愛」とは「大事にすることだ」と書いてありました。
神様は私たちに独り子イエスを賜るほどに大事にしてくださいました。
今も私たちを大事にしていてくださいます。
どうしようもなく孤独な時でも、神様が隣にいてくださるので心はいつも満たされます。
しかし、神様は同じ気持ちを持って私たちも神を、隣人を、そして敵をも大事にするように、求めていられます。 
よく考えると聖書の「愛」はとんでもなく難しいことではありませんか。
聖霊に導かれ、聖書を読み、祈りながらゆくことにいたしましょう。




<大寒桜(オオカンザクラ)>

今日のブログ、文章を打って、形を考えてまとめるのに三日くらいかかりました、疲れました~~
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