ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「キリストとの出会い」

2015-05-31 20:33:47 | 説教
今日(5月31日)の礼拝説教
テキストは「ヨハネによる福音書」1章35節~51節 タイトルは「キリストとの出会い」でした。



 
  イエスに出会って、自分たちの“気づき”でイエスを確信し(確信させられ)
  他の人に証しする者となった弟子たち。 そして、イエスは当時の弟子たち
  だけでなく、二千年を隔てた私たちにも語り掛け、気づいたこと、確信した
  ことを証しするように促している・・・・・・・・
  今日も左近先生の説教は新約、旧約を行き交って、まるで自分もその場に
  いるかのようにワクワクするものでした。
  独りで聖書を読むのとは違って、牧者によって聖書を解き明かされる
  ということは、こんなにも“気づかされる”ことなのですね。
  左近先生の説教は「要約」のプリントでは伝えきれず、その何倍も
  迫力と魅力があります。 ぜひライブで聴いていただきたいものです。

  
  ハルジオンに止まった<ホソヒラタアブ>です。
  これからは蝶やトンボなど昆虫の季節です。

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嬉しい「立て看」

2015-05-29 21:59:47 | 美竹教会
 

教会学校の分級で、子供たちも一緒になって楽しい看板を作ってくれました。
早速、教会の入り口に置きました。
毎日曜日、教会の中では礼拝を守り、平安を与えられ心温まるひと時を過ごしています。 
この喜びを、この幸せを一人でも多くの方に知っていただくためには、教会の外に向けての
アピールが必要だと思っていました。 こんな風な看板を出したいと思っていました。
嬉しいです! (^-^)


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上の看板を見たらぜひ扉を開けて中にお入りください。
必ず、心の平安と死をも乗り越える喜びに出会うことでしょう。
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「この人を見よ」

2015-05-27 10:21:35 | 説教
先々週の日曜日(5月17日)は連れ合いの入院日だったので礼拝に出ることができませんでした。
週報ボックスに「週報」に挿んだ「説教」要旨が入れられてました。 本当に嬉しい・・・・

説教のテキストは「ヨハネによる福音書」1章29節~34節 タイトルは「この人を見よ」でした。





亡くなられた渡辺栄さんにお会いしたことはありませんでしたが、
ここ数年お誕生日カードを作ってお送りしていました。
美竹教会の兄弟姉妹がまた亡くなられました。 
淋しく悲しいことですが、超高齢化の美竹教会ではこれからも兄弟姉妹が
神様の御許に召される事でしょう。

元美竹教会牧師の上田正光先生のご著書「日本の伝道を考える①」に
『日本基督教団に限って言えば、1995年から年々の受洗者総数よりも現住陪餐会員の中での
推定逝去者総数の方が上回ったきた。勿論、教勢がすべてではなく、それは中身のほんの
一つのしるしに過ぎない。しかしこのしるしは、神がこの教団に対して「審判」を下して
おられる、というしるしであるかもしれません。
「目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、
わたしの神の前に完全なものとは認めない。だから、どのように受け、また聞いたか思い起して、
それを守り抜き、かつ悔い改めよ」(黙示録三・一~三)
しかし、キリスト教信仰における救いは常に裁きをなさる神からの救いです。 -中略ー
神が裁きを告げられることは、その向こうに恵みに満ちた救いをご用意くださることでも
ありますから、希望の唯一の出発点となるでしょう。』と書かれています。

私にできることは聖書を読み、礼拝に集い、自分の行いが少しでも神を証しするもので
ありますように、苦しむ人、重荷を負う人、空しい思いを抱いて生きている人が一人でも
多く教会の扉を押して訪れてくれますように、と祈ることです。
そして、教会の兄弟姉妹が神から与えられた夫々の賜物をもって神様の御用を
できますようにと祈るのみです。 
たとえその力は弱く小さくても私も教会に連なって働ける幸せを感謝します。
神様、裁きの御手をどうぞ恵みと憐みの御手に変え、あなたの栄光を現してください。
ペンテコステ礼拝には一人の兄弟が受洗されました。 感謝です!


公園の<オナガ>です、よく見るととても美しい羽の色です。

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讃美歌498番

2015-05-25 23:16:31 | 讃美歌
讃美歌498番 「あぁみたまよ くだりまして」
    "Come, Holy Spirit, like a dove" by Frances Jone(Crosby) Van Alstyne, 1820-1915
    composed by Ira David Sankey, 1891

 1 ああ、みたまよ くだりまして、我が祈りきこしめし、
   御神なる救い主を 昼も夜も見せたまえ

 2 ああみたまよ くだりまして けがれたる この身をも
   いときよき 宮となして とこしえに 住みたまえ

 3 ああみたまよ くだりまして あまつ日を かがやかし
   義と愛の 満つる里と この世をば なしたまえ

作詞家のフランシス•ジェーン•クロスビー Frances Jane (Crosby) van Alsyne
(1820年3月24日- 1915年2月12日)はファニー•クロスビーとして知られています。
彼女は生後6週間という幼い時の医療ミスのために失明したのですが、後年、そのことを
逆に深く感謝し、非難のため町に住めず行方が知れなくなっていた医師を探し出して、
その気持ちを伝えたそうです。
彼女はアメリカの最高のプロテスタント讃美歌作詞家です。
幼い日から盲目であるにも関わらず8000以上の讃美歌を作詞し、歴史の中で最も多作な
hymnists の一人でした。
このブログでこれまでに紹介した讃美歌495番、529番も彼女の作詞です。
ファニー•クロスビーは、米国で最も有名な女性の一人です。

アイラ・D・サンキー Ira David Sankey(1840年8月28日 - 1908年)
1840年、ペンシルベニア州エディンバーグに生まれ、ペンシルベニア州内の農場を転々とする。
1857年に同州のニュー・キャッスルに移る。
南北戦争では北軍の兵士として従軍した。 戦後は、父の税務の仕事を手伝っていた。
1870年、インディアナポリスのYMCAの集会でムーディがサンキーの歌を聴いて感動して協力を求め、
6ヶ月後にムーディの伝道集会のソング・リーダーになった。
それ以来、1899年のムーディの死去まで、28年間リバイバル運動に参加して、音楽伝道者として、
伝道集会で独唱をしてムーディを助け、全米を巡回する。
1903年に失明し、1908年にニューヨークのブルックリンで死去した。
生涯に、多くの賛美歌を作曲し、その後の賛美歌に大きな影響を与えて、
福音唱歌(ゴスペルソング)の大流行のきっかけを作った。  (以上、ネットからの引用です。)

ここをクリックすると讃美歌498番のメロディを聴くことができます。



新緑の中の<キビタキ(♂)> 夏の繁殖のために日本に渡ってきます。 
繁殖地の山間部にたどり着く前に都市公園にしばらく滞在します。

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ペンテコステ礼拝

2015-05-24 23:26:35 | 説教
今日、ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝の説教
テキストは「ヨハネによる福音書」20章19節~23節、 タイトルは「神の息」でした。

  
  
  
  

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説教で語られていますが、今日のペンテコステ礼拝では洗礼式が執り行われました。
本当に嬉しい事です。
礼拝後の祝会でも、受洗された兄弟は力強く信仰の告白をなさいました。
左近牧師は受洗に至るまでの兄弟の疑問や迷いについて話されました。
そして、そのような疑問や迷いはこれからも出てくることがあるでしょう、
教会の中で、大切に話し合って共に信仰の道を歩んで行きましょうと語られました。
救いに招いてくださった神様の奇跡に感謝、感謝です。
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「妻と夫」

2015-05-21 11:26:01 | 今日の聖句
新約聖書は今、「ペトロの手紙 一」を読んでいますが、今日の聖句は3章1節~6節です。

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。 夫が御言葉を信じない人であっても
妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。 
神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。
あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的な
ものであってはなりません。 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという
朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。
このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。
たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。
あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。


45年間も離れていた教会(神様の御許)に私が戻ってから4年半が経ちました。
夫と出会い結婚したのは教会を離れてからのことで、夫は私が洗礼を受けて
いることも知りませんでした。 キリスト教だけでなく宗教に無関心な夫は
私が毎日曜日、礼拝に行くことを快く思っていません。
最初は一か月に一度から始めて段々と馴らして(?)今では毎週日曜日に
礼拝に行くことをしぶしぶですが、黙認しています。
教会に戻った最初の頃この聖句に出会って、私はこれを頼りに祈り続けています。
勿論、私が「柔和でしとやかな気立て」になれますように、ということも祈っております。 (^^;)


渡りの途中、都市公園で羽を休める<オオルリ> 昨年の写真です。
今年は夫の体調不良で鳥撮りに出られず、見ることができませんでした。

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今週の主日礼拝(5月24日)は「ペンテコステ礼拝」です。
礼拝の後には集会室で昼食会がもたれます。
これまで教会を覗いたことがない、という方、大歓迎です!
どうぞ渋谷の美竹教会にお出かけください。
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「ヨブ記」読んでいます。

2015-05-18 22:15:00 | 今日の聖句
今日の聖句は「ヨブ記」10章1節~8節です。
私の魂は生きることをいとう。
嘆きに身をゆだね、悩み嘆いて語ろう。
神にこう言おう。
「わたしに罪があると言わないでください。
なぜわたしと争われるのかを教えてください。
手ずから造られたこのわたしを虐げ退けて
あなたに背く者のたくらみには光を当てられる。
それでいいのでしょうか。
あなたも肉の目を持ち 人間と同じ見方をなさるのですか。
人間同様に一生を送り 男の一生に似た歳月を送られるのですか。
なぜわたしをとがめ立てし 過ちを追及なさるのですか。
わたしが背く者ではないと知りながら
あなたの手から わたしを救いうる者はないと知りながら。
御手をもってわたしを形づくってくださったのに
あなたはわたしを取り巻くすべてのものをも わたしをも、呑み込んでしまわれる。


有名な「ヨブ記」を読んでいます。
「神の前に正しい人ヨブは、その一族、全財産をあなたが守っておられるからあなたを敬うのだ」
と言うサタンに対して、神は命を奪わないことを条件にサタンがヨブに手を下すことを許可します。 
ヨブは莫大な家畜、全財産、息子や娘を失い、体中が皮膚病で覆われて苦しみます。
ヨブは神にその仕打ちの不当を訴えます。
三人の友人が神の絶対性を説き、神の前に赦しを乞うようにヨブに勧めますが、ヨブは
神への呼びかけを止めません。神への恨み辛み(と私には思えるのですが)を縷々訴え続けます。

人生には苦しみは付き物、理不尽はあって当たり前だと私は思っています。
(何よりの苦しみは死を目指して生きていくことです。)
ヨブの場合はヨブに苦難を与えることを神がサタンに許した結果、ヨブの苦しみがはじまったのですが、
そもそも人間社会の苦しみや不条理は、果たして神と関わりがあるのでしょうか。
先日読んだ伊藤虎丸さんの「証し」では、病が癒えても癒えなくても自分は不幸ではない。
死によっても絶ち切られることのない希望、墓の向こう側まで続いている希望、死にも病気にも
壊されることのない真の幸福を見ることができたという歓喜について話されています。
バビロン捕囚の出来事は人間が神との契約を守らず神との信頼関係が破られた結果、と預言者は言いました。
信仰薄く、知識も少なく整理されていない私の頭ではよく分からない事なのですが、
旧約の神、ヨブの神は新約でイエスの語られる神と違って感じられることがあります。



公園の森では<チョウジソウ>が咲いています。

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私事ですが、私の連れ合いは手術で癌が取りきれず抗癌剤による治療が始まりました。
カテーテルを付けたポートというものを患部に埋め込み、外から針を通して抗癌剤を直接
患部に葉注入する、肝動脈動注という施術らしいです。
二週間から三週間の単位で注入、休止を繰り返し、治療は一年間くらい続けるようです。
何かとせわしなく「ゆうゆうの教会便り」も休みがちになることと思います。 m(_ _)m
クリスチャンでない夫ですが、その心が平安でありますようにと神様に祈るばかりです。
伊藤虎丸さんの信仰が夫にあったら・・・・・
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昨夜読んだ本

2015-05-16 15:34:33 | 美竹教会
「神はわが病いを負い: 病める友へ」 日本基督教団出版局 1983年

昨夜、眠る前に何気なく手にとりました。
この本は8名の方が御自分の病気を通しての「証し」を語られた本です。 
最後の著者「伊藤虎丸」というお名前に、なにか見覚えがあるような気がして、惹かれるように読みました。
伊藤虎丸さんの病を通して信仰の確信に至った証し、強く心に響きました。
薄くて浅い私の信仰を強く確信を持った喜びに変えてくれる文章でした。
少しだけ抜書きしておきます。

***************************************************
信仰の「証し」を語るということは、自分の上に起こった主の恵みを語ることです。

人はひとりで生まれ、ひとりで死ぬーーずっと後になって知ったことだが、「人はひとりである
(人間は個体として自覚される)」というのは、聖書の宗教の基本的な原理の一つである。
その時には自分では全く気付いていなかったが、「人はひとりである」と知った時、私は、
信仰への道の入り口に立っていたのかもしれない。

カール・ヒルティの『幸福論』に
正しい道を踏んで幸福に至る道は必ずある、幸福は必ず得られるものだ、という確信に満ちた“証言”があった。
聖書、は不幸から逃れる道について何も語っていない。不幸は人間の生活に付き物である。
人はそれを避けることはできない。聖書は、「まず神の国とその義を求めよ」、そうすれば不幸は問題ではなくなる
ということを説くだけだ、とヒルティは書いている。
そして、人はすべてを理解してから信仰を持つことはできない。
「聖書は神についての説明を断固として却(しりぞ)けている。」
ある時期には、無条件に信じて「実際にやってみる」ほかない。
ただ聖書が偽りでないことには「雲なす証人」がいる。「勇気ある者はやってみるがよい。」「信仰とは行為である」
単なる観念や信条ではなく、意志を向け変えることだ。
そして天国(幸福)へのもんは、人が自ら叩かなければ決して開かれないが、しかし叩けば必ず開かれる・・・・・・。
私はこの確信に満ちた証言に励まされて「やってみる」気になった。

一つずつ砕けていく希望、私に残る希望は「叩けよ、さらば開かれん」というイエスの約束が
本当か否かを「実験」してみることしかもうない。

「祈り」が空虚なことではなく、寝返りさえひとりではできない病人に、最後に残された具体的な
「行為」であることを知り、この自分に何ができるかを示し給えと祈ることを知った。

それまでの必死な絶望的な闘病の努力は、何か温かい大きな手に支えられた楽な努力に変わった。
自力で治ろうという努力を諦めて神に委ねた時、逆にこれまでよりずっと積極的な努力が、しかも楽にできるようになったのである。
その日から他人のことを考えることができるようになった。

私が経験した喜びは「病気が治らずこのまま死んでも自分は不幸ではない」という喜びだった。
死によっても絶ち切られることのない希望、墓の向こう側まで続いている希望、死にも病気にも壊されることのない真の幸福、
自分の責任(意志の向きを変えること)によって誰にでも得られる幸福を(まだ小さなおぼろな光ではあったが、
そして今にいたるまでまだそうだが、しかしその時確かに)見ることができたという歓喜だったのである。
その時、私の上には、病気が治る治らぬよりもはるかに重大な本質的な出来事が起こっていたのだと言えるだろう。
それはあえて言うなら、私の罪の問題がすでに解決されたということだろう。 私に起きた奇跡とはそのことである。

然(しか)のみならず患難をも喜ぶ、そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり。
希望は恥を来らせず、我らに賜ひたる聖霊によりて神の愛、我らの心に注げばなり (ロマ書5:3-5)

**************************************************

伊藤さんの文章の最後、「おわりに」の項に美竹教会で受洗されたと書いてありました。
そうだったのです、私が何十年も昔、美竹教会に通っていたころ(放蕩息子状態で美竹教会を離れる前)
教会で何度も伊藤さんのお姿を見たおぼろげな記憶があります。
何も考えていなかった信仰浅き私の傍らにこんなにも深い信仰の先輩がいらしたのですね~、感無量。



ツツジに止まる<アゲハ>です。

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「死によっても絶ちきられることのない希望、死にも病気にも壊されることのない真の幸福」
真の癒し、平安は教会にあります。 ぜひ教会の扉を押してお訪ねください。
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「日本の伝道を考える①」 書籍

2015-05-15 10:17:47 | その他
「日本の伝道を考える① 日本人の宗教性とキリスト教」 上田光正著 (教文館)

上田先生から上記のご著書をいただきました。 
著者の上田光正先生は2014年3月まで35年間、美竹教会の牧師として私たち教会員を
導いてくださいました。 現在は日本キリスト教団曳舟教会の牧師です。

へそ曲がりの私はよく、本を後ろから読んだりしますが、今回もうしろの解説をまず
読んでみました。 丁寧な解説はとても読みやすく分かりやすいものでした。
さて、いよいよ本文です。 素人クリスチャンの私には少々難しい本ですが、
なんとか最後まで読み通したいと思っています。

教文館のサイトにこの本の紹介記事があります。 クリックしてご覧ください。


春は繁殖の季節、公園の<バン>の雛たちです。
美竹教会の教会員もこんな風にどんどん増えると嬉しい・・・・(^-^)

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神様、美竹教会が美竹の地にあって周囲の方々にとっての燈台のような存在になれますように。
苦しむ人、悩む人、不安や虚しさを抱える人たちにとって希望の光となれますように。
神様の御許に憩う平安を伝えられますように、私たち教会員の心と体を逞しく強くしてください。
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讃美歌510番

2015-05-13 20:46:19 | 讃美歌
讃美歌510番 「まぼろしの影を追いて」  先日、「母の日」の礼拝で歌いました。
     “Though far you may stray, though you circle the earth” by Frank A. Breck
     「GILMOUR」 by H. L. Gilmour, 1895

 1 まぼろしの影を追いて うきよにさまよい
   うつろう花にさそわれゆく 
   ながみのはかなさ
  繰り返し
    春は軒(のき)の雨 秋は庭の露
    母はなみだ乾くまなく 祈ると知らずや

 2 おさなくて罪を知らず むねにまくらして
   むずかりては手にゆられし
   むかしわすれしか  
  繰り返し

 3 なが母のたのむ神の みもとにはこずや
   小鳥の巣にかえるごとく
   こころやすらかに
  繰り返し

 4 ながためにいのる母の いつまで世にあらん
   とわに悔(く)ゆる日のこぬまに
   とく神にかえれ
  繰り返し

↓作詞者 Breck についてネットで見つかった文章です。

信仰深い両親に育てられた彼女は物心つかない頃から聖書を読み、神に祈るのが日常生活でした。
十代の頃から 彼女は詩や散文を書いていました。
1884年に結婚してから何年かは家族のために尽くすことが文学にとって代わられました。
出版された彼女の最初の讃美歌は “You ought to do Something for Jesus” でした。
彼女は、書くことは私にとって非常な喜びでした。籠を直していたり、赤ん坊を腕に抱いたり
食器を洗ったり拭いたりしている時でも、どんな条件の下でも私は書いていました、と言っています。
彼女が作詞した“Everybody should know” “Nailed to the Cross” “Help somebody to-day”
“Never give up trusting” などの讃美歌は良く知られています。
Breckファミリーはニュージャージーの Vermont から Vineland に引っ越し、彼女は人生のほとんどを
南ニュージャージーで過ごしました。敬虔なクリスチャンの彼女は夫と5人の娘に自分を捧げました。
詩作の才に恵まれた彼女は二千以上の詩を書きましたが、健康体ではなかったので日常の雑事の間には
しばしば休息をとりました。
そんな時でも、お気に入りのロッキングチェアに座ったり、赤ん坊を膝に載せたり、
足元で遊ばせたりしながら、(詩作のための)ノートをいつも手に持っていました。
(英文をササッと訳したので変な文章でm(_ _)m)

ここをクリックすると讃美歌510番を聴くことができます。


雛に餌を運んできたヤマガラの親鳥です。

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