ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「活きた水」

2015-08-30 20:35:14 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「ヨハネによる福音書」7章37節~44節
タイトルは「活きた水」でした。





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  暑かった夏もそろそろ終わりです。 <アゲハ>ペアも世代交代ですね。

『けれども信仰は強制力で与えられるものではない。むしろ信頼する誰かの語る命のこもった言葉、
あるいはその生きる姿、証しを通して与えられるものだからです。 
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」「渇いている人はだれでもわたしの所にきて、飲みなさい。
わたしを信じるものは、聖書に書いてある通り、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」 
今日もイエスキリストは招いておられます。』   説教の最後の部分です。

私がこのブログを始めた動機は、一日一回でも美竹教会の名前をネット上に載せたら、そのうち、いつか、
ある日、、ひょっとしたら「ブログを見て来ました」という方が美竹教会の扉を押して訪ねてくださるかも
しれない、という淡い希望からでした。 今の所、そういう方は一人もいらっしゃいません。 (^^;)
苦しむ人、重荷を負う人、空しい思いを抱いて生きている方が神様の御言葉に出会い、その救いに与って欲しい、
信じない者ではなく、信じる者になって!と願って、今日も美竹教会の名前をブログに載せましょう。 (^-^)
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私の「エマオ」・・・・・だった?

2015-08-26 09:48:17 | その他
一昨日の礼拝で「讃美歌21」の57番を歌いました。 
この讃美歌は四番の歌詞に「エマオ」に向かう弟子のことが載っているので、私の大好きな讃美歌の一つです。
この讃美歌については以前ブログに載せたことがあります、よろしかったらクリックしてお読みください。

エマオに向かう弟子たちに、復活したイエスが現れる話は聖書の中で私が大好きなエピソードの一つです。
載っているのは「ルカによる福音書」24章13節~35節です。

十字架につけられ死んでしまったイエスを嘆きながら二人の弟子がエマオという村に下っていく途中に
同行者が現れました。 弟子たちはそれがイエスだとは分かりません。 嘆く弟子たちに同行者は「モーセと
すべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明
」されました。
村に着いて、なおも先に行かれようとする同行者を、弟子たちは一緒に泊まるよう無理に引き止めました。
一緒の食事の席についたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
すると二人の目が開けイエスだとわかったが、その姿は見えなくなった。 二人は『道で話しておられるとき、
また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。
」という話です。

ここを読むと私は「イエス様が共に歩いてくださっている時に、自分ははたして気づくだろうか、それとも見えないまま
やり過ごしてしまうのではないだろうか」といつも心配になります。
考えてみると、これまでの私の長い人生に、主は何度も私の前に現れてくださっていたのに、私は気付かずにいたかもしれません。

連れ合いの入院中のことでした。
抗がん剤治療が失敗し、かなり激しく錯乱状態になった連れ合いと向き合って、沈み込んで迎えたある日の夕方、
突然、以前入院したことのある別の病棟の看護師さんがお見舞いに来てくださいました。 
私の健康状態にも気を配って下さってくださり、慰めの言葉をいただいて連れ合いにも笑顔が戻り、
私たち夫婦は、特に私は、本当に救われた気持ちになりました。
私たちの前にいたのはM病棟のH看護師です。 
でもあの時、あの場所には主がいらして下さったのかもしれない。
今あらためて、嬉しく感謝なひと時を思い出すと、確かに主イエスが私と共にいて下さったのでは、と
私には思えるのです。 あれは、私の「エマオ」だったのかもしれません。


公園の<オナガ>雛です、親鳥に餌をねだっているのでしょうか。

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「命の糧」

2015-08-23 21:20:02 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「ヨハネによる福音書」6章34節~40節
タイトルは「命の糧」でした。





ヨハネ福音書の「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して
飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」というテキストから
「箴言」の聖句が紐解かれ、命の糧、イエスキリストに依りたのむことによって、
私たちは決して渇くことがない、と語られた今日の説教。 
ブログに載せるにあたって読み直し、しみじみとしみじみと味わいました。
「箴言」の御言葉30章7節~9節に胸打たれました。
二つのことをあなたに願います。
わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
むなしいもの、偽りの言葉を わたしから遠ざけてください。
貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。
飽き足りれば、裏切り 主など何者か、と言うおそれがあります。
貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。


「箴言」は何回も通読していますが、これほどに深く読んだことはありません。
毎日聖書を読んでいると言ってもツラツラと表面的に文字を追っているだけなのでしょう。
はぁ~、しっかり読まねば! 反省デス。


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「聖書の学び Ⅲ-4」

2015-08-19 16:03:18 | 「聖書を学ぶ会」
トーラー:本来は「教え」という意味
      旧約聖書の中のモーセの教え (創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)

BC13世紀におこった出来事は聖書の信仰共同体の中でどう読まれてきたか。

「出エジプト」を通して共同体としての意識を強める。
自分たちは「出エジプト」の民に連なっている。
地縁、血縁によらない、経験によって結びついた共同体
イザヤの言葉 BC6世紀のバビロンの捕囚の出来事を“新たな「出エジプト」だと言い、
人々を励まし、エルサレムへの帰還を促した。
語りによる経験でしか結び付けない。
インドの場合のカーストからの解放、アメリカの奴隷制度からの解放、では日本では?
教会も私たちの経験を語り続ける。

100年くらい前から歴史学的に聖書を研究する学問として「聖書学」が現れた。
現在ではこの限界にも気づかれてもいるが・・・・・・
繁栄の国エジプトから荒野に逃れたイスラエルの民が、すぐに不自由な生活に不満を
持ったことも考古学的研究結果として判明している。




「聖書の学び」次回は9月13日から再開です、お楽しみに!

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「高波を越えて」

2015-08-17 23:05:05 | 説教
昨日の礼拝説教 テキストは「ヨハネによる福音書」6章16節~21節 
タイトルは「高波を越えて」でした。





旧約聖書 1130ページ 「イザヤ書」43章1節~7節
ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。 あなたはわたしのもの。 わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。 大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神 イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。
わたしはエジプトをあなたの身代金とし クシュとセパをあなたの代償とする。
わたしの目にあなたは価高く、尊く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え
国々をあなたの魂の代わりとする。
恐れるな、わたしはあなたと共にいる。 わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り 西からあなたを集める。
北に向かっては、行かせよ、と 南に向かっては、引き止めるな、と言う。
わたしの息子たちを遠くから 娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。
彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。
わたしの栄光のために創造し 形づくり、完成した者。



8月1日に退院して家に戻った私の連れ合いは、体力は相当落ちましたが、
比較的落ち着いて過ごしています。
お蔭様で私も日曜日は教会に行き、教会の兄弟姉妹と共に神様の御前で
静かに礼拝のひと時を過ごすことができます。
連れ合いは抗癌剤治療はできないようなので、これからどんなふうに病気が進行するのか
全く見当がつかない状態ですが、今は、私は平安な毎日を感謝して過ごしています。
最近は「教会便り」ではない私事のつぶやきが多く、ブログを読んでくださる
方々には申し訳ないことです、どうかお許しください。 m(_ _)m

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上田光正牧師のご著書

2015-08-04 08:35:00 | その他
昨年3月まで美竹教会の牧師で、現在は曳舟教会の牧師をなさっている
上田光正牧師からご著書を贈っていただきました。

日本の伝道を考える ①日本人の宗教性とキリスト教
              ②和解の福音
              ③伝道する教会の形成
 
三部からなる立派なご著書です。
第一部を読んだあたりから連れ合いの病気から目と手が離せなくなり、今の所
そこでストップしています。 しっかり三部まで読んで、キリスト教の伝道について
(素人なりに)考え、勉強しなくてはと願っています。
上田先生、ありがとうございます。

下の記事は、私が時々お邪魔するサイト「香柏だより」に載っていたものです。
どうぞお読みください。
そういえば私も巻末の「注」がとても参考になり、真っ先に読みました。 (^-^)




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「証言としての聖書」

2015-08-03 12:16:15 | 説教
前日の土曜日(8/1)夫は退院して家に戻ることができました。
そして昨日は久しぶりに礼拝に出席し、左近牧師や教会の兄弟姉妹に会えました。
感謝な一日でした。 夫にも感謝です。

主日礼拝の説教、テキストは「ヨハネによる福音書」5章31節~40節
タイトルは「証言としての聖書」でした。






  新約聖書、特に福音書はイエスを証しする証言の書であり、それは二千年以上の
  長きにわたって信者によって繰り返し証しされ続けてきた。
  今の私たちも聖書に拠って主イエスキリストを証しするべく招かれているのですね。
  朝の祈りに私は「今日も神様の御心を少しでも証しできますように・・・・」と
  少々マンネリ気味にお題目のように唱えていますが、これまでの信仰の先達を思い
  心から祈り、そう願わなくては! と反省しました。
  私たちの生活の中に絶えず常に存在する「出エジプト」
  静かに神様に委ねる信仰を与えたまえ、と祈りました。


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重荷を負う人、苦しみ悩む人、心に虚しさを抱く人・・・・・・
美竹教会がそれらの人々に神様の救いを伝えることができますように。
それらの人々が勇気を持って教会の扉を押して入って来られますように、お祈りいたします。
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