ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

新年礼拝のお知らせ

2015-12-30 13:37:54 | その他
元旦、午後二時から↓下のような礼拝がもたれます。
渋谷にお出かけの方、よろしかったら是非ご出席ください。




美竹教会では、元旦礼拝はいたしません。
2016年、最初の主日礼拝は1月3日(日)午前10時半からです。

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「惜しみなく与える愛」

2015-12-28 17:39:45 | 説教
降誕節第一主日礼拝、今年最後の日曜日の説教
テキストは「ヨハネによる福音書3章16節~21節  タイトルは「惜しみなく与える愛」でした。




説教の中の「ぶどう園と農夫」のたとえ 「マタイによる福音書」21章33節~39節 
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、
その中に絞り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ
送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、
一人を石で打ち殺した。また、ほかの僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは
同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と
言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。
『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、
息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の
主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか。」

(左近牧師の引用は「マルコによる福音書」からでしたね、間違えました。 m(_ _)m )

説教の(朗読)の所で左近牧師が読まれた話・・・・・・・
アメリカ、シカゴでの話。両親のいない一人の少年、彼は新聞売りをすることで
ようやく毎日のパンを得ていた。ある日、新聞が一部も売れず途方に暮れていると、
町の警官の一人が「あの白い家を訪れて『ヨハネ3の16』と言ってごらん」と
教えてくれた。少年が白い家の扉をたたき出てきた老婦人に「ヨハネ3の16」と
いうと老婦人は少年を家に招き入れた。夕食を振る舞い、温かいシャワーを浴びさせ、
ベッドに案内してくれた。何年ぶりかの安らかな熟睡から目を覚ました少年に
老婦人は朝食を与えてくれた。「ヨハネ3の16」って一体なんだろう、何かの
おまじないだろうか、ずっと不思議に思っていた少年に夫人はヨハネ3の16
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が
一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という聖句について説きあかしてくれた。
夫人の家を去る時の少年は以前の少年ではなく、神の愛に目覚めた者となっていた。・・・・・・

親も子も兄弟姉妹も友人も、私を慰めたり励ましたりしてくれる人はたくさんいる
ように思えます。しかし、本当の私の失意、喪失感、虚無感、を埋めてくれるのは
やはり神のみです。なぜ神はそれほどまでに私を愛してくださるのか?と
疑問符をつけるのはヤメます。それほどまでに愛してくださる私の神、私の信仰が
なかったら私は自分が生きている意味を見失ってしまします。


ノイバラの実を啄む<メジロ>です。

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キリスト教の「愛」

2015-12-26 11:03:35 | 今日の聖句
今日の聖句は「コリントの信徒への手紙 一」 13章1節~7節です。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な
信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、
誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、
いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

中略
13節
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

キリスト教の「愛」とは具体的にどのようなことなのでしょう。
愛は行為でしょうか、感情でしょうか。キリストへの私たち人間の「愛」とは?
分からない私は、少なくとも聖書を読み、神に祈り(お願いばかりの祈りですが)日曜日、教会の兄弟姉妹と
礼拝を捧げることだけはしようと考えています。
私たちの神様への愛、神の私たちへの愛、について考えながら眠った昨夜、夢を見ました。
数年前に死んでしまった、以前飼っていたワンコと私の夢でした。
私がプールに飛び込むと、ワンコは私を追って転がるように水に飛び込みました。彼女は泳げるのでしょうか?
ひょっとしたら溺れてしまうかもしれないのに・・・・・私めがけて飛び込んだのです。
彼女の一途な姿、行為を見て私は愛おしくて胸が詰まりました。
神様への愛は私のワンコのような前後、過去未来を顧みることなく飼い主をひたすら見つめて生きること
なのでしょうか。夢の中で私は納得したような、相変わらずわからなかったような・・・・・
夢の中では私は神様の立場だったようで(笑)神の愛も分かったような気分がしました。
愚かな私の愚かな夢です。


「聖書事典」の「愛」の項には・・・・・
“イエスの言葉”として
『イエスの言葉として、有名なものはまず、山上の説教の中での戒めに見られる。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)
もう一つ重要なイエスの言葉として挙げることができるのが、律法学者の問いに対する答えの形でいわれている、
最も重要な掟と言われるものである。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、
「隣人を自分のように愛しなさい」)(マタイ22:37、39)』・・・・と書かれ、

“信仰としての愛”として・・・・ 
『聖書には愛について多く語られるが、その究極的なものはⅠコリント13章に見られる。単に抽象的な愛を賛美している
のではない。信仰、希望とのかかわりにおいて愛が語られているのである。それは神から出たものであり、キリストの
出来事において具体化され、ここにわれわれの所為の根源がある。終末の時の完成を待ち望みつつ、生けるキリストに
従う時にのみ愛の業が可能となるのであって、それは信仰に他ならないのである。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、
この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント 13:13)
ルカには、この戒めに続いて“善いサマリア人”のたとえ話が続いており、愛の具体的な形が示されている。』
と書かれています。

ブルッゲマン著「旧約聖書用語辞典」の「愛」の項には
『愛するとは、決定的な政治権力に基づく命令に服することである。「愛」という言葉は、厳粛で公的な契約上の
関わりを示すために用いられている。そこには、情緒や意図性を超え、教勢的な義務への向かわせる公的な具体的要求が
込められている。』と書かれています。 旧約聖書の「愛」らしい、と思いました。

キリスト教って、難しい?


紅葉を背景に、公園の<山鳩>です。

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ご一緒に礼拝を守り、神様の愛に包まれ平安のうちに過ごしませんか。
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今宵、美竹教会で・・・・・・

2015-12-24 10:34:30 | 美竹教会
・・・・・クリスマスイブの夕礼拝があります。             
                   
   <クリスマスイブ讃美夕礼拝>
   24日(木) 午後6時半~7時半
     讃美歌、キャロルを多く取り入れた讃美の夕べ
     お近くにお住いの方、渋谷でお仕事をなさっている方
     諸々のことを少し早めに切り上げて、美竹教会で
     ご一緒に主イエス・キリストのご降誕を祝いましょう!

   
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讃美歌98番

2015-12-23 19:01:20 | 讃美歌
讃美歌集の「主イエス・キリスト 降誕」のカテゴリに入っている讃美歌です。先日の礼拝で歌いました。

讃美歌98番「天には栄え み神にあれや」
"Hark! the herald angels sing" by Charles Wesley, 1739
Arr. from Felix Mendelssohn, Festgesang(1846) by William Hayman Cummings, 1855

1) 天(あめ)には栄え 御神(みかみ)にあれや
   地(つち)には安き 人にあれやと
   御使(みつか)い達の たたうる歌を
   聞きて諸人(もろびと) 共に喜び
   今ぞ生まれし 君をたたえよ

2) 定め給いし 救いの時に
   神のみくらを 離れて降(くだ)り
   御霊によりて(または「いやしき賎(しず)の」)
   処女(おとめ)に宿り
   世人(よびと)の中に 住むべきために
   今ぞ生まれし 君をたたえよ

3) 朝日のごとく 輝き昇り
   御光(みひかり)をもて 暗きを照らし
   土より出(い)でし 人を生かしめ
   尽きぬ命を 与うるために
   今ぞ生まれし 君をたたえよ

歌詞がチャールス・ウエスレー、原曲がメンデルスゾーンと何れも著名人によるクリスマスの代表的な賛美歌である。
チャールス・ウエスレー(Charles Wesley 1707-0788)は、兄のジョン・ウエスレーと共にメソジスト運動を推進し、
メソジスト運動の代表的歌人であると同時に、英語賛美歌作者中の王者と目される人である。
この歌は英語で書かれた4大讃美歌の一つとされているが、他の3つは、22番「めさめよ、わがたま」
142番「さかえの主イエスの」260番「千歳の岩よ、」と言われている。
ウエスレーの作でこの歌ほど多くの歌集に採用されているものはない。
チャールス・ウエスレーは英国国教会聖職の子として生まれ、オックスフォード大学卒業後、兄ジョン・ウエスレーと共に
伝道のためアメリカに渡ったが、事志に反してイギリスに帰り、1738年、モラヴィア派の集会で回心を体験した。
(モラヴィア派は15世紀、ボヘミアに成立した原始教団を模範とし、簡素で敬虔な信仰生活を目指した集団である)
この賛美歌は、彼の回心体験の翌1739年に発表されたもので、何故、御子の降誕を祝うのか、
それは、その御子によって、神と罪人である我々が和解できたからである、ということがこの歌の核心であるということ
だが、この讃美歌の歌詞の訳では、その点が触れられていない。
「聖歌 123番 きけやうたごえ」には、第1節に「かみはよびとと やわらぎませば」と神との和解が示されている。
曲は、英国で教会オルガニスト、声楽家として活躍したウイリアム・カミングス(William Hayman Cummings 1831-1915)が、
メンデルスゾーンが1846年に作曲した「祝典歌」から編曲したものである。
カミングスは、16歳の時、メンデルスゾーンが自ら彼の作品オラトリオ「エリア」の英国での初演を指揮したコンサートで、
合唱団の一人として歌った経験があるとの事である。
1855年に「祝典歌」を聞き、この曲に異常な感動を覚えて、この第2番目の合唱をチャールス・ウエスリーの
“Hark! the herald angels sing”に配することを思いつき編曲し、当時オルガニストをしていたウオルサム聖堂で発表し、
好評を博した。その後、この賛美歌が印刷され、英米のあらゆる讃美歌集に取り入れられてクリスマスの世界的な名曲となった。
それまで、“Hark! the herald angels sing”には色々な曲が付けられたが全く普及しなかった。
メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn 1809-1847)は、ユダヤ教徒の家庭に生まれたが、7歳の時にキリスト教徒に改宗した。
『20歳の時に、恩師の反対を押し切って、ベルリンで「マタイ受難曲」100年祭の年に、100年間無視されていたこの受難曲を
復活させた話は有名ですが、彼がこのバッハの作品に心を奪われたのは、それが音楽的に素晴らしいという理由に加えて、
自分の魂の深い宗教的な渇きを潤す作品がここにあると確信したからではないでしょうか。』(大塚野百合著 「賛美歌と大作曲たち」より)
***************************************************以上、解説はすべてネットから引用させていただきました。 m(_ _)m

ここをクリックすると讃美歌98番を聴くことができます。

   美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
   明日、24日はクリスマスイブの夕礼拝があります。
   午後6時半から8時までです。
   渋谷でお仕事をなさっている皆様! 少し早めに仕事を切り上げて
   美竹教会のイブ夕礼拝にどうぞお出かけください。
   
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「クリスマスの輝き」

2015-12-21 11:03:16 | 説教
クリスマス礼拝の説教
テキストは「ヨハネによる福音書」1章14節~18節 タイトルは「クリスマスの輝き」でした。



(朗読)の所で左近牧師が読まれたお話
   アメリカの小さな教会でのクリスマスのこと、教会学校の子ども達が
   イエス様ご降誕のページェントをすることになりました。
   一人の知的障害を持つ男の子にも一つの役が振り分けられました。
   「馬小屋は向こうだよ」と言ってそちらを示す、という役です。
   たった一言の科白ですが男の子は毎日一生懸命練習しました。
   クリスマス当日、プログラムは進み、男の子の科白の所に来ました。
   両親やCSの先生の見守る中、男の子は「馬小屋は向こうだよ」と言ってそちらを指しました。
   みんながホッとした次の瞬間、男の子は思いがけない行動に出ました。
   厩に向かってトボトボと歩く劇中のマリアとヨセフの背中に「そっちに行かないで!
   馬小屋は暗いよ、臭いよ! 僕の家に来て。 僕のベッドを使っていいよ!」と呼びかけたのです。
   劇は途中で止まってしまいましたが、その場にいた人々は全員、深い感動の包まれました。

左近牧師の説教から強く心に響いた下の文章を書きだします。
〇 痛めつけられて血が流され、打たれて破れる肉体を、この世界を、憎んで脱するのではなく、
  否定してご破算にして解き放たれるのではなく、むしろキリストは、徹底的にご自分のものとされ
  引き受けられた。十字架の贖いの死に至るまで。それがクリスマスだと聖書は語る。
〇 「社会や人生、そして歴史を知れば知るほど、クリスマスがなくてはならない。キリストを持たざるを
  得ないという思いが高まってくるのではないでしょうか。」
  「若いころからここまで衰えてきた肉体をもって「肉」とはなんであるかを知っている老人は
  『言が肉となった、キリストが人となられた』この受肉の出来事がどんなに偉大な慰めであるかを
  語ることができるのではないでしょうか。」 大木秀夫牧師の言葉から・・・・

キリスト教の神に出会わなかったら、救いに与らなかったら、教会に礼拝に集わなかったら、
聖書が無かったら、私はいかに貧しく虚しく殺伐とした心を持って生きていたことでしょう。
「言は肉体となった、イエス様が人としてこの世に現れた」クリスマスに感謝です。


公園の池に<ダイサギ> 背景は秋から冬に向かっています。

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「然り、然り」「否(いな)、否」

2015-12-19 17:22:05 | 分からなかった今日の聖句
新約聖書は今「コリントの信徒への手紙 二」を読み始めました。
新約聖書には、私には分からない箇所がたくさん、たくさんあります。
今日は分からなかった聖句を載せます。
「コリントの信徒への手紙」1章17節~20節です。
このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、
人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否(いな)、否」と
なるのでしょうか。神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、
「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、
わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、
「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが
実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。
それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。


実は最近、英語の聖書を買いました。
聖書を読んで理解できない個所、英語の聖書と比べて読むと少しは理解できるかな?と
思ったのですが、サテ?

↓ 今日の分からない聖句の英語版です。
The Second Letter of Paul to the CORINTHIANS 1:17~20

Therefore, I was not vacillating when I intended to do this, was I? Or what I
purpose, do I purpose according to the flesh, so that with me there will be
yes, yes, and no, no at the same time?
But as God is faithful, our word to you is not yes and no.
For the Son of God, Christ Jesus, who was preached among you by us ---by me and
Silvanus and Timothy ---was not yes and no, but is yes in Him.
For as many as are the promises of God,in Him they are yes; therefore also through
Him is our Amen to the glory of God through us.


・・・・・・??????????? (^^;)

浅はかな私(笑) ことはそれほど簡単ではありませんでした。
それほど難しい単語はないのに、日本語に比べてスッキリしているようにみえるのに
チンプンカンプンです。
読み慣れてくれば少しは分かるようななるのでしょうかね~? 心もとないことです。

試しに旧約聖書、今読んでいる「創世記」のアブラハムやイサクの物語を英語聖書で
読んでみました。 物語だし、日本語聖書を参照すればよいのですから、新約聖書に
比べてずっと読みやすかったです。 少し安心・・・・
英語版聖書、時々でも少しずつでも覗いてみることにいたします、
楽しみデス・・・・・・ハイ、負け惜しみです。 (^^;)


幹に隠れている虫を真剣にほじくっている<コゲラ(♂)>です。
耳の辺りの赤い羽が(♂)の印です。

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明日はクリスマス礼拝です。
これまで教会に入ったことが無いという方も、明日はチャンス!です。
どうぞ教会の扉を押して入ってきてください。!
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「ラニエロ」の話

2015-12-17 14:38:04 | CS(教会学校)

13日の主日礼拝、子供説教で左近牧師は「ラニエロ」という人の話をしました。
このお話の原作はラーゲリレーブという女性が書いたものだそうです。
クリスマスの時期、教会学校では子供たちに話したり、劇にして演じたりするようですが、私は初めて聞いた話でした。
真の光を欠けたひびの入った器(わたくしのこと)に大切に運びながら最期まで生きてゆきたいと改めて思いました。
(左近牧師の話はもう少し簡単なものでしたが、ネットに載っていたものを転載させていただきます。)
          *************************
このお話は、一人の男が、小さなともし火を決して消さないように一生懸命に守り続けたというお話です。
 昔、イタリアのフィレンツェという町に、ラニエロという豪傑が住んでいました。ラニエロは決して腹黒い男ではなかった
のですが、自分の力を心底信じ切っていて、誰もが自分の強さを尊敬し、偉い男だと認めてくれると思い上がっているところ
がありました。それで、彼は人の気を引こうとして力任せに色々のことをやらかすのですが、その思いとは逆に、町の人々は
彼が乱暴で、思いやりがなく、傲慢な男であるとしか見ていないのでした。
 ラニエロが、自分の強さを一番認めて欲しかったのは、愛する妻フランチェスカでした。
しかし、フランチェスカはただただ彼の乱暴な行いを悲しみ続け、ついには愛想をつかして実家に帰ってしまったのでした。
 そんなフランチェスカの気持ちを悟らないラニエロは、戦さで大手柄を立て、名を挙げれば、きっとフランチェスカの心も
戻ってくるだろうと考えました。彼は、傭兵になってあちこちの戦争に参加し、多くの手柄を立てます。
さらに自分の素晴らしい武勇伝がフランチェスカの耳にも必ず届くようにと思い、戦利品の中からもっとも貴重なものを、
フランチェスカの住むフィレンツェの大聖堂の聖母マリアに捧げ続けたのでした。
しかし、フランチェスカの心は彼のもとには帰ってきませんでした。
 ラニエロは、それは自分の手柄がまだ足りないからだと考えました。そして、今度こそフランチェスカも認める大手柄を
立てたいと、その頃始まった十字軍の遠征に加わったのです。聖地エルサレムをイスラム教徒の手から取り返すその戦いで、
ラニエロは一番の大手柄を立てました。そして、その褒美として、エルサレムのキリストの墓に灯るともし火から、自分の
蝋燭に最初に火を移すことを許されます。
 その夜、仲間たちが、「今度ばかりはいくらおまえでも、そのともし火をフィレンツェの聖母マリアのもとに届けることは
出来まい」と、ラニエロをからかいました。かっとなった彼は、「いや、俺はこのともし火をフィレンツェまで消さずに
届けてみせる」と宣言します。そして翌朝から、エルサレムからフィレンツェまで、ともし火を消さずに持ち運んでいく
奇妙な旅が始まったのです。
 ともし火を消さずに旅をしていくことは思ったほど簡単ではありませんでした。馬の背に後ろ向きにまたがり、マントで
風をよけながらそろそろと進まなければなりませんでした。そのうち彼は追いはぎに合います。普段なら、そんな連中を
やっつけることはわけももないことですが、ともし火を守るために、彼はまったく無抵抗のまま身ぐるみを追いはぎどもに
渡します。そして、残されたぼろを纏い、やせ馬に後ろ向きにまたがって、そろりそろしと一本のともし火を大事に守り
ながら旅を続けたのでした。町に入ると、ラニエロのおかしな格好をみた人々はみな、「きちがいだ、きちがいだ」と指を
さしてあざ笑い、からかいました。しかし、ここでいつものように腹を立てて暴れれば、小さなともし火などいっぺんで
消えてしまいます。ラニエロは、沈黙を守り、嘲りに耐えて、小さなともし火を守り続けたのでした。十字軍に恨みのある
イスラム教徒から暴行を受けることもありました。ラニエロは反撃することなく、ただ必死でともし火を守り続けました。
 時には良いこともありました。ある日、くたくたに疲れ果てたラニエロは、その時ばかりはともし火のことを顧みる間も
なく、宿屋に着くや否や手足を大の字に伸ばして朝まで寝入ってしまうのです。朝、目が覚めてハッとしたラニエロは、
ともし火がないことにひどくがっかりします。ところが、宿屋の主人が来て、ラニエロのともし火を持ってきます。
お客さんがとても大事そうにしておりましたので、その火を消さないように大事に守っていてくれたというのです。
 またある日には、とうとうともし火を移しかえる為の新しい蝋燭が一本もなくなってしまいました。これでこの旅もついに
終わりだと思いながら、小枝や枯れ草を集めてそれに火を移すのですが、それもほとんど燃え尽きようとしていました。
そのともし火の最後を見届けようとしていると、近くに巡礼者が讃美を歌いながら通りかかりました。みると年をとって足下も
おぼつかいない巡礼者が急な山を登ろうとしています。ラニエロはその巡礼者の手をとって山の上まで歩いてやりました。
巡礼者がお礼を言うと、ラニエルは蝋燭を分けてくれるように頼んでみました。すると、快く何本かの蝋燭を分けてくれたので、
ラニエロは急いで山の下に降りていきます。そして最後の残り火をなんとか、その蝋燭に灯すことができ、旅が再び始まったのでした。
 他にもいろいろなことがあるのですが、要するにラニエロはこの旅で、今まで経験したことのないような色々なことを経験
したのでした。奪い取るものに無抵抗でそれで与えるとか、殴られても、嘲られても静かにしているとか、足の弱い老婆を
助けるとか・・・、また意外な人の親切とか、不思議なお守りということも経験しました。
 そして、そういう経験を通して、ラニエロは今まではまったく違う人間に変えられてしまったのです。戦いよりも平和を愛し、
荒々しいことよりも穏やかなことを好み、憎しみを抑えて忍耐することができる者になっていました。また、自分の力だけでは
どうすることもできないことがあっても、人の親切や、天の恵みがあることも知ったのでした。自分の腕っ節だけを信じ、
人を思いやることない、荒々しい男だったラニエロはまったく新しい人間として生まれ変わっていました。
 ようやく彼はフィレンツェに到着しました。そして、なんとか大聖堂のマリア像の前にたどり着きます。ところが、こんなに
苦労してともし火を運んできたのに、「そのともし火が本当にキリストのみ墓の前のともし火であるかどうか、一度も消えることが
なかったかどうか、証明してみろ」と言われてしまいます。ラニエロが途方に暮れました。
 すると一羽の鳥が聖堂に迷い込み、ラニエロのともし火にぶつかって、なんとともし火を消してしまいました。火は鳥に燃え移り、
鳥は体を燃やしながら、マリア像の前に落ちて息絶えます。ラニエロはその小鳥の火をとって聖母マリア像の祭壇に火をともしました。
 この不思議な出来事の一部始終をみていた人は、「神様が証を立ててくださったのだ」と、ともし火が本物であることを認め、
ラニエロを成し遂げたことを誉めたたえたというのです。 
          *************************

公園の<カワセミ> 葦のなかに潜んでいました。

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20日はクリスマス礼拝です。
記念すべきクリスマスの朝、あなたの主、イエスキリストに出会えますように!
教会の礼拝にぜひお出かけください。

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クリスマス礼拝ご案内ハガキ

2015-12-15 19:21:22 | 美竹教会
 20日(日)はクリスマス礼拝です。
 一人でも多くの方がイエス様のご降誕を祝う礼拝にいらしてくださるよう、
 ご案内ハガキをつくりました。 ↓ 
 

 
  24日木曜日はイブ讃美夕礼拝をいたします。
  讃美歌(キャロル)を多く取り入れてクリスマスを祝います。
  東京は渋谷の美竹教会で本当のイブを祝いましょう!
  美竹教会のお近くで働いている方、お仕事の帰りにでも
  ぜひお立ち寄りください。

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「まことの光」

2015-12-13 22:06:31 | 説教
待降節第3主日礼拝の説教
テキストは「ヨハネによる福音書」1章9節~13節  タイトルは「まことの光」でした。



  先週は「光」を証しする洗礼者ヨハネについてのみ言葉の説き明かしでしたが、
  今日は「まことの光」なるイエスさまについての説教でした。
  二千年昔の羊飼いのように、私もまことの光である主を胸に抱き、大切に守り、
  最期の時まで過ごしたいと願っていますが・・・・
  弾けるように主の御言葉を、まことの光を証しできるとよいのですが、それは私には
  なかなか難しい・・・・・
  神様が私のうちにいて語って下さることを信じて歩むことにいたしましょう。

  
  ピラカンサの実を啄む<ヒヨドリ>です。

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