ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

舌に注意!

2013-02-28 09:44:11 | 今日の聖句
今日の聖句は 「ヤコブの手紙」 3章からです。

5節~
同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。
御覧なさい。 どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。
舌は火です。 舌は「不義の世界」です。 わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、
移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。
あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、
これまでも制御されてきました。
しかし、舌を制御できる人は一人もいません。 
舌は疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。
わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。



「舌は疲れを知らない悪」「死をもたらす毒」・・・・・・確かに! 自戒せねば!!


福音書のどこだったか忘れましたが、イエス様の言葉として「口から入るものは皆清いが、
口から出る者は汚い」というような文言があったと思います。
これは食物に関する律法に煩くこだわり固執するユダヤの人々にイエスが言った言葉です。
ユダヤの人は、特にファリサイ派や祭司など、律法の文言ばかりにとらわれてその本質というか、
精神を忘れてしまう人が多かったのですね。
イエス様って、本当に合理的な頭脳と精神の方だったと思います。


しかし、今日の聖句から・・・・・お喋り大好きな私は、呉々も呉々も、要注意! です。





<エナガ>
全長14㎝ですが、半分が尾羽です。
小さな小鳥ですが緑の苔と白い羽毛や蜘蛛の糸で奇跡のように
美しい巣をつくり、一度の10羽以上の雛を孵したりします。



今年は3月31日(日)がイースター(復活節)の礼拝です。
10時半から始まり、洗礼式、聖餐式が行われ、午後は愛餐会(食事)が持たれます。
礼拝だけでも是非ご一緒に!   美竹教会のホームページです。
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受難節(レント)

2013-02-27 17:32:34 | 讃美歌
教会歴では、今年2月13日の水曜日が「灰の水曜日」と呼ばれ、
この日から40日間が「受難節」(英語でレント)と呼ばれます。
主イエスの御受難を覚える特別の時です。
受難節には結婚式などの祝い事は行わず、祈りと聖書日課を大事に過ごします。

下の讃美歌は讃美歌集では「聖潔」の項に入っています。
主は私たちの罪を贖うために十字架につけられて死にました。
主の十字架と復活は、私たちに神の救いを確信させてくれるものです。



讃美歌 332番

1) 主は命を与えませり 主は血潮を流しませり
   その死によりてぞ われは生きぬ
   われ何をなして 主にむくいし

2) 主は御父のもとを離なれ わびしき世に住みたまえり
   かくもわがために 栄を捨つ
   われは主のために なにを捨てし

3) 主はゆるしと慈しみと 救いをもて下りませり
   ゆたけきたまもの 身にぞあまる
   ただ身と魂とを 献げまつる




<ルリビタキ(♀)>
雄に比べて地味ですが、可愛らしい表情です。



3月29日(日) 復活日(イースター)の礼拝です。
美竹教会でご一緒にイエス様の復活を喜びましょう。
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私に欠けるもの

2013-02-26 12:59:12 | 今日の聖句
今は「ヤコブの手紙」を読んでいます。

2章14節~
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。
そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、
彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と 『言うだけ』 で体に必要なものを
何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
信仰もこれと同じです。 『行い』 が伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。



21節~
神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってでは
なかったですか。
アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これでわかるでしょう。
「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友とよばれたのです。
これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
同様に、娼婦ラハブもあの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、
義とされたではありませんか。(ヨシュア記2:1~24)
魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。



「新共同訳 聖書事典」の解説には下のように書いてあります。

「ヤコブの手紙」はパウロの信仰義認とのかかわりにおいて低く評価されてきた。
しかし最近の理解によれば、「ヤコブの手紙」の著者の信仰理解はパウロのものと矛盾するのではない。
その誤解された理解にたいしてこれを訂正するものとして書かれたと言われる。
著者の言う信仰とは行為を伴った信仰である。
「御言葉を聞いて行う」というのが著者にとって最もふさわしい信仰のあり方で、「行いが伴わない信仰」は
死んだものであると言っている。


パウロの信仰義認というのは「ローマの信徒への手紙」の中に出てきます。
3章28節
何故なら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
4章13節
神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、
信仰による義に基づいてなされたのです。

パウロは「信仰による神の義」を律法のわざによらない恵みとして、ただイエスキリストを信じることによって
無償で、信じる者すべてに与えられるものだとしています。


さてさて、素人の私が考えるには、パウロの行いとは律法を文字通り四角四面に受け取って行おうとする行為、
ヤコブの行いとは律法の行いではなく隣人愛の行為と思えるのですが、どうなのでしょう。

律法の行為を行うことはそもそもユダヤの律法の内容を知らないのですから、私には不可能です。
そして、隣人愛の行為、これは私に一番欠けているものです。
上の聖句にあるように言うは易く行うのは難しいものです。
時間が無い、もう歳だ、家族が病気だ・・・・・・なにやかやと自分の中で正当化して、愛の行為、
つまり隣人(自分以外の人)を大事にする行為をないがしろにしています。
何もなしえない自分のことは到底許せない、救いがたい、と思う同じ心で自分を正当化しています。





<ルリビタキ(若)>
孵って二年目か三年目の若雄です。
成鳥になるともっと綺麗な瑠璃色になります。


思い悩んでいた私ですが、教会に通うようになって平安が与えらています。
悩みは解決したわけでなく苦しみは続いて在りますが、平安です。
思い煩っていらっしゃる方がいらしたら、教会の扉を開けてください。
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「ナルドの香油」

2013-02-25 20:12:18 | 説教
2月24日の礼拝説教 
テキストは「マタイによる福音書」26章6節~13節  タイトルは「ナルドの香油」でした。

物語は*********

イエスがベタニアという村のシモンの家で食事の席に着いておられた時、
一人の女が高価な香油の入った石膏の壺を持ってイエスに近づき、その頭に香油を注ぎました。
弟子たちは「高価な香油を無駄遣いせずに高く売って貧しい人々に施しをすればよいのに」と憤慨しました。
これに対してイエスは「この人はわたしに良いことをしてくれたのだ。
貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
この人は私の体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
はっきり言っておく。 世界中どこでも、福音が伝えられるところでは、この人のしたことも記念として
語り伝えられるだろう。」と言われました。 ***********


香油は純度高く高価なもので当時の300デナリ、今のお金で300万円以上のもので、
この婦人の宝物だったに違いありません。
自分の宝物のような香油を主に捧げる婦人のあふれるばかりの真心と誠意で、そこには聖なる雰囲気が
漂っていたことでしょう。
この婦人の行為は、主に救われた喜びから、その感謝の思いを伝えるための心からの振る舞いでした。

この日はイエスが十字架にかかられる二日前の水曜日です。
この時に至っても能天気な弟子たちは、迫りくる十字架を前に不安と苦しみのなかにあるイエスを
思いやることもなく、自分たちの中で誰が一番偉いかなどと論じたり、またひょっとしたらイエスが
王になるかも知れない等とも思っていました。

私達はこの弟子たちの姿に自分を重ね、婦人の姿を自らを省みる縁(よすが)とすべきです。
福音書の中で、弟子たちが自分たちの愚かさをも赤裸々に描いたことは後々、教会が自らを
省みる縁(よすが)となりました。

死者に香油を塗るのはユダヤの習慣でした。
この女性はイエスが感じている不安、そしてイエスの死を鮮明に意識していました。
主への感謝の気持ちを伝えるチャンスは今しかないとの思いで香油を注いだのです。

弟子たちが婦人に怒り「貧しい人に施せ」と言ったのは自己欺瞞です。
本当の隣人愛は主の十字架への感謝からしか出てきません。
主への感謝のない隣人愛は自己満足と欺瞞です。

婦人とこの時の弟子たちとの決定的違いは主の十字架への感謝の有無です。
(この婦人の主への)感謝の表明と言う行為は人間を受動から能動に変えます。

愚かな弟子たちでしたが、彼らが本当に主の十字架に感謝できるようになったのは
イエスが十字架につけられるのを見た後でした。
十字架のイエスを見て、主への感謝を心から自覚した彼らはそれから命懸けで福音を伝えました。

教会が光を放つことは主への感謝から可能になります。
主は私たちにそれをなさしめ、そういう私たちを喜んでくださいます。
                        (以上、文責はゆうゆうにあります。)
   

毎週の礼拝説教を自分なりに要約して載せています。
当たり前のことですが、自分の器の大きさ(小ささ)でしかまとめられません。 (^^;)
美竹教会のホームページの「説教集」でぜひ全文をお読みください。




<キクイタダキ>
そろそろ山に帰る頃です。
今年は本当に楽しませてくれました。
一番よく撮れた一枚です。 (^-^)



追記: 「はっきり言っておく」    
    この言葉はイエス様の言葉として新約聖書の中に何回も何回も出てきます。
    文語訳の聖書では「誠に汝らに告ぐ」となっていたそうです。
    「はっきり言っておく」より何倍も素敵ですね~。
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試練

2013-02-23 22:25:13 | 今日の聖句
「ヤコブの手紙」 1章

2節~3節
わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。
信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。


12節
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。
その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。


22節
御言葉を行う人になりなさい。
自分を欺いて聞くだけで終わる者になってはいけません。



先ほどTVの番組で、コンゴ内戦で5歳で誘拐され少年兵にされた人の体験談を聴きました。
泣き叫ぶ子供を車で連れ去り、コカインなどの麻薬で意識をもうろうとさせた上で
目隠しをして銃を発砲するように命じ、一緒に誘拐された親友を打ち殺させる。
彼はからくも逃走して家に戻りましたが、その後、お父さんが殺され、母、妹とともに
カナダに逃げ延びたという体験談でした。


私は勿論のこと、私の周囲にもそのような恐ろしい試練に会った人はいません。
コンゴの少年兵のような試練に出会っても、私は喜べるでしょうか。
絶対に喜べません。

歴史上でクリスチャンが受けた拷問や火あぶり、死刑など、信仰上の試練でも
私には耐える自信がありません。

私が耐えた、と思っているこれまでの私の試練などはとるに足らないものです。
毎日を平安のうちに過ごさせていただき、この上なく感謝の気持ちでいっぱいですが、
私が神さまの御言葉を行っている、とはとても言えません。

今、何をすることが神さまの御言葉の実行になるのか・・・・・・
人間の作っている世界の様々な不幸、矛盾を見るたびに知るたびに、
何もしていない自分の非力さに身が縮む思いです。





    今日は<アオゲラ>の写真を撮りました。
    珍しく地面に下りていました。



明日の礼拝は10時半から始まります。
美竹教会にいらしてご一緒に神さまの御言葉をお聴きしましょう。
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「ヘブライ人への手紙」

2013-02-22 09:37:54 | 今日の聖句
私にとってはこの上なく難解だった「ヘブライ人への手紙」読み終わりました。

ネット検索で Wikipedia の解説を読むと**********

『ヘブライ人への手紙』は新約聖書の中の一書で、新約聖書中もっとも文学的な書であるといわれる。
その理由はギリシア語の流麗さにあり、アレクサンドリアのクレメンスも絶賛していたとエウセビオスが記している。
オリゲネスは(当時使徒パウロの手紙とされていた)『ヘブライ人への手紙』は他のパウロ書簡とは
ギリシア語の見事さにおいて際立った違いがあると分析している  ***********  と書いてありました。

あまりにも流麗なギリシア語から、これは真正パウロ書簡ではないと判断されるなんて・・・・・(笑)


また、新共同訳聖書の後ろには「付録」が付いているのですが、付録のひとつ「聖書について」の17頁には
「新約聖書について」の解説が書かれています。 

それによると **********

「神はかって預言者たちによって多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には
御子によってわたしたちに語られた」
「ヘブライ人への手紙」冒頭(1:1、2)のこの句は、新約聖書全体を巧みに要約している。 *********** とありました。


読み直してみると確かに1章1節に書いてありました。
こんな大切な聖句を読み流しておいて、心に響く聖句無し、と思っている自分がとても恥ずかしいことです。 

結局、読み流すだけで「ヘブライ人の手紙」は終わってしまいました。
今日から「ヤコブの手紙」を読みます。


そして、今日の聖句は「ヘブライ人への手紙」12章25節~29節 です。

あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。
もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に
背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。
あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は、次のように約束しておられます。
「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」
この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして
取り除かれることを示しています。
このようにわたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。
感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。
実に、わたしたちの神は焼き尽くす火です。


地上で御旨を告げる人・・・・預言者?でしょうか
天から御旨を告げる方・・・・イエスでしょう
あのとき、地を揺り動かした・・・・確かイエスが十字架にかけられた時、地が動いたと書いてあったような
もう一度揺り動かす・・・・・再臨の時でしょうか
揺り動かされるものが造られたものとして取り除かれる・・・・神によって造られた私たちを含むすべてのもの?


再臨の際には、すべてのものが破壊されるが最終的に私たちは「決して揺るがない御国」に迎えられるのだから
感謝し、神に喜ばれる生活をして行こう、ということを言っているのだと思うのですが、やはり難解ですね~ (T__T)






<モズ(♂)>
黒いサングラスが特徴です。


美竹教会のホームページ
日曜の朝のひと時、静かな美竹教会でご一緒に神様を賛美いたしましょう!
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教会の「兄弟姉妹」

2013-02-20 14:32:22 | その他
日曜礼拝最初の、司会の方の祈りには、いつも励まされ学ばされることばかりです。
祈ることの下手な私は司会の方に心を合わせて感謝しながらご一緒に祈ります。

先日の礼拝では、文言は忘れましたが、「私たちは一人では信仰を全うできません。
教会の兄弟姉妹に支えられて、私たちの信仰生活は守られています」という言葉に続いて
兄弟姉妹への感謝が祈られました。


実は、私にとって「教会の兄弟姉妹」という言葉はちょっと苦手で、素直に出てきません。
毎日の祈りでも「教会員の皆さんの健康を支えて、全員が活き活きと伝道に励めますように」とは
祈りますが、なかなか兄弟姉妹とは言えません
いわんや「愛する兄弟姉妹」とは殆ど言えません。

礼拝に出席しても口をきくのは、顔見知りの方数名に「おはようございます」と「さようなら」を言うだけです。
礼拝では祈り讃美歌を歌い、説教をお聞きし、献金を捧げるだけで十分だと思っていました。
ほかの人の言動にそれほど興味が無いのでしょうね、他人と交わることの必要性も感じないで、
礼拝を守れるならば、自分一人でも何とも思いませんでした。
「教会の兄弟姉妹」とは・・・・・・・・少し考えてみました。

**********************************
2月3日の礼拝説教「仕える者となれ」の中で、上田先生が「兄弟姉妹」について話されました。
教会では教会員同士が互いに「兄弟姉妹」とよびあいます。
これは単なる親しみの表現ではないのです。
そういうことは当然ありますが、兄弟姉妹というのはお互いに僕として仕えあうことだという
厳しいことを含んでいます。
教会によっては一切「兄弟姉妹」と言わず、全部「氏」(うじ)で、また祈りの中では
愛する兄弟姉妹ではなく「主の愛する兄弟姉妹」という教会もあります。
兄弟姉妹とはただ一人の主イエスを指し示し、証しする役目がある、ということです。
教会の中で、兄弟姉妹であるということは、お互いにキリストが主であることを証しし合い、
教え合い、学び合うということです。
キリストを指し示し、聖書を重んじ、兄弟姉妹を愛し、重荷を負っている兄弟には指一本でも
お貸しすることこれこそが、「兄弟姉妹」と呼び合っていることの重い内容です。
********************************************

礼拝で司会をなさる方も、讃美歌の奏楽の方も、受付も、献金も、証しなさる方もみんな
「教会の兄弟姉妹」です。
神様を指し示しながら最期まで一緒に生きていく「教会の兄弟姉妹」です。
「教会の兄弟姉妹」と信仰に関しては、励まし合い、支え合い、慰め合うことができます。
やはり兄弟姉妹のいない教会は考えられませんね。

お互いの生活や性格や背景など、何も知らない者同士で意思の疎通はあり得ませんから
信仰以外のことでは励まし合ったり慰め合ったりはできないかもしれません。
実際、教会の兄弟姉妹にもあまりお話ししたくない事柄もたくさんあります。

神の身体である教会につながる私たち「教会の兄弟姉妹」にとって大切なことは、主を仰ぐ生活
なのですから、神様が中心にいてくださり、聖書と祈りと礼拝を守っていれば大丈夫ですよね。

私はこれまで、そして今も、毎日、信仰には無関係なこの世的な私の苦しみや悲しみ、不安などを
神様には祈ってきました。
神様には、祈って励まされ、慰められても良いのですよね?
ゴチャゴチャ細かい事柄を祈られたり願われたりしても神様も困るよね~、と言った方がいましたが。 (*^_^*)




<アオバト(♂)>
昨年の2月に公園に現れました。
今年は来てくれるでしょうか。


美竹教会のホームページです。 扉を開けてお入りください。
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私の愛唱歌

2013-02-19 13:53:34 | 讃美歌
最初、私の好きだった讃美歌の二つが、メロディだけ浮かんできました。
それから何日か頑張って、古びた頭のメモリから歌詞を引っ張り出してきました。

1) 帰れ つばくら(燕のこと) 海を越えて
   上がれ ヒバリよ 雲の上に
   今日こそ 嬉しき よみがえりの日よ

2) 野辺の千草よ ともに咲きて
   霞に続く 道を飾れ
   今日こそ 楽しき よみがえりの日よ

↑ はイエス様の復活を祝う歌詞です。

私の好きな讃美歌、もう一曲は、 

1) 山も 野辺も 空も 林も 流れも
   み神のみ心を 顕わに示せり

   み手になりしものは 喜びにあふれ
   ・・・・以下不明・・・・・

み手になりしもの というのは神様の御手によって造られたもの、と言うことで
四足の動物や鳥、魚の事だと思います。

私は自然が盛り込まれた歌詞が好きなようで、メロディは二つともイケイケ、ドンドン!
という感じで晴れやかに歌い上げるものです。

二つの讃美歌はどちらも私が持っている讃美歌集(日本基督教団讃美歌委員会編 1954年初版)
には載っていません。
ひょっとしたら子供讃美歌で、何十年も昔、私が教会学校で習ったものかもしれませんね。
メロディも歌詞も大好きです。

母や姉の時もそうでしたが、教会で行われる告別式では故人の愛唱歌が優先して選ばれ歌われます。
歌詞はともかくメロディを考えると、私の愛唱歌として二つの讃美歌が、私の告別式に歌われるのは
どうでしょうね~  
私はとても嬉しいですが・・・・・ (^-^)





     人懐こい<ヤマガラ>の正面顔


「帰れつばくら」についてはネット検索で少しだけ分かりました。


美竹教会では毎月の第1聖日、礼拝後に讃美歌を練習します。
ご一緒に歌いませんか。
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「十人の乙女たち」

2013-02-18 16:52:49 | 説教
昨日の礼拝説教 テキストは「マタイによる福音書」 25章1節~13節 
タイトルは「十人の乙女たち」でした。


イエスは「天の国は次のようにたとえられる」と言って「十人の乙女」のたとえ話をされました。
****************
婚礼の際、ともし火を持って花婿を迎える10人の乙女のうち、5人の賢い乙女はともし火と一緒に
壺に入れた油を持っていました。
ところが愚かな5人はともし火だけを持ち油を用意していませんでした。
花婿の到着は遅くなり、皆、眠気がさして眠り込んでいたところに「花婿到着!」を知らせる叫び声。
乙女たちはみな起きてともし火を整えました。
ともし火が消えそうになった、油を用意していない愚かな乙女たちがあわてて油を買いにいった間に、
花婿は到着しました。
賢い乙女たちは用意した油を継ぎ足して灯りをともし続け、花婿を出迎え、ともに婚宴の席に入り
扉が閉められました。
「ご主人様、どうか扉を開けてください」戻った愚かな乙女たちは頼みましたが、主人は
「私はお前たちを知らない」と答えました。
*******************
「目を覚ましていなさい。あなた方はその日、その時を知らないのだから」とイエスは言われました。



この話は天国について語っています。
「乙女」は私達で「ともし火」は信仰を表しています。

天国の招き(再臨)を信じて希望を持って生きることを勧めています。
キリストが再び来られた時、いつでも迎える心の備えがあるかどうかが問われています。
これはまた、再臨だけの話ではなく、自分の死を迎える時のことでもあります。

ここでは眠ったことは責められていません。
その日、その時がいつか分からない私達が、ずっと緊張して生きることは不要です。
いつか分からない、ということは神の恵みでもあります、
「終末が明日来るとしても、私は今日、リンゴの苗木を植えよう」とルターは言いました。

「油」は「聖霊」または希望、信仰、愛であると言われています。
受難のイエスの恵みを信じて待つ、その信仰をもち続けるようにということです。
人間は待つ存在、受け身の存在で、「油」は神から与えられる力です。
希望を持って、主の再臨の日を待ち望む人の人生は限りなく豊かになります。


と言うようなお説教だったと思います。(文責はゆうゆうにあります。)
昨日は、ボールペンのインクが無くなって途中からメモが取れませんでした。
メモっていてもあやふやなのに、何たること! m(_ _)m






<翡翠(カワセミ)>



実は私は「聖霊」とういのはよく分からないのです。
聖書のこの箇所を読んだとき「油」が聖霊だとは思いつきませんでした。
「油」とは、上田先生が時々お話になる、教会員としての務め
1、聖書を読むこと 2、祈ること 3、礼拝に出席すること だと思いました。
この三つを続けていればともし火の灯りを絶やさずにすごせる、と思ったのです。
実感がなくても、上の三つを続けていればきっと私の上にも聖霊は働いてくださるのではないか、
と信じて過ごすことにいたします。 (^-^)


美竹教会のホームページをご覧ください。
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死は終わりではない

2013-02-17 21:55:12 | 説教
先週(2月10日)の説教の中で上田先生は「三谷正隆」という方の話をされましたが、
それが今週の週報に載りました。
心にしみる、そのお話をここにコピーで貼らせていただきます。







どうも、私がまとめるお説教は無味乾燥で、感動的なエピソードをまじえてなされる
先生の深い説き明かしを表すことはとてもできません。

ぜひ、美竹教会のホームページの「説教集」をお読みください。
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