ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

ローマによる人口調査

2019-10-30 15:58:19 | 今日の聖句
今日の聖句は「ルカによる福音書」2章1節~7節です。

02:01そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
02:02これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
02:03人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
02:04ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、
ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
02:05身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 02:06ところが、
彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 02:07初めての子を産み、布に
くるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。


皇帝アウグストゥスとはひとつの称号で、本名ではありません。彼の本名はオクタビアヌス。
ローマ帝国の皇帝の一人です。彼は、アウグストゥスという称号を与えられました。
それは、荘厳なる者、畏れ多い御方といった意味です。
そういう称号を与えられるほどに、オクタビアヌスは、名君であったということです。
ローマの平和(パックスロマーナ)と呼ばれる時期の基礎を築いたとも言われます。
そして、このアウグストゥスと呼ばれるローマ皇帝が、その頃、人口調査の命令を出しました。
現代で言えば、国勢調査に似ているかもしれません。でも、現代のようにシステマティックに
進めることもできませんし、さらに、当時のローマ帝国が、ものすごい領土を広げていましたので、
一説によりますと、当時の人口調査は、四十年ほどの歳月を費やしたと言われます。

人口調査をする目的は、所有するものを把握するためです。どれだけの税金を集めることができるか、
兵士として徴用することのできる成人男子はどれだけいるのか。
これは本来、イスラエルの民には禁じられていることでした(サムエル下 24章)。
人は神に造られた神のものであって、人間の所有のように考えてはならないのです。

時の権力者の命令によって、ユダヤの人々も登録をするために自分の出身の町へと向かいます。
イエスの父となるヨセフも、ダビデ王の家系でありその血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、
ダビデの町と呼ばれるユダヤのベツレヘムへと向かいました。直線距離でおよそ120km。
そこを身重になっていた許嫁のマリヤを連れて旅をしました。
ところがベツレヘム滞在中に、マリヤは月が満ちて、男の子を産みます。
ベツレヘムは人口調査のため人が溢れており、客間に彼らのいる余地がなく、幼子は布にくるまれ、
飼い葉桶の中に寝かされました。  ********** ↑はネットから引用した分かりやすい解説です。

↓私の持っている「聖書人物 おもしろ図鑑 新約編」の最初のページです。
ローマ、シリア、皇帝、総督・・・それらの関係が分かりやすく載っていました!
老化気味の私の脳、記憶に残るかは疑問ですが、分かりやすいですよね~(^^)





記憶に関して言えば、10月27日のブログに「イザヤ書が分かり難い」トカ何トカ書きましたが、
このブログではこれまで何回もイザヤ書について書いていました。
少しは勉強したのに記憶に残っていない自分が恐ろしい・・・・・ (-_-;)


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
フェイスブックやツィッターも御覧ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「主の僕の召命」

2019-10-27 12:58:16 | 今日の聖句
旧約聖書は今、「イザヤ書」を読んでいます。
今日の聖句は「イザヤ書」42章1節~7節「主の僕の召命」です。

42:01見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。
42:02彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
42:03傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
42:04暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
42:05主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ 地とそこに生ずるものを
繰り広げ その上に住む人々に息を与え そこを歩く者に霊を与えられる。
42:06主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手を取った。民の契約、
諸国の光として あなたを形づくり、あなたを立てた。
42:07見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

イザヤ書を読むのはもう何回めでしょうか。
心に響く聖句はたくさんありますし、今日の聖句も分かりやすいのですが、全体として
何回読んでもイザヤ書は分かりにくくて印象に残らない気がします。

「聖書事典」の解説によると、イザヤ書は大きく3つの部分に分けられるそうです。**********

・第1イザヤ(1章~39章)すべてが前8世紀のイザヤに由来するものではない。その構成は複雑であり、
 どの部分がイザヤの「真正」な言葉かは議論の多いところである。
・第2イザヤ(40章~55章)イザヤ書の中で最もまとまりが良い部分である。
 第2イザヤの言葉は概して慰めや励ましに満ちた救いの言葉となっている。
 バビロン補修からの開放は「新しい出エジプト」として語られ、第2イザヤの中心的使信となっている。
・第3イザヤ(56章~66章)この部分は捕囚後のエルサレムで活動した「第3イザヤ」という預言者一人に
 由来するものではない。
 バビロン捕囚の終結から祖国への帰還、神殿再建、さらにはエズラやネヘミヤによるユダヤ教団の
 形成にいたる長い期間を背景にした言葉の集成である。
 核となっているのは60~62章で、そこには補修後の混乱状況に苦しむ人々への希望の言葉が示されている。

 **************************
ネットにあった「イザヤ書」解説のサイトの一つです。
短くて読みやすいですが、やはり私には「イザヤ書」は分かり難いです。

美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
フェイスブックやツィッターも御覧ください。



激痛に苦しんだ私の脚は未だに治りません。
鍼灸・整骨院に毎日通って一ヶ月以上経ちます。脚の可動域は驚くほど広がってきましたが、
根本的な傷(怪我?)の痛みがとれず、思い通りに動けるにはまだ時間が掛かりそうです。
若者なら二週間で治ったのかもしれない、加齢、老化を深く深く自覚いたしました。(;_;)
続けて15分くらいは歩けるようになりましたが、駅の人混みや電車は怖くて渋谷の教会に行けず、
何週間も礼拝に出ていません。

暇な毎日、聖書を真面目に読む時間が増えました、と書けると良いのですが・・・なかなか (-_-;)
それでもブログに書くネタが無くてカテゴリは「今日の聖句」ばかりになりそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永眠者記念礼拝(お知らせ)

2019-10-25 14:54:12 | 美竹教会
   
 
   今年も「永眠者記念礼拝」の秋が巡ってきて、お知らせのハガキを作りました。
   私の父も半世紀以上昔、美竹教会で浅野順一牧師の司式で告別式をしていただきました。
   父も母も姉も教会の兄弟姉妹も、私のような高齢者になると、本当に多くの方が
   神様の御許に召されています。天国での再会が楽しみです。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
フェイスブックやツィッターも御覧ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「信仰のないわたしをお助けください。」

2019-10-16 17:38:03 | 今日の聖句
今日の聖句は「マルコによる福音書」9章14節~29節
“汚れた霊に取りつかれた子をいやす” です。

09:14一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと
議論していた。 09:15群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
09:16イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、 09:17群衆の中のある者が答えた。
「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
09:18霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、
歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、
できませんでした。」 09:19イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。
いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。
その子をわたしのところに連れて来なさい。」
09:20人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。
その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。 09:21イエスは父親に、「このようになったのは、
いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。 09:22霊は息子を殺そうとして、
もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
09:23イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 09:24その子の父親は
すぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 09:25イエスは、群衆が走り寄って
来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。
この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 09:26すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけ
させて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
09:27しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。 09:28イエスが家の中に入られると、
弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
09:29イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

『信じます。信仰のないわたしをお助けください。』大好きな聖句の一つです。

河川の決壊、土砂崩れ、家屋の破壊、多くの犠牲者を出して台風19号は過ぎ去りました。
自然の力の恐ろしさに立ちすくむ思いです。
災害に会われた方々がおられる中、今の私は、被災された方々が一日も早く日常を取り戻され、平安な
日々を過ごすことができますように、神様の御守りを祈ることしかできません。許してください。
来年も再来年もその先も、毎年台風は来るでしょう。日本の気象・気候は年々厳しくなっていくようです。
身を守り生活を守るだけでなく、心と魂を守るために私たちはどう生きたらよいのでしょう、と考えます。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
フェイスブックやツィッターも御覧ください。


<公園で見上げた飛行機雲>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日(13日)は夕礼拝のみ

2019-10-12 11:54:51 | 美竹教会
美竹教会では、明日(13日)は下↓のように
リチャード久山先生をお迎えしての礼拝と講演会を
予定していました。が・・・・・・・



大型台風の直撃を受けそうな東京です。
礼拝と講演会は中止夕礼拝に久山先生が説教を
してくださるそうです。


美竹教会のホームページフェイスブックにも礼拝中止のお知らせが載っています。

  ************************************************
    台風の影響と、それに伴う交通機関の計画運休により、
    夕礼拝を13日の主礼拝といたします。

    10月13日(日)
    特別夕礼拝 午後5時半〜6時半
    聖書:マタイ 6:25~34
    説教:「神の国と神の義を」(リチャード久山氏)

    初めての方も気軽にお越しください♪

    午後1時からの公開講演会は延期といたします。
  ************************************************

台風の被害ができる限り小さくすみますように!
我が家はすでに雨漏りが始まりました。
台風が通り過ぎるのを祈るばかりです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゲラサの豚」「ガダラの豚」

2019-10-10 19:20:19 | 今日の聖句
今日の聖句は「マルコによる福音書」5章1節~20節 “悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす”

05:01一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 05:02イエスが舟から上がられるとすぐに、
汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。 05:03この人は墓場を住まいとしており、もはや
だれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。 05:04これまでにも度々足枷や鎖で
縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
05:05彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。 05:06イエスを遠くから
見ると、走り寄ってひれ伏し、 05:07大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。
後生だから、苦しめないでほしい。」 05:08イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われた
からである。 05:09そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。
大勢だから」と言った。 05:10そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスに
しきりに願った。 05:11ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。 05:12汚れた霊どもは
イエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。 05:13イエスがお許しになったので、
汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、
湖の中で次々とおぼれ死んだ。 05:14豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は
何が起こったのかと見に来た。 05:15彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が
服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。 05:16成り行きを見ていた人たちは、
悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。 05:17そこで、人々はイエスに
その地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
05:18イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれて
いた人が、一緒に行きたいと願った。 05:19イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に
帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく
知らせなさい。」 05:20その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス
地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。


何回目かの「マルコによる福音書」です。
5章17節の “そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした
これまで、この言葉は「豚の飼育で生計を立てている人にとって2千匹の豚が湖に飛び込んで死んだという
ことは大打撃に違いない。このようなことは二度とあっては困るので、人々はイエスにここから出ていくように
頼んだのだ」と理解していました。 今回、フト気になりました。
豚って、聖書にも記されていますが、ユダヤ(当時のイスラエル?)の人々にとっては汚れた動物で、その肉は
食べてはいけないとされていたのですよね? それでもこの地方に豚を飼育していた人々がいたのだとしたら
豚肉の需要があったということでしょうか。豚、豚肉、どんな風にしていたのでしょう、興味津々です。

『聖書本文検索|日本聖書協会ホームページ』というとても便利なサイトで「豚」で検索してみると、新約、旧約
合わせて8件しかヒットせず、そのうちの3件はマタイ、マルコ、ルカの福音書に書かれている同じ事件です。
「豚肉」では1件しかヒットしません。
ということは聖書の中で、やはり豚はマイナーな動物ですよね。


VKsturm' blog というサイトに分かりやすい解説がありました。******************
なぜユダヤ教・イスラム教で豚肉は禁止されるのか─ハリスの説から マーヴィン・ハリス著『食と文化の謎』

豚は中東の気候にあってないのである。豚の祖先は水の豊かな谷間や川岸の木陰を住処としていた。豚の体温調節
機能は中東の熱くて、日差しであぶられるような環境には全く適していない。熱帯種の牛、羊、ヤギは水なしで
長期間の間生きられ、発汗作用によって余分な熱を放出することも、明るい色の短い毛の生えた外皮によって身を
守ることができた。豚は汗をかけない。汗腺を持っていないからである。豚は涼しくいるためには泥の中で転げ回り、
冷たい地面からの伝導作用で熱を発散するしかない。豚は身体が大きくなるほど、熱に耐えられなくなる。
したがって、中東で豚を飼うのは反芻動物を飼う以上にコストがかかることであった。豚を飼うには人工的に影を
作ったり、転げ回る用の泥たまりを用意してやらねばならなかった。またその餌は人間自身が食べられる穀物
その他の植物性食物を与えてやらばならなかった。こうして考えてみると、豚は反芻動物に比べてベネフィットが
少ない。豚は農耕に使えず(鋤が引けない)、その毛は繊維や布にむかず、乳用にも適さない。
「豚は、肉以外ほとんど役立たない唯一の大型家畜である」*******************
もっとずっと丁寧に色々な面から解説しているマーヴィン・ハリスという方の文章です。

それにしてもゲラサには豚飼いがいて豚を大量に飼育していた・・・・豚の用途は何だったのでしょうね~ 
やはり食用かな? それともゲラサってユダヤでは無いとか? 
わからないことばかりです・・・・・楽しいけれど(^^)

大昔、中島らもという人の「ガダラの豚」という本を読んだことを思い出しました。舞台はアフリカだったような。
「ガダラの豚」本の内容も忘れました、タイトルの意味もわかりませんが、どうもゲラサとガダラは同じ土地のようで、
中島らもさんのタイトルは聖書の福音書の「ゲラサの豚」のエピソードに由来しているようです。
聖書の中では、マタイ伝では「ガダラ」 マルコ伝とルカ伝は「ゲラサ」となっています。

こういうことが分かったからと言ってどうということはないのですが、私にとってはとても面白い発見でした。 
今日も今日とて、聖書通読の日々は発見の旅です。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
フェイスブックやツィッターも御覧ください。


秋めいた日差しの中の<アオサギ>
日本で一番大きな鷺です。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

医者を必要とするのは・・・

2019-10-03 17:32:59 | 今日の聖句
今、新約聖書は「マルコによる福音書」を読んでいます。
今日の聖句は2章13節~17節 “レビを弟子にする” です。

02:13イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、
イエスは教えられた。02:14そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に
座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。
彼は立ち上がってイエスに従った。 02:15イエスがレビの家で食事の席に着いて
おられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。
実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 02:16ファリサイ派の律法学者は、
イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は
徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 02:17イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、
正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


わたしは勿論のこと、クリスチャンは自分が罪人であること、自分は医者を必要とする
病人であると皆、自覚していると思いますと書の師匠にお話したところ、親鸞聖人の
大ファンだという師匠は“善人名をもて往生すいわんや悪人をや”という言葉を
教えてくださいました。う~ん、なんかその言葉、聞いたことがあります。
その意味は? とネットで調べると何件か説明がありました。

浄土真宗入門サイトに「あさだよしあき」氏は書いています。 ↓
「悪人でさえ浄土へ往けるのだから、善人なら、なおさらだ」と言うのならナットク、
という人は多いでしょうが、親鸞聖人はここで、「悪人こそが助かるのだ」と全く
逆のことを教えられています。なぜでしょうか。
それについて解説する前に、まず「善人」「悪人」について考えます。
「善人」や「悪人」と聞くと私たちは、常識や法律、倫理・道徳を基準にして判断します。
しかし、親鸞聖人が『歎異抄』で「悪人」と仰るのは、そんな法律、倫理・道徳上の「悪人」や、
社会的に虐げられている人だけのことではありません。「すべての人間」のことです。
つまり親鸞聖人の言われる「悪人」とは、人間の代名詞なのです。
なぜ親鸞聖人はすべての人間を悪人と仰ったのか。それはどんな人間も苦しんでいるからです。
貧富の差や能力、財産、名誉、地位の有無などと関係なく、人は皆、苦しみの中で生きています。
人生の本質は苦しみなのですが、今は、さほど深刻に苦しんでいない人もありましょう。
そんな人は、かりそめの幸せに溺れ、阿弥陀仏に生死の一大事を打ちまかせる心がないのです。
親鸞聖人が冒頭のお言葉で「善人」と言われているのは、そんな人のことです。
しかしそういう人も、仏教を聞いて自己が知らされれば、“自分こそ苦悩の人、悪人であった”
と気づくことでしょう。

真宗大谷派「銀杏通信」に本多恵という方は↓のように書いています。
仏教を聞くとは人間の真実の相を聞くこと
「すべての人が悪人」とは、仏さまの眼に映る人間の真実の相を教えられたものです。
仏教を聞く、とはその人間の真実の相を聞くことであり、「苦悩に沈むすべての人を、必ず浄土に
生まれる身(絶対の幸福)に救う」と誓われた本師本仏の阿弥陀仏の本願を聞く、ということです。
それが本当の幸福になる道であると教えられています。 
医師はすべての人を診療されますが、医師を真に必要とし医師にすがる人は、病人であり病気に
悩める人です。健康であると自負している人には医師の救いを必要としないのと同じように、
みずからを善人と自負する人には弥陀の本願は感得されないのであります。
救いの見込みがなく、自我のはからいに破れ、自力無効を信知した悪人こそが弥陀の本願の
正客(しょうきゃく)なのであり、自分を頼む思いから解放されて、真実救済の感動を得ることが
できるのであります。

う~、分かるところもあるし分からないところもある。
イエス様の言われる丈夫な人と病人、正しい人と罪人とはどんな人を指すのでしょう?
私は自分は罪人で病人だ、といとも簡単に納得してしまい、それで済んだ気にしてしまいますが、
心の奥底は本心は、自分をそのように見ることはできず、傲慢なくせに生ぬるいクリスチャンだと
反省します。
いかにも正直者のように、反省反省と手軽に口にする、そのずる賢い自分に呆れ、怒ってもいます。

今日も夕方から脚が猛烈に痛みます。
杖を使わずに歩けていたのに、昨日からまた少し後戻り、ジグザグジグザグ行ったり来たりで
リニアに回復しないことに苛立ってしまいます。今は完全に病人です。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
フェイスブックやツィッターも御覧ください。


元気になって脚をしっかり踏みしめて<コスモス畑>に行たいです。(T_T)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする