ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「主の栄光を映す者」

2017-10-06 20:51:13 | 説教 使徒信条
10月1日の主日礼拝説教
テキストは「ヨハネによる福音書」6章38節~40節
タイトルは「主の栄光を映す者」でした。





“キリストが肉体を脱ぐようにして霊的にだけ復活されたのではなくて、わたし達と同じ、
この朽ちる体を復活の体としてくださった、だからわたし達も、どのような姿かは
わからなくても、霊だけでなく、心だけでなく、身体を含めたすべてにおいてキリストと共に、
キリストに倣って、キリストの姿に連なるものとされるのです。”

「キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、
御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」
(「フィリピの信徒への手紙」3章21節)

神の御許に召されたとき、私たちの心と魂だけでなく体も(どのような姿かは分からないが)
甦る・・・・・・・ 今の所、私の正直な気持ちとしては御許に召されてどのようになるのか、
ということは私の理解できる範囲を超えているようです。
具体的には勿論のこと、漠然ともイメージが湧きません、困ったことです。
私のこの世の生は神様にいただいているという信仰(正しいかどうか自信全く無しですが)に
より頼み、時には空しく落ち込みそうな気持ちを奮い立たせて、全てを神様にお委ねして
毎日を大切に丁寧に生きるということしか思い浮かばない私です。
信仰に、教会に依りすがっているような私です。 💦

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<酔芙蓉>白い花が夕方に向かって濃い赤に変わってゆきます。
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「越境する共同体」

2017-09-29 23:00:32 | 説教 使徒信条
9月24日の主日礼拝の説教、テキストは「エフェソの信徒への手紙」4章1節~6節
タイトルは「越境する共同体」でした。





放射能の半減期について話していたとき友人が呟きました。
「地球で人間が一番罪深く愚かだね~ せめて猿か犬くらいの知恵だったら
よかったのに。 立派に子孫は残せるし、何よりもこんなにも取り返しの
つかないほど地球を汚さなかった・・・・・・」
教会も罪深く不完全な人間の集まりです。でも教会の頭はイエス・キリストです。
私たちクリスチャンは主をのみ仰ぎ見、生きています。主によって集う限り、
主から与えられた知恵によってより賢明に謙虚に平和に過ごせるはずです。
この繋がり、この交わりの輪を何とか広げられたら、と私は願っています。
ノンクリスチャンの友人の呟きは続きました。「神様はなんで人間をこんな
風に造ってしまったんだろう、神様のミスなのかな~」
私「・・・・・・・」

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気温は夏のようでも風は秋の気配、清々しい公園でした。
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「時の間の旅人」

2017-09-15 19:22:43 | 説教 使徒信条
9月10日(日)主日礼拝の説教
テキストは「テモテへの手紙二」 タイトルは「時の間の旅人」でした。




“時の間の旅人として託されていること、それが、み言葉を宣べ伝えること、
折がよくても悪くてもイエス・キリストの福音を語ることに励むこと、咎め、
諫め、励ましながら。忍耐強く、十分に教えることだ” 
“教会が終わりの日を見据えて、なすべき務め、それは、キリストのみ言葉を
足しもせず引きもせず、盛らず削らず、その喜びの音色を損なわず飾らず、
響かせること・・・・・”
今日のみ言葉もなかなか厳しいものでした。
願わくは私を勤勉で遜(へりくだ)るとしてください。自分の力を出し惜しみせず
驕ることなく、丁寧に大切に時の間を歩ませてください。私たちは救われた喜びの
中に生きている者なのだから、その信仰が原動力となってエンジン、フル回転で
伝道の道を歩めるハズですものね。 アーメン。

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秋の蝶<ウラナミシジミ>です。
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嬉しい日曜日!

2017-09-04 15:15:58 | 説教 使徒信条
嬉しい9月3日の礼拝でした。 左近牧師が説教の中で話されていますが、美竹教会に
新しいメンバーがお二人加えられました。 神様に感謝です。
小学生のころから姉がやっていた教会学校(土曜学校)に通い(場所は我が家でした(^-^))
中学生になって教会の礼拝に出席するようになった私の場合は、十代の終わりに、ほとんどきちんと
聖書を通読したこともなく、キリスト教のことも(多分)あまり分からず、すらり~と川の流れが
川の石を乗り越えるように受洗してしまいました。
今になって当時の自分を思うと、そんな感じです。
その「な~ンとなく、という感覚」はいまだに私の信仰に尾を引いていて、教会の活動、つまりは
伝道にも、私は腰の引けたところがあります。
今回のお二方はほんとうに立派で、素晴らしいです。本当に、本当に嬉しいことです。
新しい教会の兄弟姉妹に倣って(引っ張られて、でもいいワ)私も少しでも御言葉を証しする毎日を
送りたい、心を高く上げて、とあらためて心から神様にお祈りしました。

この日の説教 テキストは「マルコによる福音書」16章19節~20節
タイトルは「キリストの居場所」 でした。





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夏もそろそろ終わりかけているような・・・・・
静かな夕暮れの公園です。
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「死の陰の谷」

2017-08-25 21:08:22 | 説教 使徒信条
8月20日の主日礼拝説教
テキストは「ペトロの手紙一」3章18節~19節 タイトルは「死の陰の谷」でした。






説教の中で左近牧師が話された平井長老のご子息の作品が
美竹教会のホームページの表紙に使われています。
このブログの記事「美竹教会HPリニューアル」でご紹介しました。
今、神様の御許で奥様とご子息の和穂さんと平安のうちに
過ごされていると信じています。
平井さん、しばらくお別れですね、神様の御許でまた会えますように。


暑さの所為か、公園の花々の元気もイマイチ。
<カノコユリ>が一つだけ咲いていました。
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「キリストの苦しみ」

2017-08-18 16:29:32 | 説教 使徒信条
左近牧師は毎週、礼拝説教のプリントを作って、欲しい人は誰でもいただけるように
準備してくださっています。
私も感謝しながら毎週、説教プリントを家に持ち帰っているのですが、私が読むだけで
終わり、ではあまりに申し訳ないと思っていました。
開店休業中のブログですが、せめて、説教プリントだけでもアップして、
皆様に読んでいただきたいと思い、今回から載せることにいたしました。
左近牧師の説教だけのブログになってしまうかもしれません。 <(_ _)>
そのうち聖句なども載せられたら、と願っています。
それにしても、先週の日曜日の説教プリントのアップが今日、金曜日です。
やることが遅くてダメになりました、はぁ~・・・・・







公園にワンサカ! 「アレチカラスウリ」の花です。
夕暮れ時から開き始めます。この写真の撮影は夜です。
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「教会の信仰」

2014-10-12 22:23:58 | 説教 使徒信条
今日の礼拝説教 テキストは「イザヤ書」56章1節~8節 & 「エフェソの信徒への手紙」2章17節~22節
タイトルは「教会の信仰」でした。

今日は教会学校の分級の当番でしたので礼拝で左近先生の説教をお聴きすることはできませんでした。
左近先生がくださった説教のプリントを貼らせていただきます。





教会の中の人間模様、人間の集まりであるが故の反目、非難、排除などは教会発生の初めから
あって当然のことなのですね~
第三イザヤの書かれた時代の背景もな~るほど!と思わされてとても印象的です。
イザヤ書56章は行き詰まった社会に生きる人たちに向けて語られているのですね。

『人間の集まりである教会は破れや過ちがあって当然、その教会を信じると告白できるのは、
中心にキリストをいただいているから、聖なる食卓を通して聖なる方に与っているから。
他人同士の私たちがキリストによる赦しを通して「神の家族」とされている。
「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信じる」のは、互いの間に横たわる敵意をキリストの
平和によって叩き潰していただき、違いを持ったままでも共に座ることへと招いていただき
キリストの体とされて生きることへの召していただき、そのような私たちの交わりが、教会の
交わりが、キリストによって聖なる神殿、聖霊によって神の住まいとなると約束していただいて
いるから。』

今日の説教一段と迫力があって胸に突き刺さります。
メモを取りながら礼拝でお聴きするのと、文字を通して読むのとの違いはあるでしょうか?
ナント、ナント、人間は罪深いものなのでしょう。
人間に甘い期待を抱いてはいけません。 神様にだけつながっていなくては。
神と教会と教会の(赤の他人の)兄弟姉妹・・・・・・「聖なる公同の教会を信じる」こと、難しいです。
人間だから長所も欠点もある、等と言う甘い人間認識しか持ちえない私はだめですね~
同じ信仰を持っているから(人間同士も、教会の兄弟姉妹は)信じあえるという認識は甘いですね~
神さまがいてくだされば私はいいけど・・・・・こんな理解(信仰)で良いのカナ~


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「傍らにある助け」

2014-10-06 18:59:58 | 説教 使徒信条
昨日の礼拝説教
テキストは「エゼキエル書」36章25節~28節 &「ヨハネによる福音書」14章15節~17節
タイトルは「傍らにある助け」でした。

この二カ月間、説教を通してキリスト教の核ともいえる「使徒信条」をかみしめ味わってきました。
使徒信条は、父なる神、独り子イエス、そして聖霊の三段階に分かれています。

キリスト教の歴史のなかでは様々な信仰理解が現れては消えてゆきました。
AD20年ころ、マルキオンという人は「イエスは正に神として認める。しかし旧約の神はその造り給うた地球も
不完全であり神として劣っていて、礼拝するに値しない」と言いました。
「天地創造の神は礼拝されるべきだ、しかしイエスは人間であり礼拝の対象では無い」とサモサタのパウロスという人は言いました。
AD4世紀にはトロピキ(?)という人が「天地創造の神とその独り子イエスは神であるが、聖霊は神として礼拝する対象では無い」と言いました。
キリスト教の信仰理解は次々と、出て来ては退場する、を繰り返してきました。
教会はそのたびに長い年月をかけて会議を開き、礼拝を続け、皆で話あってきました。

信仰の内容を言葉にするのは難しいが何とか言葉にしなくてはこれから先立ち行かない。
礼拝を繰り返す中で確認した言葉、聖書全体を理解した上で結晶していったのが「使徒信条」、
すなわち、父、子、聖霊、同じ性質を持っている三位一体の神で、この神は自分たちが礼拝する神であると、何百年もかけて
教会で確認されてきた言葉なのです。

今日は聖霊の信仰についてひも解いてゆきます。
聖霊の神は捉えがたく難しいと思われます。 
「霊」はギリシャ語でもヘブライ語でも「息」「風」を意味しています。神の息、神の風、聖なる霊です。
聖霊の実態を捉えるのは難しいものですが、教会はこれを神として告白してきました。
聖霊は目に見えませんが、その成した結果を見ることで聖霊の存在を知ることができるものです。
起こった出来事を通して理解されるものです。

では、聖霊の具体的働きとは何か。それは聖霊が働く時、イエス・キリストがはっきりと示される、これが一番大事なポイントです。
イエスのいた時は遠い昔ですが、時空を超えてイエスがありありと私たちに指ししめされるなら、
それは私たちの想像や思い込みでなく、聖霊の働きそのものなのです。
パウロは「聖霊によらなければ誰もイエスが主であると言うことはできない」と述べています。
知識がどんなにあっても聖霊が働かなければ、イエスは主であると告白できないのです。
キリスト教の信仰は聖霊が与えてくれるもので、私たち人間の努力や修練によるのではありません。

聖霊を称える信仰から讃美歌がいくつも出て来ています。

ーー讃美歌第二編177番「あなたも見ていたのか」ーー

あなたも見ていたのか 主が木にあげられるのを
ああ、いま思い出すと、深い 深い罪に わたしはふるえてくる。

あなたもみていたのか 主が釘をうたれるのを
ああ、いま思い出すと 深い 深い罪に 手足がふるえてくる

あなたも見ていたのか 主が槍で刺されるのを
ああ、いま思い出すと 深い 深い罪に からだがふるえてくる

あなたも見ていたのか 主を墓に葬るのを
ああ、いま思い出すと 深い 深い罪に 心がふるえてくる

臨場感あふれる讃美歌です。
これは決して当時の弟子たちや民衆だけを指しているのではありません。
今生きている私たちのために、ここまで的外れに生きてしまった私たちのために主は十字架の裁きによって
身代わりになり執り成してくださったことが分かります。

ーー讃美歌第二集185番「カルバリの山」ーー

カルバリ山の十字架につき イエスはとうとき血しおを流し
すくいのみちをひらきたまえり 主イエスの十字架 わがためなり

この私を救うためにこの出来事が起こったのだと確認する時、聖霊が働いたと言うほかはありません。
イエスへの信仰は自力で手にするものではないということを、私たちは聖霊を信じることによって教えられます。
神が主導権を持っておられる事、まず聖霊が働いてくださいと祈り求めることにつきます。
クリスチャンは聖霊によって信仰を与えられた者なのです。
きっかけは何であれ、教会に来ることによって目に映る世界が違って見える時が来るならば聖霊はそこに働いておられ、
私たちはエゴイズムな生活から解き放たれ本当に自由に生かされていくのです。

聖霊は信仰を与え、そして祈りを与えます。
祈りを本当に必要とする時、祈りが分からなくなるほど魂が呻くとき、その時、神の前に立つ私たちを聖霊は助けてくれるのです。
同様に“霊”も弱い私たちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、
言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです
」(ローマ8:26) 
聖霊はうめきをもって執り成し、本当の祈りを知らない私たちを助けてくださるのです。 
祈りの言葉さえ失うほど沈み込む時、聖霊は沈黙のうちにその祈りを聴き、執り成して下さるのです。

聖霊はまた、弁護者です。
「弁護者」とは傍らに呼ばれる者、または、傍らにあって呼ばわる者です。
キリストに代わって遣わされる聖霊は弁護し、祈りに伴ってくださいます。 
私たちの内にあっていつも、いつまでもさやかにイエスの出来事を思い起こさせ、指し示して下さるのです。
そして教会はこの救いを毎週礼拝でいつも思い、伝えます。

これから聖餐式を持ちますが、御言葉を味わう聖餐式は、聖霊を通して救いを思い起こし伝えます。
聖餐式は「最後の晩餐」を現わしていますが、晩餐に招かれた弟子たちは、イエスを裏切ったり、十字架のイエスから逃げたりしました。
イエスから逃げ出した弟子たちは誰もイエスの十字架の出来事やその前後を思い出したくなかったはずです。
イエスが復活し、弟子たちに現れてくださり、パンを裂いて贖ってくださらなかったら、イエスの語りかけが無かったら、
教会に、礼拝に、弟子たちに喜びは無かったでしょう。

裏切り、逃げた弟子たちは今の私たちの姿でもあります。
私たちのために聖霊が働いてくださり、キリストをさやかに示されることによって、私たちは救いを、赦しを思い起こすのです。
聖霊が降り、その力で教会を建てた弟子たちの思いを私たちも共にし、私たちが今も招かれている十字架の、
その語り部として今週も礼拝から押し出されて行きましょう。
                                   (以上、文責はゆうゆうにあります。)

左近先生の説教は迫力があり、一瞬、時空を超えて自分がイエス様の時代にいるような気になることがあります。
聖書の出来事が本当に身近に迫って感じられます。
凄い! そして面白い! です。



水浴びをする<キビタキ(♀)>


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「天国の在所(ありか)」

2014-09-22 10:00:44 | 説教 使徒信条
昨日の主日礼拝の説教
テキストは「詩編」2編11節~12節 &「マルコによる福音書」16章19節~20節
タイトルは「天国の在所」でした。

今日は使徒信条の「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」についてです。
使徒信条は本来、受洗する人への問答の言葉であったと言われます。 一つ一つ問い、受洗する人が答えてゆく形、
その中で編まれてきた言葉です。 使徒信条をかみ砕いていくとキリスト教が何を信じているのかが端的に正確に
分かってきます。 教会での聖書の読み方というのはこの信条を規範として読みます。
聖書の読み方は文学としてまたは芸術のモチーフとして、または研究資料として等色々あります。 
旧約聖書に限って言えば、ユダヤ教の人と研究を共にすることもできます。アメリカのユニオン神学校では
目の前のユダヤ教の学校から教師が来て講義をすることもありました。 しかし、教会で読む場合は
教会の読み方がありますから、同じ旧約聖書を読んでもユダヤ教とは違ってきます。 
教会は信仰告白に沿った読み方をします、信条は私たちが聖書を読むときの土台です。

マルコによる福音書16章19節は使徒信条の言葉と全く重なっています。 
使徒信条は聖書全体を見て、その中からエッセンスを述べているので、言葉が聖書とピッタリ重なるという事はあまりありません。
先週、ある方から、説教のテキストは一個所なのに、説教の中では聖書のあちこちの箇所が引用されるので戸惑ってしまう、
というご質問を受けましたが、使徒信条の場合は聖書の述べる所のエッセンス的なものなので、特にそうなってしまいます。

マルコ16:19では「イエスが天に昇った」ことと「神の右に座したもうた」ことが完結した過去形で述べられていますが、
信条では「天に昇り」は完全な過去形ですが、「右に座したまえり」は文法的にみると、今なお、現在もずっと続いている
というニュアンスをもつ現在分詞形で述べられています。 マルコ伝だけを読むと、イエスの今がはっきりしないということが出てきますが、
マルコ伝全体、聖書全体を読むと、信条の「今もなお」という現在分詞形の意味が分かってきます。
マタイによる福音書にはイエスが「世の終わりまであなたたちと共にいる」と語られていますし、「ヘブライの信徒への手紙」には
「イエスは昨日も今日も永遠に変わることがない」と書かれていて、使徒信条の信仰と合致してきます。
教会で聖書を学ぶときは聖句とともに全体を見ていきます。 その全体像を指し示すのが使徒信条です。 
今もなお、イエスは神の右に座しておられる、教会はそう信じてそれを語り続けてきました。

「天に上げられる」とは何を現わしているのでしょうか。
それは、新しい時代が始まったという、新しい時を告げているのです。
5月の礼拝で「使徒言行録」を取り上げた時に、ここには特徴的な歴史観があるとお話しました。
同じルカによって書かれた「ルカによる福音書」と「使徒言行録」を続けて読むと一直線の歴史観があります。(コンツェルマン)
歴史を三区分して(聖書歴史観)真ん中にイエスの時、その前をイスラエルの時または旧約の時、その後を教会・聖霊の時と分けるものです。 
イエスが天に上げられて、一つの時代が終わり新しい時が始まったということを言い表しています。

「使徒言行録」1章8節 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
「マルコによる福音書」16章19節 主イエスは弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座につかれた。
「ヨハネによる福音書」14章~16章の「決別説教」
イエスは去って弁護者、仲介者としての聖霊が遣わされ、イエスの証人として思い起こさせるとあります。 
使徒信条はマルコ伝、マタイ伝などの様々な証しを凝縮して伝え、その時を、今、わたしたちは生きていることを思い起こさせるのです。

「神の右に座す」とはどのような意味でしょう。
「右」は聖書では「右の手による御業」など、象徴的に使われています。
「右」は場所と言うより神の権威、救いが表されていて、全権を与えられた者を意味します。 神と同質である方、同じ本質の方を表します。
右に座り続けておられる、と現在形で語られることは、人間となり痛み苦しみを受けて死んだ方が天に昇り、そこで終わりでなく、
今なお私たちを執り成し、慰め続けておられることを現わしています。
カトリックもプロテスタントもすべてのキリスト教が共に根底に持っている「ニカイヤ信条」では「主は我ら人間のため、
我らの救いのために天に昇り、父の右に座しておられる」と宣べています。
「ローマの信徒への手紙」8章34節には「キリスト・イエスが神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです」とあります。
ニカイヤ信条、ローマの手紙で鮮明に分かっている救いに与りながら、喜びを忘れ、的外れに生きてしまう私たち、肉の弱さの私たちは
イエスの苦しみを理解せずに眠る弟子たち、イエスを見放して逃げ去った弟子たちに通じています。

どうにもならない悲しさ、切なさ、的外れな生き方をせざるを得ない私たちの弱さを知っておられ、今、天上にあって執り成し続けていて下さるイエス。

私たちの救いのために神の右に座しておられるという使徒信条の信仰に関して「ハイデルベルクの信仰問答」のなかにある
「問 49」キリストの召天は私たちにとってどういう利益があるのですか? は答えています。
①主が天において神の御前で執り成しをしてくださること
②私たちと同じ肉体をもって復活されたイエスを思い、その体なる教会に連なる者として天に向かって立ち上げられていること
③主に与えられた聖霊の力で上にあるものを求め、地上のものを求めないように確証を与えられ、今なおイエスを礼拝できること という利益がある。

今週も下を向いたり横を見たりすることもあると思いますが、どうか上を向いて一歩一歩、進んで行く事ができますように。
                                  (以上、文責はゆうゆうにあります。 今週の要約は特に自信なし、です。 m(_ _)m )



<彼岸花>が公園のあちこちに群れて咲いています。


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「三日目の朝」

2014-09-15 09:48:38 | 説教 使徒信条
9月14日(日) 礼拝説教は
テキストは「詩編」16篇7節~11節 「マルコによる福音書」16章1節~8節
タイトルは「三日目の朝」でした。

使徒信条は、キリスト教会が歴史を通して何を信じてきたのかを明らかにしているものですが、
今日はその中で「要」ともいえる言葉「三日目に死人のうちよりよみがえり」を見てゆきましょう。

イエスのよみがえり、復活とはイースターの出来事です。 今の時期にイースターのこととは
少々外れているように思われるかもしれませんが、イースターの出来事(イエスのよみがえり)を
毎週日曜日に思いおこし喜び、語られるのが、実は教会の礼拝なのです。
聖書を読み、讃美歌を歌い、祈り、説きあかしを通して復活のイエスに出会うのが2000年の間教会が
守ってきた礼拝です。 日曜日、イエスの復活した日に集まるのはよみがえりの確認のためでした。 
聖書の時代、日曜は休みの日ではなく、週の初めの日でした。 今の感覚でいうと月曜日でしょうか。
復活のイエスに出会った嬉しい日曜日の早朝あるいは夕べに集まって喜び祝った、これが礼拝の始まりでした。
使徒言行録に礼拝の最中に居眠りをした若者が下に落ちた、という話がありますが、一日の労働に疲れた
若者が居眠りをした、夕べに礼拝が守られていたことが分かります。
日曜日が休みになったのはAC4世紀、ローマ帝国においてキリスト教が公認された時です。

さて、イースターに何があったのか、朝日の中にどんな喜びがあったのか。
安息日(土)が終わると、イエスの体に香油を塗りその葬りを完全なものとするため、婦人たちは
朝早くにイエスを葬った墓に駆けつけました。 ところが、待ち望んでいた日曜日の朝、イエスの墓は空でした。 
婦人たちは震え上がり正気を失い、また言葉を失うほど圧倒されました。 
恐ろしくて逃げ帰り誰にも言わなかったとマルコは伝えています。
そして「マルコによる福音書」は突然ここで閉じられています。
新共同訳の「マルコによる福音書」に記されている9節~20節の部分は信頼できる有力な写本には含まれていません。

ピラトが百人隊長に確認させ、弟子たちが十字架から降ろし、婦人たちが、自分たちが布で巻いたイエス。 
マグダラのマリアがしっかりと凝視した動かしがたいイエスの死。 死の現実がそこにあるはずでした。 
嘆くためにそこにあるはずの嘆きがなくなりました。 涙を流すこともできませんでした。

絶対的な死、誰にでも訪れる確かなもの、死は絶対で究極的なもので、それゆえそれは容易に私たちのなかで
絶対視され神格化されやすいものでした。 
その墓が空虚でうつろのままに残されていた。 真の神は命の神であることを示すために、死は神になり得ず、
神に飲み込まれたのです・・・・これがイースターの出来事です。
神の業は人間を圧倒します。
婦人たちは圧倒され、神の働きに震えました。 これは畏怖の念の現れです。
ボンヘッファーは「復活の奇跡は我々の間で支配的な死の偶像化を無力にする」と死に打ち勝つことを高らかに宣べました。
死に勝つこと、その一点を教会の礼拝は宣べ伝えてきたのです。
真実で根本的な「要」がイースターの出来事です。
死を滅ぼしたイエスキリスト、神に似せて造られた私たちを本来の人間の姿に解き放す、それがイースターの出来事なのです。

私が最初に伝道師として使わされた横浜指路教会で、一週間に三人の方が亡くなられたことがありました。 
教会が丸ごと死に包まれたような中で、私は本当に復活の主がおられる思いに打たれ続けました。 
朝日の中で復活された命に触れ、圧倒され続けました。 
この衝撃の中でむなしい言葉は失われ新しい命の言葉が生まれ出る、一週間のこの思いが私の牧者としての原点でした。

イースターの讃美歌「Lord of dance」(讃美歌21の290番)は踊りの輪の先頭で踊られるイエスを歌っています。
踊るイエス、喜びの先頭に居られるイエス、足の不自由な人が歩けるようになり、目の不自由な人が見えるようになり、
耳が不自由な人が聞こえるようになり、讃美を忘れた人、嫌われ者、諦めの人に喜びを与えられたイエス。
歌い、笑い、躍り上がるような讃美を歌うイエスは確かに Lord of dance だったことが分かります。

「本日の交読文」は詩編30篇からでしたが、
あなたは私の嘆きを踊りに変え 粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました、と読みました。
あなたはひっくり返された、私の嘆きはひっくり返された。 
ここには御子イエスの十字架と言う膨大なエネルギーが使われ、戦いがありました。
「死んだら終わり」の思いをひっくり返し、ほどき、脱がせて命を着せ掛けてくださったイエスから
新しい希望の証しをいただいて、今週一週間を過ごしましょう。    (以上、文責はゆうゆうにあります。)


復活されたイエス、踊りの先頭に立って喜びを一杯に表されるイエス。
死に打ち勝って私たちを導いてくださるイエス。
多くの人々にこの喜びを伝えたいものです。
悩む人、苦しむ人、空しい人、つまり私のような人々にどのようにしたらこの喜び、福音が伝わるのでしょう。
救われている私の平安はどのようにしたら他の人に伝わるのでしょう・・・・・
今週も神様に導かれて一日一日を歩みたいと思います。


公園に咲いていた白萩です。


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HP委員のHさんが、今ホームページの手直しをなさっています。
多くの方がアクセスしてくださるようなHP、Hさん頑張ってください!
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