ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

イースター献金

2018-03-29 11:15:03 | その他
・創世記28章 22節
わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの
十分の一をささげます。」

・レビ記/ 27章 30節
土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。
それは聖なるもので主に属す。

・マタイによる福音書/ 23章 23節
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の
十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。
これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。


今、私は「イースター献金」の袋を前に、サテいくらしようかな~と思案中です。

二十代後半からの数十年にわたる「放蕩息子」状態から教会に戻った頃、私の月約献金は
「献金に思う事」に書いたようにとても少ないものでした。
姉のアドバイスもあって、聖書に書かれている収穫の十分の一を神への献げ物とするという
言葉を参考に、その後は、夫(ノンクリスチャン)と私の収入の十分の一を月約献金に、
それに加えてリフォームのための準備としての月約会堂献金、毎週の礼拝献金、それと
クリスマス献金やイースター献金、永眠者祈念礼拝の献金等をささげてきました。

二年前に夫が亡くなり収入が私の年金だけになりましたが、深く考えることなく、ずっとその金額の
ままでした。昨年暮れ、毎月数万円の献金は私の生活を圧迫していること、(献金)エンゲル係数が
とても高くなっていることにフト、気付きました。
相談したい信仰の先輩である姉はすでに亡く、教会の会計長老にご相談したところ「本当に!どうぞ
ご無理のないように!」と仰っていただき、月約と会堂献金を減額させていただきました。
それでも礼拝献金を入れると一か月、少ない年金のかなりの割合になります。

夫の存命中には家計の収入、支出を気にすることなく過ごし、気にならなかった「献金」の額を、
今は真剣に考えてしまいます。
限られた収入でも、できるだけ多く献金したいと考える私にできることは支出を抑えることです。
最近は買い物や外食、趣味に使うお金を考えて使うようになりました。
献金のために節約です。

節約生活4か月・・・・・新しい発見がありました。
思いがけず、不思議な事に(では無いのかもしれませんが)神にお献げする献金を中心に据えて
生活を見直し無駄を省くという生活は、新鮮で清々しく、真剣で気分の良いものだと分かりました。
趣味のための支出はなかなか抑えがたいのですが、不要な物を所有したり、着飾ったりする欲望が
かなり無くなりました。
これは多分に高齢のせいで欲望が枯れて来ただけかもしれませんが、せいぜい倹約して少しでも
多く神様への献げ物にしたい、と考えるようになりました。
と、書くと何となく清廉潔白な人格が浮かぶ(ハズはないか~)かもしれませんが、単にこれまでの
野放図、自堕落な生活態度を少し改めようか、というだけのゆうゆうです。 (^-^)

ところで、本当に「イースター献金」・・・・・・いくらにしようかな~



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「こちら側の幅は六アンマ・・・・・・」

2018-03-21 13:05:10 | 今日の聖句
旧約聖書、今は「エゼキエル書」を読んでいます。
長ったらしく思えるエゼキエル書(<(_ _)>)も何度目かの通読となると意外と読みやすく感じます。
40章から42章は預言者エゼキエルが神の幻によって見せられた「新しい神殿の幻」の記述です。 
今日の聖句は41章1節~12節です。 

41:01彼はわたしを拝殿に連れて行った。まず、脇柱を測ると、こちら側の幅は六アンマ * 
あちら側の幅も六アンマであった。これが脇柱の幅である。 41:02入り口の幅は十アンマ、
入り口の両側の壁の幅はこちら側が五アンマ、あちら側も五アンマであった。
拝殿の奥行きを測ると四十アンマ、その横幅は二十アンマであった。 41:03内部に入って、次の
入り口の脇柱の厚さを測ると二アンマ、その入り口自体の幅は六アンマ、入り口の両側の壁の幅は
それぞれ七アンマであった。 41:04更に、拝殿の奥の面まで奥行きを測ると二十アンマ、その横幅も
二十アンマであった。そして彼はわたしに、「ここが至聖所である」と言った。
41:05彼が神殿の壁の厚さを測ると六アンマ、脇間の幅は四アンマで、神殿の周囲を囲んでいた。
41:06脇間の上には脇間があって、三階建になっていた。各階に三十の脇間があった。
神殿の壁には、周囲に突き出た所があって、脇間の支えになっていた。神殿の壁には、支えが
差し込まれていないからである。 41:07回廊となっている神殿の脇間は上にいくほど広くなっており、
神殿は各階ごとに回廊がついている。しかも、階が上がるごとに広くなっている。
地階から最上階へは中間の階を経て上っていく。 41:08次にわたしは、神殿の周囲が一段と高く
舗装されているのを見た。それは脇間の土台で、その高さはちょうど一竿、または六アンマであった。
41:09脇間の外側の壁の厚さは五アンマであった。そして、空き地が神殿の脇間と、 41:10神殿を
取りまく周囲の部屋との間にあり、その横幅は二十アンマであった。 41:11脇間の入り口については、
一つが北へ、他の一つが南へ向いており、その間に空き地があった。この空き地は周囲にあって、
その幅は五アンマであった。 41:12神殿の西側にある神域に面した別殿は奥行き七十アンマ、
建物の周囲の壁は厚さ五アンマ、建物の横幅は九十アンマであった。


凄いですよね~、こういう記述を読むとワクワクして模型を作りたくなるのは私だけでしょうか・・・
・・・・冗談です、想像力も理解力も気力も無い私にはとても無理です。
でもワクワクはします、幻の神殿、どんな神殿だったのでしょうね~
ネットで探すと同じ思い(?)の方が結構いらっしゃるようで、下↓のサイトも見つけました。
興味がおありでしたらどうぞご覧ください。
 新しいエルサレム神殿(!)門と外庭と内庭
 新しいエルサレム神殿(2)本堂ー牧師の書斎 
 新しいエルサレム神殿(3)祭司たちの部屋

* 「アンマ」は新共同訳聖書の後ろの註によるとひじから中指の先までの長さで、約45㎝ですが、
  エゼキエル書に限り52.5㎝だそうです。
  「エゼキエル書」43章13節に“普通のアンマに1トファ(指4本の幅、約7.5㎝)を加えたもの”
  と書いてありました。


聖書の「新しい神殿の幻」の記事のページ、ちょっとクラクラします。(笑)

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イースター礼拝お知らせ(再)

2018-03-19 14:43:54 | 美竹教会
綺麗な「イスター礼拝」のチラシができました。 
しつこく<お知らせ、再び>です。<(_ _)>


子供達が喜ぶ「卵探し」はアッという間に終わってしまいます。
「卵探し」だけ参加というのはどうも無理そう・・・・・・
遅れないように、どうぞ礼拝からご参加くださね。

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「詩編」137編

2018-03-16 19:04:25 | 今日の聖句
今日の聖句は「詩編」の中で一番好きな「詩編」137編です。
1節から4節までが特に心惹かれます。

1 バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた。
2 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
3 わたしたちを捕囚にした民が 歌をうたえと言うから
わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。
4 どうして歌うことができようか 主のための歌を、異教の地で。


バビロンの流れとは「エゼキエル書」によるとケバル川らしいです。
その川はチグリス・ユーフラテス川の支流のようですが、一体どんな流れのほとりで、
捕囚の民は涙を流したのでしょう。
捕囚の民が竪琴を掛けたという川のほとりの柳の木々はどんなだったのでしょう。
勝手に豊かな川と瑞々しい柳を想像しているのですが、ネットで画像を検索しても
砂漠の国の川は私のイメージから程遠いものしか出てきません。

↓5節以下です。

5 エルサレムよ もしも、わたしがあなたを忘れるなら
わたしの右手はなえるがよい。
6 わたしの舌は上顎にはり付くがよい。
もしも、あなたを思わぬときがあるなら
もしも、エルサレムをわたしの最大の喜びとしないなら。
7 主よ、覚えていてください 
エドムの子らを エルサレムのあの日を 彼らがこう言ったのを
「裸にせよ、裸にせよ、この都の基(もとい)まで。」
8 娘バビロンよ、破壊者よ
いかに幸いなことか お前がわたしたちにした仕打ちを お前に仕返す者
9 お前の幼子を捕らえて岩にたたきつける者は。

ここでは「主のために歌う賛美の歌を、礼拝賛美のために用いる竪琴を、異教の民を
喜ばせるために用いるくらいなら、竪琴を弾く右の手が萎え、舌は上顎にくっついて
用いられなくなる方がまだよい、と詩人は歌っている。」そうです。
9節の「幼子を岩にたたきつける」という表現は激しすぎる!とギョッとしますが
この部分は「復讐は神にお任せする」という気持ちの表れだ、と何処かに書いて
ありました。 (うろ覚えです、すみません。)

毎日、聖書を読むとき「詩編」を一編ずつ読むようにしているのですが、想像力乏しく
詩が苦手な私は、詩編は神様への賛美、感謝、願いなのかな~程度の理解しかありません。
その中でこの悲しみの歌は優しくて分かりやすいです。


二年前に亡くなった夫と野鳥を探しながら歩いた公園脇の川です。
ケバル河畔はこんなだったのかな~と勝手に想像しています。(^-^)

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<イースター礼拝>のお知らせ

2018-03-14 19:47:45 | 美竹教会


礼拝も祝会もどなたでも参加大歓迎!!です。
教会の扉はいつもどなたにも開かれています。
そしてキリストはいつもあなたを見つめて待っておられます! (と、信じています!)

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「ノアの箱舟」

2018-03-08 10:57:41 | 今日の聖句
「ペトロの手紙一」を読んでいます。今日の聖句は3章19節~21節です。
そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。
この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。
この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。
洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。


「聖書事典」の「ペトロの手紙一」の項から抜き書き、分かりやすい解説でした *****************
① 著者:この書が使徒ペトロによるものであるという可能性は、ほとんどない。
     おそらくペトロの生前に、何らかの形で彼と関連した集団から生まれた著作であろう。
② 年代:「いろいろな試練(Ⅰペト1:6)」「あなたがたを試みるために身にふりかかる日のような
      試練(Ⅰペト4:12)」「キリストの苦しみにあずかれば・・・・・(Ⅰペト4:13)」
     「キリスト者として苦しみを受ける(Ⅰペト4:16)」というように、読者たちが迫害に出会って
     いることを暗示しているので、BC90年の迫害が行われたころに書かれたものと思われる。
③ パウロとの関係:本書はパウロの思想が歪んで伝えられる可能性のあった時代に、もう一度ペトロの
     名を用いてそれを回復させようとの目的があったのではないか、と考えられる。
④ 内容:すべての信仰者の祭司性が主張されている。さらに、周囲の人々から迫害を受けている
     信仰者たちを励まし、信仰に堅く立つように勧めている。
         *******************************************

今日の聖句とは関係ありませんが、友人が漏らした「ノアの箱舟」の一言で思う事です。
何からそんな話になったのか、先日、友人が大憤慨で怒りました。「鳥や野の獣は子孫を残すという行為を
立派に(?!)果たして慎ましく生きている。それに比べて何という人間の横暴さよ!」というのです。
必要以上に発明、発見、開発を進め欲望のままに無用なものを作り続け、飽くことを知らない人間はエネルギーを
原子力発電に頼り、プルトニウムの半減期は2万4千年だとわかっているのに使用を止めない!!! というのです。
私も全面的に大賛成! ホント! 本当に! 今の私たちの生活を10%でも不自由にして無駄なエネルギー消費を
止めるという政治家、政党がいたら! とすっかり意気投合しました。
そしてノンクリスチャンの彼女は「神様がもう一度ノアの箱舟を作らせて地上のすべてを大水で覆いつくし
真っ新な地球にしてほしい!」と言うのです。
エッ? アッ、ウーム、神様は「二度と人に対して大地を呪うことはしない。生き物をことごとく打つことは、
二度としない」って約束なさったのだけれど・・・・・・・・・
実を言うと私は毎日の祈りの中で「どうぞ神様、私共愚かな人間を罰しないでください!滅ぼさないでください!
神様は二度とノアの箱舟はしないと約束なさいましたよね」と、祈っています。
人間の欲望(探求心)は行くところまで行って、いつか地球の自然パランスの臨界点を超えて地球は破壊される、
滅びるという感覚はもはや幻想ではなく実感として迫ってきます。それでも私は再度の「ノアの箱舟」は
恐ろしく、御心ならば避けてくださるようにと祈り、そして祈るばかりで何も行動しない自分を反省します。
すぐ背後に迫っているかもしれない脅威を感じないかのように、衣食足りている現状の中、ぬるま湯に浸かって
行動しない自分を反省するばかりです。

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遠くに見えた<カケス> ヒヨドリ位の大きさです。
羽の色はなかなか美しいのですがカラスの同類なので鳴き声はイマイチです。
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「ヤコブの手紙」の中見出し

2018-03-03 12:42:45 | 聖書
新約聖書「ヤコブの手紙」読み終わりました。
私の、聖書を読むための唯一の参考文献「聖書事典」によると
『新約聖書に登場するヤコブは少なくとも5人いるが、本書の著者と関係があるとされるのは、
主イエスの兄弟ヤコブである。しかし、本書のような文学的に優れた文書が、この人の筆になるとは
到底考えられないので、彼の名を借りて執筆された無名のユダヤ人キリスト者の作と考えられる。
本書はパウロの信仰義認とのかかわりにおいて低く評価されてきたが、最近の理解によれば、
本書の信仰理解はパウロのものと矛盾するのではなく、その誤解された理解に対してこれを訂正する
ものとして書かれたと言われる。』だ、そうです。

「ヤコブの手紙」は、行い正しくない、なかなか信仰に叶った生活ができていない私にとって、
とても参考になる文書でした。これが完璧にできる聖人君子はそうそういらっしゃらないとは
思いますが、毎日の生活の中で、心がけたいな~、気を付けような~という規範となるような
ことが書かれているように思いました。ここに書かれているように(主のみ心によって)私たちが
生きてゆけば、戦争や虐待、迫害、差別、貧困などが無くなるのではないか、と私は信じて
希望しているのですが・・・・・・・

「ヤコブの手紙」は短い文書なので、読み終わってからパラパラと拾い読みしてみると、
中見出しが具体的で親しみやすいことに気づきました。

「ヤコブの手紙」中見出し

『信仰と知恵』
『貧しいものと富んでいる者』
『試練と誘惑」
『神の言葉を聞いて実践する』
『人を分け隔てしてはならない』
『行いを欠く信仰は死んだもの』
  2:24 人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
『舌を制御する』
  3:8 舌を制御できる人は一人もいません。
  3:9 私たちは舌で父である主を賛美し、また舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。
『上からの知恵』
『神に服従しなさい』
  4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがおこるのですか。
     あなたがた自身の内部で争い合う欲望がその原因ではありませんか。
『兄弟を裁くな』
『誇り高ぶるな』
『富んでいる人たちに対して』
  4:15 「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
『忍耐と祈り』

聖書の文書の中見出し、これまであまり気にかけたことはありません。
他の旧約、新約聖書の文書の中見出しはどんなでしたっけ?記憶にありません。
聖書文書の中見出しはどなたがどんなふうに付けているものなのでしょう?

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春ですね~、梅の花の蜜を吸いに来た<ヒヨドリ>です。
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