ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

今日の聖句も難しい

2020-07-02 12:49:31 | 分からなかった今日の聖句
「ヘブライ人への手紙」 12章18節~29節

あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々が
これ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。
彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなか
ったのです。 また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」
と言ったほどです。 しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の
天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものと
された正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む
者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそう
ではありませんか。 あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。
「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」 この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続
するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。
このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。
感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。
実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。


「ヘブライ人への手紙」読み終わりました。
今日の箇所、言葉も文章もですが、言葉の背景が分からず、本当に難しいです。 
ワ~イ、どなたか解説してくださりませ~!
私の参考図書「新共同訳 聖書事典」(2004年)からの解説を抜書いたします。
なんとなく全体像は掴める・・・・・ような気はしますが、一つ一つの聖句が難しい。
ま、いいかぁ、 サ~テ、次に進みま~す!



   コロナの影響なのでしょうか、ステイホームが快適になった、
   というより出かけることが億劫になりました。 
   暑さの所為もあって、公園への散歩もサボリ気味です。
   今年は公園のカルガモファミリーにも会えませんでした。


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ヘブライ人への手紙 「聖書事典」川村輝典氏の解説
著者:
後3世紀以来、ギリシャ、シリア地方の教会でパウロ説と主張されてきた。
西方教会では後4世紀以降、これが認められ中世全般にこの説が一般的。
しかし、宗教改革時代からエラスムス、ルターなどこれに異議を唱える人が出た。
(アボロ説、バルナバ説、プリスキラ説など) かくして特定の人物を挙げることは不可能。
後1世紀の80年代に活躍していたヘレニスト・ユダヤ人であって、アレクサンドリア思想に
通じており、ローマの家の教会に所属していたと予想される人物と断定できるであろう。
構成:
古くから手紙と呼ばれながら、最初の挨拶の言葉がない、終わりの挨拶の言葉が2度繰り
返されているように見えることなどから、神学的論文とする意見もあるが、最近では、教えと
勧告とが交互に繰り返されている文章構成から勧告の書ないし説教とする見方が有力。
執筆場所と宛先:
かつて有力であった対エルサレム教会ないしパレスチナ説は、本書の内容がエルサレム神殿
についての知識に欠けているところから、不可能。
有力なのはローマ説で、ヘブ 13:24 の句から執筆場所とも宛先とも取れる。
宛先と考える方がより自然で、その場合執筆場所はエフェソ辺りと考えることがふさわしいだろう。
キリスト論
古くから大祭司キリスト論について記された文書と見られ、重点が置かれていたが、全体として、
神の子キリスト論と大祭司キリスト論の両者が主張されているというべき。
救済論
キリスト論と密接に結びついている。基礎をなすのは、大祭司としての業。
キリストが新約の大祭司として一度限りの天の至聖所に入り、自身を犠牲として捧げたことにより、
人々の罪が清められ、永遠の救いが完成したのである。(ヘブ 7:27, 9:12, 14, 26, 10:12)
終末論
宛先の教会の信者たちが信仰の危機に陥っているのを励ますために、終末の救いの到来を強調する。
著者にとって現在は「この終わりの時代」であり(ヘブ 1:2)「来るべき世界」(ヘブ 2:5)の先取りである。
本書の終末論は、一方では将来における神の行為、すなわちイエス・キリストの再臨を指し示すとともに、
他方では現在を指し示している。
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美竹教会では今週の日曜日(7月5日)の礼拝まで、礼拝のネット配信をするそうです。
コロナ禍の最中ですが、皆さまお気をつけて、ぜひ礼拝におでかけください!
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今日の聖句は「ヘブライ人への手紙」から・・・・

2020-06-21 17:30:47 | 分からなかった今日の聖句
今日も教会で礼拝を守ることができました。
「ルカによる福音書」5章17節~26節をテキストにして「驚くべきこと」というタイトルで
左近深恵子牧師によるみ言葉の説き明かしがなされました。
先の読めないコロナ禍の状況のもとでの生活は、無意識のうちに私達にかなりなストレスを
与えていると思われます。
深恵子牧師を通してイエス様のみ言葉を聴く時、本当に大きな安らぎを与えられます。
神様の御国の民として歩む平安を与えられていることを感謝します。

美竹教会の礼拝はHPからYouTube で参加することができます。
説教原稿も載っています、ぜひお読みください。


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さて、今日のブログのカテゴリは「分からなかった今日の聖句」です。
パウロとい大使徒は多くの書簡を書きましたが、難しすぎる! 箇所がたくさんあります。
今読んでいる「ヘブライ人への手紙」も私には難しくて、何を言っているのかわからない所が
たくさんあります。
私の聖書に(はてなマーク)が一番多くついているのが「ヘブライ人への手紙」、
二番目が「ローマの信徒への手紙」です。
パウロの手紙に比べると福音書は本当に読みやすいです。
特に「ヨハネによる福音書」は心に響きます。
今日の箇所も言葉も難しいし、言わんとしていることがほとんど理解できません。 
私が理解力に欠けるということはさておいて、毎日のように聖書を読み、毎週のように礼拝に
参加している私でも読み辛いのですからクリスチャンでない私の友人がウーム😠💢となるのも
「宜なるかな」ですね~


「ヘブライ人への手紙」 4章1節~16節
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者が
あなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。 というのは、わたしたちにも彼ら同様に
福音が告げ知らされているからです。 けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。
その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。 「わたしは怒って誓ったように、
『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』」と言われたとおりです。
もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。  なぜなら、ある個所で
七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われて
います。 そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を
告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、神はある日を
「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を
聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。 もしヨシュアが
彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。
それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。  なぜなら、神の安息にあずかった者は、
神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、
同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。 というのは、神の言葉は生きており、
力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、
心の思いや考えを見分けることができるからです。
更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、
さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている
のですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点に
おいて、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、
時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

   
     何となく息苦しい日々、美しすぎる紫陽花
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「たとえを用いて話す理由」

2019-11-10 22:53:50 | 分からなかった今日の聖句
今日はカテゴリ「分からなかった今日の聖句」です。
「ルカによる福音書」8章9節~10節 「たとえを用いて話す理由」 
(マタ13:10-17、マコ4:10-12)

08:09弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。 08:10イエスは言われた。
「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを
用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ように
なるためである。」


何故、他の人々(つまり私も)には神の国の秘密を悟ることが許されていない
のでしょうね? この聖句には「たとえを用いて話す理由」という中見出しが
ついていて、さらに(マタ13:10-17、マコ4:10-12)と注がついています。
これはマタイ伝、マルコ伝にも同じ記事がありますよ、という意味です。

これまで他の福音書と比べて読むということはしなかったのですが、なんでかなぁ~
という思いが強くて、今回は読み比べてみました。マタイ伝もマルコ伝も同じような
記事、イエス様の弟子たちと他の人々とは区別されていました。 
これは一体どういうことなのかなぁ~
聖書って分からない部分が本当にたくさんあって飽きることがありません。
(ハイ、負け惜しみデス(^_^;))

英国大好き仲間のクラスで、先日↓のような文章を読みました。
There is a BBC radio programme called “Desert Island Discs” during which
famous people choose some music they would take with them if they were to
stuck on a remote island. They also choose one book they would take,
given that they automatically get to take Shakespeare and the Bible with them,
as these are assumed to be essential. The Bible is fading in influence, but
the works of Shakespeare remain very much alive.
えーっ?そんな~ いくら影響力が下がっても、やはり無人島には聖書ですよね~。(^^)


<参照>
「マタイによる福音書」13章10節~17節 たとえを用いて話す理由
13:10弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しに
なるのですか」と言った。 13:11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の
秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
13:12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているもの
までも取り上げられる。 13:13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。
見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。 13:14イザヤの預言は、彼ら
によって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、
決して認めない。 13:15この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
13:16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。
あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 13:17はっきり言っておく。多くの預言者や
正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、
あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」


「マルコによる福音書」4章10節~12節 たとえを用いて話す理由
04:10イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとが
たとえについて尋ねた。 04:11そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の
秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
04:12それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」

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秋の野原の<キタテハ>です。
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「支配者への従順」 その2

2018-12-13 11:48:22 | 分からなかった今日の聖句
新約聖書は今「ローマの信徒への手紙」を読んでいます。「ロマ書」は私にとっては難しいところが多いです。
今日の「分からない聖句」は「ローマの信徒への手紙」13章1節~7節です。


<支配者への従順>
13:01人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって
立てられたものだからです。13:02従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は
自分の身に裁きを招くでしょう。 13:03実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には
恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、
権威者からほめられるでしょう。 13:04権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。
しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、
神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 13:05だから、怒りを逃れるためだけでなく、
良心のためにも、これに従うべきです。 13:06あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に
仕える者であり、そのことに励んでいるのです。 13:07すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。
貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。


読んですぐの感想は、えっ、そうなの? 上に立つ権威には従うべき、ってそうなの?デシタ。
昨夜偶々、以前ビデオに撮っていた「クォ ヴァディス」(1951年・アメリカ)という映画を見ました。
皇帝ネロが自分が思い描く新都市実現のためローマを焼き尽くし、その罪を信者の増えてきているクリスチャンに
押し付けるのですが、その映画にはパウロとペトロが出てきました。
皇帝ネロの在位期間は紀元54年から68年です。
パウロが「ローマの信徒への手紙」を書いたのは ↓ のように言われています。


『書簡中には執筆時期をうかがわせる記述はないが、おそらくパウロがエルサレム教会のための募金を行い、
「聖なるものたちに仕えるために」エルサレムを訪問しようとしていたころであると考えられる。
すなわち第二回ギリシア訪問のころで、58年初頭のローマ訪問の直前の冬であろう。』
(ウィキペディア解説より)
『つまり、この手紙が書かれたのは西暦55年か56年の春に彼が行った旅行の直前だった、ということになります』
(Bible tool box というサイトより)

パウロは皇帝ネロの行為を知っていてなお、このように考えていたのでしょうか、分かりません。

また、ウィキペディア解説には ↓ のような文章もあります。
『ローマ書』にはパウロ神学ともいうべきものが明白に打ち出されており、初期キリスト教思想の根底をつくるもの
となった。マルティン・ルターは『ローマ書』を「新約聖書中もっとも重要な書簡であり、すべてのキリスト者
によって精読されるべきもの」と激賞している。
「ローマ書のあゆみ」という言葉があるが、それは『ローマ書』にあらわれる語句を追っていくことで人間個人の
救いの道が現れるというものである。たとえば
  •3:23 - 「すべてのものが罪を負い、神の栄光を失った」
  •6:23a - 「罪の結果は死である」
  •5:8 - 「しかし神はイエスをとおして永遠の命を与える」
  •10:9 - 「口でイエスを主であるといい、心で神がイエスを死から復活させたと信じるならあなたは救われる。」
  •10:13 - 「主の名を呼ぶものは誰でも救われる」

「ロマ書」でパウロの言わんとするところはユダヤ人、異邦人、すべての人への信仰の勧め、すべての人が神の救いに
与ることだと私にも分かります。
そして、私も救われるべき罪びとであると深く自覚し、救われている喜びを感謝しています。
実は、このブログの2012年11月26日に私は「支配者への従順」という同じタイトルで記事をアップしています。
その時の結論は『パウロが13章1節で支配者への従順を説いた、その支配者とは「メシア的・自己犠牲的な王」を
思い描いていたのだと思います。』で、私は納得したようです。 (忘却の彼方デス・・・・・(^^ゞ )
毎週礼拝に出席しているクリスチャンですが、私のハテナ?は相変わらず的外れ、進歩無しのようです。 <(_ _)>
そして言えることは、いつもの感想、聖書はホントウに何度読んでも難しいし、深いし、興味尽きず「孤島に一冊だけ
持っていけるとしたら」やはり聖書かな~ということです。


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こんな文章も見つけました。 ↓ 歴史は興味深いが難しい、パウロの考えを理解するのも難しいです。

パウロの、国家に対する態度は保守的であり、服従の倫理であるとされるが、終末的な様相を呈する当時の状況の中で、
国家が信仰生活の明瞭な敵対者として登場していないという現実において、限定的に、社会と国家の下での生活を
尊重していくことが勧められている。 Melma! メルマガスタンド[メルマ!]というサイトより

ネロ帝はローマ帝国による最初のキリスト教の迫害を行ったことでよく知られている。
64年、ネロ帝はローマ大火の原因をキリスト教徒の放火であると断定した。それまでキリスト教についてはほとんど
知られていなかったがこれで人々にその存在が知られるようになった。
ネロは捕らえたキリスト教徒を簡単な裁判で死刑に決め、猛獣の餌食にしたり、十字架にかけたり、松明代わりに
燃やしたりしたという。またこのとき、キリスト教の最高指導者として捕らえられたペテロも、逆さまに十字架に
かけられ殉教した。パウロもこのときローマで殉教したとされている。 (「世界史の窓」世界史用語解説というサイトより)
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最近すっかりご無沙汰の公園はきっと<秋色>ですね。
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「然り、然り」「否、否」って・・・・

2018-05-05 13:46:18 | 分からなかった今日の聖句
分からなかった今日の聖句は 「マタイによる福音書」5章33節~37節です。

05:33「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。
主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。 05:34しかし、わたしは
言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の
玉座である。 05:35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。
エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 05:36また、あなたの
頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
05:37あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、
悪い者から出るのである。」


「ヨハネ黙示録」を読み終わって新約聖書は何度目かの「マタイによる福音書」を読み始め、
5章まで読み進みました。
今日の聖句は、1月28日の主日礼拝説教「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」
というタイトルでその説き明かしをお聞きしました。
その時はプリントも読んでわかったつもりだった「然り、然り」「否、否」だったのに、
今日は、やはり、ン?と躓いてしまいました。
神様の名、天、神の玉座、などによって誓いを立てること・・・・・子供の頃よくやりました
「神様、仏様に誓ってそんなことはしないよ!」なんて風に。
神の聖名はそのようにはみだりに口にすべきではない、何故なら、神が私たちをお作りに
なったのであって、神を私たちの道具にするのは許されるものではない。
ゆえに(神の名によって誓うことなどもってのほか)私たちには「そうです、そうです」
「違います、違います」と言う事しかできない(はず)ということなのでしょう・・・・か。
何となく納得できるようで、堅くなった私の頭はなかなか理解してくれません。 (´Д⊂

お時間のある方、宜しかったらどうぞ20180203の記事をお読みください。

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「ヘブライ人への手紙」

2017-02-08 18:28:04 | 分からなかった今日の聖句
今日の記事は、カテゴリー「わからなかった、今日の聖句」で、その箇所は
「ヘブライ人への手紙」 7章11節~25節です。

ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば
ーというのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですからーいったいどうして、
アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。
祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。このように言われている方は、
だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に即しておられます。
というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、
祭司に関することを何一つ述べていないからです。このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が
立てられたことによって、ますます明らかです。
この祭司は肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。
なぜなら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。
その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。
-律法が何一つ完全なものにしなかったからですーしかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。
わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。
また、これは誓いによらないで行われたのではありません。
レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、この方は、誓いによって
祭司となられたのです。
神はこの方に対してこういわれました。「主はこう誓われ、その御心を変えられることはない。
『あなたこそ、永遠に祭司である。』」このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。
また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、
多くの人たちが祭司に任命されました。しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を
持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、
御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。


26節以下も私にはよくわからない記述が続きます。
今読んでいる新約聖書の「ヘブライ人への手紙」はとても難しいです。
この祭司制度についても書かれていることがよく理解できません、困ったことです。
“メルキゼデク”とは王であるとともに永遠の祭司としてキリストの型とされている(「聖書事典」)そうです。

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久しぶりに北風の緩んだ暖かい公園で<コゲラ雄>を見ました。
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「神の安息」にあずかる

2016-02-29 12:57:33 | 分からなかった今日の聖句
今日は「分からなかった今日の聖句」: 「ヘブライ人への手紙」4章1節~11節です。 
前の3章から読んでいくと、モーセを指導者としてエジプトから出たイスラエルの民は
不信仰のゆえに神の怒りに触れ、誰も神の安息にあずかれなかった。
あなた方はそうであってはならない、とパウロは言っているようですが、よく分からない
言葉や言い回しが結構たくさんあります。
美竹教会「冬の伝道礼拝」で話された大宮謙先生がお薦めくださったように、買ってから
殆ど開いていない私の英語版聖書も見てみました。 
英語版の方の聖句はさっぱりしていて(私には)さらに取っ掛かりが無いような・・・・(ノд-。)

だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者が
あなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に
福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。
その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。
「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』」と
言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と
言われているからです。そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせは
しない」と言われています。そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、
また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、
神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが
神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。
もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることは
なかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
なぜなら、神の安息にあすかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて
休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。
さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。


Holy bible 「HEBREWS」4 The Believer’s rest”
Therefore, let us fear if, while a promise remains of entering His rest, any one of you may
seem to have come short of it. For indeed we have had good news preached to us, just as they also;
but the word they heard did not profit them, because it was not united by faith in those who heard.
For we who have believed enter that rest, just as He has said, “As I swore in My wrath, They shall
not enter My rest,” although His works were finished from the foundation of the world.
For He has said somewhere concerning the seventh day: “And God rested on the seventh day from all
His works”; And again in this passage, “They shall not enter My rest.”
Therefore, since it remains for some to enter it, and those who formerly had good news preached to
them failed to enter because of disobedience.
He again fixes a certain day, “Today,” saying through David after so long a time just as has been
said before, “Today if you hear His voice, do not harden your hearts.”
For if Joshua had given them rest, He would not have spoken of another day after that.
So there remains a Sabbath rest for the people of God.
For the one who has entered His rest has himself also rested form his works, as God did from His.
Therefore let us be diligent to enter that rest, so that no one will fall, through following
the same example of disobedience.
ふ~、英語を打つだけでも大変です、打つだけでも少しは頭に、心に、沁みるかな~ (^^;)


<ジョウビタキ(♂)>日本には冬鳥として渡来します、三月にはシベリア方面に渡って行きます。
一緒に鳥見・鳥撮りをしていた連れ合いの病気が少々深刻になってきて最近は公園に出かけられません。
今日のジョビ男君も何年か前に撮った写真です。(T__T)

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「然り、然り」「否(いな)、否」

2015-12-19 17:22:05 | 分からなかった今日の聖句
新約聖書は今「コリントの信徒への手紙 二」を読み始めました。
新約聖書には、私には分からない箇所がたくさん、たくさんあります。
今日は分からなかった聖句を載せます。
「コリントの信徒への手紙」1章17節~20節です。
このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、
人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否(いな)、否」と
なるのでしょうか。神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、
「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、
わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、
「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが
実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。
それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。


実は最近、英語の聖書を買いました。
聖書を読んで理解できない個所、英語の聖書と比べて読むと少しは理解できるかな?と
思ったのですが、サテ?

↓ 今日の分からない聖句の英語版です。
The Second Letter of Paul to the CORINTHIANS 1:17~20

Therefore, I was not vacillating when I intended to do this, was I? Or what I
purpose, do I purpose according to the flesh, so that with me there will be
yes, yes, and no, no at the same time?
But as God is faithful, our word to you is not yes and no.
For the Son of God, Christ Jesus, who was preached among you by us ---by me and
Silvanus and Timothy ---was not yes and no, but is yes in Him.
For as many as are the promises of God,in Him they are yes; therefore also through
Him is our Amen to the glory of God through us.


・・・・・・??????????? (^^;)

浅はかな私(笑) ことはそれほど簡単ではありませんでした。
それほど難しい単語はないのに、日本語に比べてスッキリしているようにみえるのに
チンプンカンプンです。
読み慣れてくれば少しは分かるようななるのでしょうかね~? 心もとないことです。

試しに旧約聖書、今読んでいる「創世記」のアブラハムやイサクの物語を英語聖書で
読んでみました。 物語だし、日本語聖書を参照すればよいのですから、新約聖書に
比べてずっと読みやすかったです。 少し安心・・・・
英語版聖書、時々でも少しずつでも覗いてみることにいたします、
楽しみデス・・・・・・ハイ、負け惜しみです。 (^^;)


幹に隠れている虫を真剣にほじくっている<コゲラ(♂)>です。
耳の辺りの赤い羽が(♂)の印です。

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明日はクリスマス礼拝です。
これまで教会に入ったことが無いという方も、明日はチャンス!です。
どうぞ教会の扉を押して入ってきてください。!
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親子兄弟を憎む?

2015-09-04 09:44:46 | 分からなかった今日の聖句
新約聖書は今「ルカによる福音書」 旧約聖書は「哀歌」を読んでいます。

「ルカによる福音書」14章25節~
大勢の群集が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、
更には自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。


聖書を読んでいると、私には分からない所、理解できない聖句がたくさんあります。
ブログに『分からなかった、今日の聖句』という新しいカテゴリを増やしました。
多分、山のように出てくることでしょう。 それはそれで、これからが楽しみ・・・・という気分です。

今日の箇所は同じような聖句が「マタイによる福音書」10章37節~38節にあります。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。


こちらの方が私には分かりやすいのですが、いずれにせよ厳しい御言葉です。
アブラハムが一人息子のイサクを焼き尽くす献げ物とせよ、と神に命じられたことを思います。
アブラハムは(記述を読む限りでは)神の御命令に淡々と従いました。
以前、教会のF姉と「願わくば試みにあわせることなく・・・・と祈るのみですね」と
話し合ったことを思い出します。
親子兄弟をも捨てるような、また自分の命をも投げ出さなくてはならないような試練に
出会っても、神を信じてすべてを委ねることができるでしょうか。
多分、そういう時こそ神様に依り頼まなくては生きてゆけない、ことでしょう。


雨の多い夏の終わりです。
私の住むところは被害は出ていませんが、突風、落雷、豪雨で被害を受けている方々、
特に私と同じような高齢の方々が被害に遭われているのを見ると、どんなにどんなに
大変なことか、と心が痛みます。

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