ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

説教「神のものは神に」

2022-01-27 13:39:50 | 説教
「神のものは神に」  「マルコによる福音書」12章13節~17節  2022年1月23日(左近深恵子)

 主イエスは、ご自分の命を狙うユダヤの民の指導者たちが待ち受けるエルサレムへと入られました。
その次の日から、神殿の指導者たちと主イエスの間に対立が起こっていきます。主イエスは、神殿の
庭で売り買いをしていた人々を追い出し、かつて神さまが告げられたように、すべての民の祈りの家
として礼拝の場を回復するように、礼拝を神さまのみ心に適うものへと回復するように求められまし
た。けれどこの出来事を知った神殿の指導者たちは、主イエスを殺す策を練り始めます。策は練るけ
れど、実際に手は出せずにいました。主イエスの教えに群衆が皆心打たれていたからです。
人々に強い影響力を持つ主イエスを恐れ、群衆の反応を恐れたからでした。

そこで指導者たちは、主イエスの権威に疑問を呈することで、主イエスの信用を失墜させることを狙
います。先ず、「何の権威で、このようなことをしているのか。誰が、そうする権威を与えたのか」
と、神殿の庭から商売していた人たちを追い出しことについて詰め寄ります。神殿で何をして良いの
か、してはならないのか、定める権威を持つのは、主イエスではなく彼らであることを、主イエスに
対しても、周りの群衆に対しても、明らかにしようとします。

ところが逆に主イエスから、洗礼者ヨハネの働きは神から来たのか、それとも人から来たのかと問わ
れ、彼らは困り果てます。ヨハネが宣べ伝えていたことを受け入れなかった彼らは、もし神から来た
と答えれば、ではなぜヨハネの言葉を受け入れなかったのかと、人々の前で主イエスに矛盾を突かれ
てしまうでしょう。
もしヨハネが人から来たと答えれば、ヨハネを神さまから遣わされた預言者と信頼し、罪の赦しを得
させるための悔い改めの洗礼を進んでヨハネから受けた人々から猛反発を受けるでしょう。どちらで
答えても権威ある者として今得ている立場を失ってしまうことになる指導者たちは、「分からない」
と言って答えることから逃げました。主イエスに権威が無いことを明らかにしようとしたら、神さま
からの権威に聞き従うことを真剣に求めて来なかった、彼らのあやふやな姿勢が明らかになってしま
いました。彼らが恐れていたのは、神さまの権威に従う道から離れてしまうことよりも、人々のここ
ろが自分たちから離れてしまうことだったのです。

 一旦引き下がった指導者たちは、反撃のために問いを用意します。祭司長、律法学者などから成る
指導者たちは、今度は自分たちで行くのではなく、人を送り込むことにします。ファリサイ派とヘロ
デ派という二つのグループから、数人の人を遣わします。ファリサイ派は、ユダヤの民の中でも特に
律法を厳格に守ることを特徴とします。ヘロデ派についてあまり知られていませんが、領主ヘロデの
宮廷に属し、世俗の政治に関わっていたと考えられています。ヘロデはユダヤの民からは異邦人であ
りながら、ユダヤの民を支配するローマ帝国を後ろ盾に領主の地位を得ていました。ファリサイ派と
ヘロデ派は共に行動するようには思えない間柄ですが、以前にもこの組み合わせは登場していました。
ガリラヤで主イエスのお働きに反発するファリサイ派の人々が、ヘロデ派の人々と手を組んで、どの
ようにして主イエスを殺そうかと相談したと、3章で述べられています。そのことを神殿の指導者たち
が知っていて、この組み合わせは送り込むのにうってつけと考えたのかもしれません。信仰生活も主張
も、異邦人支配者たちとの関わり方も全く異なるファリサイ派とヘロデ派、そして祭司長、律法学者が、
協力して動いています。彼らは、真理の探究において心を通わせ、一致を見出したのではありません。
それぞれが今得ている人々からの支持を失いたくない、立場を失いたくない、そのためにイエスという
者の存在を取り除きたい、その一点で一致し、手を組んだのです。真理において一つとなりたいと願い
ながら実現することがなかなかできずにいるのに、罪においては一つとなってしまう人間の現実が、
ここにあります。

 彼らは、主イエスがどう答えてもその言葉じりを捉えて、追い詰めることができると考えた問いを
用意しました。問いと言っても、それは形ばかりで、実際に彼らは答えを求めているわけではありま
せん。信仰についての問いを、彼らは主イエスを攻撃するための道具とします。

 主イエスのところに来ると、彼らは先ず誉めそやします。「真実な方」「誰もはばからない方」
「人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられる」方と賛辞を並べ立て、この後の問い
に答えないわけにはいかないように、逃げ道を塞ごうとします。これらの賛辞から、彼らが真実であ
ること、誰もはばからないこと、人を分け隔てしないこと、真理に基づいて神の道を教えることを、
価値あることとしていることは明らかです。その彼らが、真実であることよりも、神の道や誰もはば
からないこと、人を分けへだてしないことを重んじることよりも、自分が分け隔てされることを恐れ、
人の目をはばかり、保身のために動いている、皮肉な情景がここにあります。


 彼らが主イエスに発した納税に関する問いは、当時人々の間でも繰り返し問われていたことでしょう。
律法遵守を重んじるファリサイ派の人々にとっては、異邦人である征服者に神の民が税金を納める
ことは、律法に適うのか、歩むべきとされている神の民の道において許されているものなのかどうか、
問題です。ヘロデ派の人々にとっては、ユダヤ人たちがしっかり納税することが重要です。ローマ帝国
に依存している彼らの生活も政治的立場も、ユダヤ人たちが納税しなければ揺らぎかねないので、
しっかり税を納めるかどうかが問題です。同じ納税について問う質問において、この二つのグループ
それぞれが重視する面に焦点を当てた、「律法に適うのか」、「納めるべきなのか」との二つの表現で
問われています。この二つのグループの人々は、納税をしています。ローマの国家に依存し、ヘロデに
追随するヘロデ派の人々は、自ら考えることを放棄するかのように、支配者に言われた通りに納めて
いたでしょう。ファリサイ派の人々は、望んでではないけれど、納めるしかないと割り切って納めて
いたのではないでしょうか。

ローマ皇帝は、自分を神格化させ、神として崇めることを求めていました。そのローマ皇帝に納税する
ことは、神さまだけを神とすることを求める律法にも反するのではないかという思いが、ユダヤの民に
ありました。時には、納税を拒否し、武器をもって反乱を起こす動きも民の中に起こりました。納税に
不満を募らせているユダヤの民が、ローマに対して抵抗運動を起こすのではないかと、常にヘロデと
ローマ帝国は神経を尖らせていました。この日、主イエスとファリサイ派・ヘロデ派のやり取りを見つ
めていた群集の中にも、そのような勇ましい主張や行動に惹かれる人が多くいたことでしょう。納税の
問いに対して、もし主イエスが神さまの道に適うことだと、税は納めるべきだと答えれば、群衆は
主イエスに失望し、大部分は主イエスを見捨てるだろうと、逆に納税をしなくて良いと答えれば、
この者はローマ帝国に対する反乱を企てていると、帝国に引き渡すことができると、ファリサイ派や
ヘロデ派の者たちは考えていたことでしょう。どう答えても自分たちはその答えを利用してこの者を
滅ぼすことができるというのが、彼らと、彼らを操っていた人々の目論見でした。

人の心に何があるのか全てご存知である主は、真理を求める振りをして、質問という罠で主イエスを
陥れようとする彼らの偽善を見抜いておられました。主はデナリオン銀貨を持ってきなさいと言われます。
当時の労働者のほぼ一日の賃金分に当たるこのローマ帝国の銀貨の表面には、神の威厳を表す月桂冠を
かぶったローマ皇帝の肖像と、この皇帝が神の子であることを表す文字が刻まれていました。その肖像
と銘は誰のものかと、主は彼らに問います。彼らが「皇帝のもの」と答えると、「皇帝のものは皇帝に
返しなさい」と言われます。彼らは主イエスに「納める」という言葉で質問しました。「納める」と訳
された言葉は本来、「与える」という意味の言葉です。「与える」ということは、自分に属するものを
皇帝に渡すということです。しかし主は「与える」ではなく「返す」という言葉で答えられます。自分
にではなく皇帝に属するものを、皇帝に返すのです。誰かに属するものはその人に返すのが基本である
ように、皇帝に属するものは皇帝に返すのだと、ローマへの納税は、皇帝を神と崇めることではなく、
その力と仕組みの中でユダヤの民の生活が営まれている、ローマの皇帝に属するものを、皇帝に戻す
ことなのだと、教えられます。

主イエスの教えは聞く者の考え方を大きく転換させます。けれどもしここで終わったら、皇帝を神とす
ることは無いけれど、神さまを神とする道も示されないままとなってしまいます。主は、その後に「神
のものは神に返しなさい」と続けてくださいます。元の文では、「あなたがたは皇帝のものは皇帝に返
しなさい。そして、神のものは神に」となります。「そして、神のものは神に」、この言葉が全体を
締めくくります。皇帝のものと神のものが世に混在しているから、その線引きをしっかりしなさい、
それぞれ返すべき相手を間違えないようにしなさい、ということではありません。
ここで「そして」と
訳されている言葉は、前のものと後ろのものを並置するのではなく、決定的なものを導入する「そして」
なのだと考えられています。「そして」で導入されるものが、その前に語られてきたものを上回ります。
主イエスを殺そうとしている人々は、ここまで繰り返し主イエスの権威に疑問を呈し、攻撃してきました。
それによって、自分たちの権威が及ぶ範囲を必死に守ろうとしてきた人々に主は、世のものは世に返し
なさいと、そして彼らが守ろうとしているものも含めて全ての権威に勝る方である神さまに、神さまの
ものを返しなさいと、告げられたのです。


私たちの日常は、世のさまざまな力に属する、様々なものに囲まれています。私たち自身も、家庭や社会
の中で、幾つかの場所に属しています。主イエスは、何をどこに返しなさいと、すべきことを具体的に
命令するような教えではなく、どのように決断するのか、その姿勢を教えてくださいます。すべてを支配
する方がおられます。その方のみ前で、私たちは何がどこに属しているのか、どこに返すことができるの
か、私たちが属しているところに対してどのように責任を担うことができるのか、その責任を負うことを
通してどのように神さまのご意志を世において証しすることができるのか、繰り返しみ心を尋ね求めます。
皇帝のものはただ機械的に皇帝に返すのではなく、決断が必要となる度に、キリスト者は新たにみ心を
問います。私たちは単に今この時の国や社会の民では無いからです。「わたしの国はこの世には属して
いない」(ヨハネ18:36)と言われた主が王である神の国の民です。この主に仕える者です。私たちは、
国や社会において力を委ねられた者たちが、その力を誠実に用いるように、主なる神に祈り続ける者で
あるのです。


更にキリスト者は、自分を苦しませているもの、弱らせるものが最終的なもの、決定的なものではない
ことを知っています。最終的な救いは、イエス・キリストによる決定的な救いのみ業によって与えられ
ていることを、知っています。パウロもこう述べている通りです、「死も、命も、天使も、支配するもの
も、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低い所にいるものも、他の
どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離す
ことはできない」(ローマ8:38~39)。

そして私たちは、私たち自身のことも、神さまのみ前で考える姿勢を教えられています。私たちがどこに
属していようと、属していまいと、私たちは神さまのものです。神さまによって、神さまのかたちに
創造され、命と存在を与えられた者という出発点を与えられています。
神さまに属する者として生きる道が、
キリストの十字架と復活によって開かれています。全てに勝る権威を持つ方が、世の力の中で歩んで行く
私たちの力の源です。世のものを世に返し、神さまのものを神さまに返すことにもがく私たちが、帰りつく
ところです。
キリストによって神さまに贖われて、主のものとされている私たちだからこそ、神さまのもの
を神さまにお返しすることを共に求め、神さまと人に仕える道を歩んでゆきたいと願います。
(下線はゆうゆうが引きました。)

左近深恵子牧師による先週の説教です。
「神様が私を造られた」 私が生きて行けるのはその信仰に支えられているからです。
死も命も、現在のものも未来のものも被造物はすべて神様の造られたもの。
それを信じて生きているなら、神様から与えられた命、日々の生活、全てを神様にお返しできるはず。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(マルコ9:23,24)
信頼しきれない信仰弱い私をお救いください、と祈るばかりです。 (T_T)


今日の思い ***************
オミクロン株によるコロナ感染は猛威を振るっています。
政治家も科学者も専門家も、日本だけでなく世界中の誰にも正解がわからないという
大変な世の中になりました。
一人ひとりが自分の考え、責任で行動しなければなりません。
この時、自分はどうするべきか、私のフィードバックする先には神様がおられますが
日常茶飯事の出来事は自分で決めなくてはネ。  (・・;)
ワクチンや治療薬の研究に携わっている方、学校、保育園、各種施設で働く方々の
健康と安全と健闘を心からお祈りいたします。
まともに学校に通えない時が長くなったら子ども達の心にはどんな影が落とされるのでしょう。
不安な時代になりました。 ***************


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説教は教会のホームページで毎週読むことができます。


冬の陽だまりの中で枯れ木の虫を突く<アカゲラ>です。
何年も前に埼玉の公園で見た光景です。
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聖書探訪 イザヤ書から・・・

2022-01-22 13:44:50 | 美竹教会
今年初めての「聖書探訪」に参加しました。
感染力の強いオミクロン株の広がりの中で、今年も Zoom ネットミーティングです。
は左近深恵子先生が用意してくださったレジュメです。 ()内は新しい聖書の訳だそうです。


  2022年1月20日 聖書探訪 預言書を食べ、味わう 
  第10回 イザヤ43:1~7  讃美歌♫ 191番
  43:1~7章 ヤハウェのイスラエルに対する決定的な愛
  42:18~25に反して「しかし今や・・」と始め、新しい時の到来を告げる。

1~4節
  1節 (しかし)ヤコブよ、あなたを創造された主は
     イスラエルよ、あなたを造られた主は(あなたを形づくられた方 主は)
     今、こう言われる。
     恐れるな、わたしはあなたを贖う(私があなたを贖った)。
     あなたはわたしのもの。
     わたしはあなたの名を呼ぶ(呼んだ)。
  2節 (あなたが)水の中を通る(渡る)ときも、わたしはあなたと共にいる。
     大河の中を通っても(川の中でも)、
     あなたは押し流されない(川はあなたを押し流さない)。
     火の中を歩いても、(あなたは)焼かれず
     炎はあなたに燃えつかない(炎もあなたに燃え移らない)。
  3節  わたしは主、あなたの神
     イスラエルの聖なる神(者)、あなたの救い主。
     わたしはエジプトをあなたの身代金とし
     クシュとセバをあなたの代償(代わり)とする。
  4節  わたしの目にあなたは値高く、貴く(あなたは私の目に貴く、重んじられる。)
      わたしはあなたを愛し(愛するゆえに)
      あなたの身代わりとして人を与え(人をあなたの代わりに)
      国々をあなたの魂の代わりとする(諸国の民をあなたの命の代わりに与える。

1節
恐れるな
語り手はイスラエルの創造主(造り手)であり、世界の創造主(造り手)である。
「恐れるな」の根拠は、主がイスラエルを「贖う」から。
贖う
元は家族の強いメンバーが弱いメンバーを保証するための介入。
大きな危険や危機の時代において重要な力。
わたしはあなたの名を呼ぶ(呼んだ)第二の保証。
おそらく、養子縁組の定式。イスラエルは今や神に属し、大切にされている。

2節
創造主との関係は、どんな危険な状況下でも助けとなる。火と水が総じて自然の危険を代表することは、
詩編66:12と同じ。
洪水の水の脅威は出エジプトの水を連想させる。
全体から見れば捕囚地から故国への道を意味していることは明らか。
→洗礼

3節
1節bの「あなたはわたしのもの」に加え、「わたしは主、あなたの神」(3節a)は「わたしはあなたと共にいる」(5節a)
という言葉と共に根拠づける。恒常的な関係を表している。「わたしは主、あなたの神」は、
十戒の第一戒の導入部と同じ(出エジプト20:2)。

3節b~4節
「イスラエルの聖なる神(者)」が、共同体のメンバーの解放と帰還を確保するために、代償を用いる。
このイメージは囚人の交換、あるいは奴隷の交換を示唆。なぜなら散らされたユダヤ人は「私の目に値高く、
貴く」、「私はあなたを愛し」ているから。
※「クシュ」はエチオピア、「セバ」はその南の地域
〇マルコ10:45「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を
捧げるために来たのである。」
ご自分の民をここまで大切にされ、愛される。

「わたしの目に値高く、貴く」、「わたしはあなたを愛し」ているという根拠が、神の世に対する介入の只中に
置かれている。これを創造主が語る。
「神の民がこのような慈しみから来る救いの約束を聞き、それを受け入れるならば、その救いが遂行されることは、
もはや決して不思議な出来事ではありえない。そのときイスラエルは、本当に大河の流れを通り抜け、火の中を
歩くことができるのだし、彼らを帰還に導く政治の激動の中で、そのような神が働いていることを、本当に
見ることができるのである。」(ヴェスターマン)

5~7節 
  5節 恐れるな、わたしはあなたと共にいる。
     わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り(連れて来させ)
     西からあなたを集める。
  6節  北に向かっては、行かせよ、と(「差し出せ」と言う)南に向かっては、引き止めるな、と言う。      
     私の息子たちを遠くから
     娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う(連れて来させよ)。
  7節  彼らは(それは)皆、わたしの名によって呼ばれる者。
     わたしの栄光のために創造し
     形づくり、完成した者(私が造り上げた者)。

「恐れるな」の繰り返し(5節)。
散った人たちを集めるイメージ→聖餐(ルカ13:29参照)。
ここでは、創造主の働きと歴史の主の働きが一つのものとして見られている。
神は四つの方角にイスラエルを引き渡し、連れ戻すよう命令する。これらの方角は、散らされたイスラエルの
帰還を妨げる政治的権力を意味している(ヴェスターマン)。
締めくくりの7節は、「わたしの栄光のために」と、救いのわざの目標を指し示している。
最終目標は、イスラエルを高くすることではなく、神の栄光にある。

〇自分の人生の土台、教会の土台
 本当に残る、確かな素材で人生を、自分が連なる教会を、建て上げる。
 Ⅰコリ3:10~17 
   十字架につけられたキリストをパウロは土台として据えた。本当に残る家を建てることができるのは、
   キリストの贖いの恵みというしっかりとした土台があるから。

深恵子先生の解説のあと、参加者からの感想などが話されました。
「あなたはわたしのもの」「わたしはあなたの名を呼ぶ」「あなたと共にいる」という神様の御言葉に
神様からの強い愛が読み取れてイザヤ書のこの箇所が大好き。
「東から・・西から・・南に向かって・・の箇所など独りで読んでもわからないが、小国イスラエルの
周囲のエジプトやクシュ、セバ(も?)の大国を思う、とお聞きして具体的イメージが湧いた
「7節では、イスラエルのためだけでなく世界全体への救いの業を広めよ、という神様のみ言葉が分かった。
「当時のイスラエルのように日本のキリスト教は小さい群れではあるけれど、神様の贖い、救いの御業を
述べてゆきたいが、難しい・・・等など。  小さい集まり、でも満たされた一時でした。


会のプログラムは
初めの祈り(深恵子先生)・賛美歌・聖書朗読・黙想(15分位)・説き明かし・
感想など話し合い・お祈り(一人1,2分)・主の祈り でした。


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齢の所為か、やることがおそくなってなかなか公園に行けません。
モズオくん(百舌・雄)にもしばらく会ってないな~
冬鳥たちも来ていることでしょうね。
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年頭の交読文

2022-01-02 18:16:51 | 今日の聖句
 詩篇67篇【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。歌。】
   
   神がわたしたちを憐れみ、祝福し
   御顔の輝きを
   わたしたちに向けてくださいますように
   あなたの道をこの地が知り
   御救いをすべての民が知るために。
   
    神よ、すべての民が
    あなたに感謝をささげますように。
    すべての民が、こぞって
    あなたに感謝をささげますように。

   諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように
   あなたがすべての民を公平に裁き
   この地において諸国の民を導かれることを。

    神よ、すべての民が
    あなたに感謝をささげますように。
    すべての民が、こぞって
    あなたに感謝をささげますように。

   大地は作物を実らせました。
   神、わたしたちの神が
   わたしたちを祝福してくださいますように。
   神がわたしたちを祝福してくださいますように。
   地の果てに至るまで
   すべてのものが神を畏れ敬いますように。

美竹教会では、礼拝の中で司会の方と教会員の間で詩篇を読み交わします。
今日の交読文は「詩篇67篇」でした。
年の初め、コロナ禍の中での年の初めにふさわしい歌。
本当にこの詩のようであったらどんなに素晴らしいかと思いました。

これまでの世界の歴史、キリスト教の歴史、現在の世界の模様、キリスト教会の模様、
何を見ても「すべての民が、こぞって神さまに感謝を捧げる」ことで気持ちを一つに
することなどは見果てぬ夢としか思えません。
それでも、私は毎日祈らずにはいられません。
「すべての人が神さまに造られた者であることを自覚し、神さまの御旨を訊ね
聖書に訊ね、信仰をもって生きて行けますように」と。
具体的な日々の暮らしや罪深き自分の心に浮かぶ思いの数々を思うとき、それがいかに
難しいことか、自分一人も持て余します。
それでも私は詩篇67篇を祈らずにはいられません、祈ることしかできません。
詩篇67篇、ユダヤの人々(聖書の民?)の絞り出すような祈りなのかもしれません。

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日本一小さな野鳥<キクイタダキ>です。体長10cm!
オオカマキリに食べられている画像を見たことがあります。
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