ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「なぜと問う時に」 子ども向け説教

2016-01-31 19:12:22 | CS(教会学校)

左近牧師が昨日から長崎平和記念教会の特別伝道礼拝・講演会に出かけられたため、
今日の主日礼拝は山畑譲牧師によって説教がなされました。
説教のテキストは「ヨブ記」42章1節~6節 「ヘブライの信徒への手紙」4章14節~16節
タイトルは「なぜと問う時に」でした。

美竹教会では説教の最初に約十分間、教会学校の子ども達へのお話(聖書の御言葉の説き明かし)
があり、大人も一緒にそれをお聴きすることになっています。
その後、子ども達は教会学校の分級に入り、大人たちは牧師の説教をお聴きします。
今日は山畑先生が子どもへの説教と大人への説教の両方をしてくださいました。

礼拝後、山畑先生を囲んで軽食をとりながら懇親会でしたが、大人のみなさん、
子ども説教に強く感銘を受けたという方がたくさんいました。 
実は、私も・・・・・(^-^)
私の生きている、生かされている根っこは神に繋がっている、十分分かっていることは
ありますが再確認して胸にトンと響きました。

今日は山畑先生による子供たちのための説教(お話)を載せることにいたします。

山畑牧師による子ども達への説教(要約)
  神様を信じても信じなくても何も違わないじゃないか、と言われることがありますが、
  果たしてそうでしょうか。 神様を信じるという事は自分が生きているその根っこが
  神様のところにある、ということです。
  神様からの力によって生きている、ということは、今、あなたのいる場所は神様が
  決められた場所だという事、あなたの存在は意味があるのだよ、と神様から言われて
  いるということです。
  今もこれから先も苦しい事や悲しいことがあったとしても、あなたがたの根は神様の
  ところにある、根っこは神様に繋がっているのだから安心してよいのです。
  道筋は神様が決めて下さっている、ということは、神様を信じれば、これをしてほしい、
  自分がこうなったらよいのに、という願いがなんでも通じるというものではないし、
  私たちの欲望が通ることもはありません。
  信じればあなたの望みはすべて叶う、絶対不幸にはならない、などと言う宗教が
  あったらそれは怪しい・・・(ここで大人たちは笑いました)
  信じられない、まやかしものですね。
  神様を信じるという時、神様はすぐ隣にいてくださいます。
  これからもずっと一緒にいるよ、という神様のメッセージを忘れないでほしいです。
  そして教会には一緒に神様の方を向いている人々がたくさんいます。
  神様は最後には必ず私たちを良い方向に導いてくださいます。
  神様の導きを信じてお祈りをしましょう。


見慣れた野鳥<ヒヨドリ>もアップで見ると愛らしいです。

美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
教会では毎週、聞き逃したら勿体ない! というお話を聴くことができます。
虚しく苦しいばかりに思える人生に希望を持つことを促されます。
どうぞ、勇気をだして教会の扉を押してお訪ねください。

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Mother Teresa Come Be My Light!

2016-01-28 22:33:26 | その他
「マザーテレサ来て、わたしの光となりなさい!」を読み終わりました。
マザーテレサについての本を読んだのははじめてで、彼女の働きや生涯も初めて知りました。
テレサのイエスへの愛、人への愛、テレサの信仰に圧倒されました。
神をこのように深く愛し、人への愛に生きたテレサが、信仰の確信なく、神からの応答を
自覚できずにいたというのでしょうか、なんという苦しみ、虚しさだったことでしょう。
「神共にいます」という信仰がなくてどうして人間をあのように愛することができたのでしょうか。
浅くて薄い信仰しか持ちえず、ただ神様!としがみついているだけの信仰しか持ちえない私には
理解できない深い暗闇の生涯をテレサは生きたのでしょうか。
もし神からの応答を聞き信仰を確信できていたら、テレサはどんなふうに働いたのでしょう。

マザーテレサは73歳の時、骨折で入院中の病院で重大な心臓血管が発見されました。
↓下の文章は入院中のテレサが「あなたがたは、わたしを何者だというのか(マタイ16:15)」と
いうイエスの問いに対する心の奥底からの答えを書いたものです。

あなたはわたくしの神。
あなたは神からの神。
あなたは創られずしてお生まれになった。
あなたは御父と実体において一つの存在。
あなたは生ける神の御子。
あなたは聖なる三位一体の第二のペルソナ。
あなたは御父と一つ。
あなたは初めから御父の内におられる。
あらゆるものはあなたと御父によって創られた。
あなたは御父が喜びとされる 愛する御子。
あなたはマリアの御子、聖霊によってマリアのご胎内に宿られた。

あなたはベツレヘムでお生まれになった。
あなたはマリアによって産着に包まれ、藁が敷かれた飼い葉桶におかれた。
あなたはロバの息で温められ、ロバはご胎内のあなたと御母を共に運んだ。
あなたはナザレの人びとに大工として知られる ヨセフの子。
あなたはたいした学問もなく、イスラエルの学識者の判断によれば普通の人。


わたくしにとってイエスとはだれか? とマザーは続ける。
イエスは肉となられたみ言葉。
イエスは命のパン。
イエスは十字架上でわたくしたちの罪のためにささげられたいけにえ。
イエスは世の罪とわたくしの罪のために、ミサ聖祭でささげられる犠牲。
イエスは語られるべきみ言葉。
イエスは告げられるべき真理。
イエスは歩かれるべき道。
イエスは灯されるべき光。
イエスは生きられるべき命。
イエスは愛されるべき愛。
イエスは分かち合われるべき喜び。
イエスはささげられるべき犠牲。
イエスは与えられるべき平和。
イエスは食べられるべき命のパン。
イエスは養われるべき飢えた人。
イエスは癒やされるべき渇いた人。
イエスは着せられるべき裸の人。
イエスは招き入れられるべきホームレス。
イエスは癒やされるべき病人。
イエスは愛されるべき寂しい人。
イエスは求められるべき不要の人。
イエスは傷を洗うべき重い皮膚病の人。
イエスはほほ笑みを与えるべき物乞い。
イエスは聴いてあげるべき泥酔者。
イエスは保護すべき知的障害者。
イエスは抱擁すべき小さな子。
イエスは手をとるべき視覚障害者。
イエスは代わって話してあげるべき聴覚障害者。
イエスは共に歩むべき足の不自由な人。
イエスは友人になるべき薬物依存者。
イエスは危険から遠ざけ、友となってあげるべき哀れな売春者。
イエスは訪れるべき囚人。
イエスは奉仕すべき高齢者。


わたくしにとって・・・・マザーテレサは続ける。
イエスはわたくしの神。
イエスはわたくしの花婿。
イエスはわたくしの命。
イエスはわたくしのかけがえのない愛。
イエスはわたくしのすべてにおけるすべて。
イエスはわたくしのあらゆるもの。

イエスよ、わたくしは心を尽くし、存在のすべてによって愛します。
わたくしはすべてを、罪さえもイエスにささげ、彼はわたくしを
優しさと愛のうちにご自分の花嫁とされました。
今も、そして生涯をとおして、わたくしは十字架につけられた方の花嫁です。 アーメン。


彼女のごく近くで生活したシスターたちは以下のように証言しています。

マザーは殉教を体験していたにちがいありません。彼女の広範囲に及ぶ混み合った三等列車での旅行、
ほこりと汗にまみれたスラムへの毎日の徒歩通い、疲労、空腹、のどの渇き、プライバシーの皆無、つねにドアが
開かれている部屋、酷暑の日にも扇風機なしの小さな部屋、狭い聖堂、幅が狭く固い鉄製のベッド、これらすべてと、
それ以上のつらさをひと言の不平ももらさず過ごされたマザーは、ほとんど毎日のように、
「すべてはイエスのため」と何のコメントもなく言っていました。
そして何か特別な試練にあったときには、わたしたちに「これはより深い愛のチャンスなのですよ」と教えられたのでした。


しかし、これらの外面的な苦しみは他人が気づいた苦しみでしかなく、内面の過酷な苦しみをマザーは
生涯隠し続けほほ笑み続けました。

この本の45ページに『内面的闇は、カトリック神秘主義の伝統においては別に新しいことではない。
スペインのカルメル会の神秘家・十字架の聖ヨハネが「暗夜」と名指した体験は、事実、教会史をとおして
数多くの聖人たちに共通の現象である。霊性の大家は、神との一致に到達する前に通らなければならない、
苦しい浄化を示す適切な用語として、この言葉を示している云々・・・・』と書かれています。
テレサの感じる暗闇は、カトリックでは驚くべきことではなく「十字架の聖ヨハネ」という16世紀の
修道士で聖人となったヨハネの著書「暗闇」などに記されているようです。
カトリックの教えに疎い私には判らない事柄がたくさんありましたが、厚い本を読み終わって、
なんといってもマザーテレサは「聖人」だと深く感動しました。


久しぶりに出会った<アオゲラ>
残念ながら後ろ姿しか撮れませんでした。

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「聖書の学び Ⅴ- 2」 1月24日

2016-01-26 11:05:00 | 「聖書を学ぶ会」


預言の書、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書や12の小さな預言書は「後の預言書」と言われる。
前の預言書(者?)はサムエル記や列王記のような物語の中に出てくる。 エリヤやエリシャ等々。
執り成す者アブラハム=ソドムが滅びる時神に執り成した。
モーセは律法の預言者と言われる。
預言者と王は上下関係ではなく、共に油注がれた者。

天井の会議ではサタンも出てくるが、耳のとがった悪魔の事ではなく、大事な役割を担っている。
(例えば「ヨブ記」)
   *「列王記」22章 イスラエルの王アハズと預言者ミカヤの話(天上の会議)
   *「天上の会議」についてはブルッゲマンの事典をよむこと


   *エレミヤ書18章読むこと
預言の成就の有無に関していは預言者がいきている間に成就しないこともある。
成就の検証は難しいが、モーセについては検証できる。 *「申命記」13章1節以下を読むこと

今回は「学びの会」に関して読むべき聖書の箇所がたくさんありますが、今マザーテレサの本を
読んでいて忙しい私は、まだ読んでいません。 これから読むつもりです。 



<カワラヒワ> 加えているのは好物の秋楡の種子です。

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「まことのぶどうの木」

2016-01-24 22:07:07 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「ヨハネによる福音書」15章1節~17節
タイトルは「まことのぶどうの木」でした。






小魚をゲットした公園の<翡翠(カワセミ)>
背景は赤い実をつけたピラカンサです。

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他のすべては塵あくた

2016-01-22 18:29:32 | 今日の聖句
今日の聖句は「フィリピの信徒への手紙」3章8節~14節 です。

そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では、
他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを
塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。
わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて
神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみに
あずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。
何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、
後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、
お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。


パウロの篤く熱い信仰に強く打たれます。
17日の礼拝で左近牧師が話された「マザーテレサ来て、私の光となりなさい」という本を入手しました。
今、読んでいますが、テレサの神への愛、人への愛に圧倒されています。
マザーテレサについては、インドの最も貧しい人々の中にあって、最下層の人々の心と身体に寄り添う
働きをした修道女。ノーベル平和賞を受賞したこと、カトリック教会の聖人と認められること、
くらいしか知りませんでした。
マザーテレサについての本を読むのはこれが初めてです。
彼女の信仰の強さ、神への愛の強さに(言葉は悪いのですが)ぶっ飛ばされるような衝撃を受けています。
薄っぺらな私の信仰・・・・・それでも私は神様に救っていただきたい!


公園で、檀(まゆみ)の赤い実を啄みにきた<メジロ>です。

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信仰のないわたしをお助けください。

2016-01-20 22:23:53 | 今日の聖句
今日の聖句 「マルコによる福音書」9章20節~29節 です。

人々は息子をイエスのところに連れてきた。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。
その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、
いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、
もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい。」
イエスは言われた「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。
「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい。」イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、
汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。
この子から出ていけ。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて
出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちは
ひそかに、「なせ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、
「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。


弟子たちが試みたができなかった、悪霊?に取りつかれて引きつけをおこす子供を救ったイエスの奇蹟の物語です。
父親の「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい。」という叫びに強く共感します。
人間として生きていることが苦しい時、後ろ向きになり、感謝を忘れ恵みを忘れている自分に気づきます。
信仰無くしては生きてゆけないことを忘れ、神を見失っている自分がいます。
計り知れないほどの恵みを受けながら、それでも心から感謝し喜ぶことのできない私がいます。
「罪」とは神を忘れ、聖書を離れた「的外れな生き方」を指しています。
聖書を読み、教会の礼拝で兄弟姉妹と共に神を賛美し「的外れな生き方」をせず主の御顔を仰いで
最期の時まで過ごさせてくださいと、今日の聖句の父親のように信仰浅いわたしは祈るのみです。


枯葉状態で残ったモミジの枝にとまった<シロハラ>です。

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「傍らで呼ばわる者」

2016-01-18 13:51:47 | 説教
昨日の礼拝説教 テキストは「ヨハネによる福音書」14章15節~24節
タイトルは「傍らで呼ばわる者」でした。




  昨日は朝起きた時から気分が沈んでいました。
  連れ合いの病気のことやそのほかこの世の思い煩いはありますが、もう少し根元の方で
  気持ちが落ち込みます。The desperate(絶望する人)の一人になってしまうのです。
  こういう時は自分の身の回りのことだけでなく、テロ事件から三面記事の殺人から
  バス転落事故から、人間の行為何もかもが嫌になってしまいます。
  礼拝に出て祈り、讃美歌を歌っても気分は沈んだままでした。
  説教でマリア・テレサの心の闇、また彼女が理解したイエスの闇が語られた時、
  ハッとして少し心が起きました。
  テレサはどんなことで闇に苦悶し苦闘し、葛藤したのでしょうか。
  イエスの闇とは具体的にどのようなものだったのでしょうか・・・知りたい。
  『マザーテレサ来て、わたしの光になりなさい』(女子パウロ会、2014年)
  ぜひ手に入れて読んでみようと思います。


公園の藪でブルーの小鳥<ルリビタキ♂>を見ました。
小さな野生の命、その真剣な眼差しに心躍ります。
真剣、本人(鳥)にその気があるのか無いのか・・・・・(笑)

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  聖書が無かったら、教会が無かったら、イエス・キリストに出会わなかったら・・・・・
  イエスに出会い、教会に集い、聖書を読める毎日に感謝です。
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「新しい生き方」を求める私たち

2016-01-16 10:10:18 | 今日の聖句
今日の聖句は「エフェソの信徒への手紙」4章25節~32節 です。

だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。
むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに
役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、
贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、
一切の悪意と一緒にすてなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを
赦してくださったように、赦し合いなさい。


ここには「新しい生き方」という中見出しがついています。
教会の全員が「新しい生き方」ができているわけではないと思います。私も勿論できていません。
でも、教会は少なくとも聖書に書かれ示されている方向を目指そう!という心を持っている人々の集まりです。
子供からお年寄りまで、老若男女が思いを一つに集まっている場所です。
不思議な空間とも言えますが心休まる平安を与えられる場所です。
苦しみを抱える人、重荷を負って悩む人、絶望して虚しい思いに囚われる人、きっと救いの道を
見いだせることと信じます。
どうぞ勇気を出して教会の扉を押して中にお入りください。

『「エフェソの信徒への手紙」は1:1-3:21の前半部と4:1-6:20の前半部の二つに区分される。
今日の聖句が入っている後半部は、カテキズム伝承、徳・悪徳目録・家庭訓などの倫理的勧告的特徴が顕著である。
本書はパウロ自身が著わしたものではなく、パウロの死後、パウロの名を借りて書かれた手紙であることから
「パウロの名による手紙」(あるいは第2パウロ書簡)として位置づけられる。』
(以上は「聖書事典」からの引用です。)

カテキズムとは・・・・キリスト教の教理をわかりやすく説明した要約ないし解説の事で、伝統的には洗礼や
堅信礼といったサクラメントの前に行われる入門教育(catechesis)で用いられる。
文体は問答形式をとることが多い。(ウィキペディア より)


<カワラヒワ>を見ました。
例年は群れで見ることが多いのですが、今年はまだ一羽だけでした。

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お知らせ・三つ

2016-01-14 10:36:28 | その他
先週の美竹教会「週報」に載っていたお知らせを三つ掲載させていただきます。

◎FEBC(日本のキリスト教放送局)で左近牧師が担当している番組のお知らせ
 「それでも、あなたの神となる 旧約聖書の証言に聴く」
 (↑ここをクリックすると聴くことができます。) 
 旧約聖書に登場する人物を毎月一人ずつ取り上げています。 
 1月(第四回)は詩篇詩人です。 聖書や教会に関心をお持ちの方、ぜひお聴きください。

◎1月30日(土) 10時~12時
 「西南支区信徒研修会」が美竹教会を会場にして行われます。
 左近牧師が「聖書に学ぶ祈り」をテーマに講演します。
   

◎ 「ヨーロッパ中世・ルネサンス・宗教改革」勉強会 
 1月23日(土)午後1時~3時 第一回「アウグスティヌス」
 東京YWCA会館(御茶ノ水駅から徒歩4分)
 講師 : 鈴木 浩先生(ルーテル学院大学)
 参加費1000円・学生500円
 2017年・宗教改革500年に向けての学びの会です。
 私、ゆうゆうとしては興味津々。 時間が許せばぜひぜひ聞いてみたいです。
 


昨日は久しぶりに公園を散歩できました。
メタセコイアの落ち葉の上て採餌する<ウグイス>を見ることができました。 

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「聖書の学び(Ⅴ)」 預言とは

2016-01-12 15:58:18 | 「聖書を学ぶ会」
聖書の学びの会は第Ⅴコースに入りました。

聖書の「預言」とは未来を占う予言とは違って、予言も含む神から預かった言葉
ということで、現在・過去・未来を含んでいる。

聖書の社会の周辺世界にも預言の行為はあった。
肝臓占いというのは祭儀用に育てられた牛や羊の肝臓を取り出して、影やシワなどを見て
占った。 いくつもの肝臓を見ていくと共通した要素が浮かび上がってくるらしい。
長く生きた牛などには食べた餌の影響が現れたりした。
牧草や麦の状態が判ると、その地域の経済力などがうかがわれ、弱小と見ればそこに
戦争を仕掛けることなどを占った・・・・らしい。 肝臓占い、オモシロ~イ!
そのうち預言者の言葉が重くみられるようになり、言葉を預かる預言者も重く
用いられるようになった。

預言者は一つの職業だったかも知れない。
"navi" (ナーヴィー)はひょっとしてnavigation の源だったか?

預言者の系譜をみると、集団だったのではないかと思われるものがある。
イザヤはイザヤ学派という集団を形成していた。BC6世紀から200年ちかい期間の預言が
語られている。 数百年にわたるイザヤ学派の人々が語ったと考えられる。
エレミヤは個人だが学派(グループ)もあった。
「サムエル記上」10:5をみるとサウルも預言する者になってしまっている。
これなども集団を想起させる。
ベト・シェバのことでダビデ王をいさめたナタンなど、時には王に逆らい
命の危険を冒しても預言をする。



公園のジョウビタキ♀。 ドライフラワー状態の額紫陽花が背景に写っています。

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次回の「聖書の学び」は二週間後、1月24日(日)の礼拝前10時~10時20分です。
聖書に関する様々な知識、とっても面白いです。 皆様、どうぞお出かけください。
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