ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「神を見た人」

2013-06-30 21:37:30 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「創世記」32章23節~32節 タイトルは「神を見た人」でした。

その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。
皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。
そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、
ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。
「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」「お前の名は何というのか」とその人が訊ね、
「ヤコブです」と答えると、その人は言った「お前の名はもうヤコブではなく、これかれはイスラエルと
呼ばれる。 お前は神と人と闘って勝ったからだ。」
「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうしてわたしの名を尋ねるのか」
と言って、ヤコブをその場で祝福した。
ヤコブは、「わたしは顔と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル
(神の顔)と名付けた。 

ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。
ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。




神から故郷に帰るように言われ、アブラハム、イサクから「神の祝福の源」という栄誉を受け継いでいるヤコブは、
どうしても故郷に戻りエサウに会わなければならなかった。

400人のお供を連れてヤコブを出迎えに向かっているエサウの事を知るにつけ、許されるか殺されるか、
ヤコブは非常に恐れた。

20年の長い逃亡生活から故郷にたどり着いた最後の夜、ヤコブは一人残って神と格闘した。
この闘いは自分の罪を真摯に認め、許しを求める祈りの格闘であった。
(ヤコブは戦いの途中からそれが神であると気づいていたであろう。)

ヤコブは知恵を用いるのが得意な人、つまり自分を頼りに生きる人だったが、この時、
神との闘い(祈り)でその虚しさを知った。
神の恵みによって罪を告白し許されて生きるか、自分を頼りに生きるか、人間は常に二つに
一つの選択をしなくてはならない。

ヤコブは腿の関節を打たれ、はずされても戦うことを止めず、食らいついて神からの祝福を求めた。

神から名前を聞かれ(古代では名前はその人の全人格を表すものだった)「ヤコブです」と答えたヤコブ。
ヤコブと言う名は不名誉な名前なので、ここで名前を答えたと言うことは「私は人をだました悪い詐欺師です」と
告白したことである。

神は「もうお前の名はヤコブではない」と新しい名前「イスラエル」をヤコブに与えてくださった。
イスラエルは「神が共にいて闘う」という意味である。
ヤコブの死に物狂いの格闘の末、ようやく神からの祝福を得られた。
そして、ヤコブは人を欺く人間から神の祝福により全存在が新しくされ、新しい人生を歩み始めた。

この時、ヤコブは心から兄エサウとの和解を求め、心が平安になった。
つまり神が共にいてくださる事の意味を理解した。 
真に神を見た人となったのである。
誰を見ても神の御顔を仰ぐという気持ち、神との出会いのように大切にするようになった。

私達も礼拝を通して、信仰において霊のイスラエルに連なる幸せを得ている。

(以上、要約です。 文責はゆうゆうにあります。)

自らを省みるとその罪深さに呆れてしまうが、私も神様にしがみついて祝福されたい。
教会の礼拝に神がいらっしゃることを思い「愚かで傲慢な者から新しく神に祝福された者となさしめ給え」と
祈る日々を送りたい。



四枚の翅をヘリコプターのプロペラのように動かす<ハグロトンボ>


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アモス書

2013-06-29 12:12:37 | 聖書
アモス書を読む前に「聖書事典」の解説を読みました。
まず「正典における位置」の解説が書かれていました。

*************************************************
ヘブライ語正典は、大きく3部に分けられる。
「律法」「預言者」「諸書」である。
「預言者」は「前の預言者」と「後ろの預言者」の二つに分けられる。
前者は「ヨシュア、士師、サムエル、列王」の歴史書であり、後者は「イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、12小預言者」の4書である。
アモス書は「12小預言者」の第3番目の書である。
*************************************************

浅はかな私が、一昨日「ヨエル書」の所でチンプンカンプンだと書いた「正典における位置」というのが、
これで少し分かりました。
解説者は「アモス書」の項で説明していらしたのですね、失礼いたしました。 m(_ _)m


次に、「構成」が下のように並んでいました。
① 表題(1:1)
② 諸国民に対する預言(1:2~3:2、9:7~10)
③ 預言者の内的確信(3:3~8)
④ サマリアの支配者に対する審判(3:9~15、4:1~3、6:1~14、8:4~7)
⑤ 祭儀の堕落に対する審判(4:4~13、5:1~7、10~15、16~27)
⑥ 5つの幻(7:1~3、4~6、7~9、8:1~3、9:1~4)
⑦ 祭司アマツヤとの対決(7:10~17)
⑧ 頌栄と断片的審判(5:8、9、8:8、9:5~6)
⑨ 終わりの日の審判(8:9~14)
⑩ 後の日の回復(9:11~15)

上の構成で、抜けているところは無いかな~? 聖書の章立ての順に並べてみました。

1:1 ①    1:2~3:2 ②   3:3~8 ③   3:9~15、4:1~3 ④   
4:4~13、5:1~7 ⑤        5:8、9 ⑧   5:10~27 ⑤ 
6:1~14 ④   7:1~9 ⑥   7:10~17 ⑦   8:1~3 ⑥   
8:4~7 ④   8:8 ⑧     8:9~14 ⑨   9:1~4 ⑥   
9:5~6 ⑧   9:7~10 ②   9:11~15 ⑩

完全に網羅されていました!(当たり前ですよね、疑り深い私。)
よく見ると、① ② ③ ④ ⑤ ⑧ ⑤ ④ ⑥ ⑦ ⑥ ④ ⑧ ⑨ ⑥ ⑧ ② ⑩ という順番です、
構成が少し入り交じって記述されているようです。

これは聖書にしるしをつけて番号でも入れて読んでみると分かりやすいかも知れません。
妙な所が気になってしまう私です、解説をよまずに頭からスラスラ読んだ方がよかったかな~?  (^^;)

とにかく「アモス書」読み始めま~す。



<オオシオカラトンボ> シオカラトンボより一回り大きく顔が真っ黒、と言うのが特徴です。


明日は日曜日、美竹教会ではの午前10時半から礼拝と聖餐式です。
礼拝後、讃美歌練習もあります、多分。
よろしかったらお出かけください。
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「長子の特権」

2013-06-28 21:59:23 | 「先週の講壇より」
    6月16日(日)の礼拝説教の一部が「先週の講壇より」として週報に載りました。
    テキストは「創世記」25章27節~34節 タイトルは「長子の特権」でした。

    


    美竹教会のホームページの中の「9 説教集」には説教の全文が載っています。
    是非、お読みください。


    
    夏らしい花<凌霄花(ノウゼンカズラ)>が咲き始めました。
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神の霊の降臨

2013-06-27 23:08:13 | 今日の聖句
今日の聖句は「ヨエル書」 3章1節~5節で 「神の霊の降臨」という中見出しがついています。

その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。 
あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を身、若者は幻を見る。
その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
天と地に、しるしを示す。 それは、地と火と煙の柱である。
主の日、大いなる恐るべき日が来る前に 太陽は闇に、月は血に変わる。
しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。
主が言われたようにシオンの山、得るされ身には逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。



「聖書事典」によると、この箇所、神の霊の降臨の預言は、新約聖書においては復活のキリストから弟子たちに
聖霊が注がれることを預言したものと解され、使徒言行録に引用されている(使 2:17-21)そうです。


聖書事典は私の唯一の参考図書で、大変参考になり本当に助かっています。
知識と理解力が不足している上に、独善的な私が聖書を読むのですから、これ無くしてはまったくのお手上げです。
感謝しております。

しか~し! 例えば「ヨエル書」の解説で、「正典における位置」として・・・・・・・
本書はヘブライ語正典の第2部「預言者」のなかの「後の預言者」の4番目の書「12小預言者」のなかで、
ホセアに続く2番目の預言書である。・・・・・・・・などと書かれていると、まったくチンプンカンプン、
分かり難い解説だな~とボヤイてしまいます。 (^^;)




今日は<大青蜂(オオセイボウ)>という青くて美しい蜂を撮りました。



心に重荷を負っている方、悲しみ、孤独を感じている方、神さまはあなたの傍にいつもいてくださいます。
私は神様からのその恵みのゆえに、その福音に救いを見出して、教会に通い聖書を読み、祈っています。
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いなごの大群

2013-06-26 20:56:53 | 今日の聖句
今日の聖句は ヨエル書 1章1節~4節です。

「いなごによる荒廃」
老人たちよ、これを聞け。 この地に住む者よ、皆耳を傾けよ。 あなたたちの時代に、また、先祖の時代にも 
このようなことがあっただろうか。 
これをあなたたちの子孫に語り伝えよ。 子孫はその子孫に その子孫は、また後の世代に。

かみ食らういなごの残したものを 移住するいなごが食らい 移住するいなごの残したものを 若いいなごが食らい 
若いいなごが残したものを 食い荒らすいなごが食らった。



ヨエル書の最初のテーマは、巨大ないなごによる災害の描写である。その描写は「主の日」と呼ばれ、
「恐るべき日」「闇と暗黒の日」などと言われている。
いなごの大群は文字通りのいなごを指すのか、「一つの民」「北から来るもの」などと呼ばれるような
強大な外敵の来襲をさしているのか、明瞭ではない。

ヨエル書の時代的背景を前530年から前340年ころにいたるペルシア時代と想定するなら、ペルシアの大群が少なくとも
カンピセス(前530-523年)の時代(前525年)と、アルタクセルクセスⅢ世(前358-338年)の時代(前343年)にエジプトに
侵入している。
さらに、間もなく(前332年)アレキサンドロス(前336-323年)がエジプトを占領している。
ペルシアの軍隊もアレキサンドロスの軍隊もユダヤの人々にとっては、恐るべきイナゴの大群のように見えたに違いない。
彼らの来襲は、ユダヤの人々にとって世界の終末を意味する「主の日」の到来と考えられ、
また世界審判の到来とも思われたのである。
                  
                                        ********************「聖書事典」より


前586年に南のユダ王国が滅亡してから、ユダヤの人々に国家と言うものは無くなり、バビロン捕囚から本国へ帰還後は
エルサレムの神殿を中心とした宗教的集団として、民はまとまっていたのだと思います。
それからもずっとユダヤの民は大国に蹂躙され続けたのでしょうか、歴史がよく分かっていない自分が情けない。 (T__T)

今日の聖句を読んだ時、私は、以前映像で見たことのある農作物を荒らすいなごの大群をイメージしました。
巨大ないなごのイメージは無かったのですが、大国の軍隊に踏み荒らされる、と言うと、やはり巨大ないなごなのでしょうか。




ピンボケ写真ですみません、シジュウカラの巣立ち雛です。


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神の怒りと祝福

2013-06-25 21:08:08 | 今日の聖句
今日の聖句は 「ホセア書」14章からです。

1節
サマリアは罰せられる。 その神に背いたからだ。 住民は剣に倒れ幼子は撃ち殺され、妊婦は引き裂かれる。

5節~7節
私はそむく彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。 まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。
露のようにわたしはイスラエルに望み、彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。
その若枝は広がり、オリーブのように美しく、レバノンの杉のように香る。



ホセア書の最後は立ち帰りの勧告、エフライム(イスラエル)の回復と祝福の預言を語ることで終わっています。

14章の1節も一つの例ですが、神が民の裏切り(偶像を礼拝することと流血です)に対して、その怒りを語る内容は
本当に強烈で恐ろしいです。
イスラエルの民を赦し、再び顔を向けて祝福する麗しい描写と比べると天地の差ほど、その落差に私は戸惑います。

さて、ホセア書は読み終わりました。 
次のヨエル書に進むことにいたします。




メタリックブルーというか、玉虫色が美しい<チョウトンボ>



毎日聖書を少しずつ読んでいます。
確かに聖書は飽きることのない読み物ですが、信仰の書ですから、祈りを持って読まなくては! と
一応心して読んでいます。 しか~し! 聖書は難しいです。
教会に連なり、礼拝説教や兄弟姉妹の「証し」に学びながら読み続けることが大切だと痛感しています。

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讃美歌320番

2013-06-24 21:58:20 | 讃美歌
讃美歌320番は、昨日の礼拝のテキスト(旧約聖書創世記28章11~12節)を基に作詞されたものです。


1) 主よ、みもとに 近づかん
   登る道は 十字架に
   ありとも など 悲しむべき
   主よ、みもとに 近づかん

2) さすらう間に 日は暮れ
   石の上の 仮寝の
   夢にもなお 天(あめ)を望み
   主よ、みもとに 近づかん

3) 主の使いは み空に
   通う梯(はし)の 上より
   招きぬれば いざ登りて
   主よ、みもとに 近づかん

4) 目覚めて後(のち) 枕の
   石を立てて 恵みを
   いよよ切に 称えつつぞ
   主よ、みもとに 近づかん

5) うつし世をば 離れて
   天駆(あまが)ける日 来たらば
   いよよ近く みもとに行き
   主の御顔を 仰ぎ見ん


原曲は元々民謡として以前より存在していたとも言われているようです。
詩は19世紀に英国の サラ・アダムス (Sarah Flower Adams)によって作詞されました。

現在知られている旋律は米国のローウェル・メイスン(Lowell Mason)によって書き起こされました。
豪華客船タイタニック号が沈没する際、沈みゆく船上で、同船のバンドメンバー(沈没で全員犠牲になる)が演奏したと言われています。


「主よ御許に近づかん・・・・」ここから聴けます。


英語の歌詞も載せます。

1. Nearer, my God, to Thee, Nearer to Thee!
  E'en though it be a cross That raieth me;
  Still all my song shall be, Nearer,my God, to Thee,
  Nearer, my God, to Thee, Nearer to Thee

2. Though like the wanderer, The sun gone down,
  Darkness be over me, My rest a stone;
  Yet in my dreams I'd be Nearer my God to Thee,
  (Repeat)

3. There* let the way appear Steps unto heav'n;
  All that Thou sendest me in mercy giv'n;
  Angels to beckon me Nearer, my God, to Thee,
  (Repeat)

4. Then, with my waking thoughts Bright with Thy praise,
  Out of my stony griefs, Bethel** I'll raise;
  So by my woes to be Nearer, my God, to Thee,
  (Repeat)

5. Or if on joyful wing, Cleaving the sky,
  Sun, moon, and stars forget, Upward I fly,
  Still all my song shall be Nearer, my God, to Thee,
  (Repeat)

  Amen




巣立って間もない<雀の子>です。 親鳥が給餌していました。


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「ヤコブの見た夢」

2013-06-23 22:10:49 | 説教
今日の説教 テキストは「創世記」28章10節~22節 タイトルは「ヤコブの夢」でした。

ヤコブはベエル・シェバをたってハランへ向かった。 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。
ヤコブはその場所にあった石を一つとって枕にして、その場所に横たわった。 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が
地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 見よ、主が傍らに立って言われた。 
「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。 あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 
(14節)あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。
    地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
(15節)見よ、わたしはあなたと共にいる。 あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。
    わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」そして、恐れおののいて言った。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。 これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。
ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。
ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、
無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、
すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。


策を弄して兄のエサウから「長子の権利」を奪ったヤコブは、兄から命を狙われます。
心配した母リベカはヤコブの嫁取りを名目に、ヤコブをはるか離れた自分の実家(故郷)ハランに旅立たせます。

たった一人で砂漠の旅を続けるヤコブの心には逃亡生活の寂しさ(孤独)と、自らの行為を悔やむ思いがあったことでしょう。
兄に対して犯した罪から逃れるように遠くに旅に出たヤコブは、心の上でも遠くに逃げたかったことでしょう。
彼が夢を見た理由には彼の反省の念があったに違いありません。

14節の主の言葉は、主がアブラハム、イサクに何度も言われた言葉ですが、
この時初めてヤコブにも、主は同じ言葉を言われました。

また15節の「わたしはあなたと共にいる」という言葉は聖書の中心メッセージ、福音の中心的メッセージです。
神を生きるよりどころとして生きてよい、神の愛にすべてを委ねて生きてよい、と言われているのです。

荒野の中で神に守られ神の家の中にいると実感できたヤコブはどんな幸せだったことでしょう。
ヤコブは己の弱さ、ずるさを知っているので、ここで神に誓願を立てました。
ヤコブの素朴な祈りには神への感謝が素直に語られています。
神に招かれ、ヤコブは神と共に生きることになり、その思いは彼の全生涯を支えるものとなりました。
天からの梯子は、この地上で逃れる場所の無いヤコブに天の道が示されたものです。

「ヤコブの梯子」はまた教会の礼拝であるとも言えます。
私達の信仰のために一人一人の所に下りてきてくださったイエスは天からの梯子です。 
天からの梯子は私たちの信仰の原型です。 私達は礼拝で神に出会えます。

私たちが教会を天の門、神の梯子として、初めから終わりまで神と共に生きるよう、私達も招かれています。

                                         (以上、文責はゆうゆうにあります。)




ヒメジョオンの花で花粉を集める<ミツバチ>


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愚かな鳩のようなエフライム

2013-06-22 13:03:07 | 今日の聖句
今日の聖句は「ホセア書」7章8節~12節 です。
エフライム*1) は諸国民の中に交ぜ合わされ エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった。
他国の人々が彼の力を食い尽くしても 彼はそれに気づかない。
白髪が多くなっても 彼はそれに気づかない。
イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。 
彼らは神なる主に帰らず これらすべてのことがあっても 主を尋ね求めようとはしない。 
エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。
エジプトに助けを求め あるいはアッシリアに頼って行く。
彼らが出て行こうとするとき わたしはその上に網を張り 網にかかった音を聞くと 
空の鳥のように、引き落として捕らえる。



4章~11章はホセアの預言がおおむね時代順にならべられているそうです。
そこでは、ホセアはアッシリアによるオリエント再編の怒涛に飲まれ、最後の時代を迎えた
北イスラエル混乱と苦難の根本的な理由を問うています。

上の聖句はイスラエルと諸国民の関係の中で、イスラエルの堕落が記されています。

ホセアは北イスラエルの滅亡(前721年)の直前まで、約二十年間にわたって活動した記述預言者でした。
サマリア*2) 陥落の時に、自分の預言を携えて、ユダ(南王国)に逃れ、そこで弟子たちによってホセアの
預言が編集されたと思われるそうです。

*1) エフライムは「北イスラエル王国」を指します。
*2) サマリアは北イスラエル王国の首都でした。




鬱陶しい梅雨空ですが、紫陽花の花色が映えていました。


明日は日曜日、美竹教会の主日礼拝は午前10時半から始まります。
過ぎた一週間を省み、これからの一週間の心の平安を祈る、静かな時間をご一緒に過ごしませんか。
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神殿娼婦

2013-06-21 17:59:48 | 今日の聖句
ダニエル書を読み終わり、ホセア書に入りました。

今日の聖句は「ホセア書」 1章2節です。
主がホセアに語られたことの始め。
主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。
この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」


ホセア書は前750年~722年ころに北イスラエルで活動したホセアの伝記と預言が記されていますが、
1章~3章はホセアの結婚生活とその破綻を伝える伝記的記事が書かれています。

ホセアは神の命令によってバアルという異国の神を祀るようになってしまった神殿の娼婦(聖娼)ゴメルと結婚し、
三人の子をもうけました。
「淫行の女」と言われるゴメルとの結婚は、イスラエルの民の偶像礼拝の罪を表しています。
(「淫行」は偶像礼拝を表します。)

神が三人の子供たちにつけた名前には、イスラエルの罪と神の裁きを表す名前でした。
罪の現実に対して神がもはやイスラエルの民を憐れまない、シナイ山でヤハウェとイスラエルの民との間に結ばれた
契約が破棄されたことを意味したものでした。

その後、夫のホセアを捨てて、聖娼に戻り、ついには奴隷に身を落としてしまったゴメルを神の命令によって、
ホセアは買戻し、再び妻にしました。
これは、イスラエルの罪にもかかわらず、神はなおイスラエルを愛されるというメッセージが表されているそうです。
このようなホセアの家庭生活の体験は「象徴行為」と呼ばれるもので、行為で神のメッセージを伝えているそうです。

神殿に娼婦、私はビックリしましたが、古代社会ではあり得たことなのでしょうか。

Wikipedia によると******************

古代近東地域における神聖娼婦 としてチグリス川とユーフラテス川に沿った古代近東にはバビロンのイシュタルの神殿を
はじめとした多くの聖地や神殿、「神の家」が存在しており、ヘロドトスは『歴史』の中で神殿売春の慣習を伝えている。
西暦4世紀にキリスト教を奉じるローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世が女神の神殿を破壊し、キリスト教化したことによって、
神聖娼婦の習慣は終了した。
古代メソポタミアの巫女は、寄進を受けた者に神の活力を授けるために性交渉を行う風習があった。
『ギルガメッシュ叙事詩』でもギルガメッシュの友エンキドゥの獣性を鎮めるために、娼婦を派遣して性交渉を行ったとの記録があり、
当時は売春行為は、現在とはかなり違い神聖な儀礼であった事がうかがい知る事ができる。   **************そうです。 

へぇ~そうなのですか~



<モノサシトンボ> 
雨の日が続いて公園に出かけられず、写真が撮れません。
在庫からイトトンボです。


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