ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

讃美歌508番

2014-07-30 13:16:29 | 讃美歌
讃美歌508番 「主よ、日に日に・・・」
先日の礼拝の最後に歌いました。 私は初めて歌った讃美歌でした。

1) 主よ、日に日に ましたまえ
   罪を悔ゆる まごころを
   きよめられる 身の幸を
   仕えまつる 喜びを

2) 主よ、日に日に なしたまえ、
   試みには 勝つものと
   みこころをば 知る者と
   みことばにぞ 立つ者と

3) 主よ、日に日に 見せたまえ
   のりとすべき 御姿を
   天つ家に ゆく道を
    とこしなえの 御栄を

フィリップ・ブリスは、19世紀アメリカに生きた作曲家で、ゴスペルという分野の開拓に寄与しました。
敬虔な父に育まれ、信仰を深くします。
人との出会いを通して音楽に触れ、若くして結婚し、音楽豊かな家庭を築きます。
音楽を教える教師として各地を回りました。
多くの讃美歌をつくり、ついに伝道者となって活躍しますが、峡谷で列車事故に遭い、亡くなりました。
実は一度助かっていたのを、妻を助けようとして、火の中に飛び込んだのだとか。
そしてあのタイタニック号の遭難のとき、救命ボートで漂う人々が、このブリスの「Pull For The Shore」を
歌っていたと伝えられています。
原詩では、すべての行が「More」で始まっています。
各節の一行目は、「もっと~を与えてください」
となっており、与えてほしいものが並んでいるわけです。
そのため、日本語の歌詞は訳詞というよりは、自由にその中から選び並べ替えて、
しかも「ましたまえ」「なしたまえ」「見せたまえ」と日本語の文法に合うような動詞を考えて用いてあります。
(以上、↑の解説は福岡市東区の香椎バプテスト教会のブログ「香柏だより」から引用させていただきました。 m(_ _)m )

↓ More の並んだ元の詩です。

   1.  More holiness give me,
     More strivings within,
     More patience in suff'ring,
     More sorrow for sin,
     More faith in my Savior,
     More sense of his care,
     More joy in his service,
     More purpose in prayer.

   2.  More gratitude give me,
     More trust in the Lord,
     More pride in his glory,
     More hope in his word,
     More tears for his sorrows,
     More pain at his grief,
     More meekness in trial,
     More praise for relief.
 
   
   3.  More purity give me,
     More strength to o'ercome,
     More freedom from earth-stains,
     More longing for home.
     More fit for the kingdom,
     More used would I be,
     More blessed and holy--
     More, Savior, like thee.


曲をお聴きになりたい方はココをクリックしてください。



一か月ほど前に孵った二羽のオオタカの雛は親からの餌を食べたり
水を飲んだりカラスを追いかけたり順調に大きくなっていました。


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昨日、29日は教会学校の夏の遠足でした。 楽しく過ごしてみんな無事に戻ったことでしょう。
CSの先生方、付添いの方々、お疲れ様でした。 m(_ _)m
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「証しを聴く耳」

2014-07-29 12:09:42 | 説教
7月27日(日) 礼拝説教
テキストは「イザヤ書」6章6節~8節 と 「使徒言行録」28章23節~31節
タイトルは「証しを聴く耳」 でした。

ドイツの神学者ボンヘッファーの著書「共に生きる道」は、クリスチャンとして生きる道筋をテーマに分けて書いてあります。
彼の生涯は波乱にとんだものでした。 彼は第二次大戦中ヒトラーに抵抗する運動をしました。
アメリカにわたり亡命のチャンスがあったのですが、故国に戻りヒトラーに捕らえられ、1945年終戦の三週間前に
刑場と露となって39歳で死にました。
上の本の中に「聴く奉仕」という項があります。
霊的生活の死、ということで、我々はともすると聴くことより話すことで他人を窒息させているのではないか、
という耳に痛い言葉が述べられています。

↓ 今日のテキストの中の「使徒言行録」28章26節~27節は、「イザヤ書」の今日のテキストの
後の聖句(イザヤ6:9-10)からの引用です。
イザヤ書6章9節~10節
主は言われた。「行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために。」


この聖句は、使徒言行録28章26節~27節では
『この民のところへ行って言え。
あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず 見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく 耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。
わたしは彼らを癒さない。』
  となっています。

パウロはユダヤ人が馴れ親しんだ言葉を使ってユダヤの人々に説教したのです。

神のこの言葉は預言者としてのイザヤには耐えられないものでした。

「イザヤ書」ではその先で(イザヤ6:13) 「しかし、それでも切り株が残る。
その切り株とは聖なる種子である。」
 と書かれています。
すべてが破れて初めて目覚める。 一度死ななくては新しい出発は無い、と述べています。

先日、中渋谷教会の及川牧師のメッセージでは日本の教会の衰退が語られました。
受洗者が増えず消えてゆく教会もあります。
しかし、まだ私たちは生き生きと希望を語るほどの絶望に至ってはいないのではないでしょうか。 
まだ死んではいない、だから新しく生きることができないでいる。
生き生きとした希望が語られる教会にこそ人々が集う意義があります。
これまでの生き方を葬るくらいの気持ちで臨まなくてはなりません。

預言者イザヤの聞いた言葉は、生き生きと希望を語るための絶望の言葉ではないでしょうか。 
イザヤもまた汚れた座に連座する者でしたのでセラフィムの一人が彼の口に火を触れさせ
汚れを取り除きました。 これは火によって一旦死ぬことを現わしています。 
火によって汚れが滅ぼされ、ホーリネスは、イザヤを、パウロを、そして私たちにも生かされています。 
私たちを滅ぼし、かつ活かす神の言葉。
クリスチャンを聴く耳を戴いています。

「讃美歌第二編」83番 「呼ばれています」から・・・・
   呼ばれています いつも
   聞こえていますか いつも
   はるかなとおい声だから
   よい耳を 良い耳をもたなければ

魂の耳を傾け、神と、そして人の言葉を聞きわける良い耳をもって今週も過ごしましょう。  (以上、文責はゆうゆうにあります。)


友人宅に咲いていた<ヒマワリ>です。


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「聖書を学ぶ会」(第五回)

2014-07-28 09:34:11 | 「聖書を学ぶ会」
昨日の礼拝前の10時から10時20分までは左近先生の解説による「聖書を学ぶ会」第五回目で、
聖書と罪について学びました。




   倫理的な罪(sin)は条文化はできず、物語で語るしかない。

   禁令があることによって人間は考える(選択する)存在になる。
   神はリスクを背負っても、人間の成熟を望まれた。
   人間は罪を犯してしまったが神は決して呪ったりはなさらなかった。

   人間には自立・選択・自由への渇望がある。
   「核の取り扱い」「クローン人間」の問題をみても、人間は生きることの困難さ、
   その試練、自らの限界、有限性を知った。

   “どこにいるのか?”という問いは場所ではなく、人間の立ち位置を問うている。
   人間は、私は・・・私は・・・と弁解し、あの女が・・・と責任を回避しようとする。


   神は人間を呪うことなく「皮の衣」を造って着せられた。
   皮の衣は当時、王子に着せる物だった。

   聖書の罪とは個々の行為、事情を捉えたものでなく“ずれた状態”を指している。


聖書が示す「罪」とは何か、というお話でした。
こういう問題になると聖書は本当に難しくて、自分でも理解できたのか、できなかったのか・・・・?
多分、理解できていないような気がします。 でも、めげないでファイト! (^^;)



山梨県長坂の友人宅のワンちゃん<メイ>です。
力の強いメイを以前はよく散歩に連れてゆきました。 が、腰痛の今年は無理でした。
力一杯ブラッシングしてあげました。 私の顔を見ると笑ってくれます。 (^-^)

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アモス

2014-07-26 08:36:24 | 聖書
「アモス書」を読み終わりました。
↓ 下は例によって「聖書事典」の解説から抜書きです。 
抜書きが多くて恐縮ですが、私はこうして書き出すと聖書がよりよく理解できるので・・・・ m(_ _)m
この項の解説は木田献一氏です。

アモス
ユダのテコア出身の預言者。 
北イスラエルの王ヤロブアム(前787-747)とユダの王ウジヤ(前783-739)の在位時代、ユダに大地震が起こる2年前、
おそらく前752年ころ、北イスラエルの聖所ベテルと首都サマリアにおいて、繁栄に慣れて横暴な支配を行っていた
支配階級に対して、厳しい批判の言葉を語りかけ、北イスラエル王国の滅亡を預言した。
このことによって、彼はベテルの祭司アマツヤによってユダに追放された(アモス12-13)

アモスという名は、この預言者以外に旧約の中では見られない。
名の意味は「担う」あるいは「担わせる」という動詞の分詞形で、「担う者」あるいは「担わせる者」の意味である。
人間は、それぞれ神の課せられた責任を担うべきであると言う意味に解すれば、この預言者にとって
ふさわしい名であると言ってよい。
自分の名を巻頭に記された預言者の書を遺した最初の預言者である。

アモスは預言の書を遺した最初の預言者であるが、その文体・内容ともに古典的は拡張を持つ最もすぐれたものである。
古代イスラエル預言の真骨頂を示すものと言ってよいであろう・・・・・・・


ユダのテコヤから神に召されて北イスラエルの聖所や首都に出かけて預言をしたアモス。
しかも、当時繁栄の絶頂にあった(繁栄を享受していたのは支配階級だけでしたが)イスラエルの滅亡を
預言したのですから勇気のあることです。
神からの召命は個人の思惑や逡巡を赦さない強烈なものなのですね。



友人たちとブルーベリー摘みにゆきました。
ブルーベリーの実が色づく様はとても綺麗です。
病気の連れ合いに留守を頼んで山梨の友人の家に遊びにゆきました。
一面の緑、八ヶ岳、甲斐駒を望む絶景の中で命の洗濯をしてきました。
こうして出かけられることに感謝です。(神様に感謝、そして連れ合い感謝。)


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明日は午前10時半から主日礼拝、礼拝前の10時から10時20分まで「聖書の学びの会」の5回目です。
聖書について、明日はどんなお話が聴けるのでしょう、楽しみです。
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讃美歌234番 A

2014-07-22 10:01:07 | 讃美歌
先日の礼拝で歌いました。

 1、昔 主イエスの 播きたまいし  いとも小さき 命のたね
   芽生え育ちて 地のはてまで  その枝を張る 樹とはなりぬ。

 2、歴史の流れ 旧きものを  返らぬ過去へ 押しやる間に
   主イエスの建てし 愛の国は  民よりたみへ 広がりゆく。

 3、時代の風は 吹きたけりて  思想の波はあいうてども
   すべての物を 超えてすすむ  主イエスの国は 永久に栄えん。

 4、父なる神よ み名によりて  世界の民を ひとつとなし
   地をばあまねく み国とする  みちかいをとく はたしたまえ。

↓ ネットからの引用です。
作詩者由木康(1896-?)氏は関西学院文学部を卒業、日本キリスト教団東中野教会牧師を務めた。
その間、青山学院神学部その他で聖歌学を講じた。
この歌は彼が昭和6年版「讃美歌」の編集に携わっていた時、社会的な歌の少ないことに気づき、
それを補うつもりで作ったものである。
イエスのからしだねの譬えを主題とし、それを展開していくうちにおのずから一篇の歌ができた。
「歴史」「過去」「時代」「思想」「世界」等の漢語を用いたのも、当時としては新しい試みであった。
Vibbertの明るい曲を配せられて、出版後まもなく全日本に行きわたった。
作曲者W.H.Vibbertは1839年生まれのアメリカの牧師であるが、ワッソンの讃美歌曲目索引に載っている
彼の作品はこの曲のみであり、収録讃美歌集も1点しか挙げられていない。

「からし種」のたとえ   マルコによる福音書4章30-32節
更に、イエスは言われた。「神の国は何にたとえようか。 どのようなたとえで示そうか。 それは、
からし種のようなものである。 土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長して
どんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」



この讃美歌のメロディを Youtube で探したのですが、見つけられませんでした。 探し続けているうちに
下の素晴らしい絵に行き当たりました。 「春ケ丘バプテスト教会」のページに載っていたものです。


この『朝の祈り』を描いた画家は、北海道の近代洋画壇をリードした林竹治郎で、
本物は北海道立美術館に保存されています。 実際、この絵の中で母親の膝に伏せて
祈っていた幼い子どもは、医師となられた林文雄氏で、生涯をらい病の治療にあたられました。
当時、療養施設の患者であった人は「林先生は医者であられましたが、
私たち患者の仲間のような生活をされていました。」と証言されたそうです。
この絵に添えられている言葉があります。・・・
子らに残すことば一つ―――キリストは私の家の主です。
毎日の食卓に迎える見えない客です。私たちの会話の静かな聞きてです。 林竹次郎 1904年


思わず背すじを延ばし(遅きに失するものではありますが)自らの愚かだった子育てを改めて深く反省いたしました。


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幼い日に神様を知る、すべてを造り見守っていられる方の存在を知ることほど大きな宝はないように思います。
お父様、お母様、教会の扉を押して、お子様を是非教会にお連れください。
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「光を語り告げる」

2014-07-21 09:27:27 | 説教
7月20日(日)の礼拝説教
テキストは「イザヤ書」9章1節~6節 と 「使徒言行録」26章19節~32節
タイトルは「光を語り告げる」 でした。

先週の伝道礼拝は十数名の新しい方や久しぶりに教会に来られた方を迎えられて感謝でした。 
すぐに実を結ばなくても伝道礼拝に向けてなされた様々な働きは新しい種となるに違いあません。 
祈りの道を歩み出しましょう。
パウロは伝道旅行で、行く先々で洗礼を授け、信者を増やし指導者を育て教会を建て、
教えはアジアへ、マケドニア、ギリシャ、ローマへと広がっていきましたが、
信仰の先達がたどった道を私たちもたどっています。

使徒言行録に記されたパウロの旅は決して順調なものではなく、投獄されたり石を投げられたり、
無関心のうちに迎えられたり困難の連続でした。
今日のテキストもパウロの伝道の一つの姿を記しています。

ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙、ガラテヤ信徒への手紙など、パウロの手紙を読むと、
パウロが理を尽くして信仰を説いていることが分かります。
教義、教理、倫理を弁証する論考(私の読みにくいメモ書きは平仮名で“べんしょうのろんこう”としか
読めません(^^;))となっています。
パウロの教えは、一時的な感情でキリストに依るのではなく理性をもってじっくり受け止め、
問いながら知恵を持った理解を求める、そういう信仰に導くものです。 
パウロの豊かな力に目を奪われるのではなく、彼の語るイエスに照準を合わせて読まれる書です。
例えばマザーテレサの人生は、キリストを指し示す人生をパウロと共にたどった人生だったと言えます。 
そして最初にこの道(キリストを指し示す)を示したのは洗礼者のヨハネでした。
彼自身は「光」ではなくひかりについて証しをする人でした。(ヨハネによる福音書1章8節)

ウンターリンデン美術館にグリューネヴァルトの描いた「洗礼者ヨハネ」の絵があります。
この洗礼者ヨハネのイエスを指し示す人差し指は異常に長く描かれています。 
その指の先に「あの方は栄え、私は衰えねばならない(ヨハネ3:30)」という文字が書かれています。
その前の節、29節でヨハネは「わたしは喜びに満たされている」と言っています。
ご存じのようにヨハネはイエスが十字架にかかる前にヘロデ王に殺されています。
この絵のように磔刑のイエスの脇にヨハネはいないはずです。
しかし、彼は、探し求めていた救いはこの方にあると指し示し死んで行きました。
パウロも、また、クリスチャンはこの喜びを知っていました。

使徒言行録26章13節で、パウロはアグリッパに自分の回心について語り、26章16節では、
パウロを証人とするために主がパウロの前に現れたことを語りました。
光を証しする者としてパウロは活き活きと生かされました。
パウロの指し示す光、これからのパウロの道は厳しいものかもしれないが、パウロは光を語り続け、
指の務めを果たし続けました。 
真の自由、神の許への道を説き明かしたのです。
難しい道のようですが、悔い改めとは、光の先に、光に照らされて初めて知る闇の暗さ、深さ、
罪のおぞましさを知り、そこから(心を入れ替えるのではなく)身を転じて心を回転させることです。
光に照らされて見た自らの闇、その闇から心が回転し(回心し)光を指し示す指となることです。

パウロの頭がおかしくなったと決めつけるフェストゥスより理解力のあるアグリッパに
パウロ私のような(キリストを指し示す)指になって欲しいと迫りました。
光に打たれて闇に触れた、イエスに出会って罪に打ちひしがれた、生に満たされて死の空しさに触れた、
このわたしのように指になってくださることをパウロは神に祈りました。(使徒26:29)

この祈りは私たちのためにも祈られています。
私たちもこの祈りを祈り続けましょう。              (以上、文責はゆうゆうにあります。)



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主日礼拝、朝の美竹教会です。
綺麗に咲いている花はNご夫妻がお世話してくださっています。
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エフライムの回復と祝福

2014-07-18 12:53:26 | 今日の聖句
今日の聖句は「ホセア書」 14章5節~10節 です。
私は背く彼らをいやし 喜んで彼らを愛する。
まことに、私の怒りは彼らを離れ去った。
露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花咲き 
レバノン杉のように根を張る。
その若枝は広がり オリーブのように美しく レバノン杉のように香る。
その陰に宿る人々は喜び 麦のように育ち ぶどうのように花咲く。
彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる。
ああエフライム なおも、わたしを偶像と比べるのか。
彼の求めにこたえ 彼を見守るのはわたしではないか。
わたしは命に満ちた糸杉。 あなたは、わたしによって実を結ぶ。
知恵のある者はこれらのことをわきまえよ。
わきまえある者はそれを悟れ。 主の道は正しい。
神に従う者はその道に歩み 神に背く者はその道につまずく。



ホセアの結婚と三人の子供の命名の由来を記した第一部、ホセアが語った預言を記した第二部と、
ホセア書を読み終わりました。 
厳しくイスラエルを糾弾した預言の最後はエフライム(北イスラエル)の回復と祝福の言葉でした。
下は木田献一著「旧約聖書の概説」から「ホセアと北王国の滅亡」の項よりの抜書きです。
いつもコピー&ペーストで恐縮ですが、聖書に関する知識がほとんど無い私にとっては、
こういう解説がとても参考になります。 ふ~む、なるほど、そうなのか~ デス。


『ホセアは、神の民としてのイスラエルの回復をどこまでも願い、また可能性を信じていたが、
イエフ王朝をはじめ、北イスラエルの王国の正当性を全体として拒否していた。
北イスラエル王国の滅亡の直前に、北イスラエルの古き良き伝統を担うグループは、
退廃したサマリアの支配者を中心とする王国を捨て、預言者イザヤとヒゼキヤ王の指導するユダに
亡命したのであろう。 
この人々によって、エリヤ・エリシャ伝、エロヒスト、ホセアの預言などが現在に伝えられたと思われる。
ホセア書1章1節を見ると、ホセアが北イスラエルの出身で、北イスラエルで活動した預言者であるにもかかわらず、
まずユダの王の名がウジヤからヒゼキヤまで列挙されているのはそのためであろう。』

『ホセアの預言は特に王と王国の政治的現実に対して厳しい批判を語りかけている。
直接王を批判したり、王に審判を告知している言葉の個所をみると、ホセアはイスラエルにおける
王国の成立そのものを不当として拒否していたように思われる。』



   今年の紫陽花は終わりましたね。


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黙示録とは

2014-07-16 18:11:39 | 今日の聖句
今日の聖句は「ヨハネの黙示録」5章5節~10節 です。

わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような子羊が立っているのを見た。
子羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である。
子羊は進み出て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った。
巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と香のいっぱい入った金の鉢とを
手に持って、子羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである。
そして、彼らは新しい歌をうたった。
あなたは、巻物を受け取り、
その封印を開くのにふさわしい方です。
あなたは、屠られて
あらゆる種族と言葉の違う民、
あらゆる民族と国民の中から、
御自分の血で、神のために人々を贖われ、
彼らをわたしたちの神に仕える王、
また、祭司となさったからです。
彼らは地上を統治します。



前回「ヨハネの黙示録」を読んだのは去年の3月のことでした。
難しくて結果としては読み流しただけだったのですが、それなりに苦労しながら取りまとめのような記事を
このブログに載せました。 悪戦苦闘の取りまとめはカテゴリ「ヨハネの黙示録」として掲載しています。
非力な私には今回も黙示録は難しく、残念ながらまた読み流しになりそうです。 

今日は「黙示録」とは? と言うことで、ネット検索でヒットした解説を読みました。
(解説 その一) 
新約聖書の最後の一書。 95年ごろローマの迫害下にある小アジアの諸教会のキリスト教徒に激励と警告を
与えるために書かれた文書。 この世の終末と最後の審判、キリストの再臨と神の国の到来、信仰者の勝利など、
預言的内容が象徴的表現で描かれている。
(解説 その二) 
黙示はギリシャ語の「アポカリュプス(古代ギリシア語: 'Aπōκάλυψις)」の訳で「覆いを取り去る」
「隠されていたものが明らかにされる」つまりは啓示を意味していて、紀元前3世紀頃から紀元後数世紀の
いわゆる後期ユダヤ教の内外で起こった文学運動を「黙示文学」といいます。
一番有名なのは、新約聖書にある「ヨハネの黙示録」なのですが、旧約聖書の「ダニエル書」も
黙示文学として分類されています。 英語は revelation
(解説 その三)
『ヨハネの黙示録』は、単に『黙示録』あるいは『ヨハネによる黙示録』、『神学者聖イオアンの黙示録』
(日本ハリストス正教会)、『使徒聖ヨハネ黙示録』(天主公教会)ともいわれ、プロテスタント福音派では
(冒頭の言葉から)『イエス・キリストの黙示』と呼ばれることもある。 
現代訳聖書では『ヨハネが受けたキリストの啓示』である。

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↓ 下の写真は教会の受付に置かれた
「リタイアされた教職の方々への100円献金」の募金箱です。

私の姉のお連れ合いが教会の牧師でしたが、教会員の献金から
謝礼をいただいていた現職中も、それはそれは倹しい生活をしていました。
生涯賃金が低いため、リタイア後の年金生活もとても質素なものです。
少しでも多くの方が末永く心に留めて「100円献金」をしてくださいますように!
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「追いかける神」

2014-07-15 17:32:29 | 説教
7月13日(日) 伝道礼拝の説教は テキスト「詩編」23編1節~6節 と 
「ヨハネによる福音書」10章11節  タイトルは「追いかける神」 でした。

30年くらい前、両親は私を「屋根の上のバイオリン弾き」というミュージカルに連れて行ってくれました。
私が初めて観たミュージカルでした。
100年以上前のロシアに住むあるユダヤ人の家族の喜びや悲しみを描いた物語です。
家族の間でもこれまで普通と思っていたことが通じなくなったりということがあり、最後はロシア政府による
ユダヤ人差別や迫害で住み続けてきた村を追われます。
全体を貫くテーマが私たちの心を捉えるのですが、劇の中で主人公は「ユダヤ人は屋根の上のバイオリン弾きである。
常に落ちる危険をもっている。当たり前の生活がいつ危うくなるか分からない」と語ります。
これは現代の私たちにも当てはまります。 一歩間違えば屋根から転落する、しかし日々は力の限り喜びながら歌を歌う。 
私たちも又、屋根の上のバイオリン弾きである、ということが主題です。
これは聖書の信仰の一つの側面を現わしています。

詩編23編はユダヤ人に大事に歌われてきた詩で、一見、牧歌的な歌にみえます。
しかし彼ら、ユダヤ人の歴史は非情なものでした。
紀元前8世紀、強国アッシリアは北イスラエルを滅ぼし、殺し、紀元前6世紀にはアッシリアにとって代わった
バビロニアに、その後もペルシア、ギリシャ、ローマと、ユダヤ人は繰り返し迫害と殺戮に曝された民族でした。
詩編は屋根の上から叩き落されるような生き方を余儀なくされた人々の信仰の書です。
人一倍苦しんだ人々が神と人間の間に紡ぎだした言葉の集まりです。

23章の“死の陰の谷”は地底の漆黒の闇のことです。
ヨブ記にも鉱山のことが出ていますが、ソロモンの時代から死海の側の高原では銅の採掘がおこなわれていました。
2010年8月にチリで起こった鉱山事故の際、助け出された人のTシャツに「詩編」95編4節の言葉
深い地の底も御手の内にあり・・・」が印刷されていました。 
苦しみにある人々は暗闇で神に出会ったのです。

弱く迷いやすい羊のような人間を守るイエスは私たちの羊飼いです。
詩編23編は「主は我が牧者」「水辺」「牧草」と長閑な光景にみえますが、水中には鰐が、草陰には猛獣が
草食動物の羊を狙っています。 
この場で憩い安らえるのは闘ってくださる羊飼い、イエスがいるからです。 
命を生き返らせる人がいるからこそ憩えるのです。
私たちを正しい道に導いてくださるイエス。
正しい道とは倫理的道徳的なことを言っているのではなく「神の義=命に至る道」に導かれることです。
人間は道、つまり救いの轍(わだち)から逸れやすく、轍から迷い出ることは命の望みが絶たれてしまうことです。

小学一年生の娘を交通事故で突然失い「涙は涸れることが無いことを知った」と言ったお母さんがいます。
自分の力ではどうしようもない哀しみに出会った時、私たちは消えることの無い深い悲しみに打ちひしがれ、その時、
簡単に義の轍を踏み外してしまいます。
しかし、くずおれる私たちの脇には、常に命の道を整え、私たちを守る神がおられます。

詩編23編は、迷って動けない者を背負ってくださる神、恵みと慈しみの神の詩です。
ずっと追いかけて下さる神、私たちは義の道を踏み外しても又、魂の故郷に戻ってこられるのです。

そのことを、御自身の身体をもって示して下さったイエスの御言葉が「ヨハネによる福音書」10章10節~11節です。
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。


崩壊した世界にあっても命の詩は失われない、主は私の牧者です。
教会が皆さんにとって憩いの水辺となりますように。       (以上、文責はゆうゆうにあります。)



野草園に<ミゾハギ>が咲いていました。


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「聖書の学び」 第4回

2014-07-13 22:29:58 | 「聖書を学ぶ会」
美竹教会では、隔週の礼拝前(10時~10時20分)に左近先生が聖書について
易しく解説してくださる「聖書を学ぶ会」がもたれています。
今日は第4回でした。


  創世記2章の書き出しは1章と違っています。
  1章が「天と地」と大きな広い空間から地上にズームインしているのに対して
  「地と天を造られた・・・」と地上から見ていってズームアウトしています。
  2章の人間観が1章と違っていることを表しています。

  2章が書かれたのは1章が書かれたBC6世紀以前のBC10世紀と言われています。
  この時代、パレスチナの周囲の大国、エジプトやメソポタミアは内憂の時で、外に向かう力が弱く
  パレスチナは戦争も無く安全度高く、経済的にも発展し栄えました。
  この時代のダビデ王、ソロモン王は勿論優秀な王でしたが、時も味方したと言えます。
  エルサレムに人口が集中し、失敗者、落伍者は奴隷となったり、今よりもひどい格差社会でした。
  富める人間は傲慢になり、自分たちを神のように思っていました。
  創世記2章はそのような背景の中で書かれました。

  アダムというのは一人の人を指すのではなく the human being という意味です。
  神が息を吹き入れて生まれた人間は、神の息が止まれば死ぬだけです。
  クローン人間が作られたとしてもその元となる遺伝子を造ることはできません。
  聖書は科学や進歩を否定するものではありませんが、最後の最後、最終的判断は人間にはできません。
  (↑ クリスチャン科学者の話しもされたのですが、よく覚えていません。m(_ _)m )


  創世記2章を踏まえたボンヘッファーの言葉です。
  人が単独で孤独でいるのは良くない、他者との交わりの煩わしさに孤独を求めたとしても、
  独りでいることが逃げ道になっていることを認識するように、と言いました。


  
  <ホオズキ>の実が赤くなってきました。


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一人でも多くの方が、今、私がそうであるように、キリストによる平安に与かり、
生きてゆく希望を持たれますように!
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