ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「栄光の御姿」

2012-10-28 22:13:09 | 説教
今日の説教は「栄光の御姿」と題して、テキストはマタイによる福音書17章1節~8節でした。

この部分は「聖なる出来事の記述」と言われるところで(聖書は信仰をもって書かれていますので)
クリスチャンでない方々には理解が難しいと思われるところだそうです。

話の内容は************
イエスは弟子の中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて高い山に登られました。
頂上では、弟子たちの目の前でイエスの顔や姿が光り輝くように変わり、そこにモーセとエリヤが現れイエスと語り始めました。
ペトロは「主よ、私達がここにいるのは素晴らしいことです。ここにモーセとエリヤとあなたのために仮小屋を三つ立てましょう」と言います。
この時、光り輝く雲が弟子たちを覆ってその中から「・・・これは私の心に適うもの、これに聞け」という声が聞こえました。
弟子たちは非常に恐れ、ひれ伏してしまいます。
イエスは近づいて弟子たちに手を触れて「起きなさい、恐れることはない」と言われました。
彼らが顔を上げるとそこにはもうイエスのほかはだれもいませんでした。*************************というものです。


弟子たちは、この六日前に、自分はこれから咎人として(みじめな)十字架にかかって殺される、とイエスから聞かされて
意気消沈していたことと思います。
自分たちの敬愛する師がいなくなるという寂しさ悲しさに打ちひしがれる思いだったかもしれません。 
そんな時、山頂で光り輝くイエスの栄光の御姿をみて欣喜雀躍、どんなにか嬉しかったことでしょう。
ペトロは嬉しさのあまり仮小屋云々・・・・と言いましたが、自分で何を言っているのかわからないくらい興奮していたに違いありません。

モーセはイスラエルの民をエジプトから救い出した人物、エリヤは旧約最後の預言者で、この二人は旧約全体を代表する人物です。
その二人とイエスの話していた内容は「エクソドス」=「栄光への脱出」についてだと思われます。

栄光への脱出は復活を意味し、そしてそのためには十字架の出来事が不可欠です。
十字架のイエスは惨めな姿に見えますが、これは栄光への脱出なのであって、本当は決して惨めなものではないのです。

ここでは神はイエスを、十字架の決意を受け入れた者として「私の心に適うもの」といわれ祝福されたのです。
そして弟子たちには「これに聞け」と語られました。

ここではまた聞くことの大切さが述べられています。

そして「聞け」という御言葉は三人の弟子たちと同時に私達にも語りかけられています。
主は「これを見よ」とは言われませんでした。 見るだけでは出会いは起こりません。
「聞く」と言うことは主の心の奥の声を聞くことです。
礼拝に集い、主の御言葉を聴き、主とともにこの世の中で生きてゆきましょう。



<コゲラ>

  

このようなお説教だったと思いますが、メモを取って聴いているのに相変わらず自信なしです。(^^;)
上田牧師の説教は美竹教会のホームページに掲載されます。
ぜひお読みください。
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アルフォンス・デーケン先生講演会

2012-10-22 13:24:24 | 美竹教会
昨日のアルフォンス・デーケン先生の講演会は無事に終わりました。

どれくらいの方がいらして下さるか、とても心配でした。
私は一階に座ったのですが通路にパイプ椅子を一列並べてそれも全部埋まっていました。
二階、地階は見なかったのでわかりませんが、心配したほどガラガラでなく、押すな押すなの状態でもないくらいの
盛況だったようで、本当に良かった!です。

デーケン先生のお話は冗談も交えて分かりやすく、あっという間の1時間半でした。
質問にもエピソードを加えて丁寧に答えて下さり、質疑応答もとても充実したものでした。

まずお話の始めに、日本に来た最初にデーケン先生は、日本人にはタブー視されている「死」の問題を子供の頃から
きちんと教えるべきだと考えて「死生学」を研究テーマとしたことを話されました。 

そのあとは「第三の人生」をいかに生きるか、ということを中心に据えられて「よく生き よく笑い よき死と出会う」
その方法を話されました。

日本では第二の人生という言葉がありますが、外国では「第一の人生」は学生として学ぶ時期、「第二の人生」は社会人として
働く時期、そして定年後が「第三の人生 the third life 」と呼ばれるそうです。
第三の人生を大切に生きましょう!というテーマは今の私に切実なもので、有意義な講演を伺えて大満足でした。

レジュメに沿って箇条書きですが講演内容を書きます。

◎ 豊かな「第三の人生」を生きる
  ・自己実現を目指して 潜在的能力の開発  オプティミストとペシミスト  
             思い煩いからの解放  問題(problem)と神秘(mystery)の次元の違い

◎ 癒しと希望  音楽、芸術、読書などによる精神的癒し
         出会いによる癒し 共同体体験による癒し~ホスピス・ボランティアへの期待~

  ・苦しみの意義 ~永遠の生命への希望~
   この中で教えていただいた希望への祈りは素晴らしいものでした。
   「神よ、私に変えられないことはそのまま受け入れる平静さと、変えられることはすぐにそれを行う勇気と
    そしてそれらを見分けるための知恵をどうぞお与えください。」という祈りです。

◎ 生と死を考える
  ・死への準備教育(death education)
  ・高齢社会におけるクオリティオブライフを考える
  ・悲嘆教育の果たす役割  ここでは悲嘆のプロセスの12段階の説明がありました。
  ・発想の転換 人生の最終章に向かっての準備を話されました。

最後に ◎ ユーモアはこころのかけはし ということで
      ・コミュニケーションとしてのユーモア
      ・自己実現としてのユーモア  これは~愛と思いやりの人間的表現~として
       「ユーモアとは『にもかかわらず』笑うこと」というドイツの有名な定義を教えて下さいました。

質疑応答の「死」に関する問に対して、デーケン先生は「クリスチャンにとって死は終わりではなく通過する門で
そこを通って神様の御許に行く、という希望の通過点なのです
」と話されたのは感動的でした。

以上がざっとしたまとめ、というか私の覚書です。
デーケン先生は御著書もたくさんありますので、興味がおありの方は是非お読みください。






私としては友人が三人も来てくれて、それもとても嬉しくて感謝な一日でした。
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ダビデ王の物語 6

2012-10-18 15:10:10 | ダビデ王の物語
間が空いてしまいましたが「ダビデ王の物語」 今日が最後です。

*******************************************************
謀反を企てた息子のアブサロムが殺されてダビデ王は無事ヨルダン川を渡ってエルサレムに戻りました。

その後もシェバと言う名前のならず者の反逆にあったり、飢饉が襲ったり、ペリシテ人と闘ったりが続きます。
ペリシテ人との戦いに出陣し闘ったダビデですが、王が疲れているのを見た家来たちは「以後、私達と戦いに
出ないように、イスラエルの火を消さぬように心がけてください」とダビデに誓わせました。 良い家来たち!

ここで「ダビデの感謝の歌」 「ダビデの最後の言葉」が挿入されます。
ダビデは竪琴の名手でしたが、歌にも優れていて「詩篇」にはダビデの作った詩がたくさん載っています。

その後、ダビデは人口調査をしますが、これに関するエピソードは私には少々理解できません。
そもそも、主が「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデ王を誘ったのです。
ダビデ王からの命令を受けた直属の軍の司令官ヨアブは「王はなぜこのようなことを望まれるのか」と反対しますが、
王の命令が厳しかったのでしぶしぶ従いました。 このヨアブも魅力ある人物、良い家来ですね~!

(何故か)人口調査を悔いたダビデは主に謝りますが、主はイスラエルに疫病をもたらして懲らしめます。
7万人の民が死んだ後、さらに御使いは災いをエルサレムまで延ばそうとしましたが、主はそれを止めました。
御使いが民を打つのを見てダビデは嘆き「罪を犯したのはわたしです。この羊の群れが何をしたのでしょう。
どうか罪は私と私の父の家に下りますように」と祈ります、偉い! ダビデ!

それにしても、24章1節には“主がダビデをそのように誘われた”とハッキリ書いてあるのに、何で罰せられて
災いを受けなくてはならないのでしょう??? 
理解できませ~ん。(笑)

民から疫病を除くために、ダビデは命じられた場所に祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、
主はその祈りにこたえてイスラエルに下った疫病はやみました。

これで私の読んだ「ダビデ王の物語」は終わりです。 ダビデ王、魅力的な王様、魅力的な人間です!



今日の野鳥は<ノビタキ>です。
    夏鳥として日本の山で繁殖し、今の時期越冬のために南の島に渡ります。
    渡りの途中、東京の公園などにも立ち寄って餌を食べて体力をつけます。
    秋の風情が似合いすぎの可愛い野鳥です。
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初めて教会にみえた方

2012-10-14 21:48:52 | 美竹教会
嬉しいことに、今日は初めて美竹教会にいらしたという方がいました。
美竹教会のホームページを見て来られたそうです、バンザイ!

若い男性でした。 若い方! 嬉しいことです。
あ、勿論お年を召した方も嬉しいです!!  (^-^)

美竹教会では、初めての方は礼拝のあと上田牧師がお名前を呼んで紹介し、
教会員が拍手をして、歓迎というか、それで終わりのようです。

初めて見えた方に教会のオリエンテーションのようなものをする担当の方はいないのでしょうか。
私としてはもう少しホスピタリティというか、ようこそ!と、もてなす方法がないのかしら、
と思うのですが如何なものでしょう。

人見知りの方だったら静かに礼拝に出席して静かに帰るということを喜ばれるかもしれませんね。

そのうちチャンスがあったら長老の方か、牧師夫人にでもお訊ねしてみましょう。
また、よその教会ではどんな風にしているのか知りたいものです。

今日は、私一人でその方を歓迎することにいたしましょう。
何をするってワケではありません。
ちょっと珍しい野鳥の写真をプレゼントします。

<マミチャジナイ>という面白い名前の野鳥です。
夏、日本の山で子育てをして、今の時期、越冬のために南の島に渡ります。
渡りの途中に都市公園に立ち寄って採餌したり羽を休めたりするようです。




初めていらした方、ようこそ、美竹教会へ!



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「兄弟を得るために」

2012-10-12 13:04:02 | 説教
7日の日曜礼拝の説教は神学生の姉妹によって、マタイによる福音書18章21節~35節をテキストになされました。

神様に対して徹底的に罪びとである私達、主が十字架にかかり復活することによって許された私達、
その恵みは、喩(たとえ)として1万タラント(なんと当時の労働者の17万年分の収入)という測り難い大きさを
もって語られています。

神の前に同じように罪びとであり同じように許されている者同志がはたして隣人の罪を裁く者となれるのでしょうか。

そして、その兄弟の罪が自分にかかわりのない場合、私達はどこまでかかわるのかが問題です。
ともすれば私たちは無関心となりがちです。
教会の兄妹が主の道から外れた場合、これを放っておくのは無関心ということになり、この無関心とは
愛の正反対の行為です。

この友を、自らも罪人であるというへりくだった気持ちを持って諌めることは「自分を愛するように
隣人を愛する」行為と言えます。

主の道から外れた友に無関心でいることなく愛をもって諭す、それは忠告することではなく共に祈ることです。
私たちがなすべきことはは兄弟の罪を糾弾することではなく、ただ一緒に祈ること、それが大事なことです。
その時、神様は私たちの真ん中に立っていて下さいます。

それらの行為は秘密裏に行うべきで、教会の兄妹同士の訓練の一環であり、教会の規則ともなります。




   <キビタキ(♂)> 夏に日本の山で繁殖を終わって、今の時期、南の国への渡り途中に
                東京の公園にも立ち寄ります。




子ども説教は「7の70倍まで」と題して上田牧師がなさいました。

皆さんは喧嘩をした時どうしますか、イエス様は7の70倍まで許しなさいと私たちに仰っています。
1万タラントの借金を帳消しにされた家来が百デナリオンの取り立てを厳しくして、王様に罰せられる例が出ています。
テキストの中のお金、1万タラントは今のお金で6千億円、百デナリオンは100万円です。
人に対して怒っても夕方までには許しなさい、というお話も聖書には出ています。
皆さんもお友達が悪い、と思っても許しましょう。


最初このテキストを読んだ時、私も上田先生の話されたようなメッセージとして受け止めました。
神学生の姉妹による説教は思いがけない視点からのもので、とても新鮮でした。
下線の部分が理解イマイチで、私の聞き間違い、聞き漏らしかもしれません。 (^^;)
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アルフォンス・デーケン神父の講演会

2012-10-08 12:37:42 | 美竹教会
「死生学」の提唱者であり、研究者であるアルフォンス・デーケン先生の講演会が二週間後に迫りました。
今頃になって、どれ位の方が来て下さるかが心配になってきました。
一人でも多くの方がきてくださいますように!

**************************************************

日時: 10月21日(日) 午後1時半~3時半
タイトル: 「よく生き よく笑い よき死に出会う」
場所: 美竹教会 (下の地図をご参照ください)
入場無料です! どなたでもご自由にお入りになれます。


(クリックして大画像でご覧ください)


「講演会が成功裡に終わりますように・・・・」とお祈りする毎日ですが、
「どうぞ実り豊かな会としてください」という先週の礼拝当番の長老さんの祈りに打たれました。
神様の御心が余すところなく伝えられる豊かな会となることが大切なんだ、と改めて思いました。

余談ですが、礼拝に出席して牧師先生のお説教を聴くのは勿論幸せですが、私はいつも司会者の
最初の祈りに深く共感し心を打たれ、自分が祈ったかのように満たされます。
祈りを一つにするというのはこういうことでしょうか・・・・・単なる便乗?・・・・(^^;)



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「信仰の冒険」

2012-10-04 12:25:37 | 説教
9月最後の日曜日、礼拝説教のテキストは<マタイによる福音書14章22節~33節>でした。

五千人に食べ物を与えた奇跡のあと、イエスは、興奮してイエスを王としようとする群衆から弟子たちを
離れさせてガリラヤ湖の対岸に向かわせました。
そしてご自身は「全人類の救い」という神の御心を行うために一人静かに祈るため、山に登られました。

弟子たちの乗った船は対岸に向かう途中、突然の高い波に悩まされていました。
するとその時、イエスが湖上を歩いて弟子たちの所に来られました。
弟子たちは最初は幽霊かと恐怖にかられましたが、イエスだと知って喜びます。

恐怖のどん底から喜びの絶頂・・・・嬉しさのあまりペトロはイエスに「主よ私に命令して水上を歩いて
そちらに行かせてください」と言いました。
「来なさい・・・・」主に招かれたペトロは水の上を歩いて主に向かいましたが、フト強い風に気づいて
怖くなり、沈みかけました。
「主よ助けて下さい!」と叫んだペトロに イエスはすぐ手を伸ばして「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」
と言われました。

この話は、イエスが水上を歩いたことが主題ではなく、大切なのは「嵐の中で沈みそうな船上の弟子たちを
イエスが助けに来られたこと、そして溺れそうになったペトロを助けられた」ことです。

この箇所は「信仰とは何か」ということを教えられるところです。
信仰の訓練、信仰を鍛えるためのエピソードが描かれている、とも読めます。

近いうちに主はいなくなり、弟子たちは自分たちだけで教会を作らねばならない、嵐の中の小船のように
教会は困難に立ち向かわなくてはならない・・・・・

ペドロの行為もそうでしたが、教会はそれからもずっと嵐の中の小舟のように困難に立ちむかってきました。
今も教会は信仰の冒険を繰り返しています。

「見よ、私は常に世の終わりまであなたたちとともにある、これは真実である」
嵐の中の弟子を助けに来られた主、沈みそうなペトロにすぐに手を差し伸べられた主、
ここでは、主は常にともにいてくださる、私たちを置き去りにすることは決してない、ということが
語られています。

ペドロは主のみを見ていた時には水上を歩けたましが、風や雨、波、嵐に心が向いたとき(祈りを忘れた時、
主の臨在を忘れたとき)溺れそうになりました。
信仰とは復活の主のみを思い、水の上を歩き続けることです。

大切なのは、自分の力に絶望した時、復活の主に向かって助けを求めること、私たちに与えられた信仰の力を
信じて主の聖名を呼び、主に助けを求めることなのです。



       ↑<アカメガシワ>の黒い実が大好物の<エゾビタキ>
            春と秋の渡りの途中、東京の公園でも見られます。




<参考>
マタイによる福音書8章5節~  百人隊長の「見ないで信じる信仰」の中に平安の中を歩める信仰があります。
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