今日の説教は「栄光の御姿」と題して、テキストはマタイによる福音書17章1節~8節でした。
この部分は「聖なる出来事の記述」と言われるところで(聖書は信仰をもって書かれていますので)
クリスチャンでない方々には理解が難しいと思われるところだそうです。
話の内容は************
イエスは弟子の中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて高い山に登られました。
頂上では、弟子たちの目の前でイエスの顔や姿が光り輝くように変わり、そこにモーセとエリヤが現れイエスと語り始めました。
ペトロは「主よ、私達がここにいるのは素晴らしいことです。ここにモーセとエリヤとあなたのために仮小屋を三つ立てましょう」と言います。
この時、光り輝く雲が弟子たちを覆ってその中から「・・・これは私の心に適うもの、これに聞け」という声が聞こえました。
弟子たちは非常に恐れ、ひれ伏してしまいます。
イエスは近づいて弟子たちに手を触れて「起きなさい、恐れることはない」と言われました。
彼らが顔を上げるとそこにはもうイエスのほかはだれもいませんでした。*************************というものです。
弟子たちは、この六日前に、自分はこれから咎人として(みじめな)十字架にかかって殺される、とイエスから聞かされて
意気消沈していたことと思います。
自分たちの敬愛する師がいなくなるという寂しさ悲しさに打ちひしがれる思いだったかもしれません。
そんな時、山頂で光り輝くイエスの栄光の御姿をみて欣喜雀躍、どんなにか嬉しかったことでしょう。
ペトロは嬉しさのあまり仮小屋云々・・・・と言いましたが、自分で何を言っているのかわからないくらい興奮していたに違いありません。
モーセはイスラエルの民をエジプトから救い出した人物、エリヤは旧約最後の預言者で、この二人は旧約全体を代表する人物です。
その二人とイエスの話していた内容は「エクソドス」=「栄光への脱出」についてだと思われます。
栄光への脱出は復活を意味し、そしてそのためには十字架の出来事が不可欠です。
十字架のイエスは惨めな姿に見えますが、これは栄光への脱出なのであって、本当は決して惨めなものではないのです。
ここでは神はイエスを、十字架の決意を受け入れた者として「私の心に適うもの」といわれ祝福されたのです。
そして弟子たちには「これに聞け」と語られました。
ここではまた聞くことの大切さが述べられています。
そして「聞け」という御言葉は三人の弟子たちと同時に私達にも語りかけられています。
主は「これを見よ」とは言われませんでした。 見るだけでは出会いは起こりません。
「聞く」と言うことは主の心の奥の声を聞くことです。
礼拝に集い、主の御言葉を聴き、主とともにこの世の中で生きてゆきましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/c5/cee2888e4f425d3cb4e9a036b70395b4.jpg)
<コゲラ>
このようなお説教だったと思いますが、メモを取って聴いているのに相変わらず自信なしです。(^^;)
上田牧師の説教は美竹教会のホームページに掲載されます。
ぜひお読みください。
この部分は「聖なる出来事の記述」と言われるところで(聖書は信仰をもって書かれていますので)
クリスチャンでない方々には理解が難しいと思われるところだそうです。
話の内容は************
イエスは弟子の中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて高い山に登られました。
頂上では、弟子たちの目の前でイエスの顔や姿が光り輝くように変わり、そこにモーセとエリヤが現れイエスと語り始めました。
ペトロは「主よ、私達がここにいるのは素晴らしいことです。ここにモーセとエリヤとあなたのために仮小屋を三つ立てましょう」と言います。
この時、光り輝く雲が弟子たちを覆ってその中から「・・・これは私の心に適うもの、これに聞け」という声が聞こえました。
弟子たちは非常に恐れ、ひれ伏してしまいます。
イエスは近づいて弟子たちに手を触れて「起きなさい、恐れることはない」と言われました。
彼らが顔を上げるとそこにはもうイエスのほかはだれもいませんでした。*************************というものです。
弟子たちは、この六日前に、自分はこれから咎人として(みじめな)十字架にかかって殺される、とイエスから聞かされて
意気消沈していたことと思います。
自分たちの敬愛する師がいなくなるという寂しさ悲しさに打ちひしがれる思いだったかもしれません。
そんな時、山頂で光り輝くイエスの栄光の御姿をみて欣喜雀躍、どんなにか嬉しかったことでしょう。
ペトロは嬉しさのあまり仮小屋云々・・・・と言いましたが、自分で何を言っているのかわからないくらい興奮していたに違いありません。
モーセはイスラエルの民をエジプトから救い出した人物、エリヤは旧約最後の預言者で、この二人は旧約全体を代表する人物です。
その二人とイエスの話していた内容は「エクソドス」=「栄光への脱出」についてだと思われます。
栄光への脱出は復活を意味し、そしてそのためには十字架の出来事が不可欠です。
十字架のイエスは惨めな姿に見えますが、これは栄光への脱出なのであって、本当は決して惨めなものではないのです。
ここでは神はイエスを、十字架の決意を受け入れた者として「私の心に適うもの」といわれ祝福されたのです。
そして弟子たちには「これに聞け」と語られました。
ここではまた聞くことの大切さが述べられています。
そして「聞け」という御言葉は三人の弟子たちと同時に私達にも語りかけられています。
主は「これを見よ」とは言われませんでした。 見るだけでは出会いは起こりません。
「聞く」と言うことは主の心の奥の声を聞くことです。
礼拝に集い、主の御言葉を聴き、主とともにこの世の中で生きてゆきましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/c5/cee2888e4f425d3cb4e9a036b70395b4.jpg)
<コゲラ>
このようなお説教だったと思いますが、メモを取って聴いているのに相変わらず自信なしです。(^^;)
上田牧師の説教は美竹教会のホームページに掲載されます。
ぜひお読みください。