聖書通読をはじめてから何回目かの「コヘレトの言葉」です。 6章まで読みました。
1章1節~2節
エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。
コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
あ~懐かしい(笑)
2章14節~16節
賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。
しかしわたしは知っている 両者に同じことが起こるのだということを。
わたしはこうつぶやいた。
「愚者に起こることは、わたしにも起こる。
より賢くなろうとするのは無駄だ。」
これまた空しい、とわたしは思った。
賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。
やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。
賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。
本当に!人間として生まれたからには馬鹿も利口も必ず死ぬ、人生、空しいわ~と詠嘆し放題の私でした。
「聖書事典」の「コヘレトの言葉」についての解説も何回も読みました。
『コヘレトの言葉の思想の特色は、冒頭の言葉に見られるように、一切は空しいことに根底を置いている。
これは現実の透徹した認識であって、単に「なんという空しさ」という詠嘆を意味するものではない。
一切のことがめぐり巡って循環しており、一定の確固たる目的があるものとは思えない。
「かつてあったことは、これからもある」そして、「太陽の下、新しいものは何ひとつない」と
断定している。にもかかわらず、コヘレトは神を畏れ敬うことを否定しているのではない。むしろ、
結局神を畏れ敬うことのみが根本的に重要であることを確認しているのである。
人智で量り難い神の知恵といつくしみを忘れてはならない。人間はどこまでも謙虚で、神を畏れることが
大切であるというのである。天地創造の神の業、終末における神の審判、人間のなすすべてのこと
についての責任、これらのことは、聖書の根本的な教えである。(木田献一氏)』
これまで、この解説がイマイチ腑に落ちない私でした。
イスラエルの民はこの人生の空しさを詠嘆せず「現実の透徹した認識」で済ませられるのか?と
納得できないものを感じていました。不信仰な私でした。
2章22節
まことに、人間が太陽の下(もと)で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。
一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた実に空しいことだ。
4章2節~3節
既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。
いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。
太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。
6章12節
短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何なのかを誰が知ろう。
人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。
こんなにも空しい人間の存在を嘆くことなく受け入れ、あるがままに生きて行けるのが多分(絶対に!)
信仰なのだ、と最近になってようやく気付きました。
神により頼むことなくして私の平安はありません。生きていくことの意味も意義も分かりません。
その信仰を持つ人に『天地創造の神の業、終末における神の審判、人間のなすすべてのことについての
責任』を聖書は教えています。
人間のなしてきた結果の今の地球の状態(人間社会も自然も)への責任を考えると別の絶望に呆然と
なりますが、信仰の恵みに与っていて本当に良かった!とあらためて感謝する日々です。
第6章まで読んだのですが、その中には下(↓)のような聖句もあります。
3章12節
わたしは知った。 人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と。
3章22節
人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。
それが人間にふさわしい分である。 死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。
5章17節~19節
見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果の
すべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。神から富や財宝をいただいた人は皆、
それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。
彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。
こ、これでよいのでしょうか? ケ・セラ・セラではないですよね、勿論。 (-_-;)
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
FacebookやTwitterもご覧ください。
雨降りばかりの毎日、昨日は久しぶりの晴天でした。
公園でたくさんのカメラマンに会いました。
1章1節~2節
エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。
コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
あ~懐かしい(笑)
2章14節~16節
賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。
しかしわたしは知っている 両者に同じことが起こるのだということを。
わたしはこうつぶやいた。
「愚者に起こることは、わたしにも起こる。
より賢くなろうとするのは無駄だ。」
これまた空しい、とわたしは思った。
賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。
やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。
賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。
本当に!人間として生まれたからには馬鹿も利口も必ず死ぬ、人生、空しいわ~と詠嘆し放題の私でした。
「聖書事典」の「コヘレトの言葉」についての解説も何回も読みました。
『コヘレトの言葉の思想の特色は、冒頭の言葉に見られるように、一切は空しいことに根底を置いている。
これは現実の透徹した認識であって、単に「なんという空しさ」という詠嘆を意味するものではない。
一切のことがめぐり巡って循環しており、一定の確固たる目的があるものとは思えない。
「かつてあったことは、これからもある」そして、「太陽の下、新しいものは何ひとつない」と
断定している。にもかかわらず、コヘレトは神を畏れ敬うことを否定しているのではない。むしろ、
結局神を畏れ敬うことのみが根本的に重要であることを確認しているのである。
人智で量り難い神の知恵といつくしみを忘れてはならない。人間はどこまでも謙虚で、神を畏れることが
大切であるというのである。天地創造の神の業、終末における神の審判、人間のなすすべてのこと
についての責任、これらのことは、聖書の根本的な教えである。(木田献一氏)』
これまで、この解説がイマイチ腑に落ちない私でした。
イスラエルの民はこの人生の空しさを詠嘆せず「現実の透徹した認識」で済ませられるのか?と
納得できないものを感じていました。不信仰な私でした。
2章22節
まことに、人間が太陽の下(もと)で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。
一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた実に空しいことだ。
4章2節~3節
既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。
いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。
太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。
6章12節
短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何なのかを誰が知ろう。
人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。
こんなにも空しい人間の存在を嘆くことなく受け入れ、あるがままに生きて行けるのが多分(絶対に!)
信仰なのだ、と最近になってようやく気付きました。
神により頼むことなくして私の平安はありません。生きていくことの意味も意義も分かりません。
その信仰を持つ人に『天地創造の神の業、終末における神の審判、人間のなすすべてのことについての
責任』を聖書は教えています。
人間のなしてきた結果の今の地球の状態(人間社会も自然も)への責任を考えると別の絶望に呆然と
なりますが、信仰の恵みに与っていて本当に良かった!とあらためて感謝する日々です。
第6章まで読んだのですが、その中には下(↓)のような聖句もあります。
3章12節
わたしは知った。 人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と。
3章22節
人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。
それが人間にふさわしい分である。 死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。
5章17節~19節
見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果の
すべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。神から富や財宝をいただいた人は皆、
それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。
彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。
こ、これでよいのでしょうか? ケ・セラ・セラではないですよね、勿論。 (-_-;)
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雨降りばかりの毎日、昨日は久しぶりの晴天でした。
公園でたくさんのカメラマンに会いました。