ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

美竹教会 学びの広場

2014-05-31 14:19:53 | 美竹教会
明日、6月1日(日)から左近豊牧師の「聖書を学ぶ会(全6回)」が始まります。
場所は一階の集会室で、時間は礼拝前の10時~10時20分で、6月1日から隔週日曜日に開かれます

聖書の成り立ちや内容について分かりやすく学ぶクラスになるそうです。

聖書を読んだことの無い方も、読み始めたばかりの方も、すでに深~く
読み込んでいるとお思いの方も、是非お出かけください。
左近先生が聖書についてどんなお話をしてくださるか、楽しみですね~  



美竹教会のもう一つの「学びの場」は「ヘブライ語入門講座」です。
毎週木曜日の午前10時半から、美竹教会一階の集会室で開かれています。

聖書の3/4を占める旧約聖書のほとんどがヘブライ語で書かれているそうですが、
ヘブライ語を知ることにより、聖書の語る言葉の広く深い意味を一層深く知ることが出来ます。
入門講座では、ヘブライ語の文法に留まらず、旧約聖書の背後にある歴史や旧約聖書の
文芸学的な味わいなどにも触れながら楽しく学んでゆくそうです。

聖書に興味のある方、キリスト教に興味のある方、何よりもヘブライ語に関心のある方、
是非ご参加ください。

ヘブライ語はどんな風に聞こえる言語なのでしょう。
興味のある方はココをクリックしてください。 
ヘブライ語による旧約聖書の音読サイトです。 音楽を聴いているようなヘブライ語 (^-^)



「行々子!行々子!」騒がしい鳴き声でソングポストで縄張り宣言。
<オオヨシキリ(♂)>です。 初夏の風物詩?
一夫多妻で、この葦原に何羽もいるオスがみなハーレムを造っています。
(画面の白いポツポツは小さな羽虫です。)


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試練を喜び、忍耐する

2014-05-30 12:25:44 | 今日の聖句
新約の「ヘブライ人への手紙」読み終わって「ヤコブの手紙」を読み始めました。
今日の聖句は 「ヤコブの手紙」 1章2節~8節 です。

わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。
信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。 あくまでも忍耐しなさい。
そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。
あなたがたの中で知恵のかけている人がいれば、だれにでも惜しみなく
とがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。
そうすれば、与えられます。 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。
疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。
そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。
心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。



私の抱えている最大の試練は、私にとってそれはそれは苦しいものです。
でも、試練と言うのは何かを成し遂げるために与えられたある種の鍛錬だと思います。
私に与えられた苦しみは、単に私にとっての苦しみで、なにかのための試練といえるのかどうか分かりません。
これによって私の信仰は鍛えられたのか、それはわかりません。
しかし、この苦しい出来事がなかったら、私は今もって放蕩息子よろしく、
神様の御許に招かれていなかったと思います。

ここまで書いて思い至ったのですが、私の苦しみは試練ではなく「恩寵」だったのでしょうか?
恩寵であっても、それでも、私は苦しく辛いのです。
御心ならば、この苦しみを除いてください、と祈らずにはいられません。

↓ そんな私が依り頼む聖句の一つです。

「フィリピの信徒への手紙」4章6節~7節
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、
求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人智を超える神の平和が、あなたがたの心と考えをキリスト・イエスによって守るでしょう。




今日の写真も<フクロウ>です。
この朝、巣から出たばかりの三番子です。
昼過ぎから夕方近くまで見ていましたが、ずっとこの枝に止まっていました。 (^-^)


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昨日は左近豊牧師の「ヘブライ語入門講座」が教会でありました。
新しい参加者があったでしょうか。
頑張っていらっしゃる左近先生のお働きが実を結びますように! いつもお祈りしています。
私たち教会に連なる教会の兄弟姉妹も元気に健やかに、夫々の与えられた場所で御言葉の
証しができますように!
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エジプトへの寄留

2014-05-29 10:02:59 | 今日の聖句
今日の聖句は 「エレミヤ書」 44章27節~30節 です。

見よ、わたしは彼らに災いをくだそうとして見張っている。 幸いを与えるためではない。
エジプトにいるユダの人々は、ひとり残らず剣と飢饉に襲われて滅びる。
剣を逃れてエジプトの地からユダの国は帰還する者の数はまことにわずかである。
そのときエジプトへ移って寄留したユダの残留者はすべて、わたしの言葉か、彼らの言葉か、
どちらが本当であったかを悟るであろう。
このことこそ、わたしがこの場所でお前たちを罰したことのしるしとなるであろう、と主は言われる。
そしてお前たちに災いを告げたわたしの言葉が実現したことを知るようになる。
主はこう言われる。わたしは、エジプトの王であるファラオ、ホフラをその命を求める敵の手に渡す、
ちょうとユダの王ゼデキヤを、その命を求める敵、バビロンの王ネブカドレツァルの手に渡したように。」



多くの(優秀な?身分の高い?)人々がバビロンに連れさられたあと、残った人々はエジプトの地へ逃れようとしました。
自分たちの願いを受け入れてくれるよう、主に求め、自分たちの進むべき道を主に尋ねてくれるよう、エレミヤに頼みます。
主の答えは『もしあなたたちが、どうしてもエジプトへ行こうと決意し、そこに行って寄留するなら、まさに、
あなたたちが畏れている剣が、エジプトの地で襲いかかり、心配している上がエジプトまであとを追ってとりつき、
あなたたちはそこで死ぬ(42:15-16)』 と言うものでした。 
ユダの人々がバビロンを恐れてエジプトに逃れることを強く諌めます。
しかし結局、エレミヤを通して語られた預言を受け入れず、ユダの人々はエジプトに行ってしまいます。

このあたりは読んでいてワクワクとまでは言いませんが、展開が大きく躍動感があってとても面白いです。
それで、それで? と先を急いで読んでしまいます。
聖書は、特に旧約は本当に何回読んでも新鮮です。 何回読んでも忘れてしまうので「新鮮」なのかも・・・・・(^^;)



昨日は公園でフクロウ雛を見てきました。 写真は二番子です。
三番子は孵ったばかりで巣箱の近くでボーっと(笑)していました。
可愛らしいです。


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東京は渋谷区の美竹教会、どうぞ扉を開けてお訪ねください。 
左近豊牧師があなたを暖かく歓迎し、神様の御言葉についてお話くださいます。
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讃美歌354番 「牧主(かいぬし)わが主よ」

2014-05-27 16:39:32 | 讃美歌
先週の礼拝で歌いました。
よく知られた歌で、私も大昔、教会学校で習ったのだと思います。

 1) 牧主(かいぬし)我が主よ 迷う我らを
    若草の野辺に 導き給え
    我らを守りて 養い給え
    我らは主のもの 主に贖(あがな)わる

 2) 良き友となりて 常に導き
    迷わば尋ねて 引き返りませ
    我らの祈りを 受け入れ給え
    我らは主のもの ただ主に頼る

 3) 赦(ゆる)しの御誓(みちか)い 救いの恵み
    清むる力は 皆(みな)主にぞある
    我らを贖い 生命(いのち)を賜(たま)う
    我らは主のもの 主に在(あ)りて生(い)く

 4) 御慈愛(みいつくしみ)をば 我らに満たし
    今より御旨(みむね)を なさしめ給え
    我らを憐れむ 御恵(みめぐ)み深し
    我らは主のもの 主をのみ愛す

イギリスで生まれた作者不明のポピュラーな讃美歌である。
1836年“若者のための讃美歌集”(Hymns for the Young)で発表された。
非常に明るい親しみのある歌である。

曲名は文字通り“SHEPHERD”で作曲者は William Btchelder Bradbury (1836-1868)
14歳の時からボストンでピアノとオルガンを学び、後年、ニューヨークのバプテスト教会のオルガにストに就任し、
ここでポピュラーな歌唱クラスを開いたが、これが初級学校における音楽教育の必要を公認させる機縁となった。
欧州留学から帰国後はニューヨークで歌唱クラスの指導、唱歌教師の養成、歌曲集の出版等に全力を注ぎ、
又、兄弟と共同でピアノ製造業にたずさわった。
一方で日曜学校用のカンタータをはじめ、日曜学校用の讃美歌や一般用の讃美歌、或は一般用の歌謡曲等、
その作曲は膨大な数にのぼり、その殆どが、単純でしかも旋律が美しいので、今日でも尚ひろく米国人のあいだで愛唱されている。
この曲はもともと日曜学校のための歌であったが、その後一般の讃美歌集にも採り入れられるようになったものである
(↑ 解説はネットからの引用です。)

ココをクリックすると讃美歌354番が聴かれます。


<アカスジキンカメムシ> カメムシは日本に千種以上いると思います。
触ると悪臭を発したり、農作物の害虫(中には益虫もいます)として嫌われていますが、
姿は変化に富んでいて、このアカスジのように宝石のような模様のカメムシもいます。


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「赦しの力」

2014-05-26 09:53:17 | 説教
昨日の礼拝説教 テキストは「詩編」86篇5節~10節 と 「使徒言行録」7章54節~8章1節
タイトルは「赦しの力」でした。

今日のテキストの「使徒言行録」8章1節に“サウロはステファノの殺害に賛成していた”とあるサウロとは
パウロのヘブライ語の名前です。 ギリシャ語でパウロとなります。
キリスト教の大伝道者、パレスチナの一地方からローマへ、ローマ帝国からヨーロッパ、アフリカへと、
世界にキリスト教の福音が広がった基礎をつくったパウロです。
生涯に1万6千キロ~2万キロも歩き巡って伝道し、BC1世紀の半ば過ぎ、ローマのネロ皇帝による
キリスト教大迫害の際に殉死したと言われます。
パウロは多くの手紙によって、何を信じ救いとし喜びとするかを明確に証し、信仰の筋道、真理を示しました。

パウロは生涯、若き日のこのステファノ処刑の出来事を痛みを持って思い起こしたことでしょう。
サウル王と同じベニヤミン族で、王に倣ってサウロと名付けられ、ユダヤ教の由緒正しい家柄、律法に忠実で
教養ありギリシャ語も話した彼は、この時、ユダヤ教の教えに固く立ち、キリスト教への憎しみを原動力として
“義は我にあり”としてキリスト教徒迫害の道をまい進していました。

今日のテキストの前の7章にはステファノの説教が記されていますが、50節までは旧約聖書の創世記から列王記を語ったもので、
パウロをはじめ、ユダヤ教の人々にとっては目新しいものではありませんでした。
51節からの「古き義に死に、新しい義に生きる道を歩む」ステファノの言葉は迫力をもって迫るもので、それに対して人々は
歯ぎしりして激しく怒りました。

「列王記 下」24章に預言者ゼカリアという預言者の話があります。
悔い改めよと勧めるゼカリアを王と高官たちは主の神殿の庭において石で撃ち殺しました。
死の間際にゼカリアは「主がこれを御覧になって、王や高官たちに報復してくださいますように」と、神に祈りました。
聖書にはゼカリアのような不条理に苦しみ嘆く話がたくさんありますし、時代を超えて今なお、虐殺や迫害で
人格を抑圧された人々が大勢います。
聖書は激しい葛藤の言葉を決してオブラートの包み込むことはせず、神に嘆きを訴え、これをしっかりと記しています。 
覆ったり、楽観的に語ることは真実ではない。 人々は神に挑み、時に疑いを投げかけています。嘆きの言葉を隠したりしません。
これは決して不信仰なことではなく大胆な信仰の業です。
嘆きに真剣に向き合い、内なる神への怒り、不信を押し殺すことなく神に投げかける、その時見えてくる神の姿は
幸せな祈りの時とは違ってくるはずです。 聖書の神はそのような姿を現される神です。
何故? と私たちの嘆きや怒りを向けて祈ることが許されている神なのです。

55節で、ステファノは神の右に立っておられるイエスを見ました。
十字架で苦しまれたイエスが、ステファノの弁護者として立っておられました。

ステファノの最後の言葉はゼカリアの言葉とは違ってイエス・キリストに倣うものでした。
十字架上のイエスの父への言葉「彼らを赦してください。自分が何をしているか分かっていないのです」(ルカ:23:34)
ステファノは赦しを知る者とされたのです。
イエスが先だって赦して死んだことを知っていたステファノ、私たちもまた知っています。

私たちの頑なさや凍てつく罪の身は赦されているのです。
ステファノの処刑に賛成した時は「主の祈り」も知らなかったパウロはステファノの死を通して証しする者と変えられました。
私たちが罪びとであった時、キリストが死んでくださって神の愛が示されました。
今週、私たちは誰かのステファノとなって誰かに証しし、指し示す者でありたいと願います。
                                          (以上、文責はゆうゆうにあります。)


春の一時期しか見られたにゼフィルスの<アカシジミ>です。
大好きなシジミチョウです。


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左近豊牧師の「聖書を学ぶ会(全6回)」がいよいよ始まります。
場所は1階の集会室で、時間は主日礼拝の前の10時~10時20分、6月1日から隔週に開かれます。
聖書の成り立ちや内容について分かりやすく学ぶクラスになるそうです。  楽しみ! (^-^)
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預言者ウリヤの死

2014-05-24 13:50:36 | 今日の聖句
今日の聖句は 「エレミヤ書」26章20節~24節 です。
主の名によって予言していた人がもうひとりいた。
それは、キルヤド・エアリムの人、シェマヤの子ウリヤである。
彼はこの都とこの国に対して、エレミヤの言葉と全く同じような預言をしていた。
ヨヤキム王は、すべての武将と高官たちと共に彼の言葉を聞き、彼を殺そうとした。
ウリヤはこれを聞いて、恐れ、逃れて、エジプトに行った。
ヨヤキム王はアクボルの子エルナタンを、数人の者と共にエジプトに遣わした。
ウリヤはエジプトから連れ戻され、ヨヤキム王の前に引き出された。王は彼を剣で撃ち、その死体を共同墓地へ捨てさせた。
しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤを保護し、民の手に落ちて殺されることのないようにした。



フーム、同じことを預言して捕らえられ殺されたウリヤと保護する人がいて命永らえたエレミヤと・・・・・・・
神の御心は測り難し。
ウリヤは先にどのような運命が待ち受けていると知っていたとしても、神の御心、神からの預言を
大胆に証ししたのでしょう。
今の日本では神様の御言葉を証ししても、迫害は勿論、特別視されることもありません。
いくらでも御言葉を発信できるのですが、心の奥で神の御言葉、救い、福音を求めている方々に
それが届いているということは(ほとんど)なかなか実感できません。

エレミヤの時代の神殿のように、大勢の人が集まる場所で大声で福音を述べ伝えるするのは・・・・・・・
はたしてどれ位効果的なのでしょう。
伝道は商売ではありません、コストパフォーマンスを求めるのは間違いです。
私たちは告げずにはいられないから、福音を述べ伝えるのです。
それによって神様に導かれ、救いに与る人が一人でもありますように、祈りつつ行う証しの活動ですから。

そういう日常の中で、先週Nさんがなさったような証しをお聞きすると、とても元気が湧きます。
思いがけない神の御業に涙してしまいます。 神様の御心は測り難し。 
時を得ても得なくても、祈りつつ大切に毎日を過ごしたいです。



公園のカルガモ、今年は9羽の雛が孵りました。
みんな、無事に育ちますように!


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「二月三十日」という曽野綾子さんの短編があります。
アフリカに伝道に渡ったイギリス人神父たちが何も成しえずに風土病で(?)全員が死亡してしまう、という話です。
決して悲観的、消極的にはなりませんが、何故か“伝道”というとその本が頭に浮かびます。 (^^;)
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大祭司イエス

2014-05-22 22:17:28 | 今日の聖句
今日の聖句は 「ヘブライ人への手紙」4章14節~16節  「偉大な大祭司イエス」です。

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、
わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、
わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に
近づこうではありませんか。


以前、ブログで参照させていただきましたが、日本基督教団荒川教会の国府田裕人牧師の
「聖書のお話:ヘブライ人への手紙」で易しく解説なさっています。
 
私達人間が自分の信仰を量ったり、それによって凹んだりするのは間違いなのだ、とよく分かりました。 
そして心から感謝です。

***************************************************** ↓ 国府田牧師の解説です。 下線は私が引きました。

わたしたちには大祭司、神の子イエスが与えられていると言うことです。
ユダヤの人々は、神さまと自分たちの生活を結びつけるための務めをもった祭司という人たちを大切にしてまいりました。
その祭司たちの長が、大祭司であります。

みなさんは自分と神さまを結びつけるものは何だとお思いでしょうか。
神さまの愛でありましょうか。 あるいはわたしたちの信仰でありましょうか。 
愛にしろ、信仰にしろ目に見えるものではありません。 
たとえば、神さまがわたしたちを愛して下さっているということは、どのように分かるのでしょうか? 
人生というのは良いことばかりあるわけではありません。 わたしはもう神さまに見捨てられたのではないかしらん? と疑い、
信じられなくなることだって起こるかもしれないのです。 あるいは自分には神さまに愛される資格がなくなったと思い込んで
しまう時もあるかもしれません。 信仰も同じです。 自分が信じられるときはいいけれども、信じられなくなったら、
神さまとわたしたちの結びつきはなくなってしまうということになるのです。

ユダヤの人々は、神さまと自分たちの結びつきを、そういう主観的なものに頼ってかんがえませんでした。
神さまがお立てになった祭司、特に大祭司が、神さまとわたしたちを結びつけて下さっていると考えたのです。
神さまの愛を信じられなくなるような現実においても、自分がいかなる罪人であっても、大祭司が神さまとわたしたちの間に立って、
絆となってくださると考えていたのです。
だから、わたしたちは神さまと一緒に生きることができるのだと信じるのです。


『ヘブライ人への手紙』もそうなのです。 神さまの愛を感じるとか、わたしたちの信じる気持ちがすごく強いとか、
そういう主観的なことではなくて、イエスさまがいらっしゃるということ、それが神さまとわたしたちの絆の確かさなのだ
というわけです。

悲しいことや辛いことばかりで、神さまの愛が見えなくなることがあるかもしれません。
自分なんか神さまに愛されるはずがないと思ってしまう時もあるかもしれません。
今まで素直に信じられていたことが、信じられなくなってしまうこともあるかもしれません。そういう時にも、
《わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている》ではないか、と語るわけです。

********************************************************************************


春紫苑に止まった<アオスジアゲハ>です。


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6月から隔週の礼拝前の時間を使って「聖書の学び(全6回)」が始まります。
礼拝後はなるべく早く帰宅しなくてはならない私は、礼拝前のこの集まりはとても嬉しく、楽しみです。
それにしてもシンデレラではあるまいし、12時に教会を飛び出さなくてはならない私の縛りはいつまで続くのでしょうね~ (T__T)
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讃美歌第二集 191番

2014-05-20 22:29:59 | 讃美歌
先週の礼拝で歌いました。 
前回の讃美歌練習のときに教えていただいて練習してあったのに
きれいさっぱり忘れていて、初めて歌うようで、とても難しかったです。
オルガンに合わせて文字を追うので精一杯、意味はよくつかめませんでした。  (^^;)

讃美歌第二編 191番 「主のまことはくすしきかな」

 1)主のまことはくしきかな 迷い悩むこの身を
   とこしなえに変わらざる 父のもとに導く
 
 Chorus:
   大いなるは主のまことぞ 朝に夕に絶えせず
   御恵(みめぐ)みもて支え給う たたえまつらん、我が主を

 2)春も秋も夏冬も 月も星もすべては
   主のまことと憐れみと 尽きぬ愛を表す
 Repeat Chorus.

 3)罪人らを憐れみて 救い給う御恵み
   喜び満ち望みもて 仕えまつるうれしさ
 Repeat Chorus.


作詞者 Thomas Obediah Chisholm(1866-1960 米国人)はケンタッキー州の小さな州立学校で学び
16歳でその学校の教師になり、21歳で週刊紙の編集助手となった。
27歳のとき洗礼を受け、30歳後半でメソデイスト派の牧師となりしばらくの間、教区の牧師を勤めたが、
健康がすぐれなかったためインデイアナ州の農家に移り住んだ。
その後ニュージャーシー州に移り保険の外交員を務めたが晩年はメソデイストの施設で過ごした。
生涯に1200の詩を書き、その大半が出版され、その多くが作曲されたという。
苦労人であったが才能に恵まれた人であった。

この詩は、自身の経験と聖書の真実から作られたという。 旧約聖書の「哀歌」3章22-23節をベースにしている。
「哀歌」3章22節ー23節
主の慈しみは決して絶えない。 主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。 あなたの真実はそれほど深い。


最後の「あなたの真実はそれほど深い」が原作では“great is your faithfulness”であり、これがこの賛美歌の題名となっている。

作曲した Willam Marion Runyan(1870-1957 米国人)は、メソデイスト派の牧師の息子として生まれ,
音楽の才があり、12歳で教会のオルガニストとなったほどである。
21歳で牧師となり主としてカンザス州で牧会に勤め、また、福音伝道師として州内各地の伝道に従事した後、
シカゴに移り、Moody Bible Institute(ムーデイ―聖書学校 19世紀後半の福音伝道家ムーデイ{Dwight L.Moody}が設立)に
深くかかわることになった。
この曲は、Chisholm の歌詞のために作曲されたもので、Runyanは、この歌詞に大変感動して作曲し、
歌詞にこめられたメッセージが彼のメロデイーによって広められるよう熱心に祈ったという。
そして、その後、実際にこの賛美歌が広く用いられたため、神が祈りに応えてくれたものと彼は書き記している。
尚、この賛美歌はムーデイ―聖書学校の非公式な校歌(賛美歌)となっている。   (以上、解説はネットからの引用です。)


解説で、この讃美歌の成り立ちを初めて知りました。
「哀歌」のこの聖句は大好きな聖句です。
そうだったんですね~ ただ難しい歌だなぁ、という感想では申し訳ないことでした。
今度歌う時は言葉をよく理解しながら、思いを込めて(大声で)歌います。 

讃美歌第二集191番はここをクリックすると聴かれます。  



<コゲラ>のマイホーム。


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「大胆な証し」

2014-05-19 14:13:06 | 説教
昨日の主日礼拝の説教
テキストは「イザヤ書」44章6節~8節 と 「使徒言行録」4章1節~14節 タイトルは「大胆な証し」でした。

先週は、生れた時から40年間歩けないことを運命と諦めていた男がイエス・キリストの御名との出会いによって
思いが叶えられ、彼の言葉は讃美となり、礼拝となり、人格が解放され、与えられた場に甘んじて座している人格が
イエスを讃美する人(足)となった、ことを学びました。

今週はこの出来事が新たな展開を生んだ話です。
今日のテキストの前の、3章11節から26節には「ペトロの神殿での説教」が記されていますが、それに対して、
4章2節にサド会派の人々が苛立ったとあります。 喜びの伝道が苛立ちを呼び起こすことがあります。
苛立ちは嫌悪となり殺意にまで変わり得ます。
世は言(ことば)によって成ったが、世は言を認めなかった。
言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。(ヨハネ1:10-11)と書かれています。
聖書は、世界は言葉によって創造されたと書いています。

イエスはたとえ話の中で真実を語られました。 例えばルカ20章9節からの「ぶどう園の譬」です。
ぶどう園(世界)を管理することを委ねられている人間に農場主(神)は収穫の時、代理人を送りましたが、蔑にされました。
農場主がこれならば、と最後に送った息子をあろうことか人間は殺してしまいます。
代理人は預言者、息子はイエスのことです。

神の言葉は世に迎合せず、この世の価値観を覆し世に弾き飛ばされることもあります。
福音は人間の存在を肯定するものですが、それは、罪や悪意にもかかわらずイエスに依り頼み、
十字架を媒介として全き肯定に至る、否定媒介的な肯定です。

サドカイ派やファリサイ派が苛立ちを叫ぶのは当然と言えば当然でした。
彼らは①ペトロ、ヨハネの二人が民衆を教えている ②自分たちが十字架上で殺したイエスによる復活を宣伝している、
という二点で苛立っていました。

①は、知識と身分のある、律法学者や祭司たちから見て、「お前たちのような無学で身分の低い者」が民衆に教えるなど何事か、
という説教の内容以前に二人の存在にたいする苛立ちです。
②は、イエスを十字架につけたという自分たちの行為を否定されたことへの苛立ちです。
特に神秘的なものを排し、死者の復活はあり得ないと言う立場のサドカイ派は、権威を背景に彼らを見下していました。
律法学者などのファリサイ派は死者の復活は信じていましたが、自分たちが殺したイエスによって癒しが与えられていることが
許せませんでした。

6節、大祭司や律法学者たちは三人を軽く見て侮っていました。

イエスが捕らえられた夜、三回もイエスを知らないと言って裏切ったペトロ(ルカ22:54-62)これまでのペトロであったら
逃げ出していたかもしれません。
そのペトロが十字架のあと復活の確信を与えられ並み居る面々の前で大胆に申し開きをするものとなったのです。
捕らえられていても自由があり、無学の者に知恵、拠り所ない者に権威を授かり大胆さが与えられたペトロに返す言葉が無かった
律法学者などの議会の面々は、彼らがイエスと一緒にいたものであったことが分かりました。(4-13)

十字架の後の復活のイエスは四十日間にわたってペトロたちと共にいて下さり、彼らはもう一度イエスに結びつけられたのです。 
復活のイエスとの出会いは彼らを大胆の者に変えました。
キリストをかしらとし、土台とするのが新しい教会であり、私たちが救われるのはイエスの名による以外にあり得ません。

日本の隠れキリシタンへの最後の弾圧といわれる「浦上第四崩れ」の際、信徒代表に高木仙右衛門と言う人がいました。 
彼は信者83名の内、82名までが拷問の苦しさに耐えかねて回心した中で最期まで回心せず、ころびませんでした。
彼の核心にあったのは死の恐怖や肉体の痛みでも奪えなかったキリスト復活の喜びでした。
無知無学の野人で臆病なひとであった仙右衛門は、言葉つき、目つきが全く変えられ堂々と神の御言葉を語り、毎日天の主にいのり、
金曜日には断食をしてすごす人となっていた、と「浦上キリシタン史」に書かれています。


教会は「大胆な証し」をする人の群れです。
私達も復活の主と出会い、仙右衛門に倣う者となりたいものです。
今週も主と出会い、毎日を証しする者として過ごしましょう。            (以上、文責はゆうゆうにあります。)


どのような時も復活のキリストが共にいてくださる喜びを感謝し、神の御言葉を少しでも証しする者でありたい、と祈りました。
「否定媒介的な肯定」という言葉を初めて聴いた気がします。  無知無学? まあ、それはおいといて・・・・(^^;)



<紫蘭>です。


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Nさんの証し

2014-05-18 21:47:16 | 美竹教会
『私は五年前に受洗しましたが、私の夫は宗教やキリスト教には全く無関心でした。
夫にも何か生き甲斐があったほうがよいのでは?という上田牧師のお勧めで、毎週、礼拝説教の
タイトルを書道で書いて、教会の掲示板に貼るご用を二年ばかりせていただいていました。

私は聖書のこともあまり夫に伝えることもできませんので、特に夫に礼拝に出るようになど
話したことはありませんでした。 夫の無関心は相変わらずで、説教タイトルの書を書くご用も
上田先生が退任されるのを機にやめると言っておりました。

これまでの経緯もあるので、上田先生にご挨拶を、ということになり夫は初めて教会の門をくぐりました。
その日、教会の玄関では、上田牧師ご夫妻と一緒にいらした左近先生にもお目にかかりました。

その日、教会の玄関を通った時、私は夫が変わったとはっきり分かりました。

その日を境に夫は礼拝に出席するようになり、今日まで一日も欠かしたことはありません。
今では、私よりも早く出かける用意をして私を促すようになりました

私たちは夫婦二人の生活で、毎日顔を突き合わせていますから、時にはお互いに不機嫌になったり
衝突したりもあったのですが、今は二人ともとても穏やかな日々を過ごせるようになりました。

私にはこれは奇跡としか思えません。 
このことをお話ししたくて、今日、証しをさせていただきました。』


証しをお聞きして私は嬉しくて泣いてしまいました。
そのあと、羨ましくて泣きました。
私の連れ合いも(今は)宗教に全く関心がなく、最近になってようやく私が日曜日、礼拝に
出かけることを黙認という形で(渋々)受け入れてくれるようになりました。

でもNさんの証しをお聞きして、私は諦めないことにしました。
いつか・・・・・


春紫苑の花に止まる<アゲハ>です。


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美竹教会の玄関は今、綺麗な花が咲き乱れています。
今日、証しをなさったNさんがずっと世話をして下さっているそうです。
気付かないところで教会の兄弟姉妹は色々ご奉仕なさっているのですね~。
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