ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

讃美歌79番「ほめたたえよ造り主を」

2014-10-30 21:36:13 | 讃美歌
讃美歌79番「ほめたたえよ造り主を」  先週の礼拝で歌いました。 

 1)ほめたたえよ、造り主を
   清き御前(みまえ)に ひれ伏し
   献(ささ)げまつれ、身をも魂(たま)をも
   類(たぐい)なき御名(みな)を あがめて

 2)くすしきかな、神の力
   荒ぶる波を 静めて
   危うきより 御民(みたみ)を守り
   この世の悩みに 勝たしむ

 3)恵みの神、栄えの主を
   もろ声あげて たたえよ
   強き手もて 導き給う
   主にのみ御栄え 尽きざれ

  We praise Thee, O God, our Redeemer
  by Julia Bulkley (Cady) Cory, 1904

  KREMSER
  Old Netherlands Melody

作詞したジュリアは1882年にニューヨークで生まれました。
彼女はニューヨークの著名な建築家 J.Cleveland Cady の娘でした。
彼女の父は、日曜学校の superintendent(教育長?)であり、聖歌の作曲家でもありました。
その父の影響もあってか、ジュリアは小さなころから讃美歌を書き始めました。
彼女は Brick Presbyterian Church の会員でしたが、1911年に Robert Haskell Cory と結婚し
その後はずっとニュージャージ州の Presbyterian Church in Englewood の会員でした。
彼女は生涯、ニューヨーク市の聖歌協会の会員でした。 
1963年 Englewood で亡くなりました。 3人の息子を育て15人の孫がいました。

1902年ジュリアはこの讃美歌を J.Archer Gibson の要望により書きました。
Gibsonはジュリアの家族が通っていた Brick Presbyterian Church のオルガにストで、
KREMSER のための新しい歌を求めていたのです。
この讃美歌はその年の Thanksgiving Day に初めて公表され、1910年の“Hymns of the Living Chruch”に載りました。
KRESMERというのはオランダの古い曲です。 (以上、ネットからの引用です。)

ココをクリックすると讃美歌79番(英語版)を聴くことができます。


<ホシハジロ(♀)>の羽を広げた後ろ姿です。
残念、顔が見えません。(^^;)


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「関係に生きる」

2014-10-29 20:10:02 | 説教 十戒
先日の主日礼拝説教 テキストは「出エジプト記」20章1節~3節 「マタイによる福音書」22章34節~40節
タイトルは「関係に生きる」でした。

今日から数週間、礼拝説教で「十戒」について学んでゆきたいと思います。
「十戒」は「使徒信条」「主の祈り」と合わせてキリスト教の三要文として
教会の信仰の骨格を作るものとして重んじられてきました。
十戒は皆さんよく耳にする機会もあり、聞きなれた言葉かもしれませんが、
時には立ち止まって味わうことも必要かと思います。

「十戒」はヘブライ語で書かれた聖書の基の原稿では“十の言葉”という呼び名でした。
後に翻訳されたギリシャ語の聖書でも“decalog”やはり十の言葉という意味でした。
これがなぜ“戒め”という言葉になったのでしょう。
16世紀に、聖書はルターによるドイツ語訳やそのほか英語訳など色々な言語に訳されましたが、
その一つにジュネーブバイブルがあり、その中で“ten commandments”と書かれました。

出エジプト記の20章2節は「十戒」前文です。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
この前文によって十戒は輝き、聖書的響をまとうことになります。
「十戒」はこの前文の下に置かれることによって単なる戒律ではなくなります。
戒め、我々を縛るものではなくなります。
クリスチャンとは挫折の傷を負ったまま救われる人、人生の痛みを知って生きなおす人、罪許された罪びとです。
十戒を守れば救われる、守れなければ駄目であるという縛りでなく、十戒は赦す救いの力があるのです。

ここで十戒の出現する背景を少しお話しします。
ユダヤ人(ヘブライ人)はモーセに導かれてエジプトの国から脱出しますが、これは単なる移動ではなく、
人生、歴史の転換となった出来事です。
命すら自分のものではない、家畜以下の、置き換え可能な道具としてしか見られなかった奴隷状態からの解放です。

今の日本はこの時代のヘブライ人のようではなく、自由があるように見えます。
しかし、暗黙の了解に縛られている社会の決まりごとや無言の圧力、情報の刷り込みなど、
どこか生きにくさを感じることは無いでしょうか。
目に見えない何かに囚われた状態があるのではないでしょうか。
聖書で「出エジプト」として語られるもの、それぞれの時代にあって人の行動を縛るもの、
それはずっとあり続けました。
出エジプトに重ねて自分の生活を顧みると、そこに聖書の語るところが見えてきます。

ゴスペルが生み出された背景をみると、出エジプトの出来事に今日出くわすことへの思いが重ねられて
歌われていることが分かります。礼拝の時だけは解放されている、という喜びが語られ歌われています。
アメリカにいるときに何回か訪れたアトランタのキング牧師の通っていた教会では、礼拝の時、
聖書や讃美歌や祈りの中で、何らかの形で必ず出エジプトに言及していました。

出エジプトの神の語りかけは今の私たちになされています。
罪の奴隷である私たちは死に支配されています。
すべての人を支配している死から解き放たれる救いが語られています。

聖書の罪は犯罪行為ではなく誰もが陥る“的外れな生き方”原点を持たない、支点を持たないハカリ、
起点を持たない円のように、根本に目標の無い生き方、的を外した生き方を言っています。
そしてそれは自己中心の生き方になり破たんします。
誰かの奴隷ではないが自分を持て余して孤立します。
人生の目的を見失い彷徨う生き方、神ならぬものを絶対化する生き方に、外からの語りかけをするのが
「出エジプト」の神です。神は私たちの原点、支点、起点となります。

「出エジプト記」3章でモーセは取り返しのつかない殺人という罪を犯します。
しかし、神はそんなモーセを召し出し用いられました。
神は自ら下って私たちを救い出す神です。
私はある・・・・関係を大事にしてる、あなたに対して私はある、と常にその関係を保たれます。
神と自分の間に割って入る者はいません。 愛の原点はこの神の愛にあります。
「わたしをおいてほかにない」この関係に並ぶものが果たしてあるでしょうか。 (以上、文責はゆうゆうにあります。)



この日はミニコンサートということで、礼拝に友人二人が来てくれました。
美竹教会について友人はどんな印象をもつだろうか等々、そんなことにばかりに気持ちが散って
私はすっかり緊張し、舞い上がってしまいました。
そんな私の説教メモは「心ここにあらず」で、いつもより更にいい加減な要約になりました。 
友人には説教のメッセージがしっかり届いていますように! 祈る思いです。
教会に新しい方がいらしたり、友人を誘ったりするのは緊張するものですね~。



アワコガネ(粟黄金)という菊に止まった<ヒメアカタテハ>です。

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教会の扉を開けてどうぞ教会にもいらしてください。
私のようなアタフタした信者をみてもがっかりしないでくださいね。 (^^;)
教会の中心は神様で、神様が私たちを、そしてあなたを愛し導いてくださるのですから。
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聖歌隊ミニコンサート

2014-10-27 21:17:13 | 美竹教会
青山学院大学聖歌隊による礼拝での讃美歌奉唱とミニコンサートは無事終わりました。

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10時半から11時45分 礼拝
(15分間の休憩)  この間に聖歌隊の方は白いガウンを脱いでブルーの衣装になりました。
             私たちはトイレ休憩
12時から約30分ミニコンサート  トマス・タリスの「世の救い主よ」から始まって
                      全部で9曲の聖歌を歌ってくださいました。
拍手の中を聖歌隊のメンバーが礼拝堂から出て行かれて、コンサートは終了となりました。
************************************************************************

那須輝彦先生(青山学院大学文学部教授)による解説は明瞭で分かりやすくとてもよかったです。
歌は勿論、最高!でした。
教会の天井からオーロラのように波状に下りてくる男女メンバーの歌声は時に大きく、時に小さく
重なり合って音のシャワー、一瞬、自分が何処にいるのか忘れるようでした。


今回は、礼拝後食事をしてからコンサートなのか、コンサートは何時間くらいなのか等、
間際までスケジュールが分からなかったため、友人知人に声を掛けられなかった教会員の方もいらしたようです。
終わってみれば楽勝!(?)案ずるより産むがやすし、でした。
今回の経験を生かして、これからもドンドンこのようなミニコンサートを開いて、友人知人を気軽に
お誘いしたら楽しいのではないか、とつくづく思いました。 

今回、初めて見えた方が4名いらっしゃいました。 嬉しい事でした。



公園にようやく冬鳥到来。 ジョウビタキ(♂)です。
今年はどんな冬鳥に出会えるでしょうか、楽しみです。

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「献げ物」

2014-10-23 13:08:38 | 今日の聖句
今日の聖句は「レビ記」23章37節~38節です。

以上がイスラエルの人々を聖なる集会に招集するべき主の祝日である。
あなたたちはこれらの定められた日に、燃やして主にささげる約尽くす献げ物、穀物の献げ物、
和解の献げ物、ぶどう酒の献げ物をささげる。
このほかに主の安息日、主にささげるさまざまの献げ物、満願の献げ物、随意の献げ物がある。


「レビ記」の献げ物に関する記述はホントウ!に分かり難い、というより面倒で、以前読んだときも
頑張ってメモを取ったりしたのですが、残念ながら、やはり頭に残っていませんでした。
トンチンカンな感想を述べています。 (^^;)

ネットで検索したら、「レビ記」の献げ物に関する記述と礼拝について、
横浜指路教会の藤掛順一牧師様の分かりやすいお説教が見つかりました。
三千年(でしたっけ?)も昔のイスラエルの人々の信仰と、今の私たちの教会での礼拝とのかかわり、
イスラエルの民の献げ物と献金について等々、勉強になりました。
ココをクリックして是非お読みください。


美竹教会での青山学院大学性楽隊によるミニコンサート
当日スケジュールが決まりました。 (遅い!?)
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10月26日(日)
午前10時半~11時45分 主日礼拝
11時45分~12時 聖歌隊のみなさんのお着替え(どんな衣装になるのでしょう?)
12時~12時40分 ミニコンサート



公園の木々が色付き始めました。
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「レビ記」の年代と著者

2014-10-22 21:28:29 | 聖書
「レビ記」からまだ脱出できません。 「神聖法集」(17章~26章)の中をさまよっています。
ちょっと一服、ではありませんが、今日はレビ記の年代と著者について「聖書事典」でお勉強。

レビ記は「第3モーセの書」と言われて、伝統的にモーセが著者と考えられてきた。
確かにレビ記にはモーセ時代にさかのぼると思われる宗教的慣習や蜂起があると思われるが、
モーセがこれらの法の著者ではない。
レビ記は、イスラエルの長い歴史において徐々に成長・発展していった。
ある時に一人の著者によって作られたのではない。

レビ記が現在の形になったのは、捕囚後の時代である。
約束の地において共同体が回復されるのが実際に可能であった時代であり、多分前6世紀の後半であろう。
これを編集したのは、捕囚から帰還した祭司の集団である。
アロンが祭司集団の先祖として重要な役割を担うのは、捕囚後の祭司集団の特徴である。
彼らは、多分王国時代にイスラエルのいろいろな聖所で伝えられていた様々な法を編集した。
それゆえに、レビ記には実に様々な時代の法の資料が含まれている。 (以上、「聖書事典」からの抜書)


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いよいよ今週の日曜日になりました。
10月26日(日) 
青山学院大学聖歌隊による礼拝での讃美奉唱 & コンサート
礼拝は午前10時半~11時45分 その後、引き続いてコンサートとなります。
入場無料です。 どなたでもご自由にお入りください。

美竹教会のホームページにもお知らせが載っています。 クリックしてご覧ください。


今日の写真は順番に樹の洞の水を飲むオナガの雛たちです。
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讃美歌361番 「主にありてぞ」

2014-10-21 18:06:27 | 讃美歌
讃美歌361番 「主にありてぞ」  先週の礼拝で歌いました。

  1 主にありてぞ われは生くる、
    われ主に、主われに ありてやすし。

  2 主にありてぞ われ死なばや、
    主にある死こそは いのちなれば。

  3 生くるうれし、死ぬるもよし、
    主にあるわが身の さちはひとし。

  4 われ主に、主は われにありて、
    天こそとこよの わが家となれ。


原作者Henry Harbaugh(1817-67)はペンシルバニア州に生まれ、小青年時代を農夫、大工、学校教師として過ごし、
1840年マーサーズバーグのカレッジに入学。 3年後、マーサーズバーグ神学校に通い説教者としての資格を取った。
その後、ドイツ改革派の聖職者となり各地の教会で牧した後、1863年頃、マーサーズバーグ神学校の教授となり
死にいたるまで在職した。

彼は又、雑誌“Guardian”と“Mercersburg Review”の主筆として、いわゆる「マーサーズバーグ神学」の普及に努めた。

この歌は信者とキリストとの合一を主題としたもので、1850年に作られ“Hymns of the Church、1869”に掲載された。
作者の神学的傾向を反映している。

曲名“Trentham”はイングランド中部 Staffordshire 州にある村の名前で、作曲者 Robert Jackson(1842-1914)の生まれ故郷である。
ジャクソンは、ロンドンの王室音楽学校に入学し優秀な成績ゆえに銀メダルを獲って卒業した。
卒業後しばらくロンドンの聖マルコ教会のオルガニストを勤めたが、1869年父の死により、郷里オルダム(ランカシャー地域)に帰り、
父の後を継いで、同市の聖ペテロ教会のオルガニスト兼聖歌隊長となった。
永眠まで45年間この地位にとどまったが、父も同じ地位に47年間あり、父子が継続して合計92年間も一つの教会のオルガニスト
兼聖歌隊長を務めたということは、例が少ない。
ジャクスンは、オルダム音楽協会の指揮者をも兼ね、又オルガンの教師もして、多くの門弟を世に送った。
作曲としては、アンセム、合唱曲、讃美歌、歌曲等多数が残っている。

ここに収録したTrenthamは,1894年に作曲され、ジャクスン自身の“Sacred Leaflets、1888”において公表された曲である。
英国ではあまり普及しなかったが、米国においては、この曲を色々の歌詞に配して用いている。

↑ ネットからの引用です。



<エナガ>という野鳥です。
初夏に巣立った雛が10羽くらいずら~っと並んだ
「エナガのおしくらまんじゅう」はそれはそれは可愛いものです。
いつか写真に撮ってアップしたいものです。


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「いのちのパン」

2014-10-20 19:40:38 | 説教
19日の主日礼拝の説教    
テキストは「エゼキエル書」37章1節~10節 & 「ヨハネによる福音書」6章34節~40節   
タイトルは「いのちのパン」でした。

ずっと昔、美竹教会については名前くらいしか知らなかった頃、渋谷の駅で“You are what you eat.”という
看板を見たのを思い出しました。 “You are what you read.”とも言われます。
「食(書)は人なり。 体に入って来るものによって人格は作られ養われ変わってくる。」という事なのでしょう。

先日、10人の方が集まった家庭集会に招かれ、全く初めてのお宅に伺いました。 経歴も職業も境遇も違う
本当に十人十色の集まりでしたが、いつかどこかでお会いしたような、懐かしいような親しみを感じました。
二時間の予定が四時間にもなってしまったのですが、同じいのちのパンをいただいている仲を実感したひと時でした。
塩で味付けされた快い言葉をたくさんいただきました。

その中のお一人が、全く血のつながりの無い、信仰によってのみつながった姉妹を最期まで看取った話をされました。
同じ信仰を持った友人の傍らにいることが自分の慰めとなった。 信仰の姉妹と共に過ごした幸せ、共にキリストと言う
命のパンを食べた者同志の安らぎを感じた、という事でした。
ヨハネ伝6章48節には「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
しかし、これは、天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない。 私は天から降って来た生きたパンである。
このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである

と書かれています。

キリストこそ、この私の命の素、キリストを食べることはキリストを魂のうちに受け入れ、心のうちに味わって全身で受け入れる、
その時、私たちは変えられ、日々新たに生かされる。
私たちの持っている力ではなく、内なるキリストをエネルギー源として聖なる者に帰られる、キリストに似た者にされるのです。

パウロは「コリントの信徒への手紙 二」3章18節で「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、
栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです
。」と言いました。

エゼキエル書が書かれたのはBC6世紀、イスラエル民族全体が滅びのうちに立たされた一つの時代の終わりの時でした。
バビロン捕囚の民が何を見ていたかを映し出したのがエゼキエル書の今日の場面です。これは幻ではありましたが、憶測ではありません。
心が沈んでいると骨までが枯れる。37章4節「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。」 枯れ果てた現実に力を与えるのは言葉であり霊であります。
言葉や霊の力は個々の一人一人に対してだけでなく、神の民、共同体、教会にとってもそうなのです。
神の民、教会は漠然としたものではなく、私たちにとっては美竹教会であり、そこでは命のパンを共にいただき、共に生きる者である、という事です。

今回の美竹教会の改修工事は思いもかけず大変な出来事で、新たな試練の連続で、この重い会堂を脱ぎ捨てたいという思いに囚われたことが
無いとは言えません。 人の身体も同じで、老い、傷つき、病む時、人は自分の肉体を捨てたいと思うでしょう。

新約の編まれた時代には霊と肉体を離して考える思想や宗教がいくつもありました。
しかし聖書の信仰はそのようには考えません。 肉をつまらないものと考えるのはキリスト教の考えと相容れません。 
キリスト教は霊と肉と魂をもって(三本の足に支えられる)鼎のようなものと考えます。 
パウロは「霊も心も体もかけるものなく終わりの時まで守ってください」と祈っています。

使徒信条で体の甦りを信じるというのは、この信仰に立つ私たち、肉体のことを信じるということです。 
朽ちていく体はキリストの恵みを信じる器だから、この体を要なきものとして退けることはしない。
命のパンを味わう様に御心を聴く耳、主の恵みを仰ぐ目、キリストの福音によって地の塩の働きをするのは霊や心でなく手と足です。

喜び安らぎ生き返るのは魂や心だけでなく体も生き返るのです。
肉が死んで土に帰って朽ちても消え去っても、命のパンを味わったこの体を神は無とはされません。
コリント二15:35、42、44で「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。」
蒔かれるときはくちるものでも、朽ちないものに復活し・・・・・・」「死は勝利にのみ込まれた・・・・」とパウロは言います。

主は槍で突かれた体をもって復活されました。 主は死を死に切って、ついに死は究極的な支配者でなくなり、絶対ではなくなったことを
指し示され、信じる者になるようにと私たちを招いてくださっています。
主は、私たちと同じ朽ちる体を復活の身体をもってよみがえられた。
教会はこのキリストを信じ続け、語り続けているのです。              (以上、文責はゆうゆうにあります。)


大いなる励ましと慰めと平安を与えられました。感謝です。
苦しむ人、悩む人、空しさを抱えて生きている人、一人でも多くの方が御言葉に出会い
この救いの福音に与れますように!



雨が降りそうな中、公園の<オナガ>を撮ってきました。


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26日(日)の礼拝&コンサート(青山学院大学聖歌隊)に友人二人が来てくれます。
なんと嬉しいことでしょう!
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青山学院大学聖歌隊によるコンサート

2014-10-19 08:47:10 | 美竹教会
コンサートはいよいよ来週の主日に迫ってきました。
昨日、青学聖歌隊の方から教会にポスターが送られてきました。
大学の内外にこのポスターが活用されて、一人でも多くの方が
美竹教会にいらしてくださいますように! 

  

美竹教会の「これからの予定」ページもご覧ください。

今日はこれから主日礼拝に行きます。
東京渋谷の美竹教会の礼拝に神さまはあなたを招いておられます。
ご一緒に礼拝に参加いたしませんか。
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聖書の学びⅡ 共同体の信仰とは?(2)

2014-10-16 10:04:25 | 「聖書を学ぶ会」
日曜日、礼拝前の10時から10時20分までの短い時間ですが、左近先生による聖書の学びの会がもたれています。
第二期は「共同体の信仰とは?」というテーマで、先週は第二回目でした。
共同体の信仰、聖書は個人の信仰も指し示すが、社会の中でどのように守っていくかを学びます。




  十戒、ギリシャ語で Decalogo という。
  十戒は聖書の二か所に出てくるが、聖書の中の憲法のようなもので、生き方の指針。
  十戒はユダヤ教やキリスト教の教派によっても区切り方が違っている。

  十戒の禁止用語は英語の shall not がヘブライ語の禁止のニュアンスをより良く表している。
  キリスト教は「出エジプト記」20章3節を第一の戒めとするが、これは「救われたあなたが
  他の神を選ぶなんてことはないでしょう? あなたを救ったのは私でしょう?」というニュアンス。

  十戒の五番目は「父母を敬え」だが、これはは神の代理として神を子に伝えるのは親の仕事である、
  神との関係を子供につなげる、意味が込められている。


次回は26日(日)の予定で、「盗むな」と「姦淫するな」についてだそうです。
この日は礼拝後、青山学院大学聖歌隊によるコンサート、なんだか忙しそう・・・・・大丈夫かな~?

美竹教会の秋のイベントをまとめてあります。  ここをクリックしてご覧ください。

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必要なことはただ一つ

2014-10-15 16:05:38 | 今日の聖句
最近、聖書を読もうとすると睡魔に襲われてしまいます、イカン、イカン。
旧約は「レビ記」を読んでいるのですが、これがまた、読み難い文章で・・・・・ 
新約は「ルカ伝」を読んでいます。

今日の聖句は「ルカによる福音書」10章38節~42節です。

一行が歩いてゆくうち、イエスはある村にお入りになった。 
すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 
彼女にはマリアという姉妹がいた。 マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 
マルタはいろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていたが、そばに近よって言った。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。 
手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 
主はお答えになった。 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 
しかし、必要なことはただ一つだけである。 マリアは良い方を選んだ。 それを取り上げてはならない。」


本当に大切なことは神を信じ、神に依り頼むこと。 
その平安に感謝し、その喜びを周囲の人に伝えること。
そうして過ごす毎日はとても簡潔で、単純で、清々しい。
あ~あ、私の毎日もかくあれかし。
イヤ、大体そんな風に過ごしているかな? 自分。 (^-^)



久し振りに<オオタカ成鳥(♂)>を見ました。
遠くてピンボケ、私のレンズで手持ちでは、これが精一杯でした。


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人生に疲れた方、人生の目的を見失っている方、人の世の重荷に苦しむ方、教会の扉はいつも
あなたに向かって開かれています。
神さまはいつもあなたの傍らにいてあなたを見守っていてくださいます。
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