ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

讃美歌310番

2013-09-30 22:48:32 | 讃美歌
昨日の礼拝で歌いました。 「静けき祈りの時はいと楽し・・・・」です。

1) 静けき祈りの 時はいと楽し
   悩みある世より 我を呼び出(いだ)し
   父の大前に すべての求めを
   携(たずさ)え到りて つぶさに告げしむ

2) 静けき祈りの 時はいと楽し
   さまよい出(いで)たる 我が魂(たま)を救い
   危うき道より 伴い帰りて
   試(こころ)むる者の 罠(わな)を逃(のが)れしむ

3) 静けき祈りの 時はいと楽し
   そびゆるピスガの 山の高嶺(たかね)より
   ふるさと眺めて 昇りゆく日まで
   慰めを与え 喜びを満たす


この讃美歌を作曲したWilliam Batchelder Bradbury は1816年メーン州のヨーク生まれ。
彼の父は教会の聖歌隊のリーダーだった。
1830年にボストンに行ってサムナ・ヒルとローウェル・メイスンにピアノとオルガンを学んだ。
1841年ニューヨークのバプテスト教会のオルガニストに就任して、歌唱クラスを開く。
1848年から1851年までドイツに留学する。
帰国後は、ニューヨークで歌唱クラスの指導、唱歌教師の養成、歌集編集の出版等に全力を注いだ。
1854年以降は、兄弟でピアノ製造業に携わった。
生涯で出版した音楽書は60種類以上に上る。
米国では、メイスンについで、ポピュラーな賛美歌作曲家である。
1868年ニュージャージー州モントクレアで死去した

作詞者 William W. Walford については、19世紀の盲目の牧師。
彼が1842年に書いた詩"Sweet Hour of Prayer"が見出されて 1845年にNew York Observerに発表。
それに1859年にウィリアムブラッドベリが曲をつけた、ということしかわかりませんでした。

讃美歌310番はココをクリックすると聴けます。




<翡翠(カワセミ)>の若オス君です。


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「魂を注ぎ出す祈り」

2013-09-29 20:34:49 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「サムエル記」1章9節~20節 タイトルは「魂を注ぎ出す祈り」でした。

エルカナの正妻ハンナは不妊の女性で、夫との間に子をなすことができませんでした。
エルカナとの間に何人もの子を生んでいる妾のペニナの存在は、ハンナを苦しめました。
エルカナは毎年シロの神殿に上り、主を礼拝し贄をささげていましたが、そのたびに
ハンナはペニナとのことで苦しみました。
当時不妊の女性は神に厭われていると言われていて、ハンナの苦しみは非常なものでした。

悩むハンナは神殿で(神の御前で)「はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けください。」と
激しく泣きながら魂を注ぎだして祈りました。

15節の「主の御前に心からの願いを注ぎだしておりました」というハンナの祈りは祈りの真髄を言い表しています。
「ヘブライ人への手紙」11章1節には「信仰とは、望んでいる事柄を確認し、見えない事実を確認することです」とありますが、
御心ならばあなたの恵みを見せてください、とハンナは必死に祈ったのです。
この時のハンナの祈りは妾のペニナを見返そうとか、子を授かったらお礼にこれこれを差し上げます等の御利益のための祈り
ではありませんでした。
心を押しつぶされるほどの悲しみを持つ人の命をかけた祈りでした。

祭司エリはハンナの様子をみて、酔っているのか、と咎めますが、ハンナの話を聞き、
17節で「安心して帰りなさい。イスラエルの神があなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と祝福の言葉を述べました。
ハンナはエリと話すことで平安が与えられました。
祈りによって、またエリの祝福の言葉によって平安が与えられた「ハンナの表情はもはや前のようではなかった」と18節にあります。

祭司でなくても同じ信仰を持つ私たちは誰でもハンナと共に祈り平安を語ることができます。
教職者でなくても教会員同士の祈りによっても私たちは無銀に力づけられ励まされます。
人間の深い苦しみは祈りによってのみ解決します。
祈りは慰めと真の平安を与えてくれます。
人間関係、病気、老衰、死、悲しみ悩みは人生につきものです。
信仰生活をする人ならば同じ信仰の友を必要としているものです。

「マタイによる福音書」18章19節には「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父は
それをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とあります。

悩みを理解しなくても、教会の友と語り合い、祈り合うことによって悩みは消え、神を仰ぐ讃美の心に代わります。
共に祈り合いましょう。
                                         (以上、文責はゆうゆうにあります。)



<曼珠沙華>もそろそろ終わりです。


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礼拝後、教会学校の子供礼拝について、分級担当者の勉強会がありました。
礼拝の子ども説教だけでなく、分級を通しても「子供たちがイエス様を愛し教会を愛する」ためには
分級をどんな風にしたら良いかが話し合われました。
わたしもこれから年に何回か、分級のお世話をすることになりましたので、子ども達が神さまと
しっかり繋がってゆくように、祈りながら求めてゆきたいと思いました。
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今日の聖句(新約と旧約)

2013-09-28 12:44:16 | 今日の聖句
「ルカによる福音書」
12章24節
烏のことを考えてみなさい。種もまかず、借り入れもせず、納屋も倉も持たない。
だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。

31節~34節
だた、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
小さな群れよ、恐れるな。 あなたがたの父は喜んで神の国を下さる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。
擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。
そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。



旧約と並行して読んでいる新約聖書は、今、「ルカによる福音書」を読んでいます。
イエス様の言葉は(私には理解できない難しい譬え話もたくさんありますが)心温まる慰めと癒しに満ちています。
「今日の聖句」としてブログに掲載するのにふさわしい御言葉がたくさんあって、とてもよいです。

比べて、イスラエル民族のる歴史である旧約聖書に出てくる聖句は、迫力がありすぎて圧倒され、辟易とするような
ものもたくさんあります。
「ヨシュア記」の今、読んでいる個所はヨシュア率いるイスラエル軍が神に導かれてカナンに定住していく場面です。
中々に恐ろしい・・・・・・


「ヨシュア記」10章25節~
ヨシュアは言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強く、雄々しくあれ。
あなたたちが戦う敵に対して主はこのようになさる。」
ヨシュアはその後、彼らを撃ち殺し、五本の木にかけ、夕方までさらしておいた。
しかし、太陽が沈むころ、ヨシュアは命じてその死体を聞から下ろさせ、彼らが隠れていた洞穴に投げ入れ、
入り口を大きな石でふさいだ。 それは、今日まで残っている。
ヨシュアはその日、マケダを占領し、剣をもってその町と王を打ち、住民を滅ぼし尽くして一人も残さなかった。
マケダの王に対してもエリコの王と同じようにした。



ヨシュアはこの後、全イスラエルを率いて、リブナ、ラキシュ、エグロン、ヘブロン、デビルを占領し剣をもって
全住民を打ち、王を殺します。
ヨシュアは、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含み全域を征服し、その王たちを全員殺し、息のある者を
ことごとく滅ぼしつくしました。
ヨシュアはカデシュ・バルネアからガザまで、ゴシェン地方一体を経て、ギブオンまでを征服し、
全イスラエルを率いてギルガルの陣営に凱旋しました。

これからも↑上のような聖句を載せていくのでしょうかね~
それはそれで興味尽きない楽しいことではありますが・・・・・




公園の<チカラシバ>


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明日は主日礼拝です、教会の扉を押してお訪ねください。
礼拝は10時半から始まります。 ご一緒に祈り、さんびか
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「主によって強くなる」

2013-09-26 23:45:12 | 「先週の講壇より」
   先週の礼拝説教の一部が「先週の講壇より」として週報に載りました。
   テキストは「士師記」16章23節~31節 タイトルは「主によって強くなる」でした。


   

   説教の全文は美竹教会のホームページ「9.説教集」に載っています。
   是非お読みください。



   
   <ヒメアカタテハ>という蝶です。
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エリコの占領

2013-09-25 23:47:18 | 今日の聖句
「ヨシュア記」を読み始めました。 今日の聖句は「ヨシュア記」6章1節~5節と20節です。
1節~5節
エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、だれも出入りすることはできなかった。
そのとき、主はヨシュアに言われた。
「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。 あなたたち兵士は皆、町の周りをまわりなさい。
町を一周し、それを六日間続けなさい。 七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。
七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。 彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、
その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。
町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。


20節
角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。 民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、
民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。
彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごごく剣にかけて滅ぼし尽くした。



有名な「エリコの占領」に関する記事です。
神の言われるようにしたら、城壁が勝手に崩れ落ちてしまったのです。
そして、旧約聖書お得意の(?)占領した民の皆殺しが記されています。
旧約聖書を読むと言うことは、何度も「男も女も若者も老人も牛、羊、ろばに至るまで滅ぼし尽くされる」シーンを
読まなくてはならないことです。

現在の日本では想像できないシーンですが、第二次大戦においては日本軍も中国において皆殺しや大殺戮を戦場だけでなく、
町や村でも繰り広げたのでしょう。
今も中東やアフリカでは無辜の民が命の危険にさらされています。
私達というより、私はいつでも我を忘れ、いくらでも残虐になれる者、人間なのです。
自分の弱さを知っている私としては、願わくば、自分がそのような状況に置かれずに一生を終えたいものです。
世の中の全てのことに関わることはできませんが、自分だけが圏外にいれば、それでよいのか、と
何も為し得ない自分に心が揺らぎ痛みます。

旧約の世界では神が主が、その事を命じられた、というのが不思議で、理解できないのではありますが・・・・・・・ 



今年孵った<カワセミ>の幼鳥(♂)


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分からないことがあっても、神様の福音を知った今、私は教会から、神様から離れることはできません。
この平安にあなたも与かることができますように!
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讃美歌284番

2013-09-24 22:22:30 | 讃美歌
先週の礼拝で歌いました。 讃美歌284番です。

1 主のとうとき みことばは
  わが生命(いのち)の もといなり
  たよるわれは 安けしや
  世にまたなき みことばよ

2 ただ我のみ汝(な)が神ぞ
  おそれず行け ためらわで
  力つよき 我が腕(かいな)
  なれにそいて はなれじ

3 なやみの火は燃え上がり
  なげきの河 あふるとも
  めぐみの手に すがりなば
  つねに勝ちて あまりあらん

4 老いの坂を のぼりゆき
  かしらの雪 積もるとも
  変わらぬ 我が愛におり
  安けくあれ 我が民よ

英語国民に愛唱される名歌である。この歌詞は1787年にJohn Rippon(1751-1836)により編纂された“賛美歌選集 
A Selection of Hymns from the Best Authors”に載っているが原作者については色々の説があって未だに決定していない。
John Ripponはバプテスト派の牧師としてロンドンの教会で63年間牧会にあたった。この讃美歌集の編纂で大きな貢献をした。

イザヤ書28章16節「それゆえ、主なる神はこう言われる。『わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石 
堅く据えられた礎の、尊い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。』」
また、ヘブライ人への手紙13章5節「神ご自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決して置き去りにはしない』」
6節「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」に基づき作詞されたものであろう。
この歌はこれまで多くの人に愛唱され、力と慰めの源泉となった。

この賛美歌はアメリカ第26代大統領で日露戦争の終結に貢献しノーベル平和賞を受賞したTheodore Roosevelt(在任:1901-1909)や
第一次世界大戦後の国際連盟の創設に尽力した第28代大統領Woodrow Wilson(在任:1913-1924)或いはアメリカ南北戦争の
南軍司令官Robert E.Lee将軍の葬儀の際にも歌われた。

この歌詞は、クリスマスのときに歌われる賛美歌111番「神の御子は今宵しも」の旋律である“Adeste Fideles”につけられて
歌われているが、他にもいくつかの旋律が用いられており、先述の葬儀のときにどの旋律が用いられたのか興味がある。

Adeste Fidelesは18世紀の初めころからカトリック教徒の間にひろくうたわれていた歌で John Francis Wade(1711-1787 英国人)
という人が浄書したCantus Diversiの中に原曲が含まれていたもので、今日では、英米のプロテスタント各派の讃美歌集に採り入れられ、
クリスマスのは欠くことのできない世界的名歌となっている。 (解説はネットからの引用です。お世話になります。m(_ _)m )


讃美歌284番「主の尊き御言葉は・・・」はここをクリックすると聴くことができます。




公園の後ろの田圃で<雉(キジ)>に出会いました。


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重荷を負い苦しんでいる方、キリスト教に興味のある方、イエス様の御言葉を知りたい方、
どうぞ日曜日の礼拝にお出かけください。
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教会の墓地

2013-09-23 13:32:42 | その他
「ルツ記」1章17節
あなたの亡くなる所でわたしも死に そこに葬られたいのです。

この聖句は昨日の礼拝説教のテキストの一部です。
このテキストから、昨日は、ルツの暖かい誠実な思いに重ねて主イエス・キリストの慈しみを知り、
主と共に在る平安と喜びの人生を学びました。 感謝。
ところで、説教とは全く別に、17節から教会の墓地について私の思いは広がりました。

大和キリスト教会の教会員だった姉は二年前に亡くなりましたが、その遺骨は大和キリスト教会の
墓地に葬られています。 姉の遺言により、お連れ合い様の菩提寺の墓地には分骨し、そちらでの
供養は一切しないことになっています。
もう一人の姉はお連れ合い様共々、溝の口教会の墓地に埋骨していただく予定だそうです。

私の連れ合いの菩提寺は曹洞宗で寺の脇にはそこそこ立派な墓地があります。
私はクリスチャンでない夫と結婚して以来、教会から離れている期間も、死んだとき自分の遺骨を
どうしてもらおうか、いつも考えていました。

結婚当初はクリスチャンだった実家の両親の墓地に葬ってもらい、連れ合いの菩提寺に分骨してもらおう、
と真剣に思っていました。
実家も兄から甥の代になり、私の遺骨を引き取ってもらうのも現実的でなくなり、今は、私の遺骨は
大好きな海(大きな川と海が出会う広々とした河口だったら言うことなし!)に散骨してもらおうと思って、
私的な遺書にはその旨を書いてあります。

昨日、説教で冒頭の聖句を読んだとき、美竹教会に教会墓地があったら!と強く閃きました。
ルツが、慕っている姑ナオミと死の後も共に在りたいと願ったように、私も教会の兄弟姉妹と共にいたいし、
何よりも私は死んでも、神に召された者として両親や姉たちとも共にいられるという気持ちになりました。
(遺骨がどこに葬られようと、神の御許に召されればみんな一緒とは分かってはいますが・・・・・(^^)


放蕩息子のように何十年もさ迷った挙句、三年前にようやく美竹教会に戻った私は教会の新参者です。
「美竹教会に墓地を作りましょう」という気持ちをどんなふうに表明したらよいのか分かりません。
いつか、そんな話をする機会が巡ってきたら、その時は自分の希望をハッキリ言いましょう。

教会の墓地、いいな~♪ 




刈り入れの終わった田圃でドジョウを食べる<ダイサギ>


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「御翼の陰に宿る」

2013-09-22 23:03:28 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「ルツ記」1章11節~22節 タイトルは「御翼の陰に宿る」でした。

エリメレクとナオミの夫婦は飢饉が国を襲ったため、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。
夫エリメレクは、妻ナオミと二人の息子を残して死んだ。
二人の息子はその後、モアブの女性を妻にし、十年ほどそこに暮らしたが、二人の息子も死に、
ナオミは嫁二人と残された。
主がその民(ユダ)を顧みて食べ物をお与えになったと言うことを知り、ナオミはモアブを後にし
ユダに帰ることにした。
途中でナオミは二人の嫁に、モアブの地に残って再婚するように勧めた。
一人の嫁オルパは姑のナオミに別れの口づけをしたが、もう一人の嫁のルツはナオミに同行する
決意が固く、ナオミはルツを説き伏せることはできなかった。

16節
ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないで
ください。 わたしは、あなたの行かれる所に行きお泊りになる所に泊まります。
あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神。
あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。
死んでお別れするのならともかく、そのほかのことで、あなたを離れるようなことをしたなら、
主よ、どうかわたしを幾重にも罰して下さい。」


ベツレヘムに着くと町中の人が(ナオミの変わり果てた姿に?)どよめいた。 
ナオミは自らの境遇を嘆いた。

20節~21節
ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。 
全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。
出ていくときは満たされていたわたしを主はうつろにして帰らせたのです。
なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。
主がわたしを悩ませ、全能者が私を不幸に落とされたのに。」


20節~21節はナオミの嘆きの言葉です。 ナオミは神を恨み親からもらった名前さえ恨み否定しました。
しかし、嫁たちへの思いやりある配慮に見られるように、神への信仰を失ってはいませんでした。

16節の「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」というルツの言葉は彼女の信仰告白です。
ルツとナオミを結ぶキーワードは「神への信仰」です。
ルツ記にはルツとナオミ、その他、思いやりのある会話がたくさんあります。
2章12節のどうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼の
もとに逃れてきたあなたに十分に報いてくださるように。
というボアズの言葉もそうです。
この言葉はルツ記の主題を述べています。
人間同士の愛と思いやりが生まれています。

「うつろ」と思っているナオミが、実は気づいていないことが二つあります。

第一は「墓の中まで一緒に・・・」というルツの深い誠実な心に包まれていることです。
イザヤ書46章4節には「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い救い出す。」
とあります。
ナオミと共にいるのはルツですが、主が共にいますのではないでしょうか。
イエスの救いを信じる人は慈しみの中に生きることができるということです。

第二はナオミが故郷(ユダ)に戻ったのは決して自力ではなく神の御業だということです。
1章6節「主がその民を顧み、食べ物をお与えになった・・・」 
1章22節「・・・大麦の刈り入れの始まるころであった。」 すべては神の御計画だったのです。

ルツは一生懸命に働きました。
どんな小さなことでも神の御計らいですから、誠実にすることが大切です。
礼拝に導かれる私たちも大きな節理のなかの出来事で、決して偶然ではないのです。
空しかった人生を神はすべて変えてくださり、神に感謝する人生、嬉しい人生に変えてくださいます。
                                     (文責はゆうゆうにあります。)




黄色くなり始めた桂の木に止まる<アゲハ>


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今日は教会員懇談会でした。美竹教会のこれからのことを真剣に話し合いました。
神さまが教会の中心にいらして、私たちを守り導いてくださいますように。
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モーセの死

2013-09-21 16:30:50 | 今日の聖句
「申命記」読み終わりました。 今日の聖句は 「申命記」34章1節~4節 と 10節~12節です。

1節~4節
モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。 
主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。
ギレアドからダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、
ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツオアルまでである。 主はモーセに言われた。
「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。
わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。
あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」


10節~12節
イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。
主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣
および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、
あらゆる力あるわざとあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。



モーセはツィンの荒れ野にあるメリバの泉で、イスラエルの人々に神が聖なることを示さなかった、という理由で、
神がイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るだけで、そこに入ることはできませんでした。

「申命記」32章52節では「臨み見る」ではなく「望み見る」となっています。
エジプトから、何かあるとすぐに不平不満を言い募る民を率いて四十年、緑豊かな、水の溢れる、乳と蜜の流れる
希望の土地、待望の土地を望み見たモーセの気持ちを思うと胸が詰まります。
モーセはすべてを神にゆだねて生きた人ですから、神様の思し召しを良しとして、受け入れていたのかも知れませんね。
「申命記」最後のシーンは感動的で、私は感無量です。




公園の<カルガモ>


美竹教会の明日の主日礼拝は午前10時30分からです。
イエス様の教えや、キリスト教、教会に興味のある方、一度礼拝にいらっしゃいませんか。
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モーセは知っていた

2013-09-20 21:25:32 | 今日の聖句
「申命記」も終わりに近づきました。
イスラエルの民が守るべき神との契約をすべて書き記して、モーセの死期も近づきました。
モーセは神の言いつけにより、自分の後を継ぐ者としてヨシュアを任命します。

今日の聖句は「申命記」31章24節~29節です。
モーセは、この律法の言葉を余すところなく書物に書き終えると、主の契約の箱を担ぐレビ人に命じた。
「この律法の書を取り、あなたたちの神、主の契約の箱の傍らに置き、あなたに対する証言としてそこに
あるようにしなさい。 わたしはあなたがかたくなで背く者であることを知っている。
わたしが今日、まだ共に生きているときでさえ、あなたたちは主に背いている。 
わたしが死んだ後は、なおさらであろう。
あなたたちの部族の長老と役人をすべてわたしのもとに集めなさい。 わたしはこれらの言葉を彼らに
語り聞かせ、天と地を彼らに対する証人とする。 わたしには分かっている。 わたしの死んだ後、
あなたたちは必ず堕落して、わたしの命じた道からそれる。 そして後の日に、災いがあなたにふりかかる。
あなたたちが主が悪とみなされることを行い、その手の業によって主を怒らせるからである。



モーセはイスラエルの民を命を懸けて守ってきました。
彼は、自分の死後、不従順な民が神との契約を守らないであろうとわかっていました。
どんな気持ちで死を迎え、神の御許に召されていったのでしょう。
偉大な預言者、指導者、モーセはヨルダン川を渡ることを許されず、ここで生涯を閉じます。




夏の間あまり見なかった<ツマグロヒョウモン>のランデブー飛行です。
左が雌、右が雄です。


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