6月29日の礼拝説教
テキストは 「創世記」12章1節~3節 と「使徒言行録」16章6節~10節 タイトルは「確信の礎」でした。
ある一人の宣教師が本国に去る時の手紙の言葉です。
彼、ジェームス・カーティス・ヘボンは日本での働きを「自分に与えられた最善の使命と捉えた」と書いています。
医者であり科学者であり聖職者だったヘボン、主の祈りもヘボンが訳したと言われます。
彼のヘボン塾が後の明治学院、フェリス女学院に繋がる一粒の麦の種となり、横浜指路教会も作りました。
聖書の日本語訳のためにも辞書の必要性を認めていたヘボンは来日8年目の1867年、日本で最初の本格的な
和英・英和辞書である『和英語林集成』を出版するに至ります。 ヘボンの編集した聖書は言葉として優れたものでした
しかし、ヘボンの最大の宝は宣教師としての生き方でした。
天の真の故郷を見上げながら生涯旅人であり続けた人生、そのヘボンの生涯をたどってみたいと思います。
ヘボンが日本に来たのは1859年、44歳の時でした。
この一歩が日本のキリスト教の歴史の新しいページを開くことになりました。
妻ともども体調を崩してアメリカに戻るまでの日本での33年間をヘボンは「私は神による旅人で、艱難災難といえども、
父と共に在るので我が喜びとなった。天国で再び会って喜び合いましょう」と言いました。
ここには伝道の旅の原点、聖書の証しの旅の原点があります。
ヘボンは20代半ばで志を同じくする妻と共に1841年7月シンガポールに到着しました。
シンガポールで宣教地を当初のシャムから中国のアモイに変更しましたが、アヘン戦争のため直ちに渡航できず、
アモイ到着は2年後の43年11月まで待たねばなりませんでした。
その後、妻のクララは産後の肥立ちも悪く、加えて夫妻ともにマラリアに罹り、伝道を断念せざるをえませんでした。
家族3人は46年3月ニューヨークに帰りました。
帰国後ヘボン博士はニューヨークで医療活動を開始しました。 病院は繁盛して財をなすことができました
ヘボンは賑わった病院を閉じて、1859年4月24日ニューヨーク港を出帆し、10月17の夜半に神奈川沖に到着しました。
ヘボン博士は後年ニューヨークのミッション本部宛書簡に次のように記しています。
「日本に行くべき招命を受けたとき、わたしの心を家郷に結びつける幾多の繋累をたち切り、喜びいさんで出て行ったのであります。
いつも思うことですが、中国におけるわたしの最初の宣教師としての生活と経験とは日本における第二の、そして更に
最も重要な伝道事業のためであったと考えています。」
今日のテキストで、パウロは伝道を妨げられ、失意であったかもしれませんが、大切なのは主の御旨の実現のみです。
私たちの計画が神の御旨に添う時、伝道は伸びます。扉をたたくのは私たちですが開けて下さるのは主です。
大胆に果敢にたたき続けることが大切です。
パウロはマケドニアからの求めに応じ、アジアからヨーロッパに向けて召されている確信を持ちました。
アジア州で御言葉を語ることを聖霊によって禁じられ、ピティニア州に入ることをイエスが赦さなかった、
しかし、その閉じられた道がマケドニアに通じ、その後全世界に広められました。
10節では、「わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。」と使徒言行録の著者が突然主体的に語り出しています。
聖書を読む人はその働き、出来事に巻き込まれていくものです。
演劇、コンサート、映画などと同じものがありますが、語られる聖書の証言を追体験していきます。
自らが参加する、自らも加えられ生かされる喜びを与えられます。
このことを他の人々に語るために召されている、として神の言葉は伝えられてきました。
美竹教会もまた同じです。
新しく開かれる扉の向こうに神の御言葉を携えて旅立つのです、伝道です。
パウロの、ヘボンの旅が私たちの旅となるのです。 私たちは礼拝から派遣されて行くのです。 (以上、文責はゆうゆうにあります。)
主のみ旨は測りがたし、私たちはひたすら祈り続け扉をたたき続けるのみです。
多くの方が神の救いに与り、平安のうちに過ごせますように!
<芙蓉>の花です。
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
テキストは 「創世記」12章1節~3節 と「使徒言行録」16章6節~10節 タイトルは「確信の礎」でした。
ある一人の宣教師が本国に去る時の手紙の言葉です。
彼、ジェームス・カーティス・ヘボンは日本での働きを「自分に与えられた最善の使命と捉えた」と書いています。
医者であり科学者であり聖職者だったヘボン、主の祈りもヘボンが訳したと言われます。
彼のヘボン塾が後の明治学院、フェリス女学院に繋がる一粒の麦の種となり、横浜指路教会も作りました。
聖書の日本語訳のためにも辞書の必要性を認めていたヘボンは来日8年目の1867年、日本で最初の本格的な
和英・英和辞書である『和英語林集成』を出版するに至ります。 ヘボンの編集した聖書は言葉として優れたものでした
しかし、ヘボンの最大の宝は宣教師としての生き方でした。
天の真の故郷を見上げながら生涯旅人であり続けた人生、そのヘボンの生涯をたどってみたいと思います。
ヘボンが日本に来たのは1859年、44歳の時でした。
この一歩が日本のキリスト教の歴史の新しいページを開くことになりました。
妻ともども体調を崩してアメリカに戻るまでの日本での33年間をヘボンは「私は神による旅人で、艱難災難といえども、
父と共に在るので我が喜びとなった。天国で再び会って喜び合いましょう」と言いました。
ここには伝道の旅の原点、聖書の証しの旅の原点があります。
ヘボンは20代半ばで志を同じくする妻と共に1841年7月シンガポールに到着しました。
シンガポールで宣教地を当初のシャムから中国のアモイに変更しましたが、アヘン戦争のため直ちに渡航できず、
アモイ到着は2年後の43年11月まで待たねばなりませんでした。
その後、妻のクララは産後の肥立ちも悪く、加えて夫妻ともにマラリアに罹り、伝道を断念せざるをえませんでした。
家族3人は46年3月ニューヨークに帰りました。
帰国後ヘボン博士はニューヨークで医療活動を開始しました。 病院は繁盛して財をなすことができました
ヘボンは賑わった病院を閉じて、1859年4月24日ニューヨーク港を出帆し、10月17の夜半に神奈川沖に到着しました。
ヘボン博士は後年ニューヨークのミッション本部宛書簡に次のように記しています。
「日本に行くべき招命を受けたとき、わたしの心を家郷に結びつける幾多の繋累をたち切り、喜びいさんで出て行ったのであります。
いつも思うことですが、中国におけるわたしの最初の宣教師としての生活と経験とは日本における第二の、そして更に
最も重要な伝道事業のためであったと考えています。」
今日のテキストで、パウロは伝道を妨げられ、失意であったかもしれませんが、大切なのは主の御旨の実現のみです。
私たちの計画が神の御旨に添う時、伝道は伸びます。扉をたたくのは私たちですが開けて下さるのは主です。
大胆に果敢にたたき続けることが大切です。
パウロはマケドニアからの求めに応じ、アジアからヨーロッパに向けて召されている確信を持ちました。
アジア州で御言葉を語ることを聖霊によって禁じられ、ピティニア州に入ることをイエスが赦さなかった、
しかし、その閉じられた道がマケドニアに通じ、その後全世界に広められました。
10節では、「わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。」と使徒言行録の著者が突然主体的に語り出しています。
聖書を読む人はその働き、出来事に巻き込まれていくものです。
演劇、コンサート、映画などと同じものがありますが、語られる聖書の証言を追体験していきます。
自らが参加する、自らも加えられ生かされる喜びを与えられます。
このことを他の人々に語るために召されている、として神の言葉は伝えられてきました。
美竹教会もまた同じです。
新しく開かれる扉の向こうに神の御言葉を携えて旅立つのです、伝道です。
パウロの、ヘボンの旅が私たちの旅となるのです。 私たちは礼拝から派遣されて行くのです。 (以上、文責はゆうゆうにあります。)
主のみ旨は測りがたし、私たちはひたすら祈り続け扉をたたき続けるのみです。
多くの方が神の救いに与り、平安のうちに過ごせますように!
<芙蓉>の花です。
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。