ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

満ち足りる心

2013-01-31 19:37:57 | 今日の聖句
「テモテへの手紙」 6章6節~8節

もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。
なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことが
できないからです。 
食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。


食べる物と着る物と住む家を与えられている現在は感謝してあまりあること、
のはずですが、私の欲望は限りなく広がり膨らみます。

「世界がもし100人の村だったら」というメールをご紹介いたします。





日本で最小の野鳥<キクイタダキ>
見ている限り、キクイタダキの動きはただ餌の虫を捕えることにのみ集中しています。
彼らは何を思っているのでしょう。
人間には測れない彼らの思いを知ったら、実はびっくり仰天だったりして・・・・
毎日のように野鳥を撮っていると、時々彼らの表情が読めるように「錯覚」します。




日曜日、渋谷駅から徒歩5分の美竹教会の礼拝は10時半からです。 
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喜びと希望

2013-01-30 09:32:46 | その他
山浦玄嗣著「イエスの言葉ーーケセン語訳」を読み終わりました。
聖書の福音書(イエス様の御言葉)が分かりやすく魅力的にダイナミックに解説されていて、
深く納得し、感動し、慰められ、励まされました。

私はイエス様の生涯と御言葉を描いた福音書が大好きです。
この本は大部分が福音書のイエスの御言葉を説き明かしています。

どの項目もご紹介したいのですが、私が特に感動した最後の項「復活」からの抜粋を載せます。


『(イエスの復活は)人間の理解力ではいかにしても理解できない不思議なできごとですが、
これを見た人びとが「わたしは確かに見たのです」と言いはり、殺されてもなおその証言を
変えなかったということから、これはやはり神さまのみわざなのだとわれわれ(クリスチャン)は
信じているわけです。

わたしたちがこの世の生を終わって死ぬときに、イエスは私たちを必ず復活させてくださる
という信仰につながります。
これは、この世の時間や空間を超えた、神さまのふところにわたしたちを招いてくださる
という素晴らしい希望の言葉になります。

キリスト教徒とは、この目もくらむような素晴らしい喜びと希望に身をゆだねる人びとのことでもあります。』


私自身は教会に通うようになって、初めて生きている(生かされている)意味を信じられるようになりました。
神の国に招かれるということは、神さまがご支配なさる世界で、時を得ても得なくても、生き生きと元気に
生活することだ、と信じられるようになりました。

毎日の生活を通して神さまの御言葉を証しするものになりたいとも思うようになりました。
どうしたら神さまの証しができるのかは分かりませんでしたが、まず、聖書を読み、神さまに祈り、
そして教会に通うようにしました。

このブログも、一人でも多くの人が神さまに招かれている喜びと希望を持てたら、と始めてみました。
しかし、非力な私のこのブログを読んで、がっかりしたり、キリスト教ってこんなやつが信じてるのかぁ、
等とマイナスに作用していたら、と考えると不安になります。

書く力と勇気を与えてくださいと祈りつつ、もう少しブログを続けてみようかと思います。




     飛ぶ宝石<翡翠(かわせみ)>です。



美竹教会のホームページをご紹介します。  どうぞごらんください。
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通俗的市民倫理

2013-01-28 22:37:49 | 今日の聖句
↓今読んでいる「テモテへの手紙 一、二」の解説。 「聖書事典」からの抜き書きです。

************  
監督や奉仕者など教団の役職者には当時のヘレニズム世界の価値観である
美徳(道徳)が求められた。
このような道徳の実践は模倣を通して可能になると考えられた。
テモテはパウロを手本にすべきであり、テモテもまた「言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、
信じる人々の模範」とならねばならない。
さらに、この著者はイエスの苦難がパウロの手本になっていることをも示唆している。
しかし、ここで模倣の連鎖を通して伝えられる内容は、所詮、通俗的市民倫理を超えるものではない。
************



そして、今日の聖句は「テモテへの手紙 一」 3章2節~3節  ここは『監督の資格』が述べられています。

だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、
客をもてなし、よく教えることができなければなりません。
また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず・・・・・


3章8節~9節  ここには『奉仕者の資格』が述べられています。

同じように、奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。 
二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理を
持っている人でなければなりません。



通俗的市民倫理かも知れませんが、まあ、監督や奉仕者が、大酒のみであったり、二枚舌であったりするのは
困りますから、これはこれでよいのではないでしょうか。

私の素人判断です。
私の聖書の読み方はこんな風ですが、はたしてよいのでしょうか、そのほうが心配です。 




     強面<シメ>の珍しく、可愛らしい表情が撮れました。



美竹教会の礼拝に出席して聖書の御言葉をご一緒に読みましょう!
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「慈しみ深き」

2013-01-27 22:59:37 | 讃美歌
讃美歌312番 

1) 慈しみ深き友なるイエスは 
   罪とが憂いをとり去りたもう
   心の嘆きを包まず述べて  
   などかは下ろさぬ 負える重荷を

2) 慈しみ深き友なるイエスは 
   われらの弱きを知りて憐れむ
   悩み悲しみに沈める時も 
   祈りにこたえて 慰め給わん

3) 慈しみ深き友なるイエスは 
   変わらぬ愛もて導きたもう
   世の友われらを棄て去るときも 
   祈りにこたえて 労りたまわん

今、苦しんでいる友がいます。 苦しんでいる姉妹がいます。
「愛」と言うのは、言葉でも思いでもなく、具体的な行動だと思います。
わたしは、今は、ただ祈ることしかできません。
それだけでは駄目です。
具体的な手助けが何もできない自分がもどかしいです。




                <ミモザ>


友と、姉妹と、今は夢ですが、いつか美竹教会に通えたら、と願っています。
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分かりませ~~ん。

2013-01-26 09:41:21 | 今日の聖句
今日の聖句は「テモテへの手紙 一」 2章11節~14節

婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。
婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。
むしろ、静かにしているべきです。
なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。
しかも、アダムはだまされませんでしたが、女がだまされて、罪をおかしてしまいました。



フッフッフッフ、何たる言いぐさ・・・・・(笑)

静かに従順に学ぶべきは男も同じではないですか、アナタ。
「わたしは許しません」って言ったって、アナタ、その言こそ許されませんゾ!
「エバは後から造られた」な~るほど、聖書では(素人の私がこれまで読んで漠然と捉えている
範囲内では)生まれた順番が意外に重要になんですね。

最初は「婦人」と言ってたのに、最後は「女」ですか、これまた可笑しい。


婦人だけでなく、男性も静かにしている必要は無く、思うべきところはハッキリ言い、笑うべき時は
大声で笑い、悲しい時は周囲を巻き込んで、思いっきり泣いて沈み込んで・・・・・・
という生き方はダメなんでしょうかね~  ハァ~ 

聖書って、面白い記述がたくさんありますね。
そして、私には理解できないところ、たくさんアリ。
これからも読むのが楽しみです。 負け惜しみではありませんゾ! (^-^)





      <アオジ> 春が近づくとお腹が綺麗な黄緑になります。
        公園には先日の雪がまだ残っていました。



美竹教会でご一緒に聖書を読んで、分からない点は牧師先生にお尋ねしましょう!
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善い業で身を飾る

2013-01-25 10:03:30 | 今日の聖句
「テモテへの手紙 一」 2章8節~10節

だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を挙げてどこででも祈ることです。
同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、
髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を見に着けたりしてはなりません。
むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。


こういう記述が「通俗的市民倫理観」だといわれるのでしょうかね。
そうであっても、書かれていることは至極まっとうなことだと思います。

男、婦人とわける必要もないような・・・・・・
婦人もどこででも祈るべきだし、男も慎みと貞淑で身をかざり、高価なこの世的な富を
身に着けるよりも「善い業で身を飾るのが」ふさわしいことだと思います。

当時の社会ではクリスチャンにたいしても、このように諌める必要があったのかも知れませんね。

「善い業で身を飾る」・・・・・・・なんて素晴らしい言葉でしょうか!
なかなかできることではありませんが、この聖句をいつも心にもって生活したいものです。





頭が白くなっています。
婚姻色の出ている<カワウ>です。



美竹教会のホームページ
教会学校では、子供たちはクリスマスやイースターの祝会などのイベントも楽しみます。
お母様方、お子さまとご一緒にぜひ教会にいらしてください。
教会学校も成人礼拝と同じ時間、午前10時半からです。
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牧会書簡

2013-01-23 12:28:53 | 今日の聖句
新約聖書は「テモテへの手紙 一」まで読み進みました。
この手紙はこれまでの「何処そこの信徒への手紙」という教会に宛てたのとは違って、
テモテという青年、個人に宛てた手紙です。

読み始める前にまず、私の唯一の参考図書「聖書事典」やネット情報を読みました。

描かれているパウロ関係の歴史的記事が史実と一致しないことや、パウロの後の、かなり発達した
教会制度を反映していることなどから、著者は確定できず、執筆年代は紀元後1世紀末か2世紀初め
と思われるそうです。
(パウロは紀元後60年頃処刑されたと推定されます。)

この書簡は、真正なパウロ書簡ではなく、教会のあり方などを指示していることから
「牧会書簡」と呼ばれています。

パウロは13通の書簡を書きましたが、その中で「真正なパウロの書簡」は7通で、その他は
「パウロの名による書簡(第2パウロ書簡)」や「牧会書簡」と分類されています。

事典の解説の終わりに「ここで模倣の連鎖を通して伝えられる内容は、所詮、通俗的市民倫理を
超えるものではない。」とありました。  
へぇ~、そうなのですか~

早速読み始めると「通俗的市民倫理」であるかどうか分かりませんが、オヤオヤ?と思う記述もあり、
面白くて一度に全部(と言っても6章だけの書簡ですが)読んでしまいました。
例によって、私の読み方は、意味を把握することなくただ読み下しているだけです。
意味を把握する能力はありません。 (^^;)

今日の聖句は「テモテへの手紙 一」 1章13節~15節です。

以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。
しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。
そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。
わたしは、その罪人の中で最たる者です。







      <ウソ(♀)> 雄に比べると地味ですが、眼差しが優しい気がします。
      ウソに関しては知りませんが、例えば、百舌やジョウビタキの雌など
      実際は雄よりも気の強い雌はたくさんいます。

 


美竹教会では毎月第1主日に聖餐式が執り行われますが、下線部分は聖餐式の時に読まれていたような記憶があります。
聖餐式では、キリストの体を現すパン(1㎝角の食パン)と血潮を現す葡萄酒(ジュース?)を祈りながら味わいます。
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婚宴の譬(たとえ)

2013-01-21 20:31:56 | 説教
昨日の礼拝の説教  テキストは「マタイによる福音書」 22章1節~14節

中見出しが『「婚宴」のたとえ』となっていて、イエス様お得意の、そして私の苦手な(笑)たとえ話です。

あらすじは **********

ある王が王子のために婚礼を催しました。
王は家来を送り、婚宴に招かれた人々を呼びに行かせましたが、人々は婚宴に来ようとしませんでした。
食事の用意も整い、すっかり用意ができたのち、また別の家来を使いに出しましたが、人々は無視して
畑に出かけたり商売に出かけ、他の人々は家来を殺してしまいました。
王は怒り、軍隊を送ってこの人殺しを滅ぼし、その町を焼き払いました。

その後、王は家来を町の大通りに行かせ、見かけた人は善人も悪人も皆集るように言わせました。
婚宴は客でいっぱいになりました。
ところが、客の中に婚礼の礼服を着ていない者が一人いました。
王が「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか」と尋ねると、この者は黙って答えませんでした。
王は「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と
側近に言いました。


上田先生の説教 *********  (ゆうゆうの要約、文責はゆうゆうにあります (^-^))

これは、私たちは天国に招かれているというたとえ話です。
王は父なる神、王子はイエス、花嫁は教会です。

1)婚礼に招かれていた人々はユダヤ人で、彼らは神の招きを無視し、家来を(実際、彼らは旧約の預言者、
  さらにはイエスも)殺害しました。

2)町の大通りにいた善人、悪人を含む招かれていなかった人々は異邦人を指します。
  どんな人も(悪人も善人も)キリストの十字架を信じるなら天の国の恵みに与れることが語られています。
  しかし、わたし達も、もし神の御言葉を聴きながら従おうとしなければ、ユダヤ人やファリサイ派の人々の
  仲間と同じになります。

3)礼服を着ていないで婚礼に出た人、この場合、礼服とは信仰を意味します。
  ルターは「礼服はキリストである。キリストを信じてただ着ることによってのみ救われる」と言いました。

このたとえ話で大事なことは、主は私たちを婚礼、つまり喜びの席に招いてくださっている、ということです。

私たちは、罪を犯してはいけない、いけない、いけないと内向きに暗くなってはいけません。
天国の祝宴の召しと選びにすでに与っていることを忘れてはいけません。
福音の自由と喜びを忘れてはいけません。





     日本最小の野鳥<キクイタダキ(菊戴)>です。
     頭頂が黄色くて黄菊を戴いた鳥です。
     体長9~10㎝、重さ3g~5gです (一円玉3枚だなんて!)




今週も感謝と喜びを持って過ごしましょうね! (かなりしんどい時もありますが・・・・・(^^;)

苦しい時、悲しい時、孤独な時、教会の扉を開けてください。
美竹教会のホームページはクリックで簡単に開きますよ~~
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祈りの言葉

2013-01-19 22:36:40 | 今日の聖句
「テサロニケの信徒への手紙 二」はわずか3章しかありません。
あまり意味が分からずに、ただ読んでいる私は一晩で読み終わってしまいました。

今日の聖句は3章1節~2節です。

終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。
主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、
あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、
と祈ってください。 すべてに人に、信仰があるわけではないのです。


ここでもパウロは「祈ってください」と信徒たちに頼んでいます。

強い信仰を持ち、信念と情熱を傾けて福音を説くパウロは、鞭で打たれ、石を投げつけられ、
投獄されたりと様々な迫害を受けた人でした。

また伝道旅行では嵐の海で船が難破したり・・・・・・すみません、その他にも色々あった
のですが、今思い出しません(^^;)・・・・毎日が苦労の連続だったことでしょう。
そして、信徒たちの祈りにパウロはさぞ励まされ慰められたことでしょう。



病気の姉を見舞ったとき「○○ちゃん、今日は私のために祈って頂戴」と言われたことがあります。
人前で祈ったことのない私は姉の前なのに緊張して、上手く祈れませんでした。

決して上手く祈ろうと思ったわけでもなく、ただただ姉のために祈りたいと思ったのですが、
祈りの言葉が出てきませんでした。

人のために祈るのは(特に人前では)とても難しいことです。
毎日祈り、ある意味では訓練しないと祈りの言葉は出てこないのだ、と思います。

今日は、パウロの話からそれてしまいました。 m(_ _)m




       食物連鎖の頂点に君臨する<オオタカ>
       まだ羽もそろっていない幼鳥です。



毎日曜日の礼拝で祈られる司会者の方の祈りはとても素晴らしいものです。
いつも、本当に!本当に!と思いを合わせて共に祈らせていただいています。 感謝!
美竹教会のホームページです。
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私のために祈ってください。

2013-01-17 23:45:23 | 今日の聖句
「テサロニケの信徒への手紙 一」 5章25節

兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。


これまで読んだ「ローマの信徒、コリントの信徒、ガラテヤの信徒、エフェソの信徒、フィリピの信徒、
コロサイの信徒、そしてテサロニケの信徒」に宛てた書簡の中で、パウロは各地の信徒たちのために
血のにじむような祈りを、思いを語っています。

同時にいつも「私のためにも祈ってください」と書いているような気がしました。
記憶に残っていないのが恐ろしくも恥ずかしいことですが、サッと見直してみたところ
ありましたよ~


ローマの信徒への手紙 15章30節
「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また霊が与えてくださる愛によってお願いします。
どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。」

エフェソの信徒への手紙 6章19節
「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、私のためにも祈ってください。」

コロサイの信徒への手紙 4勝2節~3節
「目を覚まして感謝を込めひたすら祈りなさい。 同時にわたしたちのためにも祈ってください。」

パウロの真摯な率直な思いに打たれます。

私もこれまで「私のために祈ってください」と頼んだことが二回あります。
祈りは聞かれます。 望んだ形ではなくとも神様からの平安が与えられ慰められました。




     写真は<ウソ(♂)>という野鳥です。



私の通っている美竹教会のホームページです。
「一人でもよいです、神様の御言葉を聞くために教会を訪れる人が増えますように!」と
今、毎晩祈っています。
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