ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「没薬」って何?

2014-09-30 21:32:30 | 今日の聖句
今日の聖句は「マルコによる福音書」15章21節~24節です。

そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、
兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。 
没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。 
それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った。 
だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。



新約聖書は「マルコによる福音書」を読み終わり「ルカによる福音書」を読み始めました。
マルコ伝15章の今日の聖句の中にでてくる「没薬」とは何か、ずっと気になっていました。
十字架刑の前に飲ませるものなので、多分痛みを和らげたり、麻薬のように少し気分がハイになって
現実の恐怖から気をそらせる働きをするものではないか、と思っていました。
そこで私の唯一の参考図書「聖書事典」の出番です。 没薬についての解説がありました。

『乳香と共によく知られた香料。 没薬(ミルラ)はカンラン科の没薬樹の樹液から採った黒褐色の樹脂。 
アフリカ東北部のソマリー海岸およびアラビア沿岸が原産地。 薬効は止血、鎮痛、抗菌、鬱血解消など。 
香料、胃腸薬、傷薬、その他化粧品としても使われる。 
特に抗菌効果が高く、エジプトではミイラの防腐剤に使われた。(ミイラの語源はミルラ)  
乳香と没薬は共に基調で高価なものであった。 すでに古代から重要な交易の商品で(創世記37:25、43:11)、
東の占星術の学者たちがイエスに誕生に際して献上した。(マタイ2:1-9) 
その鎮痛効果ゆえに十字架上のイエスにぶどう酒に混ぜて飲ませようとした。(マルコ15:23) 
また遺体にも塗られた。(ヨハネ19:39)』

やはり鎮痛効果があるのですね、でも、イエスはそれをお受けにならなかったのですね。



公園内の野草園に白萩が咲いていました。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。

渋谷の地で悩む人、重荷を負う人、虚しい思いを抱えて生きている人、病気の人、にとって
美竹教会が心の拠り所になりますように!
美竹教会がそれらの方々に、神様の救い(福音)を告げ知らせる働きをしますように!
神さま、私たち教会員をその働き手として用いてください。
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聖書66巻の英語書名

2014-09-29 21:11:24 | 聖書
以前、美竹教会の礼拝にアメリカ人の女子学生が来ました。
たまたま私の隣に座ったのですが、日本語の週報を見ていただいても彼女には伝わりませんよね~。
せめて説教のタイトルと聖書の箇所くらいは英語で伝えたいと思ったのですが、
私は聖書66巻の英語タイトルが全く分かりませんでしたので、本当に残念な思いがしました。

今日は少し時間があったので「聖書66巻の英語書名」を調べてみました。 
これで、もう大丈夫・・・・かな? 
いくつになっても知らないことを覚えるのは楽しいものですね!

旧約聖書の英語タイトル


新約聖書の英語タイトル



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技術者の任命

2014-09-27 13:26:25 | 今日の聖句
少し忙しかったのか睡魔に勝てなかったのか、聖書を読むのを少々サボリました。
旧約聖書「出エジプト記」からなかなか脱出できません。

今日の聖句は「「出エジプト記」31章1節~11節 です。

主はモーセにこう仰せになった。
見よ、わたしはユダ族のフルの孫、ウリの子、ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、
どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、
宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる。
わたしはダン族のアヒサマクの子オホリアブを彼の助手にする。
わたしは、心に知恵あるすべての者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものをすべて作らせる。
すなわち、臨在の幕屋、掟の箱、その箱の上の贖いの座、幕屋のすべての祭具、机とその祭具、
純金の燭台とそのすべての祭具、香をたく祭壇、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具、
洗盤とその台、祭司アロンのために織った衣服と祭服、アロンの子らが祭司として仕えるときの衣服、
聖別の油、聖所でたく香ばしい香である。彼らはわたしが命じたとおりに造らねばならない。


モーセの時代の幕屋はソロモンが建てた神殿に比べたら掘立小屋のようなものでしょう。
それでも聖書に書かれた細工や衣装、その趣向は大変なものに思えます。
私は昔、趣味で木彫をやっていましたが、図面を書いて彫って仕上げて彩色するのはエラク手間が
かかりました。 (趣味なのでそれはそれで楽しいものですが・・・・)
ベツァルエルやオホリアブは何人もの職人を使って主の幕屋の様々を造り上げたのでしょうね。


この花をご存知ですか? 
<ヌスビトハギ(盗人萩)>という名前です。
秋が深まるとビッシリ付いた実が衣服について往生します。


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ホームページのトップページからワンクリックで各ページに行けるようになりました。
これからの行事などもトップページからすぐ見ることができます、お訪ねください。
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教会フェスタ2014 無事終了

2014-09-25 13:14:20 | その他
爽やかな秋晴れに恵まれて「西南支区教会フェスティバル2014」は無事修了したようです。
600名を超える参加者が、会堂からあふれるような状態で姜尚中先生のお話を聞きました。

自由にお取りいただくようにと、持って行った10冊の「美竹の70年史」は3冊しか残っておらず、
教会案内も10部全部なくなっていました、  

神さまの恵みに感謝です。



<キビタキ(♀)>の水浴びです。
まん丸な目が何とも言えず可愛らしいです!


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渋谷の地にあって重荷を負っていらっしゃる方、生きているのが虚しいと感じている方、
悩み苦しむ方が一人でも多く教会の扉を開けてお訪ねくださるように!
ご一緒に神様の福音をお聞きし、平安のうちに過ごしましょう!
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讃美歌90番 「ここも神の御国なれば」

2014-09-24 18:12:01 | 讃美歌
先日の主日礼拝に歌いました。 讃美歌90番です。

 1)ここも神の 御国(みくに)なれば
   天地(あめつち)御歌(みうた)を 歌い交(か)わし
   岩に樹々(きぎ)に 空に海に
   妙(たえ)なる御業(みわざ)ぞ 現れたる

 2)ここも神の 御国なれば
   鳥の音(ね)、花の香(か) 主をばたたえ
   朝日、夕日 栄(は)えに栄えて
   そよ吹く風さえ 神を語る

 3)ここも神の 御国なれば
   よこしま暫(しば)しは 時を得(う)とも
   主の御旨(みむね)の ややに成りて
   天地 遂(つい)には 一つとならん

“This is my father's world” by Maltbie Davemport Babcock
TERRA BEATA English Traditional Melody

歌詞は,20世紀初頭に亡くなったアメリカの有力な牧師 Maltbie D. Babcock によるものである。
Babcock がナイアガラの滝に近く豊な自然に囲まれた Lockport の町の牧師をしていた頃、散策に
出かける時にいつもの口癖の “I am going out to see my Father's world”の”
わたしの父の造られた世界”を主題にして作詞されたものと言われる。

これをもとに讃美歌化されたものが、現行歌曲のイギリスの古曲と良く調和するところから
この組合せで良く歌われるようになった。
このイギリスの古曲は “Terra Beata”と記されているがこれは“祝福された大地”と言う意味である。
アメリカの Franklin L. Sheppard によって20世紀の始めに“Alleluia”讃美歌集として編纂された中に
現在の讃美歌の旋律として編曲して加えられた。
                              (以上、ネットからの引用です。)

ココをクリックすると讃美歌90番 "This is my father's world" を聴くことができます。
比較的ゆっくり歌っていて歌詞も分かりやすく、私も英語で歌ってみようかな~
原っぱや森を歩いて野鳥や蝶、虫、花を撮っている私にぴったりのビデオの画像です。
ソウシチョウも出ていますよ!



渡り途中の<エゾビタキ>を見ましたが、
動き回る小鳥は上手く撮れません。 m(_ _)m


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西南支区 教会フェスティバル2014

2014-09-22 10:12:40 | その他
 いよいよ明日になりました!
 是非、お出かけください!




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「天国の在所(ありか)」

2014-09-22 10:00:44 | 説教 使徒信条
昨日の主日礼拝の説教
テキストは「詩編」2編11節~12節 &「マルコによる福音書」16章19節~20節
タイトルは「天国の在所」でした。

今日は使徒信条の「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」についてです。
使徒信条は本来、受洗する人への問答の言葉であったと言われます。 一つ一つ問い、受洗する人が答えてゆく形、
その中で編まれてきた言葉です。 使徒信条をかみ砕いていくとキリスト教が何を信じているのかが端的に正確に
分かってきます。 教会での聖書の読み方というのはこの信条を規範として読みます。
聖書の読み方は文学としてまたは芸術のモチーフとして、または研究資料として等色々あります。 
旧約聖書に限って言えば、ユダヤ教の人と研究を共にすることもできます。アメリカのユニオン神学校では
目の前のユダヤ教の学校から教師が来て講義をすることもありました。 しかし、教会で読む場合は
教会の読み方がありますから、同じ旧約聖書を読んでもユダヤ教とは違ってきます。 
教会は信仰告白に沿った読み方をします、信条は私たちが聖書を読むときの土台です。

マルコによる福音書16章19節は使徒信条の言葉と全く重なっています。 
使徒信条は聖書全体を見て、その中からエッセンスを述べているので、言葉が聖書とピッタリ重なるという事はあまりありません。
先週、ある方から、説教のテキストは一個所なのに、説教の中では聖書のあちこちの箇所が引用されるので戸惑ってしまう、
というご質問を受けましたが、使徒信条の場合は聖書の述べる所のエッセンス的なものなので、特にそうなってしまいます。

マルコ16:19では「イエスが天に昇った」ことと「神の右に座したもうた」ことが完結した過去形で述べられていますが、
信条では「天に昇り」は完全な過去形ですが、「右に座したまえり」は文法的にみると、今なお、現在もずっと続いている
というニュアンスをもつ現在分詞形で述べられています。 マルコ伝だけを読むと、イエスの今がはっきりしないということが出てきますが、
マルコ伝全体、聖書全体を読むと、信条の「今もなお」という現在分詞形の意味が分かってきます。
マタイによる福音書にはイエスが「世の終わりまであなたたちと共にいる」と語られていますし、「ヘブライの信徒への手紙」には
「イエスは昨日も今日も永遠に変わることがない」と書かれていて、使徒信条の信仰と合致してきます。
教会で聖書を学ぶときは聖句とともに全体を見ていきます。 その全体像を指し示すのが使徒信条です。 
今もなお、イエスは神の右に座しておられる、教会はそう信じてそれを語り続けてきました。

「天に上げられる」とは何を現わしているのでしょうか。
それは、新しい時代が始まったという、新しい時を告げているのです。
5月の礼拝で「使徒言行録」を取り上げた時に、ここには特徴的な歴史観があるとお話しました。
同じルカによって書かれた「ルカによる福音書」と「使徒言行録」を続けて読むと一直線の歴史観があります。(コンツェルマン)
歴史を三区分して(聖書歴史観)真ん中にイエスの時、その前をイスラエルの時または旧約の時、その後を教会・聖霊の時と分けるものです。 
イエスが天に上げられて、一つの時代が終わり新しい時が始まったということを言い表しています。

「使徒言行録」1章8節 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
「マルコによる福音書」16章19節 主イエスは弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座につかれた。
「ヨハネによる福音書」14章~16章の「決別説教」
イエスは去って弁護者、仲介者としての聖霊が遣わされ、イエスの証人として思い起こさせるとあります。 
使徒信条はマルコ伝、マタイ伝などの様々な証しを凝縮して伝え、その時を、今、わたしたちは生きていることを思い起こさせるのです。

「神の右に座す」とはどのような意味でしょう。
「右」は聖書では「右の手による御業」など、象徴的に使われています。
「右」は場所と言うより神の権威、救いが表されていて、全権を与えられた者を意味します。 神と同質である方、同じ本質の方を表します。
右に座り続けておられる、と現在形で語られることは、人間となり痛み苦しみを受けて死んだ方が天に昇り、そこで終わりでなく、
今なお私たちを執り成し、慰め続けておられることを現わしています。
カトリックもプロテスタントもすべてのキリスト教が共に根底に持っている「ニカイヤ信条」では「主は我ら人間のため、
我らの救いのために天に昇り、父の右に座しておられる」と宣べています。
「ローマの信徒への手紙」8章34節には「キリスト・イエスが神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです」とあります。
ニカイヤ信条、ローマの手紙で鮮明に分かっている救いに与りながら、喜びを忘れ、的外れに生きてしまう私たち、肉の弱さの私たちは
イエスの苦しみを理解せずに眠る弟子たち、イエスを見放して逃げ去った弟子たちに通じています。

どうにもならない悲しさ、切なさ、的外れな生き方をせざるを得ない私たちの弱さを知っておられ、今、天上にあって執り成し続けていて下さるイエス。

私たちの救いのために神の右に座しておられるという使徒信条の信仰に関して「ハイデルベルクの信仰問答」のなかにある
「問 49」キリストの召天は私たちにとってどういう利益があるのですか? は答えています。
①主が天において神の御前で執り成しをしてくださること
②私たちと同じ肉体をもって復活されたイエスを思い、その体なる教会に連なる者として天に向かって立ち上げられていること
③主に与えられた聖霊の力で上にあるものを求め、地上のものを求めないように確証を与えられ、今なおイエスを礼拝できること という利益がある。

今週も下を向いたり横を見たりすることもあると思いますが、どうか上を向いて一歩一歩、進んで行く事ができますように。
                                  (以上、文責はゆうゆうにあります。 今週の要約は特に自信なし、です。 m(_ _)m )



<彼岸花>が公園のあちこちに群れて咲いています。


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人道的律法

2014-09-20 20:40:59 | 今日の聖句
旧約聖書、今は「出エジプト記」を読んでいます。
今日の聖句は「「出エジプト記」22章20節~26節です。

寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。
あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、
彼がわたしに向かって叫ぶ場合はわたしは必ずその叫びを聞く。
そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。
あなたたちの妻は寡婦となり、子どもらは、孤児となる。
もし、あなたがわたしの民、あなとと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、
彼に対して高利貸のようになってはならない。
彼から利子を取ってはならない。 
もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。
なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。
彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。
もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。 
わたしは憐み深いからである。




公園の水場に来た渡り途中の野鳥、
<キビタキ(♀)>です。可愛らしい小鳥です。
一緒に写っているのはキビタキ(♀)とシジュウカラです。


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明日の主日礼拝は午前10時半から始まります。
心に重荷を負う方、人生に虚しさを感じていらっしゃる方、教会の扉を押して
どうぞお訪ねください。
神さまの救いの言葉に与り、来週一週間のともし火といたしましょう。 
私も、そうして何とか一週間を過ごしている者の一人です。
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祈りの課題

2014-09-18 09:36:06 | 美竹教会
美竹教会として、美竹教会員の一人として、自分の祈りに加えてお祈りしましょう、
ということで、美竹教会の週報には毎週、「祈りの課題」が載っています。

今週の週報に載っているい「課題」は下の四つでした。
 ・礼拝が喜びで満たされるように
 ・会堂が御業のために整えられるように
 ・近隣のキリスト教主義学校のために
 ・入院、療養中、看病されている方々のために

どれも切実な祈りです。
四番目の祈りは高齢者の多い美竹教会の教会員の一人として特に切実な思いを持って私はいつも祈っています。

その他に、私がいつも祈る教会についての祈りは「渋谷の地にあって、今重荷を負う人、悩む人が一人でも多く
美竹教会の扉を開けてお訪ねくださるように!」というものです。

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<男郎花(オトコエシ)>に止まった蜂です。
蜂の名前は分かりません。 m(_ _)m
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讃美歌151番

2014-09-17 19:22:31 | 讃美歌
讃美歌151番 「よろずのたみよろこべや」 先週の礼拝で歌いました。 
復活の歌です。

 1 よろずの民よろこべや
   主イエスの隠府(よみ)にかちませば
   死のちからはや失せはて
   ひとのいのちのかぎりなし

 2 主はさかえの御座にまし
   みつかいたち妙(たえ)にうとう
   「主イエス死にかちたまえば
   人はとわに生くべし」と

 3 明日を待たぬいのちもて
   なやみたえぬ世に住めば
   たえがたくかなしかるを
   今は死なぬ身となりぬ
 
 4 なみだの谷、雨はれて、
   み国のみちのどかなり
   いざうたえ、しらべたかく
   主のみさかえ、世のさちを

"Lift your glad voices in triumph on high" by Henry Ware, Jr 1817
"RESURRECTION" Arr. from John Edger Could, 1822-75

アメリカが世界に贈った優れたイースターの歌である。
原作者Henry Ware, Jr.(1794-1843)は、ユニテリアンの牧師および教師の子として生まれ、
ハーバード大学卒業後、ボストンのユニテリアン教会の牧師となった。
1829年、ケンブリッジ神学校の教授に任ぜられ晩年を牧師の養成のために捧げた。
この歌は、1817年に発表されたものでアメリカにおける最高の宗教詩のうちに数えられている。

曲名は“Resurrection 復活”でJohn Edgar Gould(1822-1875)の作品から編曲されたとなっている。
「Resurectionは、今日では米国でも余り歌われなくなった・・・グールドの曲から編曲されたことになっているが、
その原曲も編曲者も不祥である。」との解説もある。

D. DeWitt Wassonによる "Hymntune Index and Related Hymn Materials" によると、
RESURRECTIONという曲名は15の違った曲に使われている。
Gould の曲は1869年の作で、"Methodist Hymnal with Tunes, Special Edition (ca. 1878)" に
収録されているとのことである。他に8点の讃美歌集に収録とのことである。
原曲がグールドである確率は高いと言えよう。       (以上、ネットからの引用です。)

讃美歌151番はココをクリックすると聴くことができます。
礼拝で聖歌隊と会衆が一緒に歌っています。
それにしても多くの会衆、美竹教会もこんな風にたくさんの人が礼拝に集うようになって欲しいな~



昨日は普通の灰色の<ツツドリ>を見ることができました。


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