ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

使徒言行録20章

2014-03-31 23:52:03 | 今日の聖句
昨日の礼拝説教のテキスト「使徒言行録」17節~38節です。

パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。 長老たちが集まって来たとき
パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは
よく御存じです。 すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の
陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。 役に立つことは一つ
残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。 神に対する悔い改めと、
わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。
そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。 そこでどんなことがこの身に起こるか、
何も分かりません。 ただ、投獄と苦難がわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でも
はっきり告げてくださっています。 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた
神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。 わたしは、
あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。 だから、特に今日はっきり言います。 だれの血についても
わたしには責任がありません。 わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。
どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。 聖霊は、神が御子の血によってご自分のものと
なさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。 わたしが去った後に
残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。
また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。 だから、わたしが
三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。
そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。 この言葉はあなたがたを造り上げ、聖なる者と
されたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。 わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼった
ことはありません。 ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも
働いたのです。 あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエスご自身が『受けるよりは
与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。

このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。人 々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて
接吻した。 特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。
人々はパウロを船まで見送りに行った。



上田先生は使徒言行録20章を座右の銘として何回も何回も読まれているそうです。
上の聖句を告別説教のテキストになさった先生の思いがひしひしと感じられます。
神さまの御言葉を説き明かし、私たち信徒を導かれる伝道者の厳しい決意が感じられ感動しました。



東京の染井吉野は満開になりました。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
いよいよ四月、新牧師左の近豊先生が美竹教会に着任いたします。
美竹教会はどんな風に変わるのでしょうか、それとも変わらないでしょうか。
神さまの御身体の教会なのですから、不安になる必要は全くないのに、なんとなく
不安と期待で、フワフワと落ち着きません。
聖書を読み、祈り、礼拝に招かれ、心静かに過ごさなくては・・・・・
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「神とその恵みの言葉」

2014-03-30 22:23:15 | 説教
三十年の長きにわたって美竹教会の兄弟姉妹を導いてくださった上田光正牧師の最後の説教、 
テキストは「ヨナ記」2章5節~11節 と 「使徒言行録」20章17節~38節 
タイトルは「神とその恵みの言葉」でした。


今日のテキストの中では32節の言葉が中心になりますが、20章全体が何度読んでも感銘深く、
私は座右の銘としてきました。
今日が最後の説教になりますが、キリスト者にふさわしい「お別れの言葉」や「告別説教」として
大学教授のように自分の研究を優しく語るということもありますが、神の御言葉を取り次ぐことが任務の
牧師の私は毎週が最終のつもりで語ってまいりました。 (牧師とは指し示す「指」になりきることです。)

パウロは復活のイエスに出会って回心し伝道師となりましたが、パウロの回心によって教会も
大きく回転しました。パウロの三大事業、その一つは書き残した手紙、新約聖書27巻のうちの13巻が
パウロによる手紙だということ、二つ目は、教会をたくさん建てたこと、三つ目は、ユダや人の教会と
異邦人の教会の和解を図ったことです。

小アジアの中心の町、エフェソにいたパウロは必ず殺されると分かっていましたが、この時エルサレムに
行こうとしていました。 行かなければユダヤ人と異邦人の和解が成り立たない、
命を失うことになっても行かねばならないとパウロは考えていました。
エルサレムの教会からは歓迎されましたが、結局ユダヤ人に捕らえられローマに連れて行かれて最後は殉教しました。 
しかしパウロのとって殉教は喜びと勝利でした。

今日のテキストにはエフェソの教会員との別れの様子が著者ルカによって生き生きとえがかれています。 
今生の別れは悲しいことです。 しかしこの時の別れは勝利と確かな喜びに満ちていました。 
闘いの苦しみにもかかわらず勝利の喜びで教会を生かしていたのは復活の主イエスの命です。 
甦りの主が私たちの真ん中に立っておられますから、私たちは哀しみに会っても打ちひしがれることはないのです。

礼拝とは常に別れを含んでいて、ある意味で一期一会と言えます。
私は神とその恵みの言葉に委ねるつもりで説教も祈りも行ってきました。
御国での再開と言う事実があるからです。 家族に対しても同じことです。
「別れ無き別れ」と言った説教者がおりましたが、死を予感したある牧師は最期の時、家族に「今、わたしは神と
その恵みの言葉をあなた方に委ねる」と言ったそうですが、これは家族にとって最高の言葉となりました。
私は教会員にも家族にもこの聖句を心に持って生きてきました。
自分も含めて(教会員も)全家族を神とその恵みの言葉に委ねる思いを持ってきました。

20章28節~29節は、自分自身からも、自分たちの兄弟姉妹の中からも残忍な狼が現れることへの
パウロの警告です。 
自分の人生は自分の選択で成り立っていると思うのは間違いで、人生も家も家族も教会もすべては神のもので、
自分が狼にならないように注意しなくてはいけません。

32節の御言葉には教会を建てる、作り上げる力があります。
何故なら、キリストは甦られキリストが主となられたのですから。
美竹教会では最近三人の若い方が洗礼を受けられました。 これからの長い人生にはいろいろなことがあると
思いますが、聖書、説教には何度倒れても神の恵みが受け継がれる力があります。

教会は復活の主の身体です。 私たちは地上で別れても主の御国で再会します。
全員が神の国に入りたいものです。
聖別された人々と共に御国を受け継ぐために、主が来られる日まで祈り、礼拝を続けましょう。

                                        (以上、文責はゆうゆうにあります。)



公園の<ルリビタキ(♂)>もついに北の国に戻って行きました。


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上田先生と今日でお別れ、ということで多くの方が礼拝に来られました。
上田先生ご夫妻、Y・М神学生をお送りする食時会にもたくさんの方が残られました。
別れは本当に寂しく悲しいことです。
上田先生は「日本基督教団曳舟教会」の牧師としてこれからも神様の御言葉を語られるそうです。
お三人の新しい歩みに神様の恵みが豊かにありますように! 心からお祈り申します。
これからは新牧師の左近の豊先生に導かれて神さまを中心とした教会をしっかり建てるよう、私も祈り続け、
礼拝に出席してゆこうと思います。
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「イザヤ書」読み始めます。

2014-03-28 22:18:21 | 今日の聖句
「イザヤ書」1章1節~4節

アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。
これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。

天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。
わたしは子らを育てて大きくした。
しかし、彼らはわたしに背いた。
牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。
しかし、イスラエルは知らず わたしの民は見分けない。
災いだ、罪を犯す国、咎の重い民
悪を行う者の子孫、堕落した子らは。
彼らは主を捨て イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。


いよいよ「イザヤ書」を読み始めました。
イザヤ書の書き出しは、何回読んでも重々しくて背筋が伸びる気がします。

1章~39章は「第1イザヤ書」と呼ばれ、前8世紀の預言者イザヤに由来する部分が多い。
40章~55章は「第2イザヤ書」と呼ばれる。背景はバビロニア捕囚から解放までで、第2イザヤはその捕囚末期に活動し始め、
解放の時が近いことを告げ、捕囚の民がエルサレムを中心とする祖国に帰還することを強く促した。
56章~66章は「第3イザヤ書」と呼ばれる。この部分は「第3イザヤ」という預言者1人に由来するものではない。
エルサレムを中心とした祖国への帰還、神殿再建、エズラやネヘミヤによるユダヤ教団の形成に至る長い期間を背景にした
言葉の集成である。     (「聖書事典」より抜き書き)

長い長いイザヤ書、これからじっくり読んでゆきます。



<山茱萸(さんしゅゆ)> 
蝋梅、マンサクとこの山茱萸も・・・春一番に咲く花は黄色い花が多いですね。


<お知らせ>
少々体調を崩しました。膝関節をいためて治療を始めました。
歩行困難で行動力、活動範囲が狭まりました。
落ち着くまでこのブログは休み休みの更新とさせていただきます。
本当は完全休業と思ったのですが、美竹教会には4月から左近豊先生が新牧師としておいでになり、
美竹教会の新しい出発のことも書きたいので、完全休業は忍びない(笑)
・・・・ということで、休み休みの更新とさせていただきます。 m(_ _)m
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レント第19日

2014-03-26 21:52:08 | 今日の聖句
千葉南教会からいただいた「十字架から復活へ」というタイトルのついたレントカレンダー、
今日レント第19日(水)の聖句は「ルカによる福音書」19章1節~10節、徴税人ザアカイの話です。

イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
イエスは言われた。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は失われたものを探して救うために来たのである。」



妬み深く、他人と比べて羨ましがったり、密かに優越感を感じたり、傲慢で、心底救いがたい私ですが、
神様は救ってくださっているのですね。
大きく深い恵み、平安を与えられている幸せに、ただ感謝の毎日です。
イエス様の復活を祝うイースター、祈りつつ静かに迎えたいと思います。




桜の花の蜜を吸いにきた<メジロ>を撮りました。


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「永遠に真実なる神」

2014-03-25 22:39:43 | 「先週の講壇より」
  先週3月16日(日)礼拝説教の一部が「先週の講壇より」として週報に載りました。
  テキストは「ダニエル書」6章19節~28節 タイトルは「永遠に真実なる神」でした。

  

  説教の全文は美竹教会のホームページの「9.説教集」に載っています。
  ぜひ、お読みください。


    
  <侘助(わびすけ)>という椿です。
  もう盛りを過ぎていて葉っぱはボロボロでした。 (^^;)
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讃美歌139番

2014-03-24 23:07:52 | 讃美歌
讃美歌139番 「うつりゆく世にも」 昨日の礼拝で歌いました。

1) うつりゆく世にも かわらで立てる
   主の十字架にこそ われはほこらめ

2) 聖書(みふみ)の光は 罪をあがなう
   十字架のうえにぞ みな集まれる

3) おそれと悩みの せまるときにも
   十字架はやすきと 喜び満てり

4) 十字架のうえより さしくる光
   ふむべき道をば 照らしておしう

5) わざわいさいわい よしあしともに
   ただ十字架にこそ きよくせらるれ

荘重深遠な十字架の歌である。
ガラテヤの信徒への手紙6章14節「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、
誇るものが決してあってはなりません。」に基づき1825年に「キリストの十字架」と題して発表された。

原作者John Bowring(1792-1872)はイギリスの著名な語学者、評論家、政治家であった。
1835年には下院議員に選ばれ、その後香港総督に任ぜられ、ペリーの日米条約締結の際、日英条約を結ぶため
来日の予定であったが、その機会を失した。
作者は篤信な福音的信仰の持ち主で、平和と希望とのうちに永眠したという。
そして彼の墓碑にはこの歌の初行が刻まれているとのことである。

作曲者Ithamar Conkey(1815-1867)はニューヨークの幾つかの教会で聖歌隊を指導し又、独唱者として、
或は4重唱のリーダーとして活躍した。
オラトリオのバス独唱者としては当時ニューヨーク随一と称された。
ある年(1851年)のレントの期間に、John Bowringのこの歌詞が頭に浮かんできたので一気にそれに作曲し、
次の日曜日の礼拝で聖歌隊が歌った。
その聖歌隊の中に、指導的役割をしていた若いソプラノ歌手Beriah S.Rathbun夫人がおり、この夫人に敬意を表して、
曲名を“Rathbun”とした。
爾来、受難集の歌として米国各派の讃美歌集に収録され、広く愛唱されるようになった。

以上、ネットからの引用です。

ココをクリックすると讃美歌139番を聴くことができます。



今日は<アリスイ>を見ました。 
キツツキ科の野鳥で、長い舌を伸ばして虫(特に蟻が好物)を食べます。


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牧師の交代(上田光正先生から左近豊先生に)にあたって、礼拝に出席した教会員は名札を付けることになりました。
左近先生に一日でも早くみんなの名前を覚えていただけるように・・・・・(^-^)
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「新しい生きた道」

2014-03-23 22:08:23 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「詩編」51章1節~14節 と 「ホセア書」11章1節~9節 
タイトルは「新しい生きた道」でした。
今日の説教は、4月から美竹教会を離れ新任地で担任教師としてご奉仕なさる
Y・M神学生がなさいました。



詩編51章はダビデが「新しくされたい」と神に渇望する祈りの歌です。
ダビデはあの時、あの出来事から解放されたいと新しく生きることを望んだのです。

51:19 「心を創造して欲しい」という祈りは心の在り方の変化を指しているのではありません。 
創造とは無から新しいものが作り出されることです。

信仰に生きる名君ダビデは何故、心を新しく、と叫んだのでしょうか。
それは、ダビデとバトシェバの物語(サムエル記下11章)を読むとわかりますが、ダビデは十戒の姦淫と他人の妻を辱める罪を犯しました。
誘惑に勝てないダビデの姿、許されないと知りながら自我を優先させてしまう行為、神に背く罪は私達の内にも潜んでいます。
ダビデの姑息なやり方はわたしとは無関係だ、と言い切れる人はいません。
人生に一大事に腹をくくれない私たちは罪の上塗りを繰り返しますが、上手くいけば人はごまかせても神をごまかすことはできません。
偽りの自分を守ろうとする時、私たちは神の前に立てなくなります。

詩編51:6でダビデは潔く罪を懺悔しますが、姦淫と殺人はバトシェバとウリヤに対して犯された罪なのに、
ダビデが神にのみ罪を懺悔するのは納得できない気がします。
しかし、ダビデの罪の根本は神の戒めを破り神との関係を失ったので、隣人も失ったものなのです。
先ず、神を見失ったことで自分を神としてしまう、自分中心になり周囲、隣人との関係を失ったのです。
ですからここではまず、神に許しを請わねばならないのです。人間同士が和解しても何の解決にもなりません。

罪の根本は神を神としなくなることです。 その結果人間関係が崩れるのです。
何のあやまちもない神の顔に私たちは泥を塗り続けています。
自分の罪を知ったダビデは神に許されない限り、自分が新になることはできないと悟ったのです。
自分の罪を洗えるのは神のみである、神しか罪を洗い落とせないと呼び求めたのです。
あの日あの時からの解放はそれ以外にありません。

罪とは真っ白な布に赤インクを垂らしたようなもの、洗ったり小手先の業ではシミは広がるばかりと、
美竹教会の初代牧師浅野先生は語りました。
新しく生まれ変わりたいと願う私たちは「神よ、私の内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。」(詩51:12)と祈ります。

あの日あの時に縛られて生きている私達ですが、この身が作り変えられたらなんと素晴らしいことでしょう。
私たちは51:12の歌を歌わずにはいられない存在で、そして神はその祈りを必ず聞いておられます。

「詩編」51:19 
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。


神は私たちを見捨てることなく、なんとか救いたいと願ってくださっているのです。
その神の応えこそイエスの十字架です。救いはすべて与えられています。
イエスは聞いてくださり、私たちは最早絶望に生きる必要は無いのです。     (以上、文責はゆうゆうにあります。)




公園の水場の、<ルリビタキ(♂)>もそろそろ旅立ちます。
春、三月は寂しい別れの時です。


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上田先生は新しい任地でこれからも伝道のご奉仕をなさいます。 
神さまの守りと豊かな恵みをお祈りさせていただきます、どうぞいつまでお元気で!!
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「雅歌」

2014-03-21 22:47:20 | 聖書
「雅歌」を読み始めます。

↓ 「聖書事典」の「雅歌」の項の抜書きです。

雅歌は、エステル記などと並んで、最後まで正典性が問題とされた書物である。
情熱的な恋愛の言葉があふれている、まぎれもない恋愛抒情詩の雅歌がどうして正典にいれられたのか。
ユダヤ教もキリスト教もこれまで隠喩的解釈を施して、その存在を擁護してきた。
雅歌に描かれる一見人間的な愛は神とイスラエル、あるいはキリストと教会の間の存在する愛を表すのだ
としてきたが、今日では、雅歌を恋愛抒情詩として認め、それが旧約聖書に含まれていることの意義を
求めるべきだと考えられるようになってきた。

雅歌の構成にははっきりした筋書きは無いものの、おとめと若者が相手を求め合う様が言葉を尽くして歌われている。
かつては、バビロニアの植物神の死と再生の神話や、王と高級女祭司の結婚の儀式などが背景にあるとした筋書きを
見つけようとする傾向があったが、本文を前提なしに読んでも理解するうえで大きな無理は生じない。

雅歌は前4世紀後半から前3世紀初めにかけてパレスチナで成立したものと考えられる。

雅歌を読む意義は大きく二つあると考えられる。
一つは身体やエロスへの関心である。
キリスト教においては身体よりも精神、エロスよりもアガペーが重視されてきた。
生きることはエロスや欲求を持つ身体があって可能になる。
雅歌は人間として当たり前のこの事実に読者を向かわせ、身体やエロスという観点から人間を見直すよう迫る。

もう一つは個人の素朴な哀しみや喜びに注目することである。
旧約物語は宗教や倫理、民族は政治という「大きな」物語である。
これはともすると個人の喜びや悲しみをおしのけて「次元の高いもの」を優先させる。
「小さな」ことに関心をむける雅歌を読むことによって読者は「大きな」ことや「次元の高い」ことの
うさん臭さを感じ、旧約聖書全体を見つめ直すように促される。

これまでの宗教的な概念に疑問を抱かせ、再考させることこそ、雅歌が今日、旧約全体に対して、
また宗教に対して持っている意義だということができる。


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↓「日々の聖句―<ローズンゲン>による日の聖務日課―」3月21日の「祈り」です、共感する思いがありました。
主よ、飢えた人々に食べさせるために、み弟子たちの手をお用いになりました。
今も、あなたは、人々が満ち足り助けられ癒されるために働くものの手を必要としておられます。
わたしたちの貪欲な思いが他の人々を貧しくさせたり孤独のうちに見捨てることのないように、
主よ、わたしたちをご用のためにお用い下さい。   (アイルランドの婦人たちの祈り)



今日の野鳥は寄生木に集まった<ヒレンジャク>です。
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「キリストにおいて一つとなる」

2014-03-20 10:10:08 | 今日の聖句
今日の聖句は「エフェソの信徒への手紙」 2章12節~22節です。

また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、
この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。
しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって
近い者となったのです。
実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての
壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。
こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に作り上げて平和を実現し、十字架を通して、
両者を一つの身体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
それで、このキリストによったわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
したがって、あなたがたはもはや、外国人でも、寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、
使徒や預言者という土台の上に建てられています。
そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、
主における聖なる神殿となります。
キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。



地球上では膨大な人々が貧しく飢えています、戦火や闘争に巻き込まれています。
アフリカでは多くの子供が満足な医療が受けられずに死んで行きます。
申し訳ないことなのですが、私は世界情勢に疎く、世の中の動きを正確に把握、理解することができません。
それでも毎日の新聞、テレビの報道をみて暗澹とする毎日です。
「天になされる神の御心がこの地にもなされますように!」と祈る毎日です。

救いがたい私達人間はどんな風に生きたらよいのでしょうか。
一人一人、自分が正解だ、と思って生きているのでしょう・・・・・多分。
自分の毎日を神の御言葉にフィードバックさせて、聖書を指針として生きていく、
具体的にはどんな風にすごせばよいのでしょうね。



杭に止まった<モズ(♀)>



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虚しさ、寂しさから逃れられない時があります。
日曜日、教会の兄弟姉妹と共に礼拝に招かれて説教を聞き、讃美歌を歌い、慰められています。
そして毎日、聖書を読み、神に祈りをささげる夜のひと時に慰められています。
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「エフェソ信徒への手紙」

2014-03-18 20:51:59 | 聖書
新約聖書は「エフェソの信徒への手紙」を読み始めました。
例によって最初は「聖書事典」を読んでお勉強です。


本書はパウロ自身が著わしたものではなく、パウロの死後、パウロの名を借りて書かれた手紙であることから
「パウロの名による手紙」あるいは「第2パウロ書簡」として位置づけられる。

冒頭と結びの挨拶を別にすると大きく1:3-3:21の前半部と4:1-6:20の後半部の二つに区分される。
前半部は、神への賛辞、感謝、執り成しの祈り、賛歌、頌栄など教会での典礼的特徴が際だっている。
後半部はカテキズム伝承、徳・悪徳目録、家庭訓などを使用した倫理的勧告的特徴が顕著である。
本書は総じて典礼的説教を想起させる。おそらく礼拝の中で朗読されることを意図した手紙であろう。

特に19世紀以来、パウロの手紙としての真正性が問題視されてきたが、現代においても多くの研究者が
真正性を否定する立場をとる。
それには三つの理由がある、第一は単語の組み合わせによる特異な表現や、関係詞、接続詞などを用いた
きわめて冗長な文章、第二は同義語や意味が関連する語の連鎖、第三は名詞を属格(~の)でつなぎ合わせた表現である。
これらの特徴の累積から、著者がパウロ以外の人物であることが示唆される。

執筆の場所は「コロサイの信徒への手紙」への文書的依存、パウロの同労者ティキコの名が異邦人読者に何らかの意義を
持ったことを考慮すると小アジア、特に西部であったと思われる。

執筆年代は「コロサイの信徒への手紙」はもちろんのこと、パウロ書簡を知っていたこと、使徒集団(使徒と預言者が教会の土台)
の特別な権威の重視が前提されていること、しかしイグナティオスが本書に依存していることなどを考慮すると、
後90年代のおそらく初頭であろう。

最大の思想的特色は教会論にある。
教会は、例外なく一つの聖なる宇宙的意義をもつ全体教会を意味している。
ユダヤ人も異邦人もないとのパウロの福音は、イスラエルと異邦人という図式を超えたまったく新しい一つのキリストの体としての
全体教会論に組み込まれている。
異邦人信徒の教会論的自己同一性を強化することが意図されたのであろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・だそうです、分からない所もありますが勉強になりました。
ただ聖書を読み下すのではなく、解説や注解なども読む必要がありますね



対岸の竹林にいる<トラフズク>を川のこちら側から撮りました。
遠すぎて私のカメラでは上手く撮れませんでした。 
拡大写真は大トリミングしたものです。 (^^;)
耳のように見える羽は飾り羽で聴覚には全く関係ありません。


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