ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「レビ記」も楽しい・・・・

2017-04-26 21:24:43 | 今日の聖句
今日の聖句は「レビ記」23章15節~21節です。

あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。
七週間を経た翌日まで、五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる。
各自の家から、十分の二エファの上等の小麦粉に酵母を入れて焼いたパン二個を携えて、奉納物をする。
これは主にささげる初物である。このパンのほかに、傷のない一歳の雄の子羊を七匹、若い雄牛一頭、
雄羊二匹をささげる。これらは穀物の献げ物やぶどう酒の献げ物と共に主にささげる焼き尽くす献げ物であり、
燃やして主にささげる宥めの香りである。また、雄山羊一匹を贖罪の献げ物として、一歳の雄の子羊二匹を
和解の献げ物としてささげる。祭司はこれらを、初物のパンと共に奉納物として主の御前に差し出す。
二匹の雄の子羊は主に聖別されたものとして祭司のものとなる。あなたたちはこの日に集会を開きなさい。
これはあなたたちの聖なる集会である。いかなる仕事もしてはならない。
これはあなたたちがどこに住もうとも、代々にわたって守るべき不変の定めである。


かなりややこしい文章ですが、レビ記は献げ物や献げ物の施行細則、祭司の聖別の任職式、清いものと
汚れたものに関する規定、皮膚病やカビやそのほかの病気についての規定などが延々と続きます。
それでも不思議、これまでの聖書に比べると二回りも文字が大きい「私の新しい聖書」で読むと
こういう七面倒な文章も何となくルンルンと読めてしまいます。
聖書を替えてよかった!
明日から、これまた読みにくそうな「民数記」に入ります。

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公園の<シャガ>の花、これが咲くとゴールデンウィークの始まり。
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「イースター」

2017-04-22 15:49:54 | 説教
4月16日のイースター礼拝の説教
テキストは「マタイによる福音書」28章1節~10節
タイトルは「イースター」でした。





「キリスト教はこのイースターによってはじまり、このイースターに尽きる。」
若い頃に受洗したのにずっと教会から離れ「放蕩息子」状態だった私が、
毎週の礼拝に出て、一応真面目に教会生活を送って6年くらいになります。
今年のイースターで初めて「イースターに始まり、それに尽きる」ということが
そうなのだ!と実感できました。
今年初めて主イエス・キリストの十字架の死の贖いと復活に心から感謝できました。
遅すぎることは重々承知ですが、気づいてよかった!です。

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キビタキ、オオルリ、ムシクイなどの渡り途中の夏鳥が公園を通過します。
一日か二日の滞在ですが、次々と別個体が立ち寄ります。
桜の木のてっぺんに止まっている<オオルリ(雄)>を見ました。
見た、というだけの証拠写真です。 首が痛くなりました。
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新しい聖書を買いました。

2017-04-18 22:02:15 | 聖書
一昨日の日曜日、イースター礼拝に来てくれた未信者の友人が聖書を買いたいと言いました。

私が毎日読んでいる聖書ももう十年近く使っていて、背中の糸綴じ部分がグサグサ、
コロンとした小さな聖書の文字は老眼には厳しく、私も新しい聖書が欲しいと思っていました。
礼拝の後、二人で銀座の「教文館」に行き、聖書を買いました。
私の新しい聖書は 21.8cmx16.5cmx5.5cm 字が大きくて読みやすい!

家に戻って、早速新しい聖書を開き、お気に入りの箇所やわからない箇所に丁寧に(きっと、
丁寧なのは最初だけですね)線を引いたり印をつけたりしました。 嬉しいです。

ご参考までに(なんの参考にもならないかな?)線を引いたのは下のようなところです。

☆お気に入り
  「ルカによる福音書」24章30節~32節  エマオで現れる
  「サムエル記 下」6章20節~22節  踊るダビデと嗤うミカル
  「サムエル記 下」19章6節~8節  ダビデとヨアブ
☆信仰
  「ダニエル記」3章17節~18節  シャドラクたちの信仰
  「マタイによる福音書」16章16節~  ペトロの信仰
  「マルコによる福音書」9章23節~24節  父親の信仰
☆祈り
  「民数記」14章13節~19節  モーセの祈り
  「サムエル記 下」7章18節~29節  ダビデの祈り
  「列王記 上」8章22節~53節  ソロモンの祈り
  「ヨハネによる福音書」17章1節~26節 イエスの祈り
☆どうして?と思うところ
  「創世記」4章1節~7節 カインとアベルの献げ物についての神の評価
  「マタイによる福音書」27章15節~ 「ルカによる福音書」23章13節~14節
         ポンテオ・ピラトに関して
☆その他 心に響くところ
  「コリントの信徒への手紙 一」7章14節 夫が救われますように、共に
                      御国に入れますように!

  「申命記」3章23節~28節  モーセの願い
  「ローマの信徒への手紙」14章7節~8節  私たちは主のもの

一緒に行った友人は一回り小さな聖書を買いました。
彼女は家が遠いこともあってクリスマス礼拝とイースター礼拝くらいしか
美竹教会には来られませんが、「少し真面目に聖書を読みましょう」と言ってくれました。
嬉しいことです。


私の新しい聖書です。

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「十字架の上で」

2017-04-14 15:10:40 | 説教
4月9日(日) 受難節第6主日礼拝の説教
テキストは「マタイによる福音書」27章45節~56節
タイトルは「十字架の上で」 でした。





『その十字架の上でキリストは叫ばれた「わが神、わが神、なぜあなたは
私を見捨てられたのですか」と。神から最も遠く隔てられた惨めさの極みに
打ち捨てられ激しくこぶしを振り上げて祈るものたちの叫び、納得いかない
無情に魂押しつぶされる漆黒の闇のふちに捨て置かれ嘆き祈る聖書の民の
訴えをその身に一心に負うかのように叫ばれた。神の子が神に向かって
「わが神、わが神、なぜ、あなたはわたしをお見捨てになったのですか」と。

呼吸神経を侵され泡を吹いて息絶えた生後9か月の幼い双子を両手に抱いて
頽れそうになる若い父親の嘆きに震え凍てつく世界がある。
神よ、なぜあなたは、お見捨てになったのか、沈黙を切り裂く叫びは遠い
世界にのみこだまするものではありません。』


本当にそうです。
シリアの人々の苦しみ嘆きは現在の私たちに向かって厳しく突きつけられています。
なぜ世界はかくも混沌としているのか、なぜ戦いがあり無辜の民が傷つけられるのか。
「神よ、愚かな人間を許したまえ。どうか、人間を罰しないでください。
これ以上悲しみを与えないでください・・・・・救ってください!」
神様の御心は測りがたく、私は今、祈ることしかできません。
一つ一つの出来事は神によってなされている・・・・
弱く愚かで傲慢な私には信仰の道にしがみつくよりほか、なすすべがありません。
死に打ち勝って復活された御子イエス・キリストの教えに従って最期の時まで歩みたい。

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咲き誇る公園の<山吹> 
自然はどうしてこんなに自然で、心いやしてくれるのでしょう。
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水晶のように輝く川

2017-04-12 17:41:45 | 今日の聖句
今日の聖句は「ヨハネの黙示録」 22章1節~5節です。

天使はまた、神と子羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実をみのらせる。
そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。
神と子羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。
彼らの額には、神の名が記されている。
もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。
神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。


新約聖書は「ヨハネの黙示録」を読み終わりました。
3月26日の礼拝説教で、ヨハネの黙示録についての説き明かしがあり、それを
お聴きしていたせいか、前回読んだ時よりも分かりやすく、納得できた気がしました。
今日から何巡目かの「マタイによる福音書」を読み始めます。


写真はパトモス島の<聖ヨハネ修道院>です。
島の一番高い丘の上にあるそうです。
パトモス島にも行ってみたいものですが、齢を考えると無理かもしれません。
神様に召されたら、天国から見ることにいたしましょうか・・・・・・

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「負うべき責任」

2017-04-07 16:02:17 | 説教
4月2日(受難節第5主日礼拝)の説教
テキストは「マタイによる福音書」27章15章~26節
タイトルは「負うべき責任」でした。




「正しい人」「罪のない人」何の悪事も見いだせないイエスキリストに対して、
まっとうな裁判が行われたならば、ローマの法が正しく執行されたならば、
時の責任者がその責任を全うしたならば、十字架はありえなかった。
十字架をシンボルとするキリスト教はなかった。

ピラトという人のことは決して他人事ではないことにも気づかされるのです。

私たちの心のうちに、輝く光を与えて、光に怯えるものではなく、土の器に
輝きを携え、破れからもれ出づる光をもって世の光とされたのです。
ピラトが負いきれなかった責任も、祭司長や律法学者の闇も、群衆の恐怖と
怒りと鬱憤に駆られた暴走も、ことごとくタガが外れるようにして引き渡された
十字架も、「正しい人」「罪なき方」何の咎もない、キリストにしか担うことの
できない贖いと救いの必然であったことを知るものとされるのです。


すべてが必然であった、本当に! 
だからこそ今ここに、弱く傲慢でねたみ深い私たちのために神の救い、神の福音、
キリスト教があるのです・・・・ね!
神のみ旨は計り知れません。 計り得ません。


公園ではそろそろ終わりを迎えた<椿>です。

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讃美歌257番 (再掲)

2017-04-03 21:10:07 | 讃美歌
讃美歌 257番  「十字架の上に屠られたまいし」 
 O Lamm Gottes, unshuldig, by Nikolaus Decius, 1531
「O LAMMGOTTES, UNSCHULDIG」 Christiche Kirchenordnug, Braunschweig、1542

 1) 十字架のうえに 屠(ほふ)られたまいし
    こよなく清き み神の子羊(こひつじ)
    わがため悩みを しのびたまいし
    み恵み げにも尊(とうと)し

 2) 十字架のうえに 屠られたまいし
    こよなく清き み神のこひつじ
    み救いあらずば 罪のこの身は
    ほろびを いかでまぬがれん

 3) 十字架のうえに 屠られたまいし
    こよなく清き 御神のこひつじ
    乏(とも)しくかよわき われを憐れみ
    安(やす)きを 常にたまえ       (ヨハネによる福音書 1:29)

作詞はドイツ語で “O Lamm Gottes、unschuldig 汚れなき神の子羊よ” となっており
作詞者は Nikolaus Decius(1490-1541)作曲者は Johann Spangenberg(1545年編曲)となっている。
この讃美歌の原曲は、古いグレゴリウス聖歌 Agnus dei(アニュス・デイ)“世の罪を負い給う神の子羊よ、
われらをあわれみたまえ”である。
これをニコラス・デキウスが独訳し、その独訳歌詞に合わせて彼が編曲したもので、むしろドイツ語の創作と
見るほうが妥当である。 1542年に讃美歌集で発表されて以来、ドイツの代表的コラールの一つとなり
ドイツのあらゆる歌集に採録され、広く全独で愛唱されるようになった。
その後、1545年 Johann Spangenberg が旋律の一部を変更した曲が現れ、現在ドイツではその双方の曲が
併せ用いられている。
“讃美歌” では、Spangenberg の曲が採用されているが、“讃美歌21” では、デキウスの曲を用いている。
ニコラス・デキウスはドイツのバイエルンの生まれと言い、修道士となったが、ルターの宗教改革に共鳴し
修道士をやめてブラウンシュヴァイクの学校長になった。
その後、新教派の説教者となり、後に聖ニコラス教会の牧師となった。
ニコラス・デキウス独訳の“汚れなき神の子羊よ”の歌詞は、そのまま、バッハの“マタイ受難曲”の出だしの合唱
「おいで 娘たち 共に嘆こう」の後のコラール「おお、神の子羊、罪もなく」に用いられている。

☆ アニュス・デイは、ミサや聖餐式の通常式文に含まれる賛歌の一つ。 「神の子羊」の意で、洗礼者ヨハネが
 イエスを見て言った「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(ヨハネによる福音書1章29節)から取られている。
 日本のカトリック教会では「平和の賛歌」と呼ぶ。元来はシリア起源で、7世紀末に教皇セルギウス一世が
 聖体のパンを裂く時に歌うキリストへの賛歌としてミサに取り入れた。  以上「岩波 キリスト教辞典」より

ここをクリックすると讃美歌257番(ドイツ語)を聴くことができます。
ここをクリックすると日本語の讃美歌257番を聴けます。

 このブログのカテゴリ「讃美歌」は140曲近くなり、毎週の礼拝でここに載せていない讃美歌を
 歌うことはほとんどなくなりました。
 このブログの記事を遡って読む方は(多分絶対に)いないと思って讃美歌の記事を時々
 再掲させていただこうと思います。  
 新情報も追加できるとよいのですが、以前の記事と全く同じということもあるかもしれません。<(_ _)>
 
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久しぶりの<翡翠(カワセミ)>
もう求愛給仕が始まりました、花も動物も公園は春です。
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「新しい天と地」

2017-04-01 18:09:16 | 説教
3月26日(日)受難節第4主日礼拝の説教
テキストは「ヨハネ黙示録」21章1節~4節 タイトルは「新しい天と地」でした。




「この書物を書き送っているヨハネ自身が、神からの「預言」「幻」を語って、読む人たち、
聞く人たちを慰め、励ましているのです。 黙示録で語らざるをえないほどの時代だった。
暗澹として神の啓示なしには意気消沈せざるを得ない世界だった。」
ヨハネ黙示録は枯渇した世界に生きる人々に向けて、豊かに広がり、滲み、しみ出してゆく
恵みのイメージ膨らませ、命みなぎる神の言葉を語るのです。


ヨハネ黙示録はこれまで何回か読み、今もちょうど読んでいるところですが、左近牧師の説教を
お聴きして目から鱗、そうだったのか~と、初めて気づかされた視点でした。
友人の一人が「ヨハネ黙示録を読んだら、世の中なんだってアリだ、と思った。」と
言いましたが、私も何も分からず「聖書ってなんでもアリの世界なのか」と読んでいました。
ローマ皇帝の厳しい弾圧に苦しんだ当時のキリスト教信仰者への励ましの書物、難解で
とっつきにくいこの書物が少し理解しやすくなりました。
前回読んだ時にはやみくもにまとめて、カテゴリ「ヨハネ黙示録」として載せました。

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うつむいて咲く<モミジバイチゴ>の花
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