ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「幼な子のようになれ」

2014-01-20 23:20:53 | 説教
昨日の礼拝説教 テキストは「列王記下」5章8節~14節 と 「マタイによる福音書」18章1節~5節 
タイトルは「幼な子のようになれ」でした。

物語は・・・・・
重い皮膚病を患っているアラム王の軍司令官ナアマンは「サマリアの預言者エリシャのところに行けばその重い皮膚病を
いやしてもらえるでしょう」というイスラエルから連れてきた捕虜の召使の少女の助言を聞いてエリシャを訪ねました。
エリシャは自らナアマンに対応することなく、使いの者に「ヨルダン川で七度、身を洗い清めれば体はもとに戻り
清くなります」と言わせました。
エリシャ自身から診てもらえなかったナアマンは怒ってダマスコに帰ろうとしますが(賢い)家来たちは
「そんな簡単なことなら試してみたらよいではありませんか」とナアマンを諌めます。
それもそうだ、と思った(のか)ナアマンはヨルダン川に七度身を浸すと、体は元に戻って子供のような皮膚になり
清くなった・・・・・・という話です。


これは単なる奇跡物語ではなく、プライドを捨てて神の言葉に従った者の話です。
ナアマンはい召使の少女の話も、家来の忠告も受け入れる元々素直な人でした。

エリシャの対応にナアマンのプライドは傷つきましたが、それは、エリシャの言ったいやしの方法があまりに
単純だったから、それに従えなかったのです。

キリストの教えも簡単なことで、福音のメッセージは極めて単純で平易です。
単純なゆえにかえって幼な子ように信じるのが難しいのではないでしょうか。
日本ではキリスト教は難しく、インテリの宗教と言われますが、二千年の歴史はそうは示していません。
ナアマンはエリシャの言うことがあまりに簡単なので怒りましたが、賢い家来の言葉を受け入れます。
これは主の御心がそうさせたのです。

キリスト教の中心メッセージはあまりに安易に見えますが、主の御心でそれを信じさせていただいているのがクリスチャンです。
いただいた信仰を神の賜物として一生涯大切にしなくてはなりません。

マタイによる福音書18章3節4節に「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
自分を低くしてこの子供のようになる・・・」とありますが、自分を低くするというのは、謙遜などの道徳的な意味ではありません。
幼な子のようにというのは天真爛漫ということでもありません。

幼な子は両親の保護のもとにあります。
私たちもまた神の子として神に祈り求め感謝すべき存在だ、ということです。
また幼子はその状態を喜んで受け入れ、その境遇に何一つ不満を持ちません。
私たちもそれと同じように神への思いを持ち続けることです。

私たちクリスチャンが幼な子の心をもって社会で過ごす方法はどうすることなのでしょうか。
それは、決して二通りの生き方があるのではなく、幼な子のような心で神に向う、その上に実生活があるのです。
神の義を求めるなら神はそれに加えて与えてくださいます。     (以上、文責はゆうゆうにあります。)
                            


「列王記下」8章17節~19節
僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。
ただし、このことについては主が僕を赦してくださいますように。
わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。
そのとき、わたしもリモンの神殿にひれ伏さねばなりません。
わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。
エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。


異教の偶像を拝む儀式に参加しなくてはならないことを赦してほしいと願うナアマンの言葉です。
仏教形式の葬式などの儀式に参加することの多い日本人に直結しています。



公園の<キジバト>


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上田先生のセミナー(第一回)

2014-01-19 20:54:40 | 美竹教会
美竹教会は4月から左近豊先生を牧師としてお迎えします。
それに先立って、上田先生は三回にわたって「美竹教会の形成と発展のために」というタイトルでセミナーを開いてくださり、
私たち教会員にクリスチャンとして、教会員としての心構えをお話し下さいます。
今日が第一回目でした。


美竹教会の形成と発展のために (教会セミナーのテキスト)

 教会の主はキリストであること

()「教会形成」を考えるとき、何をおいても明確にしておくことは、教会の唯一の「頭」、「主」、
   また「所有者」(オーナー)はイエス・キリストである、ということです。
 
()唯一の「頭」、「主」、また「所有者」がイエス・キリストのみであることを強調されねばならない理由は、
   教会の中でも、人間はいつも自分の考え方が最善であり、それを実現したいと考え、いつの間にか自分が「主」となり
   過ちを犯すからです。
   そして同じ意見の仲間を増やし党派を作ろうとする誘惑に駆られます。
   常に主イエス・キリストのみが教会の主であられることを確認する必要があります。

()教会は牧師のものでも長老(役員)のものでも、また信徒全員のものでもありません。
   教会の真の政治形態は民主政体(デモ・クラシー)ではなく、クリスト・クラシー(キリスト支配)です。

()このことが自覚されていれば、人間的能力や才能がほとんどない人でも教会の中で必要とされていることが分かり、
   居場所を持つことができます。
   寝たきりになった方でも、教会のため、兄弟姉妹のために祈るという尊い使命を自覚することで
   立派に教会形成の「主人公」として生きることができます。

 伝道する教会となるための自伝・自立・自給の精神について

教会はキリストの福音を宣べ伝えるために建てられています。 
「礼拝共同体」としての教会は「伝道共同体」としての業をします。
そのための理念として「自伝・自立・自給」の三つが大切です。

(a)教会の自伝について

1846年にロンドンで設立された「万国福音同盟会」の活発な世界伝道の精神をもってプロテスタント教会を
日本に持ち込んだ宣教師たち。その伝道方針は「万人祭司主義」の原理に立ち、聖書を重んじプロテスタントの
正統主義を堅持し、教派的伝統にはとらわれない教会観「公会主義」でした。
植民地主義的伝道ではなく、教派的伝統を日本に持ち込むこともなく、日本の教会が「自伝・自立・自給」の
教会となることを願うものでした。
自分で聖書を読み「自立」した信仰を持ち、経済的にも「自給」でき、自分たちの力で祖国を「自伝」し、
世界への伝道できる教会の育つことを願いました。

1873年(明治6年)に「キリシタン禁令」が解かれると植民地主義と教派主義とが純粋な伝道精神の中に混入してきて、
以後の宣教師たちはおおむね自国の教派的伝統を日本に移植したので、最初の宣教師たちの伝道方針は簡単に崩れ去りました。
植村正久などの先覚者は「自伝・自立・自給」の精神を高唱しましたが、今日の日本の教会を見ると、
植村たちの精神が受け継がれてきたとは言えません。

お隣、韓国の教会の歴史を見ると、この精神が失われることなく受け継がれた結果、カトリックと合わせると
全人口の三割以上がクリスチャンという発展をしています。
その根本原因は「自伝・自立・自給」の精神の堅持にあります。

歴史を回顧し、良いものを再評価し、これから新しい歴史を形成することは可能であり必要なことです。

*****************************************************************************

今日のお話はここまででした。
上田先生が書かれたレジュメを皆で少しずつ音読し、それを先生が解説してくださいます。
知らない歴史的なことも聞けて楽しく非常に勉強になります。

先の方をチラッと見ると章立てが複雑でそうで頭に入るか心配ですが、まあ、上田先生のお話を聞きながらですから
理解できるでしょう。
何よりも美竹教会のこと、日本の伝道のことへの上田先生の熱く、篤い思いが行間からヒシヒシと感じられて感激です。
4月からの左近先生のお導きにも時々この文章を読み直しながらついてゆきたいと思いました。

↓ 下に(私の頭の整理のために)章立てだけ書いておきます。
今日の今日なので、私もまだしっかりとは読んでいません。
単なる私のメモ書きです。

*******************************************************************************


(b)教会の自立について

  (イ)それは、一人ひとりが主と結ばれることである
     ()「万人祭司」の原理から、すべての教会員がキリストと直結し、祭司である。
     ()キリストに直結することの基本は・礼拝を重んじること・神を「父よ」と呼ぶ祈り・聖書をよく読む、ということです。
     ()礼拝について
     ()祈りについて
     ()聖書をよく読むこと
     (-)
     (-)
     (-)

  (ロ)会議は祈りによってキリストと結びついたものであること
     ()教会の自立でもう一つ重要なことは教会総会、役員会、CS教師会などの教会会議がキリストと結びついたものと
        なることです。
     (-)
     (-)

(c)教会の自給について

     ()「自立」の精神が具体的に現れるものの一つが「自給」の精神です。
     ()献金の意義 献金には「献身」の意味がある。
     (-)
     ()「十分の一献金」
     ()

 教会の形成

(a)「御言葉の役者」について

     ()信徒であることは一切の思い煩いから解放された存在で。教会を建て福音を告げ広める尊い使命を神から与えられている
     ()家庭、職業、社会形成はこれを「世俗の仕事」と誤解してはいけない
     ()
     ()
     (-)

(b)信徒の役割について

  (イ)奉仕について
     ①「職制」の中の奉仕職について
       ()長老
       (-)
       (-)
       (-)
       (-)

     ②自発的な奉仕職について
       ()
       (-)教会役員、CS教師、各委員会、礼拝当番・受付、オルガニスト、会計担当、伝道委員会、教会報委員会、
            営繕係、ホームページ係、お花当番、会堂掃除当番等々
       ()
       (-)
       ()
       ()
       ()

   (ロ)交わりについて
       ()
       (-)主にある一致 「慰めの共同体」
       (-)謙遜
       (-)無責任は噂話は信じない
       (-)

   (ハ)証しについて
      ①教会全体としての伝道について
       ()
       (-)

      ②信徒の証しの生活
       ()キリスト者は「神と人間の間の仲介者」人間に対して神と神の国の豊かさを代表し、神に対しては
          貧しい人間を代表する。
       (-)
       (-)
       (-)
       (-)教会で行われる結婚式や葬儀などの儀式も重要な伝道の場
       ()他者の隣人となり、他者との交わりを持つこと
       (-)自分がキリスト者であることを公表する
       (-)
       (-)
       (-)
       (-)家族伝道
       (-)家族への伝道


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教会の礼拝で無心に神の御言葉をお聴きし、ご一緒に大きな声で讃美歌を歌いましょう!
心が晴れ晴れします。
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ユダの王ヨシャファト

2014-01-17 20:37:47 | 今日の聖句
「歴代史下」17章~21章1節までは、ユダの王ヨシャファトについて、かなり長い記述があります。
ヨシャファト王はおおむね主の目にかなう良い行いをしたので、その生涯はおおむね主に守られたものだったようです。
モアブ人とアンモン人の大群が攻めてきた時も主に依り頼むことによって勝利しました。

しかし、姻戚関係を結んだイスラエルの王アハブの誘いに乗ってラモト・ギレアドに攻めのぼっては
危うく殺されそうになったり、最後のほうでは、やはりイスラエルの王アハズヤと協定を結んで
タルシシュ行きの船団を造りましたが、この事業は主によって打ち壊されたりもしました。

ヨシャファト王については「列王記上」22章にも記されていますが、この「歴代史下」のほうが詳細に記されています。

「聖書事典」のヨシャファト王の記述も・・・・・
ユダの王(全868-847)。 アサとシルヒの娘アズバとの1子。
ヤハウエ礼拝を国民に奨励したが、不徹底であった。・・・・・という簡単なものです。

今日の聖句は「歴代史下」19章5節~7節 ヨシャファト王の言葉です。

彼はその地、すなわちユダのすべての砦の町に、それぞれの町の裁判官を立てた。
彼は裁判官に言った。「人のためではなく、主のために裁くのだから、自分が何をすべきか、よく考えなさい。
裁きを下すとき、主があなたたちと共にいてくださるように。
今、主への恐れがあなたたちにあるように。
注意深くさばきなさい。わたしたちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない。


良い王様だったのではないでしょうかね。



<スズメ> 幼鳥はともかく、成鳥は強面で意外と厳しい顔つきです。


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ユダの王アサ

2014-01-16 21:36:38 | 聖書
「歴代誌下」
ソロモン→レハブアム→アビヤの次にユダの王となったのは、アビヤの子アサでした。

14章1節~5節
アサは、その神、主の目にかなう正しく善いことを行った。
彼は異国の祭壇と聖なる高台を取り除き、石柱を壊し、アシェラ像を砕き、ユダの人々に先祖の神、主を求め、
律法と戒めを実行するように命じた。
アサはまたユダのすべての町から聖なる高台と香炉台を取り除いた。
こうして彼の統治の下で国は平穏であった。
主が安らぎを与えられたので、その時代この地は平穏で戦争が無かった。
そこで彼は、ユダに砦の町を次々と築いた。


15章13節~19節
子供も大人も、男も女も、イスラエルの神、主を求めない者はだれでも死刑に処せられるという契約を結んだ。
彼らは大声で叫び、ラッパと角笛を吹いて主に誓った。
ユダの皆がこの誓いを喜び祝った。皆が心の底から誓い、喜んで主を求めたからである。
主は彼らにご自分をお示しになり、主は、周囲の者たちから彼らを守って、安らぎを与えられる。

更にアサ王は母マアカがアシェラの憎むべき像を造ったので、彼女を太后の位から退けた。
アサはその憎むべき像を切り倒して砕き、キドロンの谷で焼き捨てた。
聖なる高台はイスラエルから取り除かれなかったが、アサの心はその生涯を通じて主と一つであった。
彼は父の聖別した物と自分の聖別した物、金、銀、祭具類を神殿に納めた。
アサの治世第三十五年まで戦争はなかった。



こういう立派なアサ王でしたが、治世第三十六年目にイスラエルの王パシャがユダに攻めのぼって来た時、
ダマスコにいたアラムの王ベン・ハダトに金銀を送り、イスラエルとの同盟を取り消すように、イスラエルを
ユダから追い払うように頼んでしまいます。
先見者ハナニが来て、アサがアラム王と頼みとし、神、主を頼みとしなかったことを、愚かであったと責めます。

アサはハナニの言葉に怒り、彼を獄に投じ、民の中のある者たち(ハナニの同調者?)を虐待しました。
アサはその治世第三十九年に極めて重い足の病にかかりましたが、病の中にあっても、彼は主を求めず、
医者に頼った、とあります。

治世三十五年まで信仰深かったアサになにが起きたのでしょう。
「歴代誌」のこの箇所を読んでもそれは分かりませんが、
人間が信仰の生涯を全うするのは難しいことなのかも知れません。

(そして、またまた疑問です。 アサはアビヤの子で、アビヤの母はマアカだったと思うのですが、
 アサの母親もマアカという名前だったのでしょうか?)



ピラカンサの赤い実に<オナガ>の群れがきました。


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私事ですが、連れ合いが今日入院しました、明日手術を受けます。
五十代後半の発病から、入院手術はもう何度目でしょう、七度目かな?
闘病生活は加齢も加わって、健康な私には想像できない痛みや苦しみ、不安があることでしょう。
手術のことは医師にお任せするとして、私にできることとして、連れい合いの心の平安を
いつも神様にお祈りしています。

ブログは休みがちになるやもしれません。 m(_ _)m
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アビヤのお母さんは誰?

2014-01-14 19:13:17 | 聖書
ソロモン王が亡くなると、その子レハブアムが代わって王となりました。

レハブアムはエジプトから戻ったネバトの子ヤロブアムに父ソロモン以上の重い軛(くびき)を負わせ、
そのことが民の反発を買いました。
結局、民の願いを聞き入れなかったレハブアムは民に受け入られず、たった一つの部族、ユダの町に住む
イスラエル人に対してのみ王であり続けました。

そして、ネバトの子ヤロブアムがソロモン王国の残りの十の部族を主から与えられました。
このことは「列王記上」11章26節~36節に記述されています。
シロの預言者アヒヤが道でヤロブアムに出会い「十の部族をあなたに与える」という主の御言葉を
告げたのです。

そして、主は僕(しもべ)ダビデのゆえに、また主の選んだ都エルサレムのゆえに一部族を
ソロモン(の子、レハブアム)のものとされ、ダビデのともし火が絶えず燃え続けるようにされました。
ダビデ、ソロモンと続いたイスラエル統一王国は分裂しました。


レハブアムの死んだあと、ユダの地で王となったのはアビヤでした。
13章にはアビヤの母の名はミカヤで、ギブア出身のウリエルの娘と書かれています。
ところが、11章20節からには 
そののち、レハブアムはアブサロムの娘マアカを妻として迎え、彼女はアビヤ、アタイ、ジザ、シェロミトを産んだ。
レハブアムは十八人の妻と、六十人の側女を持っていたが、その妻と側女の中でアブサロムの娘マアカをことのほか愛した。
二十八人の息子と六十人の娘をもうけたが、レハブアムはマアカの子アビヤを頭として立て、
兄弟たちの指導者として王位を継がせようとした。 
・・・・とあります。

さて、アビヤのお母さんはマアカか、ミカヤか? 
・・・・・と、ここまで書いて思い当りましたが、マアカ=ミカヤ ではないでしょうかね、音が似ています。 

細かいことなのでどうでもよいのですが、妙な所に引っかかるゆうゆうです。 (^^;)


11章13節から、面白い記述がありました。

イスラエル中の祭司とレビ人は、そのすべての領土からレハブアムのもとに集まって来た。
レビ人が自分の牧草地を所有物を捨ててユダとエルサレムに来たのは、ヤロブアムとその子らが彼らを遠ざけ、
主の祭司であることをやめさせたからである。
ヤロブアムは、聖なる高台、山羊の魔神、自ら造った子牛に仕える祭司を自分のために立てた。
またレビ人に続いて、イスラエルのすべての部族の中から、イスラエルの神、主を求めようと心を
定めた者たちが、エルサレムに出て来て、先祖の神、主にいけにえをささげた。
かれれは三年間ユダの国を強くし、ソロモンの子レハブアムを支援した。


ユダとエルサレムはしっかり、先祖の神、主にささげられた王国となったようです。
そして、北イスラエルの王となったヤロブアムはこの先「主の道を歩まなかった王」として事あるごとに登場します。



すっかり葉の落ちたユリノキに<オオタカ>が止まっていました。
後からそ~っと一枚撮らせてもらいました。

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ソロモンの富

2014-01-13 20:45:39 | 今日の聖句
「歴代誌下」9章13節~24節

ソロモンの歳入は金六百六十六キカル、そのほかに隊商や商人の納める税金があり、
アラビアのすべての王や地方総督もソロモン王に金銀を納めた。
ソロモン王は延金の大盾二百を造った。大盾一つにつき用いた延金は六百シェケルであった。
延金の小盾も三百作った。小盾一つにつき用いた金は三百シェケルであった。
王はこれらの盾を「レバノンの森の家」に置いた

王は更に象牙の大きな王座を作り、それを純金で覆った。
王座には六つの段があり、その王座に金の踏み台がつけられていた。
また、座席の両側には肘掛けがあり、その脇に二頭の獅子が立っていた。
六つの段の左右にも十二頭の獅子が立っていた。
これほどのものが作られた国はどこにもなかった

ソロモン王の杯はすべて金、「レバノンの森の家」の器もすべて純金でできていた。
ソロモンの時代には銀は値打ちのないものと見なされていた。
王の船団はフラムの家臣たちと共にタルシシュへ航海した。
三年に一度、タルシシュの船団は、金、銀、象牙、猿、ひひを積んで入港した。
ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し、世界のすべての王が、
神がソロモンの心にお授けになった知恵を聞くために、彼に拝謁を求めた。
彼らは、それぞれ贈り物として、銀の器、金の器、衣類、武器、香料、馬とらばを毎年携えて来た。



「サムエル記上」10章にもソロモンの富を記述した、同じ文章があります。
ソロモン王の栄華、御威光は凄いものだったのですね。
そのソロモン王はエルサレムで四十年間、全イスラエルを治めましたが、先祖と共に眠りにつき
父ダビデの町に葬られました。

新約聖書のイエス様の御言葉に「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」とあります。
誕生した日から死に向かってカウントダウンの始まる人間はどのように生きても虚しい者です。

昨日の礼拝説教で上田先生が説き明かされたように、主に拠り頼む生活、イエスの復活を信じ
イエスの贖罪を感謝し、その福音を告げる伝道、主の教会を建てる営みこそが、私たちに
本当に生きる喜びを与えてくれるものなのでしょう。



<シロハラ> 
今年はシロハラに出会うのも稀な都市公園の野鳥事情です。


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福音を信じ、永遠の命をいただく平安を信じて生きることを知らなかったら
私の生活はなんと空虚なものだったでしょう。
教会の扉を押して、ぜひお訪ねください。
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「必要を満たす神」

2014-01-12 21:01:29 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「列王記下」4章1節~7節 「マタイによる福音書」6章25節~27節
タイトルは「必要を満たす神」でした。

今日は別件の用事があって礼拝に行けませんでした。
夕方、メールを開けて(@_@;) 上田先生から「今日の説教」を添付したメールが来ておりました。 感激です。

今日の説教要約は要約というより、先生の説教現行の抜き書きのようなものです。 ・・・なので、少々長くなりました。

***************************************************************

列王記下4章のお話しは、預言者の妻が夫に死なれ、借金に苦しみ、子供たちを奴隷に売らなければならない苦境に陥った時、
主なる神がそのやもめを顧み、預言者エリシャを用いてその一家を養われた、という記事です。
これほどの苦境でなくても、もっと日常的な形では、どんな人でも、思い悩みや心配事で、
時には夜も眠れないような目に遭うことはしょっちゅうあります。

そこで本日は「マタイによる福音書」6章25節以下の「思い悩むな」という主イエスのお説教を、ご一緒にお聴きしたいと思います。
年の初めに、今年一年間を、「思い悩むな」という主イエスの御言葉をモットーとして生きるためにも、
この箇所を是非ご一緒に学びたい、と思います。

25節は「だから、言っておく」という言葉で始まっています。
この「だから」は、その前の24節の「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、
一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることは出来ない」という主の御言葉を受けています。
ここで主は、神に仕える生活とは、神を信頼し、神に一切の思い煩いを委ねる生活である。
そうすれば思い煩わなくてよい、とお語りになっています。

人間は、誰かを主人に持つ「僕」なのです。
突き詰めて言えば、神を主人にしているか、それとも、自分自身を主人にしているか、二つに一つです。
そこで主は、もしあなたがたが、神を主人にしているのなら、全く思い煩う必要はない、神はいつくしみ深く、
空の鳥をもお守りくださるお方だ。神は栄華を極めた時のソロモンよりも美しくあなたを装ってくださるだろう。
だから、思い悩むな、と仰っています。
人間は、主人を持ち、居場所を持ち、生きる目的を与えられて、初めて平安と生き甲斐を得ます。
その代わり、二人の主人に兼ね仕えることはできません。これは、大変分かりやすい理屈なのではないでしょうか。

ある牧師は自分が病気になった時、人間はなぜ思い悩むのか、聖書には、思い悩むな、神にすべてを委ねなさいと教えられていて、
こんなに良い事、こんなに易しいことはないのに、なぜ素直にそれが出来ないのか、という事を考えました。
そして、自分が心配するのは、自分がこうなるはずだと思い込むことから来る、と思い至りました。 
神でもないわたしどもは、自分が全能者になったかのごとく錯覚し、思い通りにならないことに苛立ち、不安を覚えます。
それは結局、自分の人生を自分で思い通りにし、自分が主人になっているからではないか、だから思い煩うのではないか、とその牧師は思いました。
神のなさることはすべて恵みに満ちていると知っていれば、神にすっかりゆだねることが出来るはずです。
その点で言えば、主の本日の御言葉は大変麗しく、しかも、説得的です。

主イエスのおっしゃることは、大変分かりやすいのです
私共は一体何のために生きているかが、分かっていません。
必ず死ぬ運命の自分は何のために生まれ、何のために生きているのか。本当は生きる意味がよく分かりません。
命は神から受けたものであり、神のためであるということが、分かっていないのです。

また主は、「あなたがたは、鳥よりもはるかに価値あるものではないか」と言われますが、何故人間の命が空の鳥の命よりも
尊いと言えるのでしょうか。
人間が万物の霊長だから、あるいは、才能や能力があるから、それだから、そういう人は生きる値打ちがある、と
主は仰っているのでしょうか。
それならば、才能の乏しい人や、病気でベットに釘づけになっている人は、もう生きる値打ちはない、ということになるのでしょうか。
とんでもない誤解です。

それは、どなたから見て尊いのか。神から御覧になって、神にとって、神が必要としている、だから尊い、
ということを知らないのです。
神がその人を必要としているから、神はお守りくださる、そのために生かされているということを、まるで知らないのです。
神の栄光を現わすために生きているという、最も根本的なところが分かっていないから、
神に生かされていることが分かっていないのです。

人間は、神の栄光のために生きているのだと分かれば、思い煩いの必要がないことがよく分かります。
わたしどものどんなに小さな命をも、主は愛し、必要としてくださいます。
そしてそれは、いずれ終わる命ではなく、永遠に神のもの、神の御国へと召された命にしてくださった、ということなのです。
ここで、わたしどもの信仰の中心を、もう一度思い起こしたいと思います。
そしてそれを、今年の初めに思い起こすことは、大変意義深いことです。

ハイデルベルク信仰問答の第1問に「生きているときも、死ぬときも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いに対して、
「わたしが生きているときも、死ぬ時も、わたしのただ一つの慰めは、わたしが自分のものではなく、わたしの真実な救い主、
イエス・キリストのものであることであります」とあります。
自分が自分のものではなく、キリストのものとされていることが、わたしどもの最大の救いであり、喜びであり、最も深い慰めである。
生きているときだけでなく、死ぬ時もこの慰めがあるから安心して死ねる、と言っています。
これが、わたしどもの信仰の中心です。

わたしどもを愛し、御自分の命を与える、良い御主人である神は、わたしどもだけでなく、全人類を救おうとしておられます。
それが神の御意志です。
ですから、教会を建て、ひとりでも多くの人々に福音を伝えることが、世界史の真の意味なのです。
わたしどもが努力して築く世界歴史の本当の意味は、神の救いのお約束が成就することです。
それが旧約聖書と新約聖書の「約」つまり「契約」の意味です。
ですから、主の御体なる教会が建てられ、福音が宣べ伝えられることが、この世の歴史の本当の意味です。
 
クリスチャンでも、人生は、自分に与えられた才能を生かし自己実現のために生きているのだ、と誤解している人がおおくいますが、
それは結局は、自分を主人にし、自分のために生きているだけです。
なぜなら「だれも二人の主人に兼ね仕えることはできない」、と主がおっしゃっている通り、自分に仕え、神にも仕えるということは、
絶対に不可能だからです。

では最後に、神のものとされたわたしどもの生き方とは、どのようなものなのでしょうか。
主はわたしどもの根本的な罪をお赦しくださり、イエス・キリストを信ずる信仰によって、思い煩いから解放される生き方を
備えてくださいました。
それは、主に仕えて生きる道です。少なくとも、それが中心である生活です。
自分のために何かをする場合でも、それが神のためであるなら、思い煩いはしないでよいのです。
そしてそれは、神に祈り、神から一切をいただく生活です。

思い煩わず、一切を感謝する生活の基準として、主は「主の祈り」をお教え下さいましたが、その中に、「わたしたちに必要な糧を
今日も与えてください」という祈りがあります。
信仰を持たない人は、パンは自分の稼ぎだから、祈って頂く必要などない、と考えます。
自分が主人だから、自分が稼いだパンなのです。感謝などする必要はない。
しかし本当は、この祈りは、パンだけでなく、そのパンを得るための職場も、職場の良い人間関係も、自分の健康も、
自分を支えてくれている良い家族も、良い天気も、良い政治も、全部この祈りの中に含まれているのです
それらを主に求め、感謝していただき、主のために用いさせて頂き、神の栄光を仰ぎ見るときに、初めてわたしどもは
「食べるために生きるのではなく、生きるために食べる」ことが分かりますし、何のためにこの人生を与えられたのか、
何のためにこの地上の命が与えられているのか、真剣に生きるに値する、祝福に満ちた命であるのか、が明らかになって参ります。

ミレーの「晩鐘」は私の大好きな絵ですが、一日の労働が出来たこと、そこから得た食べ物、神に感謝して一日を終わるという、
ミレーの素朴な信仰を現わしています。
主は、一日の苦労は、その日一日だけで十分である、明日のことは、明日自身が思い煩うであろう、と仰いました。
わたしどものこの一年も、自分が主のものとされたことを感謝し、すべてを祈り求め、主の御栄光のために捧げる一年でありたいと思います。



公園の水場に来た<カワラヒワ>です。


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レビ人って? (2)

2014-01-10 20:28:21 | 聖書
レビ人について「聖書事典」ではどんな解説がされているのでしょう、読んでみました。
ちょっと難しい・・・・・
抜き書きも大変なのでスキャナーでコピーしてみました。



私のような素人にはもう少し分かりやすい辞典が必要なようですね。 (^^;)

ダビデの祈りで「歴代誌上」は終わりました。
いよいよソロモンの登場「歴代誌下」を読み始めます。 楽しみです。



<カワセミ(♀)>
冬枯れの公園で梢から梢に飛び回っていました。


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レビ人って?

2014-01-09 23:02:20 | 聖書
「歴代誌上」23節には “レビ人の任務” 
       24節には “祭司の組織” “その他のレビ人”
       25節には “詠唱者” 
       26節には “門衛” “他のレビ人の任務” の記事があります。
レビ人とはどのような人(部族)だったのでしょう、ネットで調べてみたところ Wikipedia に分かりやすい解説がありました。


レビ族(レビ族)はヤコブの子レビを祖とするイスラエルの部族(氏族)の一つであり、主を嗣業としていた。
レビはヤコブの12人の子供の1人であるが、祭司の一族として特別な役割を与えられ
継承する土地を持たなかったため、レビ族はイスラエルの十二支族には数えない。
聖書(民数記)においても、レビ族は「彼らはイスラエルの人々のうちに嗣業を与えられなかったため、
イスラエルの人々のうちに数えられなかった者である。」と書かれている。

レビ人の歴史
レビ族出身のモーセとアロンの指導の元で、イスラエル人は奴隷として扱われていたエジプトのゴシェンから脱出した。
出エジプトの荒野を移動する時は、レビ族は12の部族の中で最小の部族で、男子の人数が22,000人であり、
カナンに入る前の2回目の人口調査の際には22,3000人であった。

荒野でレビ人は、アロンの監督の元で幕屋の奉仕、契約の箱の運搬、聖所での奉仕に従事した。
会見の天幕の奉仕は、ゲルション諸氏族、ケハテ諸氏族、メラリ諸氏族の3つにわけてなされた。

レビ族において、アロンの家系は名門として特別に扱われた。
アロンの息子のエルアザルの家系から大祭司が世襲で輩出された。

モーセの後継者ヨシュアの時に、イスラエルの民はパレスチナ地方を占領するが、レビ人は相続地を持たず、
全国に居住の町を与えられて、住んだ。
そして、レビ人にはその奉仕の報酬として奉納物の十分の一が給付された。

古代イスラエル王国が誕生すると、神殿が建設されて、レビ人の神殿礼拝は政治と結びつくようになる。
その後、イスラエル王国が北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してからも、レビ人はダビデ家に忠誠を尽くし、
北イスラエルに住んでいたレビ族は南ユダに移住し、それは南ユダの滅亡まで続いた。

バビロン捕囚以降は、レビ族の立場が確立されていった。
後に、ヘレニズムの時代はハスモン朝、ローマ帝国下にあってはヘロデ家の関係のもとに大祭司が任命されていった。
紀元70年のローマ軍によるエルサレム陥落によるユダヤ滅亡以降に大祭司は任命されていない。

暮れ、正月とあわただしく過ごして聖書を読む日課がおろそかになりました。
「歴代誌上」なかなか読み終わりません。 (T__T)




公園の<アオジ>はようやく居ついたようです。
一応、冬鳥で、春には山に帰ります。


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「神に栄光、地に平和」

2014-01-08 20:44:21 | 「先週の講壇より」
12月29日の礼拝説教の一部が「先週の講壇より」として週報に載りました。
説教のテキストは「ルカによる福音書」2章8節~20節 タイトルは「神に栄光、地に平和」でした。



この日、私は教会学校分級のお手伝いで説教を聞くことができませんでした。
説教全文は美竹教会のホームページの「9.説教集」に載っています。
是非お読みください。



公園を歩いていると「コンコンコン・・・」と木を叩く音が聞こえます。
コゲラよりも大きい音です。
久し振りに<アオゲラ>に出会いました。 (^-^)
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