ダビデの行った人口調査が何故神の怒りを買い、ダビデは罰せられたのか。
ネットに比較的分かりやすい下のような解説がありました。
引用させていただきます。 引用させていただいた記事の著者さん、ありがとうございます。
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ダビデはこれまで、神の導きと助けによって勝利の御業を成し遂げましたことを聖書は繰り返し語ります
「ダビデにはこれだけの事をさせよう」という神のご計画が先ずあって、それに基づいた役割のためにダビデは立てられ、
勝利が与えられた、というように考えることが出来ます。
しかしダビデは人口調査を強引に行って、神の怒りを買ってしまいます。
神が何故この事を悪と見なされたのか、その理由は聖書には明確には記されていません。
人口調査をすることは何故、罪となるのでしょうか
ダビデが行ったこの調査は何のためだったのでしょうか。
歴代第一21章5~6節に「剣を取りうる戦士はイスラエルに80万、ユダに50万であった」とありますが、
ここに「ダビデの人口調査」の目的が示されています。
つまりそれは「徴兵可能な兵士の数を知るため」だったのでしょう
(これは「軍隊は戦争をするためのものであり、戦争は人を殺すことだから、軍隊を持つことが罪である」というような話ではありません。
戦争や軍隊そのものを罪とする考え方は、少なくとも旧約聖書にはありません。
それを持つことが罪なのではなくて、その数を数えることが罪だったのかもしれません。)
「兵の数を数える」とは、自分の持っている戦力を把握することです。
この国は軍事的にどのくらい力があるかを調べることです。
それは戦争をするに当っては必要かつ基本的な事ですから、ダビデがしたことは、王としてある意味では当然のことです。
しかしイスラエルにおいてはその事が、神に対する罪となります。
それはイスラエルにおける戦いが「神の戦い」であり、勝利は神によって与えられるものであり、人間が
自分の力で獲得するものではないのです。
兵の数を数え戦力を数えることは、神様の力ではなく人間の、自分たちの持っている力に頼んで事を計画し、実行していこうとすることです。
神様の力に依り頼むのではなくて、自分の力、自分の兵力によって事を成そうとするところに、この人口調査の罪があるといえるでしょう
ダビデは、自分の元にある兵力を数えることによって、神の自分に対する恵みの大きさを確かめようとした、
つまり神の祝福を形で確認しようとしたのかもしれません。
自分に与えられている神の恵みを、兵力を数えることによって「目に見える仕方で」確認しようとした、
それがこの「ダビデの人口調査」だったのかもしれません。
神を信じる信仰とは本来、見ないでも信じることが出来るものです。
目に見えていることは「信じる」必要はないでしょう。
目に見えない神の恵み、祝福を信じるのが信仰の一つなのです。恵みが確かにあることの保証を、目に見える何かに求めようとする、
それが「ダビデの人口調査」の意味であれば、それは神に対する罪だったといえるでしょう。
別の考えとしては、ダビデが「主の恵み」として民の数を数えたのではなく、自分の功績と力とをそこに数え上げたのかもしれない、ということです
ダビデはたとえ一時的な事とはいえ、神の力よりも人の数の多さに頼ろうとしたのかも知れません。
あるいは、自分がいかに多い民の上に君臨し、自分がいかにすごいかを知りたくなって、自己満足を得たかったのかも知れません。
その思いを神は罰せられたのかも知れません。
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勉強になりました。
これでこれからは「なぜダビデの人口調査」は神に悪とみなされたか」を思い悩むことは無いでしょう。 ホッ! (^-^)
公園の<翡翠(かわせみ)>
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
日曜には教会の扉を押して、礼拝にお出かけください。
ネットに比較的分かりやすい下のような解説がありました。
引用させていただきます。 引用させていただいた記事の著者さん、ありがとうございます。
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ダビデはこれまで、神の導きと助けによって勝利の御業を成し遂げましたことを聖書は繰り返し語ります
「ダビデにはこれだけの事をさせよう」という神のご計画が先ずあって、それに基づいた役割のためにダビデは立てられ、
勝利が与えられた、というように考えることが出来ます。
しかしダビデは人口調査を強引に行って、神の怒りを買ってしまいます。
神が何故この事を悪と見なされたのか、その理由は聖書には明確には記されていません。
人口調査をすることは何故、罪となるのでしょうか
ダビデが行ったこの調査は何のためだったのでしょうか。
歴代第一21章5~6節に「剣を取りうる戦士はイスラエルに80万、ユダに50万であった」とありますが、
ここに「ダビデの人口調査」の目的が示されています。
つまりそれは「徴兵可能な兵士の数を知るため」だったのでしょう
(これは「軍隊は戦争をするためのものであり、戦争は人を殺すことだから、軍隊を持つことが罪である」というような話ではありません。
戦争や軍隊そのものを罪とする考え方は、少なくとも旧約聖書にはありません。
それを持つことが罪なのではなくて、その数を数えることが罪だったのかもしれません。)
「兵の数を数える」とは、自分の持っている戦力を把握することです。
この国は軍事的にどのくらい力があるかを調べることです。
それは戦争をするに当っては必要かつ基本的な事ですから、ダビデがしたことは、王としてある意味では当然のことです。
しかしイスラエルにおいてはその事が、神に対する罪となります。
それはイスラエルにおける戦いが「神の戦い」であり、勝利は神によって与えられるものであり、人間が
自分の力で獲得するものではないのです。
兵の数を数え戦力を数えることは、神様の力ではなく人間の、自分たちの持っている力に頼んで事を計画し、実行していこうとすることです。
神様の力に依り頼むのではなくて、自分の力、自分の兵力によって事を成そうとするところに、この人口調査の罪があるといえるでしょう
ダビデは、自分の元にある兵力を数えることによって、神の自分に対する恵みの大きさを確かめようとした、
つまり神の祝福を形で確認しようとしたのかもしれません。
自分に与えられている神の恵みを、兵力を数えることによって「目に見える仕方で」確認しようとした、
それがこの「ダビデの人口調査」だったのかもしれません。
神を信じる信仰とは本来、見ないでも信じることが出来るものです。
目に見えていることは「信じる」必要はないでしょう。
目に見えない神の恵み、祝福を信じるのが信仰の一つなのです。恵みが確かにあることの保証を、目に見える何かに求めようとする、
それが「ダビデの人口調査」の意味であれば、それは神に対する罪だったといえるでしょう。
別の考えとしては、ダビデが「主の恵み」として民の数を数えたのではなく、自分の功績と力とをそこに数え上げたのかもしれない、ということです
ダビデはたとえ一時的な事とはいえ、神の力よりも人の数の多さに頼ろうとしたのかも知れません。
あるいは、自分がいかに多い民の上に君臨し、自分がいかにすごいかを知りたくなって、自己満足を得たかったのかも知れません。
その思いを神は罰せられたのかも知れません。
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勉強になりました。
これでこれからは「なぜダビデの人口調査」は神に悪とみなされたか」を思い悩むことは無いでしょう。 ホッ! (^-^)
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