ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「わたしたちの新しい王」

2014-01-05 20:33:24 | 説教
今日は、今年最初の礼拝でした。
説教のテキストは「イザヤ書」8章13節 と 「マタイによる福音書」2章1節~12節
タイトルは「わたしたちの新しい王」でした。
「マタイによる福音書」の記事は三人の博士が星に導かれてベツレヘムに行き、イエスを礼拝した話です。


キリスト教においては1月6日までがクリスマスで、1月6日は三人の博士がイエスを礼拝した日で「顕現日」として記念します。
伝説では、三人の博士はアジア人、ヨーロッパ人、アフリカ人と言われ、当時の全世界の代表とみられています。

三人の博士の見た新しい王の誕生は新しい時、新しい生活が始まることを意味していました。

外国人である三人の博士が新しい王を尋ね求めて歩いたことでヘロデ王もエルサレムの民も不安になりました。
イエス誕生の裏には、ヘロデの命令でエルサレムの2歳以下の子供を皆殺しにするという悲惨な出来事がありました。
クリスマスにはこのような影の部分もあります。

嫉妬深く疑い深く、妻、母、三人の息子を次々と殺したヘロデにとって自分以外の王の存在は許しがたいものでした。
有能で神殿も造り、大王と呼ばれたヘロデは敏感にも、ユダヤ人の王が生まれたことを非常に不安に感じました。

(ヘロデの姿は、私達罪びとの姿ではないでしょうか。私たちは自分が自分の人生の王であると思っていて、
王座が奪われそうになると排除しようとするのではないでしょうか。)

鈍感な私たちは、イエスの誕生は自分の人生を慰めてくれるもの、自分の人生を贖ってくれるものくらいの認識しかなく、
自分の人生(王座)を明け渡すほどの重大な出来事と思っていないのではないでしょうか。
しかし、敏感なヘロデはクリスマス(新しい王の誕生)は自分の王位を脅かすものと感じていました。

私達は、新しい王の出現で、内乱などの不安位しか感じない、王としての自分の生活が失われる不安しか感じない
エルサレム住民と同じ位鈍感なのではないでしょうか。
せいぜい生活や経済などこの世の出来事の心配が先に立つだけで、自分たちが罪と死に支配されていることを真剣に考えません。


2000年前に生まれた王はどのような方で、その人が王になるということはどんな新しい生活が始まることなのでしょうか。

イエスは「真の王、真の羊飼い」として生まれました。
「わたしの民、イスラエルの牧者となる」ためにお生まれになりました。
ヘロデのような暴君ではなく、良い羊飼いであり、イエスはヘロデのためにも命を捨てられたのです。
新しい希望と神の恵みが支配する生活が始まります。
マタイの1章23節に「インマヌエル 神は我と共に在る」と書かれていますが、私たちの魂に平安を与え、深い喜びを与える方です。

ラクダに乗り、導く星の輝く夜間のみの200キロもの長旅、メシアを探し求める三人の博士の旅は、
キリスト者として全生涯をささげる旅でもあります。
人生でひたすら会いたいと願っている人を持っていることは幸せであり、旅路の最後に会えたらどんなに幸せなことでしょう。
(空に輝く導きの星は、私たちにとっては聖書の御言葉であり、礼拝で語られる説教です。)


キリストが私たちの真の王となってくださる、私たちの罪と死から解放される、自分を小さな王とする
私たちの生活から解放される、これに勝る喜びはありません。
私どもが自分を王とするということは、老いや病い、死など様々なこの世の出来事を恐れることです。

イザヤ書の7章、8章は「インマヌエルの預言」と言われ、マタイの降誕記事はその成就と言われます。
そして聖書の信仰の中心はこの言葉です。

「イザヤ書」8章13節
万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。
あなたたちが畏るべき方は主。
御前におののくべき方は主。



イエスの誕生によって、私たちは今や新しい生活、神のみを畏れ平安に生きることができるのです。
                                       (以上、文責はゆうゆうにあります。)



今日の野鳥は<シジュウカラ>です。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする