ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「必要を満たす神」

2014-01-12 21:01:29 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「列王記下」4章1節~7節 「マタイによる福音書」6章25節~27節
タイトルは「必要を満たす神」でした。

今日は別件の用事があって礼拝に行けませんでした。
夕方、メールを開けて(@_@;) 上田先生から「今日の説教」を添付したメールが来ておりました。 感激です。

今日の説教要約は要約というより、先生の説教現行の抜き書きのようなものです。 ・・・なので、少々長くなりました。

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列王記下4章のお話しは、預言者の妻が夫に死なれ、借金に苦しみ、子供たちを奴隷に売らなければならない苦境に陥った時、
主なる神がそのやもめを顧み、預言者エリシャを用いてその一家を養われた、という記事です。
これほどの苦境でなくても、もっと日常的な形では、どんな人でも、思い悩みや心配事で、
時には夜も眠れないような目に遭うことはしょっちゅうあります。

そこで本日は「マタイによる福音書」6章25節以下の「思い悩むな」という主イエスのお説教を、ご一緒にお聴きしたいと思います。
年の初めに、今年一年間を、「思い悩むな」という主イエスの御言葉をモットーとして生きるためにも、
この箇所を是非ご一緒に学びたい、と思います。

25節は「だから、言っておく」という言葉で始まっています。
この「だから」は、その前の24節の「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、
一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることは出来ない」という主の御言葉を受けています。
ここで主は、神に仕える生活とは、神を信頼し、神に一切の思い煩いを委ねる生活である。
そうすれば思い煩わなくてよい、とお語りになっています。

人間は、誰かを主人に持つ「僕」なのです。
突き詰めて言えば、神を主人にしているか、それとも、自分自身を主人にしているか、二つに一つです。
そこで主は、もしあなたがたが、神を主人にしているのなら、全く思い煩う必要はない、神はいつくしみ深く、
空の鳥をもお守りくださるお方だ。神は栄華を極めた時のソロモンよりも美しくあなたを装ってくださるだろう。
だから、思い悩むな、と仰っています。
人間は、主人を持ち、居場所を持ち、生きる目的を与えられて、初めて平安と生き甲斐を得ます。
その代わり、二人の主人に兼ね仕えることはできません。これは、大変分かりやすい理屈なのではないでしょうか。

ある牧師は自分が病気になった時、人間はなぜ思い悩むのか、聖書には、思い悩むな、神にすべてを委ねなさいと教えられていて、
こんなに良い事、こんなに易しいことはないのに、なぜ素直にそれが出来ないのか、という事を考えました。
そして、自分が心配するのは、自分がこうなるはずだと思い込むことから来る、と思い至りました。 
神でもないわたしどもは、自分が全能者になったかのごとく錯覚し、思い通りにならないことに苛立ち、不安を覚えます。
それは結局、自分の人生を自分で思い通りにし、自分が主人になっているからではないか、だから思い煩うのではないか、とその牧師は思いました。
神のなさることはすべて恵みに満ちていると知っていれば、神にすっかりゆだねることが出来るはずです。
その点で言えば、主の本日の御言葉は大変麗しく、しかも、説得的です。

主イエスのおっしゃることは、大変分かりやすいのです
私共は一体何のために生きているかが、分かっていません。
必ず死ぬ運命の自分は何のために生まれ、何のために生きているのか。本当は生きる意味がよく分かりません。
命は神から受けたものであり、神のためであるということが、分かっていないのです。

また主は、「あなたがたは、鳥よりもはるかに価値あるものではないか」と言われますが、何故人間の命が空の鳥の命よりも
尊いと言えるのでしょうか。
人間が万物の霊長だから、あるいは、才能や能力があるから、それだから、そういう人は生きる値打ちがある、と
主は仰っているのでしょうか。
それならば、才能の乏しい人や、病気でベットに釘づけになっている人は、もう生きる値打ちはない、ということになるのでしょうか。
とんでもない誤解です。

それは、どなたから見て尊いのか。神から御覧になって、神にとって、神が必要としている、だから尊い、
ということを知らないのです。
神がその人を必要としているから、神はお守りくださる、そのために生かされているということを、まるで知らないのです。
神の栄光を現わすために生きているという、最も根本的なところが分かっていないから、
神に生かされていることが分かっていないのです。

人間は、神の栄光のために生きているのだと分かれば、思い煩いの必要がないことがよく分かります。
わたしどものどんなに小さな命をも、主は愛し、必要としてくださいます。
そしてそれは、いずれ終わる命ではなく、永遠に神のもの、神の御国へと召された命にしてくださった、ということなのです。
ここで、わたしどもの信仰の中心を、もう一度思い起こしたいと思います。
そしてそれを、今年の初めに思い起こすことは、大変意義深いことです。

ハイデルベルク信仰問答の第1問に「生きているときも、死ぬときも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いに対して、
「わたしが生きているときも、死ぬ時も、わたしのただ一つの慰めは、わたしが自分のものではなく、わたしの真実な救い主、
イエス・キリストのものであることであります」とあります。
自分が自分のものではなく、キリストのものとされていることが、わたしどもの最大の救いであり、喜びであり、最も深い慰めである。
生きているときだけでなく、死ぬ時もこの慰めがあるから安心して死ねる、と言っています。
これが、わたしどもの信仰の中心です。

わたしどもを愛し、御自分の命を与える、良い御主人である神は、わたしどもだけでなく、全人類を救おうとしておられます。
それが神の御意志です。
ですから、教会を建て、ひとりでも多くの人々に福音を伝えることが、世界史の真の意味なのです。
わたしどもが努力して築く世界歴史の本当の意味は、神の救いのお約束が成就することです。
それが旧約聖書と新約聖書の「約」つまり「契約」の意味です。
ですから、主の御体なる教会が建てられ、福音が宣べ伝えられることが、この世の歴史の本当の意味です。
 
クリスチャンでも、人生は、自分に与えられた才能を生かし自己実現のために生きているのだ、と誤解している人がおおくいますが、
それは結局は、自分を主人にし、自分のために生きているだけです。
なぜなら「だれも二人の主人に兼ね仕えることはできない」、と主がおっしゃっている通り、自分に仕え、神にも仕えるということは、
絶対に不可能だからです。

では最後に、神のものとされたわたしどもの生き方とは、どのようなものなのでしょうか。
主はわたしどもの根本的な罪をお赦しくださり、イエス・キリストを信ずる信仰によって、思い煩いから解放される生き方を
備えてくださいました。
それは、主に仕えて生きる道です。少なくとも、それが中心である生活です。
自分のために何かをする場合でも、それが神のためであるなら、思い煩いはしないでよいのです。
そしてそれは、神に祈り、神から一切をいただく生活です。

思い煩わず、一切を感謝する生活の基準として、主は「主の祈り」をお教え下さいましたが、その中に、「わたしたちに必要な糧を
今日も与えてください」という祈りがあります。
信仰を持たない人は、パンは自分の稼ぎだから、祈って頂く必要などない、と考えます。
自分が主人だから、自分が稼いだパンなのです。感謝などする必要はない。
しかし本当は、この祈りは、パンだけでなく、そのパンを得るための職場も、職場の良い人間関係も、自分の健康も、
自分を支えてくれている良い家族も、良い天気も、良い政治も、全部この祈りの中に含まれているのです
それらを主に求め、感謝していただき、主のために用いさせて頂き、神の栄光を仰ぎ見るときに、初めてわたしどもは
「食べるために生きるのではなく、生きるために食べる」ことが分かりますし、何のためにこの人生を与えられたのか、
何のためにこの地上の命が与えられているのか、真剣に生きるに値する、祝福に満ちた命であるのか、が明らかになって参ります。

ミレーの「晩鐘」は私の大好きな絵ですが、一日の労働が出来たこと、そこから得た食べ物、神に感謝して一日を終わるという、
ミレーの素朴な信仰を現わしています。
主は、一日の苦労は、その日一日だけで十分である、明日のことは、明日自身が思い煩うであろう、と仰いました。
わたしどものこの一年も、自分が主のものとされたことを感謝し、すべてを祈り求め、主の御栄光のために捧げる一年でありたいと思います。



公園の水場に来た<カワラヒワ>です。


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