ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

讃美歌120番

2014-01-06 19:50:54 | 讃美歌
讃美歌120番 「いざ歌え友よ ベツレヘムの・・・」 昨日の礼拝で歌いました。
「主イエス・キリスト 生涯」の項に入っている讃美歌です。
私も初めて歌いましたが、教会の兄弟姉妹も馴染みの薄い讃美歌だったようで、歌声がイマイチ響きませんでした。 


1) いざうたえ友よ、 ベツレヘムの
   まぶねに生まれし かみのみ子を。
   かの夜(よ)の光は 今も消えず、
   平和のねがいは いよよたかし。

2) いざうたえ友よ、ナザレの野に、
   花つみ鳥追う 童イエスを。
   かの日のそよ風 今も吹きて、
   すさめる心に さちをおくる。


3) いざうたえ友よ ガリラヤにて、
   波かぜしずめし ちからの主を。
   とうときみ声は 今もひびき、
   なやめる世界に 憩いをあとう。

4) いざうたえ友よ カルバリにて、
   十字架に死にたる すくいぬしを。
   みくにに帰りし さかえの主は、
   今なお世びとを 招きたもう。


イエスの生涯をうたったこの歌詞はルイ・ベンソン(Louis Fitzgerald Benson, 1855-1930)によって書かれて1899年に発表された。

原詩の第1節は以下である。

O sing a song of Bethlehem, of shepherds watching there,
And of the news that came to them from angels in the air.
The light that shone on Bethlehem fills all the world today;
Of Jesus' birth and peace on earth the angels sing alway.

ベンソンはアメリカの牧師・讃美歌学者で、彼の『イギリス讃美歌史』(The English Hymn, 1915)は古典的な名著とされる。
曲は17世紀の "The Clean Contrary Way" から由来すると言われ、イギリスとアイルランドでさまざまな歌に使われてきた。
アイルランドでは "The Star of the County Down" という歌で広く知られている。

ヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams, 1972-1958)はこの旋律を使って室内楽「ダイヴズとラザルスの5つの変奏曲」
(Five Variants of 'Dives and Lazarus,' 1939)を作曲している。
また、イギリスの有名な殺人事件(1827)を扱った "Murder of Maria Marten" の曲でもある。

ヴォーン・ウィリアムズは自分が監修をした The English Hymnal (1906) で "I Heard the Voice of Jesus Say" (Horatius Bonar,
1846) (『讃美歌』238番「疲れたる者よ」の原詩) の歌詞と組み合わせた。
また、この曲は"Come, Let Us Use the Grace Divine" (Wesley, 1762) などいくつもの讃美歌に採用されてきた。
「kingsford」という曲名はヴォーン・ウィリアムズがイングランドのサセックス州にある Kingsfold という村で採譜したことによる。

旋律は短調に似ているが、本来は6音音階のエオリア旋法(Aeolian mode)であって、「ソ」音にシャープが付いていない。

***************************************************************************************** (以上、ネットからの引用です。)

メロディはここをクリックすると聴くことができます。
上がったり下がったりがありますが(当たり前?)それ程難しい曲でもなさそうです。 
今度礼拝で歌うときは精一杯声を張り上げて歌うことにいたします。
ちなみに、日本語歌詞に訳したのは由木 康という方だそうです。



川で<キセキレイ>を撮りました。

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「わたしたちの新しい王」

2014-01-05 20:33:24 | 説教
今日は、今年最初の礼拝でした。
説教のテキストは「イザヤ書」8章13節 と 「マタイによる福音書」2章1節~12節
タイトルは「わたしたちの新しい王」でした。
「マタイによる福音書」の記事は三人の博士が星に導かれてベツレヘムに行き、イエスを礼拝した話です。


キリスト教においては1月6日までがクリスマスで、1月6日は三人の博士がイエスを礼拝した日で「顕現日」として記念します。
伝説では、三人の博士はアジア人、ヨーロッパ人、アフリカ人と言われ、当時の全世界の代表とみられています。

三人の博士の見た新しい王の誕生は新しい時、新しい生活が始まることを意味していました。

外国人である三人の博士が新しい王を尋ね求めて歩いたことでヘロデ王もエルサレムの民も不安になりました。
イエス誕生の裏には、ヘロデの命令でエルサレムの2歳以下の子供を皆殺しにするという悲惨な出来事がありました。
クリスマスにはこのような影の部分もあります。

嫉妬深く疑い深く、妻、母、三人の息子を次々と殺したヘロデにとって自分以外の王の存在は許しがたいものでした。
有能で神殿も造り、大王と呼ばれたヘロデは敏感にも、ユダヤ人の王が生まれたことを非常に不安に感じました。

(ヘロデの姿は、私達罪びとの姿ではないでしょうか。私たちは自分が自分の人生の王であると思っていて、
王座が奪われそうになると排除しようとするのではないでしょうか。)

鈍感な私たちは、イエスの誕生は自分の人生を慰めてくれるもの、自分の人生を贖ってくれるものくらいの認識しかなく、
自分の人生(王座)を明け渡すほどの重大な出来事と思っていないのではないでしょうか。
しかし、敏感なヘロデはクリスマス(新しい王の誕生)は自分の王位を脅かすものと感じていました。

私達は、新しい王の出現で、内乱などの不安位しか感じない、王としての自分の生活が失われる不安しか感じない
エルサレム住民と同じ位鈍感なのではないでしょうか。
せいぜい生活や経済などこの世の出来事の心配が先に立つだけで、自分たちが罪と死に支配されていることを真剣に考えません。


2000年前に生まれた王はどのような方で、その人が王になるということはどんな新しい生活が始まることなのでしょうか。

イエスは「真の王、真の羊飼い」として生まれました。
「わたしの民、イスラエルの牧者となる」ためにお生まれになりました。
ヘロデのような暴君ではなく、良い羊飼いであり、イエスはヘロデのためにも命を捨てられたのです。
新しい希望と神の恵みが支配する生活が始まります。
マタイの1章23節に「インマヌエル 神は我と共に在る」と書かれていますが、私たちの魂に平安を与え、深い喜びを与える方です。

ラクダに乗り、導く星の輝く夜間のみの200キロもの長旅、メシアを探し求める三人の博士の旅は、
キリスト者として全生涯をささげる旅でもあります。
人生でひたすら会いたいと願っている人を持っていることは幸せであり、旅路の最後に会えたらどんなに幸せなことでしょう。
(空に輝く導きの星は、私たちにとっては聖書の御言葉であり、礼拝で語られる説教です。)


キリストが私たちの真の王となってくださる、私たちの罪と死から解放される、自分を小さな王とする
私たちの生活から解放される、これに勝る喜びはありません。
私どもが自分を王とするということは、老いや病い、死など様々なこの世の出来事を恐れることです。

イザヤ書の7章、8章は「インマヌエルの預言」と言われ、マタイの降誕記事はその成就と言われます。
そして聖書の信仰の中心はこの言葉です。

「イザヤ書」8章13節
万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。
あなたたちが畏るべき方は主。
御前におののくべき方は主。



イエスの誕生によって、私たちは今や新しい生活、神のみを畏れ平安に生きることができるのです。
                                       (以上、文責はゆうゆうにあります。)



今日の野鳥は<シジュウカラ>です。


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ダビデの人口調査(続)

2014-01-03 23:06:11 | 聖書
ダビデの行った人口調査が何故神の怒りを買い、ダビデは罰せられたのか。
ネットに比較的分かりやすい下のような解説がありました。 
引用させていただきます。 引用させていただいた記事の著者さん、ありがとうございます。

**********************************************************
ダビデはこれまで、神の導きと助けによって勝利の御業を成し遂げましたことを聖書は繰り返し語ります

「ダビデにはこれだけの事をさせよう」という神のご計画が先ずあって、それに基づいた役割のためにダビデは立てられ、
勝利が与えられた、というように考えることが出来ます。

しかしダビデは人口調査を強引に行って、神の怒りを買ってしまいます。
神が何故この事を悪と見なされたのか、その理由は聖書には明確には記されていません。
人口調査をすることは何故、罪となるのでしょうか

ダビデが行ったこの調査は何のためだったのでしょうか。
歴代第一21章5~6節に「剣を取りうる戦士はイスラエルに80万、ユダに50万であった」とありますが、
ここに「ダビデの人口調査」の目的が示されています。
つまりそれは「徴兵可能な兵士の数を知るため」だったのでしょう

(これは「軍隊は戦争をするためのものであり、戦争は人を殺すことだから、軍隊を持つことが罪である」というような話ではありません。
戦争や軍隊そのものを罪とする考え方は、少なくとも旧約聖書にはありません。
それを持つことが罪なのではなくて、その数を数えることが罪だったのかもしれません。)

「兵の数を数える」とは、自分の持っている戦力を把握することです。
この国は軍事的にどのくらい力があるかを調べることです。
それは戦争をするに当っては必要かつ基本的な事ですから、ダビデがしたことは、王としてある意味では当然のことです。
しかしイスラエルにおいてはその事が、神に対する罪となります。
それはイスラエルにおける戦いが「神の戦い」であり、勝利は神によって与えられるものであり、人間が
自分の力で獲得するものではないのです。
兵の数を数え戦力を数えることは、神様の力ではなく人間の、自分たちの持っている力に頼んで事を計画し、実行していこうとすることです。
神様の力に依り頼むのではなくて、自分の力、自分の兵力によって事を成そうとするところに、この人口調査の罪があるといえるでしょう

ダビデは、自分の元にある兵力を数えることによって、神の自分に対する恵みの大きさを確かめようとした、
つまり神の祝福を形で確認しようとしたのかもしれません。
自分に与えられている神の恵みを、兵力を数えることによって「目に見える仕方で」確認しようとした、
それがこの「ダビデの人口調査」だったのかもしれません。

神を信じる信仰とは本来、見ないでも信じることが出来るものです。
目に見えていることは「信じる」必要はないでしょう。
目に見えない神の恵み、祝福を信じるのが信仰の一つなのです。恵みが確かにあることの保証を、目に見える何かに求めようとする、
それが「ダビデの人口調査」の意味であれば、それは神に対する罪だったといえるでしょう。


別の考えとしては、ダビデが「主の恵み」として民の数を数えたのではなく、自分の功績と力とをそこに数え上げたのかもしれない、ということです

ダビデはたとえ一時的な事とはいえ、神の力よりも人の数の多さに頼ろうとしたのかも知れません。
あるいは、自分がいかに多い民の上に君臨し、自分がいかにすごいかを知りたくなって、自己満足を得たかったのかも知れません。
その思いを神は罰せられたのかも知れません。
************************************************************

勉強になりました。
これでこれからは「なぜダビデの人口調査」は神に悪とみなされたか」を思い悩むことは無いでしょう。 ホッ! (^-^)



公園の<翡翠(かわせみ)>


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ダビデの「人口調査」

2014-01-02 15:27:08 | 今日の聖句
今日の聖句  「歴代誌上」21章1節~4節
サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。
ダビデはヨアブと民の将軍たちに命じた。
「出かけていって、ベエル・シェバからダンに及ぶイスラエル人の数を数え、その結果をわたしに報告せよ。
その数を知りたい。」
ヨアブは言った。「主がその民を百倍指導者も増やしてくださいますように。
主君、王よ、かれらは皆主君の僕ではありませんか。
主君はなぜ、このようなことをお望みになるのですか。
どうしてイスラエルを罪のあるものとされるのですか。」
しかしヨアブに対する王の命令は厳しかったので、ヨアブは退き、イスラエルをくまなく巡ってエルサレムに帰還した。


ーーー中略ーーー

7節~12節
神はこのことを悪と見なされ、イスラエルを撃たれた。
ダビデは神に言った。
「わたしはこのようなことを行って重い罪を犯しました。どうか僕の悪をお見逃しください。
大変愚かなことをしました。」
主はダビデの先見者ガドに告げられた。
「行ってダビデに告げよ。主はこう言われる。『わたしはあなたに三つのことを示す。
その一つを選ぶがよい。わたしはそれを実行する』と。」
ガドはダビデのもとに来て告げた。「主はこう言われる。
『いずれかを受け取るがよい。三年間の飢饉か、三か月間敵に
蹂躙され、仇の津溥儀に攻められることか、三日間この国に王の剣、疫病が起こり、主の御使いによって
イスラエル全土に破滅がもたらされることか。』
わたしを遣わされた方にどうお答えすべきか、決めてください。」



ダビデは人間の手にかかるよりは主の御手にかかって倒れよう、と疫病を選んだのですが、
人口調査というのはなぜ、神の目に悪とみなされたのでしょう? わかりません。

この記事は「サムエル記下」の最後にも出てきて、そこを読んだ時、やはり「わからない」と思ったのに
今日にいたるまで、解決していないとは、イカン、イカン。
「聖書事典」には「人口調査」についての項はありません。 
ネットで「ダビデの人口調査」と検索すると色々な記事がヒットしました。 面白そうです。
今日は時間が無いので、そのうちジックリ(頭に入るかどうかは別ですが・・・・)読んでみます。 (^-^)



公園の池に珍しく<オカヨシガモ>が来ました。
特徴の、胸の模様や黄色い脚が上手く撮れませんでした、残念。


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子として受け入れられる平安

2014-01-01 21:24:15 | 今日の聖句
「ローマの信徒への手紙」 8章14節~20節

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。
この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそは、私たちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
もし子供であれば、相続人でもあります。
神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。
キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志による
ものであり、同時に希望も持っています。



毎日少しずつ読んでいる聖書、旧約聖書は「歴代誌上」を、新約は「ローマの信徒への手紙」を読んで
いますが、一年の初めの今日は、新約聖書の「ローマ信徒への手紙」からの聖句を載せます。
神様を「父よ」と呼ぶことの許されている平安と幸せを心から感謝し、欠点の多い私を神の子として
受け入れてくださるよう、私は毎晩祈っているのです。
今日の聖句はちょうどその箇所でした。 (^-^)

健康で新年を迎えることができたことを心から神様に感謝いたします。
今年も足りない者ではありますが、少しでも神様の御心を証しできますように、
毎日を大切に生きてゆきたいと願っています。
今年も毎週日曜日、礼拝に出席し、教会の兄弟姉妹と共に神様を賛美することができますように!



羽を広げた<コサギ> 補正ミスで羽が白飛びしてます、残念。


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全く私事ですが、私は深い悩みを持っています。 (T__T)
その悩み事は、神様と私にしか分からない私の「心の底」です。(昨日の記事「先週の講壇より」をお読みください。)
昨年、その悩みが解消されることは有りませんでした。 
今年も望みはほとんど無いというのが私の悲観的展望です。
美竹教会に戻る三年前までは本当に鬱々と悩んでいました。
今も苦しいのですが、神様に祈り、礼拝に出席し、聖書を読むことによって非常に救われています。
どんな風に救われているかというと「すべては神様の御心に委ねる」という気持ちになったのです。
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